エピローグ(下)
視界が真っ暗になった。
次いで、若草色に染まった。
不思議な感触だった。体中がバラバラになって、若草色の粒子に分解されたような気がした。しゅるしゅるしゅるしゅる、と、輝く粒子がどこかに吸い込まれていく、と思った瞬間、きゅん、というような不思議な音を聞いた。
そして。
唐突に重力が復活した。
「!」
数㎝浮いていた足の裏が床につく。身構えていなかったので突然の重力を逃すことができずよろめいた。たたらを踏んだとき、足元でちゃりん、と音がした。マリアラの握っているものと、そっくりなコインが床に落ちている。
拾い上げ、顔を上げると、そこは、さっきと同じような雰囲気のミーティングルームだった。ただ、こちらの方が狭かった。さっきせっせと閉じようとした可動式の壁が、ない。
違う部屋だ。
きゅん、さっきと同じ音がして、少し離れた場所にダニエルが出現した。ダニエルは予想していたのだろう、マリアラほど無様によろけず足を踏み締めて立った。同じように床に置いてあったコインを拾い上げ、マリアラを見て、ニヤリと笑う。
「お互い無事にたどり着いたな。言ったろ? ラスの腕は確かなんだって」
「マリアラ」
ララの声がして、振り返った。
部屋の隅にいたララが、こちらへ歩いてくる。その向こうにフェルドがいた。フェルドは少し緊張したような面持ちでララに続いてやって来る。
「紹介するわね」ララが嬉しそうに言った。「あたしの【息子】、フェルディナント=ラクエル・マヌエルよ。そしてなんと! これからあなたの相棒になります!」
「それは俺の台詞だろ! 何で取るんだ!」ダニエルが憤慨し、
「もう言っちゃったもーん。言いたかったんだもーん」ララが憤慨を躱し、
「あんまりじゃないか! 言うの楽しみにしてたのに!」
「あたしだって【子供】が相棒得たの初めてなのよ! あたしにだって権利あるじゃない!」
「仮魔女明けたばっかりなのは俺の【娘】だろ!」
「こっちは一年半も待ってたのよ! 何か文句あんの!?」
険悪な顔で睨み合った。いつもラブラブで仲むつまじい二人が喧嘩するところなんて想像したこともなかったマリアラは狼狽え、フェルドが呆れた声で言った。
「で、任命式ってこれで終わりでいーの?」
「「よくない!」」
ダニエルとララが同時に言って、こちらに向き直る。ダニエルはごほんと咳払いをして、マリアラに左手を差し出した。
「さっきのコインを貸しなさい」
「あ、……はい」
マリアラは茫然としていた。もらったばかりのコインを握ったら別の部屋に来たことと言い、ここにララはともかくフェルドがいることと言い、ララとダニエルの喧嘩と言い、不思議なことが起こりすぎて、頭がついていかない。ホルダーに填まったコイン、それからもう一枚のコインをダニエルが受け取り、一枚はララに渡しながら穏やかに笑った。
「ミフ、鎖を出してくれ」
『はーい』
ミフの方が事態を把握している。マリアラの首元に下がった鎖を引っ張って、ミフが出てきた。緩やかに伸びた金色の鎖に、ダニエルの指先がコインを取り付ける。
「このコインはさっきのように魔力を込めれば相棒のコインのある場所に持ち主を移動させることができる。まあ、儀礼的な意味合いの強いものだけど。衣類や靴のようにしっかり体にくっついているものやポケットに入っているものなら一緒に移動できるが、別の人間を一緒に移動させたいなら手をつないだ程度ではちょっと不安定になるかも知れない。移動できる重量は魔力次第」
「俺もやってみたい。どんな感じだった?」
フェルドに問われ、マリアラは我に返る。「どんな……だったっけ」
若草色の粒子になって、きゅんって聞こえて、それから。
マリアラが考えている内にララが言った。
「でも、ねえ、気をつけなさいよ。面白半分でできるものじゃないの。さっきは打ち合わせをしていたし、ルゥを通してそっちの状態をあたしが把握してたから安全だったけど、打ち合わせ無しに使えるものじゃないのよ。相棒のコインの上に障害物があった場合、分解転移してきたあんたと障害物とがぶつかって混じり合って反発し合って大爆発するんですって」
