奇跡(2)
何とか顔を整えて戻ると、フェルドはローテーブルの上に並べた蝋燭を睨んでいた。張り詰めるほどに集中しているのがわかる。蝋燭は十本、並んでいて、半分ほど火が灯っている。
ひとつ、炎が揺らいで、消えた。
そして、もうひとつ――いや、残り全部が一気に消え、フェルドは「うがあっ」と喚いた。
「くっそ……!」
「何、してるの?」
訊ねるとフェルドはこちらを見て、座り直した。悔しそうに息をつく。
「トレーニング。ほら俺コントロールが苦手だから……けっこ難しいこれ……くっそ……」
「そんな短い隙間に風を通すなんて、ちょっと無理じゃない?」
「んー、かなり難しいことは確か」フェルドはもう一度蝋燭に火を灯した。「酸素遮断するやりかたなら、一個ずつ消せるようになってきたんだけどさ……風で吹き消すのは難しーな……」
「酸素遮断? そっか、その手が。すごい」
「そう?」
「うん、すごい」
「……ふふん」フェルドはまんざらでもなさそうな顔をした。「いつまでも大ざっぱだのどんぶり勘定だの台風起こしだのって言われてばっかじゃいられないからね」
そんなこと言われてたのか。
マリアラは向かい側のソファに座り、意を決して切り出した。
「あの……わたし、情けないんだけど、今日、少しだけ体調に不安が」
「あー。さっき〈アスタ〉から聞いたよ。昨日なんか、大変だったんだって? 薬が足りなくて、どうしても無理してもらわなきゃならなかったって。ヒルデも同じこと言ってたし」
マリアラはホッとした。「あ……あ、そうなの? 話してくれてたんだ……」
「吹雪の予想が当たったら出動しなきゃいけないだろうけど、そうなるまでできるだけ休んでて。さっきの部屋で寝てても……あ、そーだ」
フェルドはごそごそと鞄を探った。
「さっき来るときに、ミランダに呼び止められてさ」
「え、ミランダ……に?」
「うん。なんか昨日のお詫びに渡して欲しいって言ってた。それがつまり、働かせすぎたってことだったのかな」
フェルドの手の中で、小さな箱がぽんと音を立てて元の大きさに戻った。20㎝四方くらいの箱だ。綺麗にラッピングされている。
「昨日の……お詫び?」
「そう言ってたよ。詰所行って自分で渡せばって言ったら、会わせる顔がないからって言ってたけど……製薬そんなに大変だったのか」
「ミランダが気にすることじゃないのに……」
箱を開くと、色とりどりの甘い物がぎっしり入っていた。ドーナツ、キャラメルと塩バターのポップコーンが一握り。ここまではどうやら市販のものらしいが、真ん中に鎮座しているシュークリームと、菓子たちの隙間を縫うように詰め込まれたクッキー、マドレーヌ、カットされたパウンドケーキたちは、どう見ても手作りだ。
「これ、ミランダが作ったの……かなあ」
言うとフェルドは箱を覗き込んだ。
「あーなんか前、菓子作りが趣味だとか聞いたような気がする。……うまそーだな」
それは、口にする気のなかった内心の呟きが、ぽろりと零れたような言い方だった。マリアラは箱を差し出した。
「一緒に食べない?」
「いや、俺甘い物ダメなんだよ。苦手っつーか、全然ダメなんだ」
マリアラは目を丸くした。「アレルギー、みたいな……?」
「まあそんな感じだと思ってくれていーよ。甘い物食べると頭痛がするんだ。シフト中に寝込むわけにいかないから」
気の毒に。
マリアラは箱を引っ込めた。嫌いとか苦手とかではなく、食べられない体質なら、匂いを嗅ぐだけで影響が出かねない。すぐに治療してあげられるとは言え、体に合わないとわかっているなら始めから食べることはない。
蓋が閉じた時、フェルドがホッとしたように息を吐いた。本当に気の毒だ、とマリアラは思う。
フェルドは空気をごまかすように言った。
「出動要請が来たら起こすよ。魔力の快復には甘い物が一番だって言うから、食べてゆっくり寝といて」
「うん、ありがとう。……あの……」
フェルドにはまだ、スキーのことを伝えていない。できるだけ早い内に、頼まなければと思った。
ミシェルとは一緒にラーメンを食べた仲だが、逆に言えばただそれだけの関係でしかない。一緒にスキーにいけるほど親しくなったとは思えない。年上だし、ミシェルが他の友達も誘うのなら、やはりフェルドに一緒に来てもらわなければ収まりが悪いし気詰まりだ。
