奇跡(1)
『マリアラ。マリアラ、起きて』
「んー」
『マリアラ、起きて。遅刻するわ』
「……んー?」
『もう八時五十分よ。起きなさい』
「はち……八時ごじゅっ!?」
マリアラは飛び起きた。辺りはもうすっかり朝だった。時計を見ると、確かに八時五十分を指している。
『ごめんね、これでもギリギリまで待ったのよ。おはよう。……よかった、よく寝たからかしら、後遺症は軽いみたいね』
〈アスタ〉の優しい声が、慌てた脳を素通りしていく。大変だ、今日は日勤だ。九時には二十階の詰所に行かなければならないのに。遅刻だ。遅刻だ。大変だ。
『朝ご飯は詰所でも食べられるから、とにかく着替えて、顔を洗いなさい。あら、ミフを機能停止させたのね。ラスがやってくれたのかしら』
「らす……らっ、ラセミスタさんは!?」
『もう出勤したみたい。とにかく急ぎなさい、あと八分』
「あああああ、ああああああ~」
顔を洗って髪を梳かして結んで着替え、後ろ髪を引かれながら寝台は寝乱れたままにして、ミフをひっつかんで部屋を飛び出した。走りながら、考えた。ミフが、機能停止――ラスがやってくれた――ラセミスタの愛称が、ラスだった、はず。
エレベーターを待つのがもどかしく、階段を駆け上がった。寝起きのせいか、いつもより少しだけ息が切れるのが早かった。眠気が残っている。体中にかすかなしびれが残っているような感じだが、でも、でも、走るのに支障が出るほどではなくて。
ちょっと待って。
足が一瞬止まった。
ちょっと、ちょっと、待って。
立ち止まっている暇はない。考えるのは、遅刻を回避してからでもできる。再び走り出しながら、でも頭の中で考えていた。昨日ジェシカに侮辱されたのは夢だった? 製薬競争したのも? 魔力を使い果たしたのも、全部夢だったのだろうか?
部屋に戻る前に堪えきれなくなりトイレに駆け込んで吐いたのも?
何とか部屋に帰り着いて扉を閉めたのが、最後の記憶なのだが、――それも、夢だった?
そんなわけ。
そんなわけ、ない。
じゃあどうして。
わたし、――走れるんだろう?
詰所に着いたのは、八時五十八分だった。
詰所はかなり広い。たくさんのソファやローテーブル、ミーティングテーブルと椅子、注文パネルや食器回収口など様々な設備があるから、待ち合わせ場所を指定しておかなければ相棒と会うまでに引継ぎ時間に遅刻する、なんてことが起こりかねない。
ラクエルが普段使うスペースは、詰所の南側の一画と決まっている。息を切らしてそこにたどり着いたとき、ちょうど九時を知らせるチャイムが鳴った。フェルドも既に来ていて、マリアラは頭を下げる。
「ご、ごめんなさい、遅くなって……!」
「大丈夫、間に合ったわよ。おはよう、マリアラ。元気?」
ヒルデが優しく言い、マリアラはホッとした。
「はい、お陰様で」
「俺も今来たとこだし。……マリアラ、今朝ラスに会った?」
フェルドに言われ、マリアラは彼の隣に座りながら、首を振った。
「ううん。わたし、寝坊してしまって……起きたらもう、出勤した後だったみたい」
「ふうん。なんか、昨日の真夜中にラスがここに来たらしいんだよ」
「えっ」
「ここに来るまでに色んな人に聞かれた。俺ラスの広報担当官じゃないんだけどな。……まああの引きこもりが真夜中とは言えマヌエルの詰所に来るんだから、よっぽどのことがあったんだろうけど」
「ヒルデを訊ねてきたんだ」とランドが言った。「でもこの人、なーんにも教えてくれないんだよ」
「私は礼節を弁えていますからね。もう、ラセミスタの行動を詮索するのはやめて、早いとこ引継ぎしちゃいましょ。昨夜は出動は無し。【毒の世界】は本当にここ最近落ち着いてるわね」
「昼過ぎから吹雪の予報が出てる。イリエルのサポートで出動する可能性は充分あるから、休める内は休んでおいた方がいいぜ」
ベテランの二人はてきぱきと伝達事項を伝えてくれた。それによると、雪山全体とエスメラルダ北側の田園地帯で雪が数日降り続いた影響で、イリエルの出動が増えており、手薄になっているらしい。この状態で予報どおり吹雪が起こればイリエルだけではエスメラルダ全土から寄せられる救助申請に対応しきれなくなる恐れがある。
