第一章 仮魔女と友人(5)
森の中は静かだった。マリアラはどこへ行ったのだろう。
『近くにいますよ。あまり【壁】の近くだと、ハウスを建てるのに支障がありますから』
リンの疑問を見透かしたかのようにミフが言い、リンは、ミフを見た。そうだ、と思った。
「そっか、場所を探すって、ハウスを建てる場所のことか!」
『そうです。ある程度の広さがないと――』
ミフが急に言葉を止めた。
その理由はすぐに分かった。リンの背後から、若い男の声が、聞こえた。
「あの……ちょっとすみません」
リンは振り返り、一瞬、目を見張った。
ぱっと目を引いたのは、その頭髪だ。染めているのか地の色なのかわからないが、赤茶というよりもっと鮮やかな赤だった。色白の、優男と言える風貌の男に、その色はとてもよく似合っていた。
リンより年上だろう――たぶん。二十歳にはなっていると思うが、人懐っこい笑顔が彼を幼く見せている。なかなか良さそうな人だと、リンは思った。優しそうだし、瞳も赤みがかっていて、ミステリアスでかっこいい。
「この辺りで、他に、登山客を見ませんでしたか」
赤い髪の男は汗を拭き拭きそう言った。彼自身も登山客らしく、リンと同じような登山服を着ていた。足に履いた登山靴も服も真新しくて、初心者ぶりを窺わせる。
「いやー、ちょっとキノコ見に出たらはぐれちゃって」
「いえ、見ませんでしたけど……」
「そうですか。いやあ、参ったなあ……合流地点が分からなくなっちゃってね」
若い男は面目無さそうに笑う。リンは少し彼に近寄った。
「地図、ないんですか」
「ないんですよ……いやね、休憩中にちょっとふらっとキノコ取りに出ただけなんです、リュックとか全部、仲間のところにおいてきちゃって。この近くのはずなんです。すぐ見つかるはずなんです。だって十分も歩いてないんですから」
「そ、それは」
本当に初心者だぞこの人、と、リンは思った。雪山登山の心得を、全部教科書の中に忘れて来たに違いない。
「無線機も?」
訊ねると男は、てへ、と笑う。リンは苦笑して、はい、と貸与品の無線機を差し出した。
「これ使って、責任者の人に連絡取ったらどうですか」
「えええ! いやあ、いいんですか? すみませんどうも……」
若い男はいかにも嬉しそうに無線機を受け取った。ぴっ、ぴっ、ぴっ、とボタンを操作して、耳に当てる。
「………………あー、もしもし? 僕です僕、グールド……ひっ」
無線機から盛大に怒鳴り声が流れ出たのがリンにまで聞こえた。かん高い女性の声だ。このぐず、のろま、などという悪口雑言をわめき立てる無線機を押さえて、男はリンを見て苦笑して見せる。リンも苦笑して、後ろを向いた。散々叱られるところを、人に見られるのは嫌だろう。特にリンのように年下の子には。
すぐに男の通話は終わった。彼はガサガサ下生えを踏み鳴らしながら足早に近づいてくると、リンに無線機を返して、情け無さそうに笑った。
「どうもありがとうございます。おかげで場所がわかりました。反対方向に歩いちゃったみたいで……どうもご迷惑をおかけしました」
「いえ、大丈夫ですか? 見つかりそうですか」
「そこ動くな! って厳命されましたよ」
とほほ、と言いたげに彼は肩を落としている。
「でももう、大丈夫。本当に助かりました」
「仲間の人が来るまで、一緒にいましょうか?」
万一見つけられなかったら、また激怒されてしまうに違いない。リンの申し出を、しかし、今度は彼は固辞した。
「いえ、いえ、もう、これ以上ご迷惑をおかけするわけには。大丈夫です、ほんと、すぐそばなんで……それにその、すっごく怒ってたんで……仮魔女の試験を邪魔したなんてばれたら僕」
「ああ、はい」リンは苦笑した。「わかりました。じゃあ、お気をつけて」
「本当に、どうもありがとうございました」
若い男は律義に頭を下げる。リンはマリアラを捜すことにした。ざくざくと斜面を下って行くと、若い男がまた声をかけた。
「あの、僕、グールド、と言います。グールド=ヘンリヴェント」
「あたし、リン=アリエノールです。また会えるといいですね」
「本当にね」
グールドは笑う。蕩けるような笑みだった。山の上では初心者でおどおどしているが、町では結構モテそうな人だ、と、リンは思った。少なくともリンの好みではある。
ミフとマリアラは必要に応じて思念で連絡を取り合えるのだそうで、ミフは真っすぐに、マリアラのところへ案内してくれた。
