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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の訓練

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信頼

『そのめちゃくちゃな子、というのは、昨日捕まった子だろう。車椅子じゃなかったのか』


 ギュンターが箒に接続した外部マイク越しにそう訊ね、ディノはそうなんだよなぁと思う。さっき見た動きが信じられない。螺旋階段の下から、ロープだけを使って天井まで駆け上がったのだ。逆になんで車椅子に乗っていたのかと聞きたい。


「そう、その子です。肝据わってて、薬を渡した子。いきなり駆け出したんです、ドゥランを螺旋階段から蹴落としたんですよ。そのままロープでヘリに――ギュンターさんのことを知ってるようでしたけど」

『あ……ああー。そういえば連絡が来てたな……わかった。車椅子に乗っていたというのが謎だが……ものすごい幸運だったな』


 心当たりがあったようだ。ガストンさんから何か共有があったのかもしれない。

 ヘリに追いついてきた。ヘリの周囲は風が複雑で、飛ぶのに注意がいる。子供はもはやヘリの足場にたどり着き、そこにしがみついていた。パァン! 破裂音が鳴った。ディノに気づいたバルツが発砲したのだ。当たりゃしないのだが、一応左腕にはめた『盾』をいつでも起動させられるようにしておく。こっちにきてからさまざまな魔法道具を作ってもらったのだが、その一つだ。省力化の技術が採用されていて、ディノの魔力量なら何時間でも起動させ続けられる。


 箒にも新たな機能がつけられた。通常、箒の先端からは自分たちを外気から守るための『膜』が出るが、ディノの箒に仕込まれているのは犯罪者を捕獲するための網だ。犯罪者に向かって射出すれば自動で対象に絡みつき、自由を奪い、そのまま連行できるようになっている。もうこれをあの子に向かって射出してでも、と思った時、少女と目が合った。


 彼女はヘリの進行方向から見て左側の脚にいた。彼女の瞳が藍色にキラキラと光っていた。ディノに向かって彼女はヘリの右側の方向を指してみせた。そっちから回れという堂々たる合図だ。おいおい、とディノは思う。保護局員かよ。


「デュード、お前――まさか、ディノ=イリエル・マヌエルか!? この、この……絶対許さねえ! 出てこいこのクソやろう!!」


 逆上したバルツが身を乗り出して怒鳴っている。パンパン、銃を振り回している。いやー俺の名もずいぶん売れちまったもんだなあ、ディノは思わずやにさがった。『臓器』たちはレイキアに出荷される前に助け出せたと聞いた。ジョンもきっと無事でいるはずだ。解毒剤のサンプルを入手できたから医局で分析すれば量産できるようになるはずだし――今回の仕事はもう、文句のつけようのない大成功だ。いやーまいったな、ますます俺の名が轟いちまうじゃねーか。ディノはにんまり笑った。


 操縦席にいるのはカイゼル・ヴァン・ネリス。通称『猫目』だ。ずいぶん大物が出てきたもんだ。あいつ一人捕えられたらすごいことだ。おまけにバルツはイェルディアのギャングとしては小物の方だが、いろんな『商売』に手を染めているから捕まえていろいろ吐かせればジークスやその他のルートが探り出せる。表彰もんかもしれない。


 ディノはヘリに向けて怒鳴った。


「諦めて着陸しろ!」

「うるっせえこの若造――ぎゃああっ!?」


 だしぬけにバルツの悲鳴が上がり、ディノはギョッとした。この短い会話の間に、少女の姿が消えていた。落ちたかと一瞬ゾッとしたが、やはり違った。彼女はバルツが身を乗り出している扉の反対側から、ヘリに殴り込んでいたのだった。バァン、破裂音がしたが、すぐに元気満々な少女の姿がバルツの後ろに現れた。


「いっくよー! 受け止めろー!」

「えっ、おい、待っ」


 待たなかった。少女は思い切り良く、バルツに蹴りを入れた。


「は、はあ――!?」


 バルツは銃を放り出しめちゃくちゃに手を振り回した。かろうじて手すりにかかった指を、少女がピンッと弾いた。「ああー!」バルツが落ちる。ディノは慌てて箒の柄から捕獲網を射出した。危ういところで間に合った。網はバルツに絡みつき――急にバルツの体重分の負荷がかかり、一瞬バランスを崩す。


