空に浮かぶ島(中)
話し声がした。
はっと顔を上げると、もうお昼時だった。扉の向こうから、決してグレゴリーのものではあり得ない勢いを持つ、若い男性の声が聞こえてくる。ラセミスタはギョッとし、慌てた。しまった、と思った。今日は荷運びがある、今日の午後にはお茶が届くと、グレゴリーがさっき言っていたのに――
空島に住む“人食い鬼”に荷を届ける役割は、グレゴリーとまともに会話をすることができるマヌエルにしかできない。空島の浮力を産む魔力の結晶を適切な場所にはめ込むにはマヌエルとグレゴリーの連携が不可欠だから、偏屈なグレゴリーに気に入られないと無理なのだ。最近までその役割を担っているのはフェルドだった。変更されたという話も聞いてない。まずい、と考えた瞬間に扉が開く。
ラセミスタは慌てて卵形のソファのカーテンを引き下げた。間に合わなかった隙間から、スニーカーを履いた足がつかつか歩いてくるのが見える。
「なんで隠れんだよ」
不機嫌なフェルドの声。もう相棒ができたのに、もう“独り身”じゃなくなったのに、空島の荷運びはまだフェルドの担当らしい。他のマヌエルだとグレゴリーが隠れてしまうからだ。
では今この時間、フェルドの相棒はどこで何をしているのだろう。そう反射的に考えて、急いでその考えに蓋をする。
ラセミスタはカーテンを最後まできちんと引き下ろし、スニーカーが見えないようにした。今あたしは魔法道具作成中なのです、言い訳を口の中だけで呟いて、放り出していたドライバーを拾い上げる。
ふー、フェルドがため息をついたのが聞こえる。
「……話があるんだけど」
「ごめんね、今忙しいの」
「ふーん」不機嫌な声が、からかうような色を含んだ。「せっかく買ったのにな。何とかカップケーキ、いらないんだ」
「いる!」
ばっとカーテンを開けると、制服姿のフェルドが立っていた。
「キャラメルハニーナッツクランチカップケーキ! 持って来てくれ――」
言葉が尻つぼみになった。フェルドは手ぶらだったのだ。
「……て、ない、の?」
「持って来てねーよ。マリアラが絶対自分が払うって言ったんだ、俺が持ってるわけねーだろ」
「だっ、騙したな!?」
「おっと」
引き下げようとした卵ソファのカーテンをフェルドががっと掴んだ。丁寧にカーテンをまとめて器用にくるっと縛って、フェルドはラセミスタを睨む。
「……買ったの一昨日だぞ。まだ受け取ってねーのかよ。賞味期限とか、大丈夫なのか」
「あ、あの子に……言われて、来たの?」
フェルドはまたため息をついた。足台に座り込んで、「ラス」と言った。聞き分けのない子供を諭すような口調。
「別に言われてねーよ。ただ受け取った様子もなかったから一応聞いた。つーかお前いつまでこれ続けんだよ。マリアラは――」
「悪い子じゃないのはわかってるよ」
先回りして言葉を封じると、たぶん正にその言葉を言おうとしていたのだろう、フェルドは一瞬黙った。
そう、わかっていた。悪い子じゃない、それは重々わかっていた。ミランダの時もそうだった。ダニエルが選んでくる少女が、悪い子であるわけがないのだ。マリアラなんて悪い子じゃないどころか、正に左巻きらしいというか、ダニエルそっくりというか、迷子の魔物を保護した挙げ句に【毒の世界】家に帰そうとまでする子だ。あの子が異端を排除したがるような性根の持ち主だったなら、あの騒動はそもそも起こらなかった。
「だったら――」
「わかってるよ。……わかってるんだよ」
ラセミスタは俯いた。フェルドの視線が痛い。責める視線じゃないから、余計に辛い。
フェルドは強い。魔力だけじゃなくて、きっと心も強い。自信があって、少々向けられた悪意程度ではびくともしない。魔力の強さの故に同室の子供たちから妬みを買い、様々な嫌がらせをされた子供時代、フェルドは隠れるどころか三倍返しを覚えた。泣き寝入りしても奴らが喜ぶだけだから、手出しをしても益がないということを、“奴らの骨髄にたたき込む”というのはフェルドが実際に言った言葉だ。
だからきっと、フェルドには理解できないだろうと思う。
相手が『いい子』だからこそ怖いのだ、ということが。
