空に浮かぶ島(下)
*
真夜中過ぎに、部屋に戻った。マリアラは当然、もう眠っていた。引かれたカーテンはぴくりとも動かない。耳を澄ませても、寝息すら聞こえない。
空島の上から見た下界のように、カーテン一枚の隔たりが、とても遠い。
寝台に入ろうとして、それに気づいた。
ラセミスタの読書灯の下に、小さな箱が乗っていた。
箱を開くと、キャラメルハニーナッツクランチカップケーキが入っていた。何度も雑誌で見てはため息をついた、あれだ。いや、それだけじゃなかった。バナナクラッシュチョコレートカップケーキと、新商品のバニラストロベリーロイヤルスペシャルカップケーキまでが入っていたのだ。
――買ったの一昨日だぞ。賞味期限、大丈夫なのか。
フェルドが言っていた。でもロイヤルスペシャルカップケーキに盛られたクリームはまだ乾いていなくて、古くなっているようには見えなかった。箱に書かれた注意書きには、“本日中にお召し上がりください”と書かれている。手書きで添えられた日付は、今日のものだ。
――もう一度、買いに行ったんだ。
一昨日渡せなかったから。昨日も会えなかったから。
今日は非番だったから、もう一度買いに行ったんだ。
箱の下に小さなカードが置いてあった。
水色の花がちりばめられた、とても可愛らしくて涼やかで、マリアラらしいカードだった。字も綺麗だった。几帳面な、丁寧な字が人柄を思わせる。
“こないだはありがとう”
“わたしのわがままを手伝ってくれて、とても嬉しかった”
“カップケーキ、良かったら食べてね”
最後に署名。その四行のメッセージが、ラセミスタが生まれて初めてもらった、同い年の少女からの手紙だった。
ラセミスタはカップケーキの箱とカードを抱えて部屋を出た。息ができない。手紙をもらった。もらってしまった。生まれて初めて。
ということは。ということは、ということは。
返事を書かなければならない、と言うことだ。
ラセミスタは息を止めた。そうだ。手紙をもらったのも初めてで、返事を書くのも初めてだ。
まず、カードを買わなければならない。カードを買うためにはお店に行く必要がある。可愛くて、あっさりしていてくどくなく、それでいてふんわりしていて、できれば遊び心も軽く入ったセンスのいいカードを選び出して、お金を払って、ペンで――それもボールペンじゃなく細いサインペンなどで、書く。
ラセミスタはよろめいた。
――なんて書けばいいの?
そもそも魔法道具に関する技術しか身につけてきていないラセミスタが、マリアラのような読みやすくてきちんとしていて可愛らしくてとげとげしていない字を書けるはずがない。キーボードを打つことは多くても、手書きの文字なんて最近全然書いてない。そして、なんて書くのだ。ありがとう? だけでは素っ気なさ過ぎる。ごちそうさま? 怒ってるように見られかねない。
――だいたい今までずっと避け続けてきたくせに今さらじゃないか。
心の中で、誰かが言った。
――今までずっと逃げてきたくせに。踏み出すのが怖くて隠れ続けてきたくせに。字も書けない、簡単なメッセージさえ思い浮かばない、それは鍛錬が足りないせいだ。普通の少女がごく当たり前にできるのは、幼い頃からの鍛錬のたまものだ。
――できないのは、お前の怠惰のせいだ。
箱を抱えて、歩き出した。一睡もできそうもない。返事なんて一生、書ける気がしない。
同年代の少女からもらった、初めてのプレゼントとカード。
カードの方はいいけれど、問題はカップケーキの方だ。食べるわけにはいかない。でも、このままでは腐ってしまう。凍らせたらどうだろう。いや、形が崩れるリスクを冒すわけにはいかない。酸素を抜いて密封状態にしたら? いやビニールパックが貼り付いて形が壊れる恐れがある。やはり魔法道具を使うべきだろう。腐敗の進行を止める装置を作り出さなければ。食品管理の書籍をあさって、必要そうな情報を洗い出すところから始めなければ。
カップケーキを保管しておく方法を死にもの狂いで考えながら、工房へ向かった。
これが逃げだと言うことは重々わかっていた。ケーキの保存より先に、返事を書くべきだとわかっていた。わかってはいたけれど、あまりに怖ろしすぎて、その事実から顔を背ける。直視しないで顔を背けていれば、いつかどうにかなるんじゃないか。どうにもならないとわかっているのに、逃げようとする自分の怠惰と狡さと弱さが、ラセミスタは大嫌いだ。
“人食い鬼”はいつか、ぐうっと身を乗り出して、ラセミスタをつまみ上げて食べるだろう。
だいぶ前からわかっていた――そう、この世に“優しい子”も存在するのだと知った時から。
“人食い鬼”が住んでいるのは空島じゃない。
ラセミスタの心の中に、住んでいる。