「ちょいちょいちょいちょい! 無茶すんなー!」

「もう一人行くよー!」

「いや嘘だろ!?」

「ディノさん、大丈夫っすか!?」


 ミシェルが追いつき、ディノは泣きそうになった。ああ、ミシェルはエスメラルダにいた時が嘘のように最近とても頼もしい。


「ミシェル、もう一人来る! 網で受け止めろ!」

「え、え――!?」

「きっ、きさま……!」


 『猫目』は逆上して少女につかみかかっていた。おいおい、操縦どうするんだ。少女の身のこなしは実際神がかっていた。何をどうしたとも見えなかったのに、『猫目』がふわりと浮かぶようにしてヘリから蹴り出された。「ウッソでしょ」ミシェルが箒から捕獲網を射出し、『猫目』を首尾よく捕まえる。


「ナイスキャッチ! ミシェル、こっちも頼む」


 ディノの箒の柄から出ている網の先端をミシェルの箒の柄に通し、ナイフで自分の柄から切り離す。ミシェルは二人分の重みに一度ガクンと下がり、


「え、ディノさんは!?」

「ヘリをどうにかする! このままじゃ街に落ちんだろ!」


 ヘリは自動安定装置がついているのか、まだ姿勢を保っていた。だが少しずつ傾き始めている。急がないと街に墜落してしまうだろう。

 箒でヘリに近づくのはなかなか骨が折れる。ヘリの巻き起こす風は読みづらく、下手すると羽根に吸い込まれそうになるのだ。おまけにヘリは次第に高度を下げ始めている。必死で風を操り下からヘリに近づく。墜落する前に小さく縮めればいいと対策が浮かんだが、中に人が乗っていては無理だ。


「おーい! 出てこい、受け止めっから!」


 叫んだが少女は顔を出さない。ディノはじりじりした。ヘリに乗っていた悪者が二人じゃなかったらどうしよう。中に誰かが潜んでいて、あの子が撃たれて怪我でもしてたら。そしたら乗り込んで引きずりだしてから――と考えながらじわじわとヘリに近づき、なんとか足場にしがみついた。うへえ、よくこんな体勢で中に飛び込んだなあの子。必死で体を引き上げて、中に入る。


「おいっ、……て!」


 少女は無事だった。どこも怪我していなかった。ただ彼女は黙ってじっと、コクピットの表示と外を見比べているようだった。

 ヘリが斜めにかしいでいく。ミシェルが二人分の(ギャーギャー喚いてもがいている)袋を支えてよたよた降りていくのよりも少し遅いスピードで、街の家々が近づいている。


「外に出ろ! ヘリ縮めっから!」


 そういうと少女は振り返った。ぱっと花が開くような、満面の笑顔。


「その手があったか! あったまいーね」

「お、おう」


 素直な賛辞に思わず毒気を抜かれる。そして丸め込まれてたまるかと心を鬼にする。


「説教は外に出てからだ。後ろに乗れ!」

「やったー」


 ディノは箒に跨り、彼女が後ろに乗るのを待って、手のひらでタラップに触れながら外に出た。手が離れる寸前に魔力を通わせる。大きさの分、少しタイムラグがあったが――ぽん! ヘリが小さく縮むと同時に騒音が断ち切られるように消えた。


 後に残ったのは、もうバカみたいに晴れた青空。エスメラルダよりずっと明るくて暖かな朝だ。

 この朝を守れたことに、ホッとする。


 ふう――。ディノは長々と息をついた。ああよかった、なんとか間に合った。小さくなったヘリはポケットに入れておく。


 下は大騒ぎになっていた。このあたりは住宅街だ。家々の隙間を走る道路にはたくさんのパトカーが詰めかけ、赤いランプがピカピカしているし、ギュンターが用意するといった【蝿】が三機、ようやく浮かび上がったのが見える。あれは狩人が以前乗っていたもので、今はイェルディア警察のものだ。見るとなんとギュンターが直々にひとつの【蝿】に乗っている。


 怒られっかな、と思う。一人で突っ込むなって言われたのに。


 そのとき、ディノの後ろから身を乗り出した少女が言った。


「にーちゃん、あっちに向かって」


 彼女は海の方を指している。なんてことだ、まだ何かしようというのか。ディノはぞんざいに答えた。


「だめだ。一回ギュンターさんとこに行かねーと」

「あのね、あんま時間がないと思うんだ。ジークスをこのまま、野放しにする気じゃないよね? 猫目のやつは捕まえたけどさ、今頃、ジークスの残党が逃げる準備してると思うよ」