「大……?」
なんてものを使わせるのだ。マリアラは青ざめ、ダニエルが笑う。
「大丈夫だって、ちゃんと打ち合わせさえしておけば」
「距離の制限は?」
大爆発、という単語の威力などものともせず、フェルドがわくわくと訊ねる。ララはダニエルと顔を見合わせてから、がしっ、とマリアラの肩をつかんだ。
「マリアラ、良く覚えておいて。この子はね、ここ数日ほんっとーに良く自制してたのよ」
マリアラは呆気にとられる。「は?」
「フェルドはね、この一週間、借りてきた猫みたいに大人しかったの。あたしもダニエルもびっくりするくらい、理性的な右巻きとしてふるまっていたわ。でも、騙されちゃダメ。この子のあだ名は"やんちゃ坊主"よ。基本的に人の言うこと聞かないし、やりたいことは何でもやってみるし、目的のためなら結構何でもやるし、無鉄砲だし冒険大好きだし、自由時間には本当に自由にどこまででも出かけてって行方不明になる、やきもき心配して探し回るあたしたちの気持ちなんかお構いなしにね。……だからあんたには是非ブレーキ役をお願いしたいわ! いくら頼まれたってむやみにコインを貸し出しちゃダメよ! こいつならリストガルド大陸行きの輸送便であんたのコイン発送して"リストガルドまででもコインの波長が届くのか実験"なんてやりかねないんだから!」
「いや搬送先で受け取って障害物を排除してくれる人間が確保できない限りやってみないよ」
「確保できたらやってみるのよこの子は! 覚えておいてね!? 口車に乗せられないように!」
「次元の歪みを利用してるからなのか、距離の制限はないらしい」とダニエルが言った。「けどまあ、さっきも言ったけど、儀礼的な意味合いの強いものなんだよ。ラスのことを忘れるな。あいつもリズエルだ、もちろん腕は確かなんだが、もし障害物の排除なんかがうまく行かなくてお前が木っ端微塵になった場合、ラスがどう思うのか、良く考えてからやってみてくれ」
ダニエルの言葉に、フェルドは真面目に頷く。マリアラはダニエルがつけてくれたばかりのコインを握りしめ、ダニエルを見上げ、ララを見て、それからフェルドを見た。
どうやら夢でも間違いでも、冗談でもないらしい。
マリアラの相棒は、フェルドに決まったらしいのだ。――ダスティンではなく。ジェイドでもなく。
「マリアラ=ラクエル・マヌエル」
ダニエルに真面目に名を呼ばれ、マリアラは居住まいを正した。「はい」
「今日あなたに相棒を引き合わせ、人の救出に向かうためのシフトに入ることを許します」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエル」ララが言葉を継いだ。「今日あなたに相棒を引き合わせ、人の救出に向かうためのシフトに入ることを許します」
「相棒と協力し合い、相談し合い、最善の道を探りながら、世界の狭間に落ちた人々を、あるべき場所、属するべき場所、女神の白い腕の中に導くこと。授けられた魔力や能力を女神の意思に違わぬように使うことを望んでいます」
儀式のような厳かな言葉を聞く内に、しん、と胸が鎮まっていく。ダニエルは優しい笑顔で、言葉を継いだ。
「私の【娘】、一年前に私が殻を割りこの世に生まれ出たあなたに、荒ぶる神の鋭い目を眩ます光が共にありますように」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエル」
ララが続けた。フェルドの首元から引っ張り出した鎖に、ダニエルから受け取っていたコインを取り付けながら、微笑む。
「私の【息子】、二年半前に私が殻を割りこの世に生まれ出たあなたに、白き腕の女神の穏やかな祝福が共にありますように」
どうしてだろう。何だか泣きそうだ。
滲んだ涙をなんとか引っ込めようとしていると、ダニエルが微笑んで、マリアラの頭を抱いた。ぽんぽんと頭を叩かれて、腕が離れる。