魔物にさえ手を差し伸べてしまう子。ダニエルもララも、とても穏やかな優しい子だと言った。あの子ならきっと仲良くなれると。少々頑固で真面目すぎるきらいはあるものの、理不尽なことなど絶対にしない優しい子だと。ミランダの時もそうだった。
みんな、『悪い子じゃないから恐れる必要などない』と言う。
みんな何にもわかってない、とラセミスタは思う。
『悪い子』を恐れた時代はもうとっくに終わったのだ。ラセミスタだって伊達に十五年以上も『異端』として過ごしてきたわけじゃない。『悪い子』と『普通の子』は無視すればいい。視界から閉め出してしまえば、彼女たちはそれ以上ラセミスタに何かをできなくなる。リズエルという地位には、それほどの力がある。
一番の脅威は『優しい子』だ。
それをフェルドに、ダニエルやララに、理解してもらうことは、きっと一生できはしない。
「……フェルド、魔力の結晶の補充はもう終わったの?」
訊ねるとフェルドは一瞬だけ、何か言おうとした。
でも言わなかった。ありがたいとラセミスタは思った。フェルドは強いけれど、ラセミスタが強くないことを知っている。自分とは他の考え方をするということを理解している。弱さをなじらず、歯痒がりはしても尊重してくれる。それはきっと、フェルドが自分の強大な魔力と付き合う上で、身につけてきた処世術なのだろう。
飲み込んだ言葉の代わりに、フェルドは言った。
「……終わったよ。もう帰る。お前どうすんの? 降りるならついでに乗っけてってやるけど」
「午後からシフト?」
「シフトの方は、今日は非番」
じゃあ帰れない。部屋にはあの子がいる。
「……魔法道具作りかけだから。終わったら昇降機で帰るから、大丈夫」
「もう11月だ。風邪引くなよ」
ぽふん、うつむけたラセミスタの頭を軽く叩いて、フェルドは立ち上がった。
穏やかな声が最後に聞こえた。
「冬になったら昇降機使えない日も出て来るだろ。グレゴリーから頼まれたよ。ラスが上にいるときに吹雪になったら迎えを頼むって」
「その時は泊ま――」
「迎えを頼まれた。吹雪で町中以外の場所にいる人間を送迎する場合、遭難救助規程が適用されることが多い。その時のシフトの状態にもよるけど、一人で迎えに来ることは推奨されてない」
空島は“町中”の範疇に入らない。“独り身”のマヌエルが休憩所から寮まで少女や子供を送っていくのとはわけが違う。遭難救助規程が適用されると言うことは、担当マヌエルが“独り身”ではなく、右巻きと左巻きの揃った救助シフトに入っているマヌエルになる、ということだ。
「覚えといて。じゃーな」
扉が閉まった。ラセミスタは膝に抱えた魔法道具を机に移し、卵ソファの中に逃げ込んだ。カーテンを下ろし、ぴったり閉めた。
空島にいるときに吹雪になったら、あの子が迎えに来ることになる、とフェルドは言った。エスメラルダの冬で吹雪にならない日なんて殆どない。つまり冬になったら、ここに逃げ込むこともできなくなる。工房以外、居場所がなくなる。
ミランダはいい子だ、と、ダニエルは太鼓判を押した。
そう、本当に……ひとつ年上のあの人は、とても“いい子”だった。綺麗で穏やかで優しくて、誰からも好かれるような子だった。言葉も眼差しも透き通っていて、光を含んだ清廉な水を思わせた。フェルドとも仲が良かった。ラセミスタとも、仲良くなろうとしてくれた。
あんなにいい子だったのに。
ラセミスタは、優しいミランダとさえ、仲良くなることができなかった。
マリアラとだって絶対無理だ。まともに顔も見られない。息だってしづらくなる。話すことを思うだけで、顔が充血して、頭が爆発しそうになる。
自分という人間は、きっと欠陥品なのだと思う。魔法道具に関すること以外を全部忘れて生まれてきたに違いない、人間と言うより『人食い鬼』だ。魔法道具のこと以外好きなものもなく楽しいことも知らず、スキーもできずドラマも映画も観ず、魔法道具と甘い物に関する以外の活字は脳を素通りしていく。雪合戦はおろか雪祭りの滑り台さえ怖くてできないみそっかすだ。恋もしたことがないし、興味すら持てない。魔法道具についてなら話したいことはいっぱいあるのに、普通の女の子が好きそうなことを何にも知らない。