「……」


 それはちょっと、ディノとしても、気になってはいた。

 このヘリはジークスが出したものだ。バルツ一味の要請を受け、もともと七時に飛び立つ予定を早めたのだ。『猫目』が操縦してきたところを見ると、ジークスは人手が足りないのだろう。エスメラルダを追われ、アナカルシスの裏社会でのしあがるために、今回の商品たちは絶対に確保しておきたかったに違いない。もちろんこのヘリの動向は注視しているはずだ。

 ヘリが小さく縮められたのをジークス側が把握したら、今頃逃げる準備を始めているだろう。エスメラルダ時代の帳簿や取引先名簿はもちろんのこと、イェルディアの裏ルートなどの情報を処分されてしまったら。


「いや、でも、一般人を巻き込むわけには」

「えっ俺、一般人なの?」

「………………たぶん」


「ふーん、ギュンターさんに怒られんの? なんでかわかんねーけど、俺も一緒に謝ってやるよ」


『ディノ、よくやった。ヘリを縮めたのは正しい判断だ』


 箒の柄を通してギュンターがそう言い、ディノは嬉しくなった。さすがギュンターさん、話がわかる人だ。

 エスメラルダでディノがジェイドと一緒にラセミスタの爆弾を使って【国境】を爆破した時、咎めるどころか笑い出したギュンターを思い出す。あのとき、この人に一生ついていけたらと思ったのだ。


「ありがとうございます」

『今行くから動くな』

「でも、ジークスが逃げちまうよ」


 少女が立ち上がった。

 ディノはギョッとした。彼女が乗っているのは穂の上だ。穂の根本にならディノもパレードでやっていたが、


「立てんの!? なんで!?」

「何言ってんの? ねー、逃げちまうよってば!」

『ラルフリア=レイリさんだね』ギュンターの声が箒から流れ出る。『誘拐されたのは災難だったね。一度下りて、調書にご協力いただけないか。終わったらすぐにホテルに送らせる』

「あのねギュンターさん」


 少女は全く座らず、ディノの肩に軽く手を触れているだけでバランスを取っている。体重あるのか。どんな体幹してるんだ。地面まで十メートルはあるのだが、落ちてもこの子ならなんなく着地しそうで怖い。


「それより先に、ジークスの残りを捕まえた方がいいよね? 俺、ジークスのアジトがわかると思う。ヘリの運転するとこの、画面? に、地図が浮かんでたんだよ。行き先に赤い光点が付いてた。俺、道に迷ったことないんだ。海の上でも方向見失ったことないし、さっき街の景色と地図よく見といて覚えたよ」


 ギュンターは一瞬黙った。

 イェルディアでエスメラルダの組織が活動するのは骨が折れる。警察のトップが腐敗しているし、いろんなところから横槍が入る。今回の作戦に漕ぎ着けるまでに、ギュンターがどんな苦労をしたか、ディノは知っている。今回のターゲットは猫目だけだったが、もちろんボスもついでに捕まえられたらそれに越したことはないのだ。

 

 ややしてギュンターは言った。

 

『ふうん、そうか。案内できるか?』


 ディノは快哉をあげるのをかろうじて堪えた。ラルフリアと呼ばれた少女が答える。


「うん、できる」

『よし、それじゃあ頼む。時間が勝負だからな。ディノ、先に行くなよ。逸るのはわかるが、一人で突っ込まないように』

「了解です!」


 【蝿】がだいぶ近づいていて、羽音が周囲に充満している。少女はディノの肩越しに指をさした。


「あっちだよ。海の方」

「おっけー」


 ディノは少女の言うとおりに箒を進めた。【蝿】から離れすぎないように気をつけた。道に迷ったことがないと自信満々に言うのも道理、彼女の案内は的確だった。海と言ってもイェルディア湾の方ではなく、もう少し南の、ナルデ川が流れ込んでいる広い渚がある方だ。高級ホテルなどが集まった風光明媚な観光地。ディノはちょっとぞくぞくした。あっちには、ギュンターがずっと睨んでいる高級ホテルがある。


「なあ、えっと、ラルフリア――」


 話しかけると彼女はまたディノの肩越しに身を乗り出してきた。座ってほしいのだが、ちっとも座らない。エスメラルダ全子供の憧れである、箒の後ろに立つという離れ業を難なくやってのけながら、まったく頑張っている様子がない。むかつく。