しかし、勤務時間中に遊びの話をするのもどうなのか。
「なに?」
「……あの、ミランダは、何が好きかな」
後で言おうと思った。仕事が終わったら。
大丈夫、まだ一月半も先の話だ。
「こんなにたくさんお菓子をもらったんだもん、お礼をしたい。どんなものが好きか知らない?」
「……さあ……? ラスならともかく、ミランダは、なんだろうなあ。ダニエルに聞いた方が知ってるかも」
「そっか。じゃあ聞いてみる。ありがと」
箱を抱えて、お言葉に甘えてさっきの個室に戻ることにする。朝食のフレンチトーストで栄養が補給されたからか、また眠気を感じ始めていた。やはりまだ、完全に回復したわけではないのだろう。昼にあるかもしれない出動までに、できるだけ取り戻しておかなければ。
そして、最後に気づいた。
こないだ一番お世話になったのは、フェルドなのに。
フェルドにはまだ、何のお礼もしていなかった。
甘い物がダメだと言うことはわかっている。それでは、一体何がいいのだろう。何をあげたら喜んでもらえるんだろう。それこそミシェルに聞いてみるべきだろうか。それとも、ダニエルに? ララに? でもそんなことを聞いたらきっと、それはそれは面白がられてしまいそうで、気が引けた。そういう意味では断じてないのだが、そういう意味に取られかねない。
扉を閉めて、寝台に上って、箱を開いた。シュークリームを取り出して、思わず微笑んだ。生クリームとカスタードクリームが半々に入っていて、粉砂糖がかかっているそれは、やはりどう見ても手作りだ。ミランダの製菓の腕はなかなかのものらしい。
ミランダは会わせる顔がない、と言ったそうだ。
どうしてラセミスタと言いミランダと言い、お礼さえ言わせてくれようとしないのだろう。だいたい昨日のことは、ミランダが気に病む筋合いの話ではないのに。もしかしてラセミスタとミランダは、少し似たもの同士なのではないだろうか――そう思いながら、マリアラはシュークリームの上の皮を外してクリームを掬い、大きく口を開けた。あーん。
手作りのシュークリームは、本当に美味しかった。
*
海が見えない。
予報どおりに襲ってきた吹雪は遮るもののない海上で荒れ狂っていた。波が高く、高度を下げると四方八方から水しぶきが襲いかかる。しかし高度を下げないと遭難者を目視することもできない。そして何より怖ろしいのは【壁】に吸い込まれる海流に、遭難者の船が乗ってしまっていることだ。
出動要請があったときには危険水域とされる【壁】際5km地点に入ったばかりだった。それからたったの20分で、【壁】までの距離は3kmにまで縮んでいた。吹雪が海流の速度を後押ししている。
「遭難者、聞こえますか。応答して下さい。声が出せない場合は発信器を強く握って下さい。あなたが持っている発信器から放出される電波は最優先救難信号として指定されています、どうにかして刺激を加えて下さい――」
先程から繰り返す声も震えがちだ。〈アスタ〉が相手の発信器と接続してくれたから、マリアラの声は届いているはずだ――生きていれば。そして意識があれば。
しかし相手の発信器から放出される電波は今までと全く変化がないのだ。
フェルドは【壁】に近い方から目視で探しているはずだ。刻一刻と時間は過ぎ、発信器の示す所在地は緩やかに、しかし着実に【壁】に向かって進んでいる。マリアラはミフに指示を出した。
「ミフ、フェルドとつないで!」
ミフの返答はなかった。代わりにミフの柄から、フェルドの声が言った。
『――見えた?』
「見えない! 応答もない、電波も変化無し。そっちは?」
『ダメだ。無線機が海に落ちたのかも』
マリアラは頷いた。ここまで応答がないと、その可能性の方が高い。あまり猶予がない。この吹雪の中、こんな広い場所から一艘のヨットを探し出すなんて――
『方法を変えよう。雪かきと同じやり方でやってみるしかない。合流するから、ちょっと待って』
フェルドがそう言ったとたん、ミフが緩やかに動いた。フェルドの箒、フィの位置情報を頼りに進んで、数分後、真っ白な視界の中にフェルドが飛び込んできた。合羽の口を引き下ろして、彼は言った。
「俺は吹雪を押さえる。範囲内なら双眼鏡が使える。押さえてる間、俺は他のことが難しくなる」
「わかった」
吹雪の中では全く役に立たなかった双眼鏡を引っ張り出した、瞬間。
音が止んだ。