それを聞きながら、マリアラは、昨日魔力を使い果たした影響が、今日に残らないで助かった、と思っていた。
視界が霞み吐き気を催すまで魔力を使い尽くした場合、自力では回復に数日かかる、ということを、仮魔女時代に教えられていた。それを考えたら、奇跡が起こった、としか言い様がない。ひと晩眠っただけで、殆ど快復してしまうなんて、本当に奇跡的だ。
ヒルデがマリアラの視線を捉えて、優しく微笑む。
ラセミスタが昨夜、息も絶え絶えの状態で、ヒルデを訊ねてきたという。よほどのことが起こった様子だった。彼女の訪問の理由を、ヒルデは誰にも言わない。
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ヒルデの笑顔を見て、確信した。
――奇跡なんて、あり得ない。
そんな都合のいいことが、何の理由も無しに起こるわけがない。
「さ、引継ぎはこれで終わり」
ヒルデはそう言って、立ち上がった。マリアラとフェルドも立ち上がり、お疲れ様でした、と挨拶をする。
ランドが、そんじゃー、と軽い口調で言いながらふらふら歩き出した。ヒルデはそれに続こうとした。マリアラは彼女の腕に、そっと触れた。
「少しだけ……少しだけ、お時間、いただけませんか」
「ええ、いいわよ。寝坊したんなら、朝ご飯、まだなんじゃない? 私もまだなの。一緒に食べようと思って、待ってたの。フェルド、ちょっとお留守番頼むわね」
「いーよ。出動要請来たら呼ぶよ」
フェルドはひらひらと手を振ってくれた。ランドもたぶんヒルデがこう言い出すのを予期していたらしく、さっさと歩いて行く。ヒルデはマリアラを、近くにある個室に連れて行った。操作パネルに屈み込んで、朝ご飯を注文してくれる。
「あらあら、なんとなんと。今日のモーニングはフレンチトーストよ。マリアラ、コンソメスープとコーンスープ、どっちにする?」
「……コーンで、お願いします」
「ふふふ、蜂蜜増量でっ、と。コーヒー? 香茶?」
マリアラの希望を聞きながらヒルデは注文を済ませ、それから椅子に座った。ここの個室はベッドがひとつ、背の高い丸テーブルがひとつとスツールが二つあるだけの殺風景な部屋だが、内緒話をするにはちょうどいい。
「さて。で、話ってなあに?」
ヒルデは優しく訊ね、マリアラは、意を決して告白した。
「昨日わたしは、とてもバカな間違いをしたんです」
「ふうん。それで?」
「その間違いを正す機会は……ちゃんと、あったんですけど、わたし、昨日は……その、間違いを隠すことしか考えられなかったの。隠してもどうにもならないのに、正直に告白して助けてもらわなければいけなかったのに、頭に浮かばなかったんです。
今朝……わたしはその間違いと、それを放置していたことの、報いを、受けるはずだったんです」
「ふふ。そうなの」
「……でも変なの。わたし、なんともないんです。奇跡が起こったみたい、なんです。遅刻寸前にはなったけど、でもそれだけだった……」
「奇跡が起こったんなら、良かったんじゃないの?」
「いいえ。だって奇跡なんて、あり得ないもの」
首を振ったとき、朝食が届いた。ヒルデはマリアラを制して立ち上がり、盆を取ってきて、マリアラの前に置いてくれた。見るからにふんわりしたフレンチトーストが四きれも載っていた。生クリームと、缶詰のみかんが二粒。蜂蜜は別添えだ。コーンスープとミニサラダ、香茶。とても美味しそうだ。
「食べましょう。……左巻きとして、それから先輩として、忠告するわね。今日はダイエットなんか気にしないで好きなだけ……というより無理してでも、甘い物を食べなさい。“なんともない”ってさっき言ったけど、いくら奇跡でも、魔力切れの影響を完全になかったことにはできない。フェルドに知られたくない気持ちはよくわかる、だけど、相棒に自分の体調不良を隠すことは自殺行為になりかねない。自殺だけならまだいいけれど、フェルドの足を引っ張りたくはないでしょ。
朝ご飯を食べ終えたら、フェルドにちゃんと話すのよ。昨日のことを全て正直に告白する必要はないけれど、昨日製薬の助っ人でちょっと頑張りすぎたから、今日の午前中は甘い物を食べながらゆっくり休みたい、って、ことくらいは」