「ラルフでいーよ。あんたも、デュードじゃなくてディノって言うんだろ? 雑誌にチラッと載ってたね、最近保護局に加わったマヌエルが大活躍だって」


 どの雑誌だろう。顔写真載ってないだろうな、と思う。マヌエルの肖像権保護の法律はアナカルシスでも適用されるのだが、正直エスメラルダほど徹底されているとは言えない。


「えー、ラルフはさ、前にエスメラルダの【魔女ビル】に狩人が侵入した事件のとき――ほらマリアラちゃん、知り合いなんだよな? あの子が行方不明になったとき、ガストンさんから腕章渡されていただろ。ギュンターさんともその時知り合ったんだ? どうして腕章渡されることになったんだ?」


「ああ――あのね、その直前にさ、南大島に狩人が入り込んで魔物を放そうとした事件があったんだ」


「南大島で魔物が暴れた――あのあと? あ、あの嵐の時!?」


 あのとき、ディノは保護局からの要請を受けて、警備隊員たちの送迎をやった。しかしあの時はただ送迎に加われただけで、その先には絶対に入れてもらえなかったのだ。


「そうそう、あのとき。ガストンとおっさ……ええ、ベネットさん? がケガしたときね。俺はルクルスで、南大島の近くの島に住んでたんだ。俺の親父が、狩人から魔物を盗んでこいって言った。その時マリアラとフェルドが南大島に仕事しにきてて――ほら、えっと、毒の浄化とかで? その時知り合ったんだ。南大島の時と狩人乱入事件は根っこがつながってたからさ。つーか、ディノはマリアラも知ってんの? 今、イェルディアにいるよ」

「……そうなの!? フェルドも!?」

「そりゃそーでしょ。あ、あれじゃないかな、あのでかい建物――すっげ、何あれ、ホテルかな? ヘリが降りようとしてたのはあそこ」


 指さされてディノは色めきたった。

 ラルフが指さしたのはイェルディアでも最高級のホテルだ。木立に囲まれた海が見える大きなプールとテニスコート、ジムにサウナにダンスホール、カジノや有名な庭園などを内包しているゴージャスさで、国内外のVIPやセレブがこぞって泊まりに来る、ホテル・レヴァンテ・イェルディア。やった、当たりだ!


「ギュンターさん!! レヴァンテです!!」

『よし、ビンゴだ。急行する。――ディノ、案内ご苦労。お前はその子を連れて事務所に戻れ。調書を取ったら帰していい』


 うっ、とディノは思った。マジか。


「……俺は行けませんか」

『数週間も危ない橋を渡ってたんだ、これくらいは他の奴らに譲れ。このヤマは下手すると数日がかりになる。お前何日もろくに寝ていないだろう。今日入れて三日しかやれんが、休んで体調戻しておけ』

「……ハイ」


 その会話で、ラルフにも、自分たちが突入に加われないことがわかったらしい。びっくりしたように【蝿】の方を振り返った。


「なんで!?」

『ディノは激務が続いてたからな』

「そりゃディノはそうかもしれないけど、俺は動けるよ! 知ってるだろ!」

『知っているとも、【炎の闇】から南大島を守ったうちの一人じゃないか。あの時はガストンとベネットが世話になったよな。それに今回君のおかげでバルツ=グレーネとネリスを逮捕できた、とても感謝している。が、これ以上はダメだ。危険すぎる』


「あんときよりでかくなったし、守ってくれなくていいよ! 俺はそっちに乗せてくれれば――」


『違う。酷なことを言うようだが、君は子供で、知識も経験もない。この仕事は命がけだ。私の部下たちの命を、君に預けることができないんだ。危険すぎる』


 ラルフは息を呑んだ。

 黙ってしまったラルフとディノの前を【蝿】たちが通り過ぎていく。いいなぁ、とディノは思う。あのホテルはものすごく有名で、ずっと以前から、非合法のオークションが行われているという噂があったが、今まで手をこまねくしかなかったのだ。エスメラルダが関わっていないと、保護局は手も足も出せない。


 三台目の後ろで、ギュンターがマイクを手にしてこちらを見ていた。トレードマークのトレンチコートが風に翻っている。あれはイェルディアの、古くからある有名なブランドのものだ。かっこいいなぁとディノは思う。


「……信頼できないって、前にも言われたな」


 ややしてラルフはつぶやいた。


「確かにそうかも。ハイデンが俺に仕事任せてくれてたのは、俺のことよく知ってたからか……」


 ギュンターたちはどんどん小さくなっていくが、箒の柄から流れ出る音声はクリアなままだ。


『だがね、君がこの仕事に向いてるのは確かだ。君のその類まれなる能力を最大限に生かしたいなら、まず保護局に入れ。そうしたら絶対に呼ぶ。万難を排して君を俺の班に引っこ抜く。だが保護局に入る前はダメだ。今までに解決してきた事件の概要も、共通認識である様々な歴史も、連携の仕方も捜査のやり方も、警備隊が使う合図も符牒も、何も知らないうちには入れられないんだ。わかってくれ』


