ダメな子(3)
その日ラセミスタは夜十一時過ぎに自室に戻った。
最近、マリアラの行動パターンがつかめてきた。彼女は至極真面目なたちで、次の日仕事の場合は夜更かしなどまずしない。十一時なら絶対に寝ている。
カップケーキのメッセージの返事は、まだ書けていないが、カップケーキの恒久的保存装置はできあがった。生まれて初めてもらった、同い年の少女からのプレゼントは、ラセミスタの工房に大切に飾られている
イーレンタールからは、気持ちはわからないでもないが正直キモイ引く、と言われたが、それはまあマリアラに知られなければいい。イーレンタールに引かれたって痛くもかゆくもない。
ふんふん、と鼻歌交じりで扉を開け、一番弱い灯りだけ付けて、そこで、異変に気づいた。
扉を開けたその場所に、マリアラが倒れていた。
私服のままだった。顔色が酷く悪い。ラセミスタは悲鳴と同時に屈み込んで、息はしていることに気づいた。生きている――でも、とても冷たい。ラセミスタはマリアラの肩に手をかけて揺すった。
「だ、大丈夫? どうしたの? 大丈夫――だい……そうだ、ダニエルだ!」
ダニエルに救いを求めようと立ち上がりかけたラセミスタの裾を、冷たい手が掴んだ。
「やめて……」
「あ、あの、大丈夫! 大丈夫だから! ダニエルすぐ呼んでくるから、ちょっと……」
「やめてえぇ……」
涙声だった。ラセミスタはギョッとした。泣いてる。
途方に暮れて、再び屈み込み、さすさすさす、とマリアラの背をさすった。マリアラはか細い声で言った。
「今……何時?」
「えっと、十一時……くらい」
「ろくじかん……」
ううう、うなり声のような泣き声が、マリアラの喉から漏れた。
「ろくじかん……寝たのに……こんな」
「だ、大丈夫……? 何が……あの……とにかく……その……お布団で寝よ? 起きられる?」
「んううう……」
マリアラは泣きながらもそもそと身を起こそうとし、ラセミスタはそれを支えた。体中が冷え切っているのは、床で寝ていたからなのだろうか。でも、六時間? 六時間って言った?
「六時間もここで寝てたの?」
「うう……」
「ずっと倒れてたの?」
「うう……」
「ごはんは? ごはん食べたの?」
「ううう……」
うなり声でとりあえず意思疎通らしきものができる。ラセミスタは必死でマリアラの体をベッドに担ぎ上げ、靴を脱がせた。掛け布団をかけて、包みこんだ。
六時間。
そんなに長い間、ここで苦しんでいたなんて。
普通のルームメイトがいたなら、そんなに長く倒れたままでいないで済んだだろう――
「ね、何があったの?」
マリアラは左巻きだから、風邪や体調不良ということはあまり考えにくい。かすかでも不調を感じたら、自分で治療してしまえるのが左巻きだ。と言うことは。
「魔力……使いすぎたの?」
「うう……」
マリアラがかすかに目を開けた。
涙に濡れた瞳が、藍色になっているのに、ラセミスタは気づいた。驚いた。以前ダニエルに見せてもらった写真では、確か灰色だったはず。
「魔力を使いすぎたときは、甘い物が一番だよ。ちょっと待ってね。チョコレートの在庫があった」
それからルームサービスで、ホットチョコレートを頼もう。スプーンでひと匙ひと匙口に入れてあげたらきっと飲める。ラセミスタは慌てながら秘蔵の生チョコレートを取り出し、マリアラの口に一粒入れて、それからパネルを操作してホットチョコレートを頼んだ。
ぐすっと鼻の鳴る音がした。泣いてる。
ラセミスタはマリアラに、囁いた。
「あの、箒は……? 今たぶん省エネモードに入ってるんだと思うんだけど……もし良かったら、魔力の結晶を外して、完全に停止させたら、魔力消費がもっと少なくて済むの。明日の朝まででも箒との接続を遮断しておいたら、回復が少しは違うと思うよ。や、やってあげる。嫌だったら言って。大丈夫、箒に悪影響は絶対ない。再起動すればすぐ元どおりになれる。大丈夫大丈夫」
言い聞かせながらマリアラの首元を探って、小さく縮められた箒を取り出した。箒は、持ち主の魔力量が少なくなると、自主的に省エネモードに入る機能が付けられている。元の大きさに戻すと、箒にもラセミスタの意図がわかったはずだが、省エネモードも解除しなかったし、もちろん何も言わなかった。
箒を完全に機能停止させると、マリアラは大きく息を吐いた。ぐすぐすと泣きながら、ラセミスタを見た。