マリアラはぽかりと開けた森の空隙にいた。そこで、斜面にいくつかの大きな板を並べているところだった。緑と焦げ茶に塗られた板は、かなり大きい。四メートル四方はあるだろう。
『少し離れていてください。組み立てます』
ミフはそう言い残し、ひゅうん、とマリアラのところへ飛んで行った。マリアラはこちらを見て、にこっと笑う。
「ちょっと待っててね」
そしてマリアラとミフは、ハウスを組み上げた。
それは瞬く間と言ってもいいほど、迅速な動きだった。箒は力持ちだ。何メートルもの鉄骨を吊り上げ、地面に突き刺し、固定し、床をはめ込み、壁を組み上げるのは、専らミフの役目だった。そもそも箒が作るように設計されているのだろう。鉄骨や壁のいたるところに柄を差し込むための穴や引っかけるためのフックが用意されていて、マリアラがしていたのは、溝や穴に部品を合わせて支えるということだけだ。
緑と焦げ茶に彩られたハウスが、あっと言う間にできあがった。
斜面を補うために鉄骨で足場が組まれてい、その上にサイコロみたいなハウスがちょこんと載っている。森林に溶け込む色彩だが、どことなくポップな印象で可愛らしい。一仕事終えたミフはひとりでに小指サイズに縮んでマリアラの首元に飛んで行った。そこにかけられた鎖に、ペンダントのように収まる。
中に入るのかと思ったが、マリアラは、頂上側の開けたスペースに、また何やら設置し始めた。魔女の巾着袋の中から次々と小さく縮められた道具を取り出して、元の大きさに戻していく。
まず、床、が出てきた。斜面に並べて、大きな――それこそミフの柄程もある――自動ドライバーで、頂上側の穴にボルトを差し込んで固定し、麓側の穴に差し込んだボルトで、平らになるように角度を調節して固定する。ウィーン、カチリ。ウィーウィーウィー、カチリ。それでもう、十分な広さのある平らな床のできあがりだ。その上にタープを張って屋根を作り、床の上にテーブルと、座り心地の良さそうな肘掛け椅子がふたつ。リンはその作業を、うっとりと眺めていた。
魔女に救出してもらう醍醐味の一つがこれだ。
さまざまな魔法道具で、遭難中でも出来る限り居心地よく過ごせるよう心を配ってもらえること。
ちょうどお昼時だ。リンはうきうきした。
今日のリンは『遭難中』だから、気兼ねなく、魔女に食事も用意してもらえる。
「どうぞ、座って」
促され、リンはいそいそと肘掛け椅子に腰をかけた。
魔女の巾着袋には、小さく縮められた様々な道具が入っている。マリアラはリンの向かいに腰をかけ、正にその巾着袋の中から、白い布袋をひとつ、取り出した。口をくつろげ、取り出したのは、まず鍋だ。それから小さな簡易炉と籐で編まれた蓋付きの籠、プラスチックのケース、お皿。
「何食べたい?」
問われてリンは、即答した。
「ホットサンド!」
マリアラはにっこり笑った。お待ちください、と言って、準備を始める。
魔女は、遭難者のために様々な食べ物を持ってくる、と言われている。
どのメニューもとても美味しいと評判だ。ダリアの愛読誌『月刊マヌエル通信』には、魔女の巾着袋に新たに加えられたメニューは絶対に載るし、半年に一度は『絶対食べたい魔女料理ランキング』が特集される、らしい。この研修に備え、ダリアがコピーしてくれた冬用メニュー一覧を吟味して、食べたいものを決めてきた。そう言うところには抜かりがないのがリン=アリエノールである。
おでんもいい(たまごが絶品、と記事にあった)。クリームシチューも悪くない。ポトフはソーセージが『ものすごくジューシー』だそうで捨てがたい。さんざん悩んだ末、リンは夜ご飯にはスパゲッティドリア、昼食はホットサンド、朝食はとろとろオムレツとソーセージ、と決めた。ダリアには、『メニューの希望を聞いてくれる仮魔女だといいねえ』と不吉なことを言われたけれど、その点リンは本当に運が良かった。
何しろ、リンの仮魔女はマリアラだ。
ダリアの『遭難者研修』の感想を思い出し、本当につくづく、運が良かったと思う。
もちろん魔女は人気商売などではないし、こちらは救助される側なのだから、わがままなど言うべきではない。ないのだが、やはり、親切な魔女に助けてほしいと思うのは人情だ。
黒い鋳鉄でできた二枚揃いのフライパンを取り出しながら、マリアラが訊ねた。
「リン、チーズ大丈夫だったよね」
「大好きだよ! あ! あの、あのね、あたしゴルゴンゾーラも大丈夫だからね!」
言うとマリアラは笑った。
「通だね」