エピローグ(上)
朝が来た。
今日も、ラセミスタはもう、出勤した後だった。
――わたしが来てから、あの子は部屋で寛げていない。
遅ればせながら、その事実に気づく。
あの地下道で、少しだけ、近づけたような気がしていた。ダニエルやララに、危険を知らせてくれたのも彼女だった。
でもそれはやはり、マリアラの独り合点に過ぎなかった。
彼女から、安息の地を奪っていることが気になる。朝早くから夜遅くまで工房に詰めっきりで睡眠もろくに取れていないのでは、健康までが心配になる。ただでさえラセミスタは痩せていて、とても肌の色が白い。睡眠不足を続けたらどうなってしまうのだろう。
仲良くなりたい。打ち解けて欲しい。でもそれはマリアラの事情であって。
こちらの事情を押しつけて、その挙げ句に彼女に睡眠不足を強いるなら、ラセミスタにとってはそれは、災害にも似た迷惑ではないだろうか。
「はあぁ……」
せっかく一度起きたベッドの上に、仰向けに倒れた。今日は日勤だ。新しい相棒と打ち合わせをし、一緒に様々な事務手続きをこなし、挨拶回りをして来週からのシフトをもらう予定になっている。
つまり"独り身"なのは今が最後だ。
緊張している。そのことを自覚する。魔物と対峙したときよりも、今の方がずっと心細い気がするのはなぜだろう。ダニエルは親切で面倒見がいい割りに、少々意地悪なところがある。昨日のあの時点で既に、誰が相棒になるのかわかっていたくせに、どんなに頼んでも『明日のお楽しみだ』と言い張って教えてくれなかった。
もし、もし、万が一、フェルドが相棒になったら、ラセミスタはどう思うだろう。
ますます自分の居場所がなくなったと、思いはしないだろうか。
「はあぁぁ……」
もう一度ため息をついて、マリアラはよっこらしょ、と起き上がった。とにかく身支度をして、朝食を食べて、仕事に行かなければならない。
『マリアラ……』見かねたミフが、声をかけてきた。『あのさ、あのさ。もしダスティンだったら、ぶん殴って逃げよう』
「ぶん」
『だいじょーぶ、あたし昨日フィから秘伝教わってるから!』
「何やってたの……?」
『それで逃げてさ、レイキアに行こう。ほら、何だっけ、レイキアって魔女が足りないとかあの詐欺師の人が言ってたじゃん? それがホントなら、と言うことは、行ったらきっと大事にしてもらえるよ』
一生懸命伝えてくるミフの言葉は、マリアラの不安を、内心の願いを、そのまま吐露するものだ。意識の奥底でマリアラとつながっているミフには、客観的な意見を期待することはできない。でも、内心の恐れと逃げたい気持ちを言葉にしてもらったことで、何だか落ち着いてくるのが不思議だ。逃げよう――そう、確かに、わたしは逃げたいだけなのだ。
マリアラは微笑んで、身支度を始めた。髪を梳かしながら笑う。
「うん、そうだね」
言ってみるとミフは嬉しそうに小指サイズのままくるりと飛んだ。『そうだよ!』
「フィから教わった秘伝ってどんなの?」
『あのね、箒はね、柄の硬度を自分で変えられるんだよ。そりゃぐにゃぐにゃになるのは無理だけど、落ちたときにはやわらかい方が壊れにくいし、でも飛ぶときはある程度硬くないと持ちにくいでしょ。中心を流れる魔力の量を調節して、それで』
ミフの説明はいかにも魔法道具らしく、自分の仕組みを微に入り細に入り解説した。聞いてる内に着替えと朝食の注文までもが済んだ。ミフの説明を要約すると、フィが教えてくれたのはある程度やわらかくした柄をどこかに引っかけて撓めることで、"バネとテコの力を加えて破壊力を増す"秘伝(やわらかすぎても硬すぎてもいけないんだよー!)だそうで、昨日魔物との騒ぎがあった間に二人して何やってたのだ、と思わずにはいられない。
この一週間で、ミフはフェルドの箒とすっかり仲良くなってしまった。それが何だか、どうしてだろう、少し落ち着かない。