「ヒルデ。……ラセミスタが、わたしのために、治療を頼みに来てくれたの?」
「あらあら、そんなに急がないで。食べなさい。それを全部食べたら、あなたの言い分を聞いてあげる」
ヒルデは穏やかな、しかし断固たる調子でマリアラの前に置いた盆を更にこちらに寄せた。渋々、マリアラはフレンチトーストに蜂蜜をかけた。一口サイズに切って、食べた瞬間、自分があり得ないほど空腹だったことに気づく。
耐えられず次の一切れを口に入れると、もう止まらなくなった。マリアラが食べるのを、ヒルデは優しい目で見ていた。自分は食べず、コーヒーを飲んだ。
それから、言った。
「奇跡なんて、あり得ないって言ったわよね」
食べながらマリアラは、頷いた。ヒルデは微笑んで、自分も頷いた。
「そうね。でも、私の考えは違う。……あのね、私もこの世に、不可思議な現象はないと思うの。まるで夢みたいな、摩訶不思議な出来事が起こったとしても、それには絶対理由がある。例えば魔力を使い果たして倒れた子が、次の朝元気に走って来られる――そんな不思議なことが起こったら、それにはきっと理由がある。創世の女神マーセラの白い指先が彼女に力を与えたなんて、とうてい信じられないわね。倒れた子はきっと、夜中に魔力回復剤を飲んだんじゃないかな、って、思う。
でもやっぱり、私、この世に奇跡はあると思うの」
フレンチトーストの皿が空になった。ヒルデは黙ってその皿の上に、自分の手つかずの皿を重ねた。いいから食べろ、と身振りで言われて、マリアラは素直に食べた。甘い物が、いつも以上に、信じられないくらい美味しい。いくら食べても食べ足りない気がする。
「奇跡は私の知ってる限りでも、何度も起こってる。昨日の夜も、それが起こった。自分の知っているごく一握りの人間以外とは目を合わせることもしたがらない、ある小さな女の子が、友達を助けようとして、大勢の、知らない人の中に入ってきて、探し回って、息も絶え絶えで、涙目で、自分の方が今にも倒れそうになりながら、私のところにやって来た。……助けて欲しいと言った。奇跡を起こしてあげたい、頑張りが報われたんだって思って欲しいって。自分の声で。自分の体で。魔法道具を通さないでね。これが奇跡じゃなかったら、何なのかしらって思う」
――大丈夫だよ。大丈夫だよ。
惨めで孤独で辛くて、消えてしまいたかった意識の中で、確かに優しい声を聞いた。
――いいよ、わかったよ。ゆっくり休んで。
――箒を機能停止させた方が、消費魔力が少なくて済むの。
「なんかねえ、もう。涙腺弱くなっちゃって、まいっちゃったわよ、もう年かなあ」
ヒルデは照れたように笑って、立ち上がった。俯いたマリアラの肩を、優しい手のひらがそっと撫でた。
「あのね、口止めされてるから本当のことが話せないとか、そういう事情じゃないんだけど、一応言うわね。さっきのは作り話だから。食べ終わったら、悪いけどトレイを戻しておいてね。吹雪が起こったら出動があるだろうから、できるだけゆっくり休んで」
そのままマリアラをそこに残して、出て行った。マリアラはハンカチを取り出して、目元を拭いた。今は日勤だ。いつ呼ばれてもいいように、待機しておかなければならない時間だ。栄養を補給して、体調を整えて、そうそう、ミフを再起動させなければ。甘い物をできるだけ食べて、トレイを戻して、顔を整えてフェルドのところに戻らなければ。
泣いてる時間なんかない。
ない。
ないのだ、けれど。
――今朝も会えなかった。
人事不省の有様だった自分が、魔力回復剤を必要量、自力で飲めたはずがない。たぶんヒルデが錠剤にしてくれたのだろう。ラセミスタがそれを一粒ずつ、口に入れてくれたのだ。一粒吸収するのに三十分。三粒だったとしても一時間半という長い時間。
その間彼女は眠れなかった。
ずっと傍にいてくれた。
どうして口止めをしたんだろう。
どうして、助けてくれたことを、隠そうとするんだろう。
「お礼だけでも……言わせてくれればいいのに……」
残りのフレンチトーストもスープもサラダも、全部しょっぱい味がした。