空に浮かぶ島(上)
空に浮かぶ島には、人食い鬼が住んでいる。
*
エスメラルダ大学校国の上空、標高1750メートルから1800メートル。雪山の頂上よりやや高い場所付近に、その島は浮かんでいる。
幼い頃、“人食い鬼”の噂を聞いた時は、純粋に、鬼が怖ろしかった。悪いことをしている子供を見つけたら、島からぐうっと身を乗り出して、長い爪の生えた大きな指先で子供をつまみ上げ、――ぱくり。一口で食べてしまうのだ、と信じていた。
その噂が嘘だと言うことを知ったのは、確か十歳の頃だ。
ラセミスタの成績を知った“鬼”が、興味を持って呼んだのだ。
ついに食べられてしまうのだとびくびくしながら行ってみたら、空島に住んでいたのは鬼ではなく、少々偏屈なだけのおじさんだった。彼はリズエルだった。若い頃に数々の、それこそ教科書に幾度も取り上げられるほどの歴史的な快挙を成し遂げた人だった。グレゴリー=エストーダという名のその人は、引退するにはまだ若い年齢で空島を作り上げ、“上空の歪値を計測する”という名目の元、そこに引っ込んでしまった。
人々は彼が変わり者だと言い、偏屈な人間嫌いだと噂し合った。その噂を聞いた子供たちの間で、“人間嫌いな男”がいつしか、“人間を食べる鬼”に変化したらしい。
たぶん子供たちも大人たちも、皆グレゴリーが怖かったのだろう。
空に浮かぶ島なんてものまで作り上げてしまったグレゴリー。彼はとても有能で、エスメラルダにあまりに多くの劇的な変化をもたらした。それでいて人付き合いが苦手で、研究の邪魔をしようとした人を罵ったり、手ひどく追い返したり、魔法道具をけしかけたりした。有力者の注文よりも自分の興味の方を優先した。
その興味が発展の方に向いている内はいいけれど、いつ破壊の方に向いてもおかしくない。人々はきっと、そう思ったのだろう。“人食い鬼”の伝説が、その警戒を如実に表している。
――そしてあたしもそうなのだ。
空島から延びる昇降機のかすかな振動に身を委ねながら、ラセミスタは考えた。
――普通の人から見たら、あたしも、“人食い鬼”の仲間なのだ。
*
一時間ほどかけて昇降機が空島に到着した。やっと夜が明ける頃合いだ。
空島はいつ来ても美しい。グレゴリーが丹精した高山植物が芸術的に配置されている。空島はラセミスタの目には楽園そのものに見えた。美しい庭園の中に優雅なこぢんまりした家が建っている。広々としたテラスがあって、天気が良く暖かな日は、日を浴びながらお茶を飲んだり本を読んだりできる(ひさしの長さ・角度を自在に調節可能)。わざわざ下界に降りなくても、食べ物も飲み物も運んできてもらえる。好きなときに寝て、好きなときに起きて。好きなだけ魔法道具の研究をして、好きな人とだけ会えばいい生活が、ここにある。
「おはよう、ラス」
不意に足元から声をかけられた。
下を見ると猫がいる。真っ白な猫だ。猫は琥珀色の瞳でラセミスタをじっと見て、微笑んだ。
『今日も早起きだね。来なさい。朝ご飯もまだだろう』
「おはようございます、グレゴリー。今日もあの部屋、貸してもらえますか」
『いいとも』
猫は先に立って歩き始めた。ラセミスタはその後を着いていきながら唇を軽く噛んだ。毎朝毎朝繰り返されるこのやり取りが、煩わしかった。あの部屋が欲しい。あの部屋に住みたい。この空島の住民になりたい。ここには最高の設備が揃っている。グレゴリーがそうしようと思ってさえくれれば、運んでもらう水と食糧を増やしてもらうことだってできるはずだ。降りなくていい。毎日帰らなくていい。一時間近くも昇降機に揺られる無駄な時間をなくして、ここに全ての私物を持ち込んでしまいたい。
ラセミスタの渇望を重々知っていながら、グレゴリーは頑なに、それを許してくれない。
“貸してください”と言わなければ、あの部屋の扉は開かない。
「おはよう、ラス」