他愛ないお喋りなんて、絶対に無理だ。
こんなラセミスタの奇行を全部許して、全部受け入れて、気長に待っててくれて。その内いつか、笑顔を交わして、挨拶をして、横に座って……ラセミスタを哀れんで施しをくれるのではなく、自分も楽しんで、ラセミスタを心から好きになってくれる――そんな十六歳の少女が、この世に存在するわけがない。
それをまた思い知らされるくらいなら。
“誰とでも仲良くなれる子”とさえ、仲良くなれない自分を、思い知らされるくらいなら。
初めからない方がいい。欲しくないのだ。いらないのだ。手に入らないものは、初めから望まない方が安全だ。
ダニエルが憎いと、思った。
ミランダの時に諦めてくれていれば良かったのに。
マリアラだって可哀想だ。こんな『人食い鬼』を手懐ける任務までを、新米の魔女に課すなんて。ラセミスタの心をほぐそうと一生懸命になってくれるあの子に、いつまで、そんな無益な労苦を強いるのだろう。
ラセミスタと同室である限り、あの子があの部屋で、心から楽しい気持ちになれる日は、きっとこない。
たまらなくなって、部屋を出た。
標高の高い空島は、地上に比べるとかなり寒い。ダウンコートをしっかり着込んでふらふらと歩いていった。ラセミスタが出てきたのに気づいたのか、テラスでグレゴリーが動き出したのを感じた。気がつくと昼食の時間はとっくに過ぎ、もはやおやつ時だ。
荷運びがあったばかりだから、美味しいお茶が届いているはずだ。
甘いお菓子も、よりどりみどりだろう。リズエルの例に劣らず、グレゴリーも甘い物が大好きだった。きっとコオミ屋の生ケーキが届いている。月が変わったから、新作がでているはず。
ずっと閉じこもっていたラセミスタが出てきたのだからと、張り切ってお茶の準備をしてくれているのが痛いほどわかる。
でもラセミスタは足を止めず、とぼとぼと歩いていった。
今日のおやつが何だろうと、今はどうでもよかった。一番食べたいカップケーキは、持って来ていないとフェルドが言ったから――。
ダニエルもララも、グレゴリーもフェルドも、イーレンタールも皆、ラセミスタのことを大事に大事にしてくれる。それがありがたくて、とても哀しい。
彼らがいるから自分は充分幸せなのだと、思おうとしているのに、そう思えない自分が哀しい。
空島の端まで来た。眼下には、雄大な景色が広がっていた。少しだけ夕焼け色に染まり始めた町並みはとても整然として、ごくごく小さな人々が動き回っているのが見える。すいすい飛び交うマヌエルたちはミズスマシのように見える。彼らの喧噪はここまで届かない。見えているのに、なんて遠いのだろう。
幼い頃――まだグレゴリーを知らなかった頃。ラセミスタは、空島には“人食い鬼”が住んでいるのだと信じていた。
“人食い鬼”はいつも空島の上から覗いている。悪いことをした子供を見つけると、ぐうっと身を乗り出して、その子をつまみ上げて、ぱくりと食べてしまうのだと信じていた。
本当に“人食い鬼”になれたらいいのにと、思った。
マリアラのような子を、ミランダのような子を、ぐうっと身を乗り出してつまみ上げて、飲み込んでしまえればいいのに。
「ラス、お茶が入ったよ」
いつの間にか近くまで来ていたグレゴリーが、穏やかな声をかけてきた。「ありがとう」と応えはしたものの、その場から動くことができない。
グレゴリーはそれ以上急かさず、ラセミスタの隣に並んで下界を眺めた。ラセミスタは彼を見上げた。グレゴリーは、その辺にいるような普通のおじさんだ。教科書によると四十代の半ばだったはずだが、身なりに構わないためか五十過ぎに見える。
「グレゴリー。あたし、ここに住んでもいいですか」
訊ねるとグレゴリーは優しい瞳でこちらを見た。“人食い鬼”の仲間に入れて欲しかった。空の上から下界を眺めるだけなら、何も壊さないで済む。“いい子”に係わって、傷つけたり呆れられたり、失望されたり嫌われたりしないで済む。
長い時間が過ぎた。
グレゴリーはラセミスタの瞳を覗き込み、この上なく優しい声で言った。
「ダメだよ」