『あたしたちが囮になってたからマリアラとフェルドは自由に動けたんだからね! 感謝してよね! 子供たちの相手すんの大っ変だったんだからー!』
「うん、ありがとう。でも、すごく楽しそうだったよ?」
『うん楽しかった! また行こーね!』
ミフと話していると、あれこれ思い悩んでいたのがバカらしくなってくる。
少しして届いた朝食は特製オムレツだった。月に一度くらいしか朝食メニューに登場しない、【魔女ビル】人気メニュー朝食部門、堂々一位に長年君臨しているという、特別なオムレツだ。
幸先がいい……かもしれない。
*
十九階に来た。
この階には工房詰所、広々とした在庫保管庫の他に、ミーティングルームやシャワー室、更衣室、談話室、ゲストルーム、以前フェルドとイーレンタールに夕食を奢ってもらった展望レストランなど、様々な機能が詰め込まれている。
大丈夫だよ。ミフが何度も繰り返してくれ、励ましてくれたお陰で、マリアラは指示より二十分も早くミーティングルームに到着した。
ミーティングルームは意外に広かった。真ん中を可動式のパネルで区切れるようになっているが、今は開いていた。がらんとした空間に、白いテーブルと椅子が整然と置かれている。こんな広い場所で打ち合わせなんて、逃げ場がないじゃないか。マリアラは急いで収納されている可動式のパネルに手をかけた。部屋の壁に動かし方を書いた説明書きが張ってあり、それに従ってパネルを動かす。天井にレールが走っていて、それに沿ってパネルを一枚ずつ滑らせ、広い壁を作り上げる仕組みだ。黙々と動かして少しずつ壁を作っていきながら、我ながら"逃げ場を作って"どうするのだ、と思う。本当にぶん殴って逃げ出すわけにはいかないと、重々わかっているのに。
集合時間の十分前になった時、出し抜けに扉が開いた。
「マリアラ=ラクエル・マヌエル!」
マリアラは思わず手にしていたパネルの後ろに隠れた。
入ってきたのは、ダスティンだったのだ。
走ってきたらしい。息を弾ませて、何だか怖ろしい形相だ。マリアラがパネルの後ろから覗いているのに気づくと、ダスティンはこちらにずかずか歩いてきて、マリアラはぞっとした。相棒って、相棒って、まさか。
「お、おは……おはようございます」
「マリアラ、君の意見を聞きたいんだ」
ダスティンは可動式のパネルのこちら側に首を突っ込んだ。マリアラは反射的に反対側に逃げた。
「意見って」
「あのさ、正直に言って欲しいんだよ。昨日怖くなかったの?」
「は?」
「排気ダクトを歩かせるなんて、女の子をなんだと思ってるんだって、思わない? 異臭騒ぎで【魔女ビル】中大騒ぎの時に排気ダクトに連れてくなんて、最高に人を馬鹿にしてる。そう思わなかった? だいたい昼飯だってラーメンって、何だよ俺に言ってくれればもっといい店つれてったのに」
どうしよう、とマリアラは思う。ダスティンの言ってることがわからない。最近いつもこうだ。ダスティンと意思疎通を図るのは、何だかとても骨が折れる。
「……何の話ですか?」
「その上魔物に左巻きを近づけるなんて! 水使った浄化の方法、どんだけ過信してるんだよ! 効かなかったら危なかったじゃないか! 相棒になったらこれから先もあんな――マリアラ、嫌なら嫌って言った方がいい。今ならまだ間に合うから!」
『マリアラ、こっちはOKだよ』とミフが小声で囁いた。『柄の硬度調節完了。いつでもぶん殴れるよ!』
どうしよう。何が何だかわからないけれど、ぶん殴る準備だけはできている。ならここはいっそぶん殴るべきなのだろうか? マリアラが混乱と共にそう考えた時、さっきダスティンが駆け込んできた扉が開いた。
顔を出したのはダニエルだ。ダニエルはダスティンを見るやうんざりした顔をした。ずかずかずかと歩いてきて、ぐっとダスティンの後ろ襟を掴んだ。