白い猫を通して挨拶したばかりなのに、顔を合わせるとグレゴリーは嬉しそうに挨拶をした。ラセミスタは若干イライラしながら、それでも何とか調子を合わせる。
「おはようございます、グレゴリー。……いい匂い」
「クロワッサンはどうかな」
「ありがとう」
「お茶がなくて済まないね。今日の午後には届くはずだが」
話ながらグレゴリーはラセミスタに白い椅子を勧めた。外に出しっ放しにしていても風に飛ばされたりしないよう、ずっしりした鋳鉄の優美な椅子だ。座面部分にクッションが置かれていて、ラセミスタはまた唇を噛んだ。
毎朝来るってわかっているのに。
クッションとクロワッサンを用意して、待っててくれているのに。
「お茶、入れようか」
無駄と知りつつ言ってみる。クロワッサンに半熟の目玉焼き、ミニトマトとキュウリのサラダ、コンソメスープが揃っているのにお茶がないなんて残念だ。ところがグレゴリーは首を振る。
「空島の標高で入れたお茶など私は断固認めない」
「正直、あたしには違いがわかりません」
「嘆かわしい。私の好きな茶葉は摂氏100度で沸騰したお湯で抽出されるべく調整されたものなのだ。色も味もコクも奥深さも全然違うではないかね」
グレゴリーはぷりぷり怒って見せながら、ラセミスタにミルクをくれた。向かいに座って、微笑む。
「では、いただこうか」
「いただきまーす」
ラセミスタはクロワッサンに噛みついた。さくっとした歯触りがたまらない。
グレゴリーは元々朝食を摂らないことを、ラセミスタは知っている。
今も彼はミルクをたっぷり入れた珈琲を飲んでいるだけだ。この見事な朝食は、全てラセミスタのために調えられたものだった。ラセミスタがここに通うようになってから早三週間になる。三週間前まで宵っ張りの朝寝坊だったグレゴリーが、早起きして、家の掃除をして、テーブルを磨いて、目玉焼きを作りクロワッサンを温め、下界で抽出したお茶が残っていれば温めて出してくれる。そうして、自分は飲み物を飲むだけで、にこにこしながらラセミスタが食べるのを眺める。
グレゴリーがラセミスタを歓迎してくれていることは疑いない。
まるで父親みたいに、グレゴリーはラセミスタに優しい。
でも絶対に、ラセミスタがここに住むことを許してはくれない。
どうしてなの、グレゴリー。
黙々食べながら、ラセミスタは考えた。
あたしのこと大好きでいてくれるのは、その態度からわかるのに――
どうしてあたしを、助けてくれないのだろう。
朝食後、部屋に籠もった。この部屋は本当に居心地がいい。
十歳の頃から時折空島に遊びに来るようになったラセミスタのために、グレゴリーが用意してくれた部屋だった。寝台もついている。卵形の椅子はグレゴリーが使っているのを見て、欲しいとねだって作ってもらった特注品だ。丸い卵の内張はもこもこしていて座り心地が良く、足を引っ込めてすっぽり入ることもできる。足台を使えば寝そべることもでき、照明もついているので細かな作業を持ち込むこともでき、入口をカーテンで塞ぐこともできるのでそのままぐっすり眠ることもできる。
広々とした作業台に愛用の工具一式を並べながら、ここに住みたいとまた思った。
作業効率を考えても、絶対にその方がいいのに。イーレンタールや他のリズエルとの討論や打ち合わせのために時折降りなければならないだろうが、在庫の補充や設計図・製品の発送は荷運びのマヌエルに頼めばいいことだ。
グレゴリーの意地悪。
グレゴリーのけちんぼ。
グレゴリーも同じリズエルなのに、同じく人嫌いで偏屈で魔法道具狂いのくせに、ラセミスタの苦境をわかっているくせに。ここに逃げ込むことを許してくれても、ここに居座ることだけは許してくれない。
憂鬱な気持ちを抱えながら、ラセミスタは卵形のソファにすっぽりとはまり込んで、新作の魔法道具に取りかかった。魔法道具を作るみたいに、人との関係も理論的に構築できればいいのに。そう思いながら、少しずつ、理論と魔力網構築の深淵の中に沈んでいった。