「ごめんね……迷惑……」
「そんなことないよ。でも、何があったの? こんなになるまで魔力使うなんて……あ、責めてるわけじゃなくて、えー、っと」
「わたしバカだったの……明日……仕事なのに……悔しくて……後に……引けなかった……」
マリアラは枕に顔を埋めて泣いた。ラセミスタは届いたホットチョコレートを彼女の枕元に運びながら、これは魔力の使いすぎによる精神作用だと考えた。肉体の疲労と魔力の消耗のバランスが乱れたとき、肉体は休息を取ろうとし、涙を流すことで肉体の疲労度を進めてスムーズな入眠作用を得ようとする。そのため不安や哀しみなどの感情に支配されやすくなる。ただ不安や哀しみが深すぎると自律神経に影響を来たし、却って眠れなくなる。リラックスさせてあげなければ。
ラセミスタは寝台のわきに椅子を持って来て座り、ぽんぽんとマリアラの布団を叩いた。
「大丈夫大丈夫。ねえ、ダニエルに頼んで来ようか? 明日はシフト、誰かに代わってもらったら?」
「ダメ!」
「じゃあフェルドに話すのは?」
「ダメえ……!」
「でも……」
「お願い……お願いだから……お願いだから誰にも言わないで……」
「でも明日、」
「寝れば何とかなるから……お願いだから……お願いだから……お願い……」
何とかなるわけないだろ、と思った。このまま何の対策も取らないで、明日の朝まともに動けるわけがない。でもマリアラの藍色の瞳があんまり必死だったので、ラセミスタは腕を組んだ。
何があったのかわからない。でも、よっぽどのことがあったらしい。
「いいよ、わかったよ。ゆっくり休んで。誰にも言わないから。でも、ねえ、もう泣かない方がいいよ。目が腫れて、フェルドに気づかれちゃうよ。さあほら、これ飲んで? スプーンで口に入れてあげようか?」
マリアラは、箒の待機魔力をカットしたお陰か、何とか体を起こし、ホットチョコレートを全部飲んだ。
それから少しして、やっと眠った。
ラセミスタは〈アスタ〉のデータバンクを呼び出し、〈アスタ〉に知られずに今日の午後のマリアラの行動を探り始めた。非番の左巻きが魔力を使い果たすとしたら、治療シフトの助っ人か、製薬の助っ人を頼まれたに違いない。医局の記録を見れば、何があったかきっとわかる。
程なくして、欲しかった情報が手に入った。
ジェシカ=イリエル・マヌエルがマリアラを侮辱したことで、製薬の腕を競い合うハメになったらしい。
その記録を見ながら、ラセミスタは茫然とした。製薬はラセミスタの専門ではないものの、魔力の絶対値が顕著な影響を及ぼすという意味では、魔法道具と同じ論理であるはずだ。ジェシカとマリアラの魔力量には圧倒的な差があった。なのに今日、マリアラは、最後のインフルエンザ特効薬を、ジェシカより多く作っている。ジェシカが作ったのは8パック、つまり800cc。マリアラが作ったのは300ccフラスコ三つ分。つまり900ccだ。
その差は100ccだ。それだけ見たら、圧倒的大差とは言えないけれど――。
魔法道具に例えるなら、魔力の結晶たったの一つで、十個の結晶を上回る結果を出して見せた、ということだ。魔法道具の論理では、その性能は圧倒的だ。
――わたしがバカだったの。
――誰にも言わないで。
マヌエルたちの中には、どうしてもある差別的な意識が存在しがちだ。魔力量が多いか少ないかで、階級を付けたがる者たちがいるのだ。恐らく、魔力は数値で測れてしまうからいけないのだろう。
ジェシカに侮辱されたマリアラは、後に引くことができなかった。
もし明日、マリアラが満足に働けなかったら、ジェシカはきっとこれ見よがしに嗤うだろう。やっぱり魔力の弱い子に、魔力の強い自分と同じだけの働きなんて無理だったのだと。
ダニエルにもフェルドにも、知られるわけにはいかない。それはたぶん、後に引けなかった自分の愚かさを恥じているから、だろうか。知られたくない。幻滅されたくない。嫌われるのが、怖い。
だから何とかひと晩眠って、奇跡の回復を祈るしかない。
そんな奇跡が、起こるわけないのに。
ラセミスタは端末を閉じ、マリアラの隣の椅子に戻った。涙で濡れた頬をして、マリアラは眉を顰めて眠っている。その顔を見ながら、考えた。
――この子はもしかして、“ダメな子”……なのでは?