 その声を最後に、ブツっと音声が途切れた。マイクを切ったのだろう。

 下の通りを、ホテル・レヴァンテ・イェルディアに向かって、たくさんのパトカーが走っていく。【蝿】が小さくなっていくのを見送りながら、ラルフはつぶやいた。


「ひでえなあ……保護局なんて、入れるわけないじゃんか」

「ん? 入れるだろ」


 ディノは【蝿】から視線をもぎはなした。

 ずっと続いていた緊張が抜けて、いきなり疲労を感じた。確かに最近ずっとバルツ一味に入り込んで気を張り詰めていたし、昨日は徹夜――というかもはや四十八時間くらい、数分ずつの仮眠しかできていない。そろそろ限界が近い。ラルフの調書を取ってホテルに送って行ったらフェルドがいるのだろう。今日入れて三日も休めというのは、会いに行かせてやろうとしてくれているのかも。風呂くらい入ってから行きたいが、風呂に入ったら寝てしまう自信がある。


 どうするかと考えながら箒の柄を返して事務所の方に向かう。ラルフはずっと考えていたが、つぶやくように言った。


「でも、俺、ルクルスだよ」

「だからなに? エスメラルダの国民なんだろ? 身分証持ってないのか?」

「持っ……てる」

「そんなら入れるよ。学校行って勉強して、試験に受かればいいんだ。何しろこの俺様が保護局に入れてるんだから。お前ギュンターさんをなめんなよ? ギュンターさんが入れるって言ってんだから、入れるに決まってるだろ」


 去年――イェルディアに配属になってすぐ、ディノは保護局に入るための試験を受けた。いろんな研修のほとんどは、独り身のマヌエルとして、警備隊と連携してきた事実で免除してもらえたが、筆記試験はもちろん受けた。年齢制限まではあと二年あったが、絶対に受かると決めて、起きている間はほぼ暗記に費やした。食事の間はもちろんのこと、風呂にまで暗記帳を持ち込んだ。

 ミシェルは相棒がいるから保護局員にはなれないため、協力者として参加している。でもディノは違うのだ。あの死に物狂いの勉強のおかげで、今は保護局警備隊員として、給料ももらっている。


 よかったとディノは思う。エスメラルダにいた時だったら、ラルフにこんなにきっぱりと言ってやれなかった。

 でも今は言える。マヌエルだろうがルクルスだろうが、試験に合格すれば入れるのだと。


 ラルフが訊ねた。


「試験って……難しい?」

「まーな。でも、お前の場合は試験受けられるまであと何年かあるから、勉強すれば?」

「何歳から受けられんの?」

「十七だったかな」


 ラルフはうめいた。「あと五年……」


「どんな事情でここにいるのかは知らないけど、エスメラルダに戻らないなら、ここでエルドリッジに行けばいいだろ。バッジ取られたわけじゃないんだよな? それでエスメラルダの保護局入試対策カリキュラムを取ればいいんだ。俺も外部向け三ヶ月コースでお世話になったよ」


「そんなのあんの? ここアナカルシスだろ?」


「保護局ってのはべつにエスメラルダ人だけが入るわけじゃないんだ。アナカルシスの【魔女ビル】にはアナカルシスのスタッフが結構いる。普通は事務方なんだけど、ここには警備隊員もけっこういるぜ。人気の職業だからな。本国には行けないし、エスメラルダ人とは、待遇とかできる仕事とかが違うみたいなんだが――カリキュラムも人気でさ、成績上位者じゃないと受けられないらしいが、お前はエスメラルダ人なんだから、優遇措置を受けられるはずだ。で、勉強しながらさ、放課後とか休みの日は【魔女ビル】でバイトしたらいいよ。掃除とか資料整理とか、ファイリングとか新聞記事のスクラップとかだけどさ、研修対策にもなるし……ああ、十二じゃまだバイトさせらんねーのかな」


 十二かよ、とディノは思う。

 あと五年したら、どんなことになってしまうんだろう。ロープなしで壁を駆け上がっても不思議じゃない。


「……」


 ラルフは黙り込んでしまった。そのまま、事務所に着くまでしゃべらなかった。

 おかげでディノは箒の上でちょっとだけうとうとした。ああ、もう少ししたら風呂に入って自分の寝台で眠れる。何ヶ月ぶりだろうか。


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