「来るなって言っただろ」
「だって! 納得できるかこんなの! 俺の話っ、ちゃんと聞いてたはずだろ!?」
「ああ聞いてた。でも俺の考えはお前とは違ったんだよ。お前今日も南大島に出勤だろ。早く行かないと――もう遅刻だぞ」
「マリアラ! 嫌なら嫌って言った方がいい! 今ならまだ間に合うから!」
「いい加減にしろ」
耳を疑った。ダニエルの口から出たことが信じられない、冷たい声だ。ダスティンも気圧されたように一瞬言葉を切った。
「ただでさえ三週間も延びた門出をこれ以上邪魔しないでくれ」
「すっ、スタンドプレーやれば相棒が手に入るなんて、そんなの間違ってるだろ!」
「手に入る? ――俺の【娘】はモノじゃないんだよ」
出て行け、とばかりにダスティンをぺいっと部屋から放り出し、ダニエルは扉を閉めた。こちらを振り返って、やれやれと首を振る。
「やっぱり、相性見るための研修なんてやるもんじゃないな。それがつくづくよくわかったよ」
「ダニエル」
「こっちにおいで」
優しい声に誘われて、ふらふらとそちらに行った。ダスティンの気配を、まだ扉の外に感じる。扉こそ叩かないまでも、まるで熊のように廊下を行ったり来たりしているのがなんとなくわかる。出て行った、ということは、ダスティンは相棒ではないのだろうか。マリアラの首元から、ミフがダニエルに聞こえる声で言った。
『ぶん殴る?』
「大丈夫だよ」ダニエルは笑った。「前に、身分証明のための仮コイン、渡しただろ。回収するから出せ」
「あ……うん」
マリアラはポケットを探り、黒の制服と共に支給された金色のコインを見つけ出した。直径三センチくらいの大きさの、四枚花弁の花の意匠が刻まれたコインは、魔女なら誰でも持っているものだ。裏にはコイン番号と名前が刻まれるが、マリアラの支給された仮コインにはまだ番号しかない。
ダニエルはごついが繊細な動きをするその指で、マリアラの手のひらから仮コインを取り上げた。その代わりに、ひんやり冷たいキラキラ光るコインが乗せられた。こちらのコインは透明なホルダーに填まっていて、箒をつける金の鎖に一緒に取り付けられるようになっている。
コイン番号、29960803-3-107。氏名、マリアラ=ラクエル・マヌエル。
マリアラは言葉が出ず、黙ってそれを見ていた。わたしのコイン。正式な魔女になった証。
「じゃあ、握って」
ダニエルに促され、マリアラは顔を上げた。「握る?」
「ちょうど九時、仕事の始まりだ。ルゥ、準備は? 大丈夫だろうな?」
『大丈夫』
ダニエルの肩の上で、ララにそっくりな声が言った。そこにララの箒が小さく縮んで留まっていた。箒はぴこぴこと柄を振っている。
『マリアラ、覚悟はいい? エスメラルダ大学校国の技術の粋を極めて作り上げられた、"確かにすごいけど使い道がわからない機能"堂々のナンバーワン! 転移機能使うわよー! ちなみにダニエルもこの機能、使うのこれで二度目よ!』
「て……転移機能?」
「普段はイーレンタールが調整するんだけどな」言いながらダニエルは、自分のコインをぴんと指で弾き、くるくる落ちてくるそれをぱしっと掴まえて見せた。「お前たちのはラスがやった。大丈夫。偏屈で強情っ張りで我が儘できかん坊の十六歳少女だが、ああ見えてリズエルだ。腕は確かだからな!」
『手のひらにコインを握って、魔力を通わせる。そうすると……アラ不思議! 相棒のコインのある場所に移動できちゃうってぇスンポーよ! きゃーすごーい! この機能、本当にすごいけどイマイチ使い道がわからなーい! 任命式以外に使ったって話、聞いたことなーい!』
ララの箒、ルゥは、かなり浮かれている。
「大丈夫、準備はできてる」ダニエルは笑ってマリアラの頭を撫でた。「……よし、行け!」
「……うん」
マリアラはコインを手のひらに握りしめ、魔力を通わせた。