「おめでとう。つってもラクエルは数が少ないし、全員でひとつの寮みたいなもんだから、これからもなんかあったらいつでも相談してくれ」
「フェルド、あんたもね。冬の忙しいときは待機の時とかに"独り身"を手伝うこともあるから、今までとあんま変わんない関係が続くと思うわ」
二人に口々に言われて、マリアラはホッとした。じわじわと、実感がこみ上げてくる。相棒ができた。相棒になった。ダスティンでなくて助かった。
――嫌なら嫌って言った方がいい。今ならまだ間に合うから。
ダスティンの言葉を思い出す。マリアラはフェルドを盗み見た。嫌って言われたらどうしようと、また思った。今回の騒動では“命綱”になってくれたフェルドだが、こんな厄介ごとばかり引き起こす左巻きなんてお断りだって言われたら――
「それじゃあこれから、二十階に行くわよ。救出シフトに入っているマヌエルのために作られた詰所なの、仮眠室の使い方とか注文の仕方とか、覚えなきゃいけないこといっぱいあるんだから」
ララが張り切っている。ダニエルが先に行って扉を開けた。廊下を覗いてみているから、もしかしたら、この部屋はさっきダスティンが殴り込んできたあの部屋と、あまり離れていないのかも知れない。
事態がどんどん進んでいく。相棒はもう決定事項なのだろうか。フェルドの意思は確認しなくていいのだろうか。もう一度フェルドの横顔を盗み見たとき、フェルドがこちらを見た。
「……あのさ」
「は、はいっ!?」
「もう決定事項みたいだし、〈アスタ〉の決定を拒否するにはかなり面倒な手続きがいるから……悪いけど覚悟して」
マリアラは呆気にとられた。「覚悟?」
「あの時の約束さえ守ってくれれば……俺も、できる限りのことをするから」
言う言葉が、少しだけ、不安そうで――
約束。もちろん覚えている。南大島で、“今度誰かを助けに行くときには、言ってからにして”と言われた。マリアラは真面目に頷いた。そして、微笑む。
「フェルドも覚悟してね。わたし、気がついたの。こないだみたいなこと……色々大変だったけど、でも、たぶん、もう一度見つけたら、同じことをしてしまうと思う」
「わかってる。覚悟しとく」
フェルドも笑い、ちらりと扉の方を見た。ふたりは既に廊下に出ている。
彼はこちらに向き直り、頭を下げた。
「今日から、よろしくお願いします」
マリアラは居住まいを正した。ラセミスタのことを考えた。フェルドが相棒になったら、彼女の大切な居場所をさらに奪うことになりかねない、そう思っていた。けれど。
コインを調整してくれたのがラセミスタなら、彼女はきっと、受け入れてくれたのだ。そう思うことにする。
踵を揃えて、頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「――」
一瞬の逡巡。何だろう。顔を上げかけた時、囁くような声が聞こえた。
「生まれてきてくれてありがとう」
マリアラは弾かれたように顔を上げた。聞き間違いだろうか。フェルドはくるりと踵を返して、扉の方に歩き始めている。その耳が赤い。聞き間違いじゃない。その言葉は、もしかして、相棒を得たときの決まり文句なのかも知れないけれど。
でも、それでも。
孵化して良かった。今初めて、そう思った。
歴史学の勉強はできなくなってしまったけれど。幼い子たちに歴史の楽しさを伝えられるような教師にも、もうなれなくなってしまったけれど。かつての家族たちからは距離を置かれ、ラセミスタに苦労を強いて、【魔女ビル】中を混乱させてしまった。ちゃんとした魔女には、まだまだなれそうもない。――けれど。
“生まれてくれてありがとう。”
マリアラは首から下げたコインを握りしめ、頬に宛てた。火照った肌に、ひんやりと冷たい。歩き出す。コインを胸元にしまい、廊下に出る。ダニエルとララと、それから相棒と一緒に、新しい仕事場に向かって歩いていく。
そして、微笑んだ。
――大丈夫。きっとうまくやれる。
「魔女の相棒」終了いたしました。お付き合いありがとうございました!
次回からは番外編「空に浮かぶ島」が始まります。三話の予定です。