五日目 非番 午後(10)
氷の壁を回って魔物が姿を見せた。その姿は既に幼女に戻っていた。あまりに可愛らしく、あまりに異様だった。マリアラと目が合い、酷薄な笑みを刻んだ愛らしいほっぺたが、ひきつった。
『そなたら――!』
その瞬間、寒気が襲い掛かってきた。フェルドが寒気を抑えるのをやめたのだ。代わりにフェルドの意志に応じ、凍り付いていた水の壁が決壊した。魔物は幼女の姿を取ったまま横ざまに水の波にさらわれ閉じ込められた。暴れもがく幼女は、次第にもとの、黒々とした恐ろしい魔物の姿に戻っていく。翼が広がる。触手がうねり、鉤爪が水を切り裂こうとするが、水は魔物にまとわりついて離れない。
マリアラは前に出る。
この騒動はそもそもマリアラの我が儘から始まったことだ。自分の手で、責任を取らなければ。
フェルドがこちらを見た。
「近づくのか。そうだよな。そうなんだけど、わかってるんだけど、……気を付けて」
「ありがとう」
マリアラは魔物を囚とらえ閉じ込めた水の塊に駆け寄った。
そびえるような水球の中で魔物が暴れまわっている。冷気を放出し自分の周囲を凍らせて何とか手がかりを作ろうとし、フェルドがそれをかろうじて溶かし続けている。マリアラは左手を水球の表面に当てた。
魔物が叫ぶ。
『左巻きが、血迷ったか! 取り込んでくれる、殺してくれる、殺して引き裂いてかみ砕いてくれる! そなたごときちっぽけな生き物に何ができる……!』
いつしか、礼拝堂の大扉が開いていて、続々と人が姿を見せていた。ダニエルが走ってくる。ララもいる、ジェイドも、大勢の保護局員たちも。それを視界の隅にとらえながら、マリアラは左手に魔力を込めた。目を閉じる。フェルドの意志がしみとおった水が、助けてくれるとわかっている。若草色の粒子が視界の中で踊った。
あの時と同じだ。
“見て”ないのに、景色が“視える”。
魔物が、痙攣した。
次いで――絶叫が上がった。
『な、な、な――なんじゃこれは! 何をした、何を、何をする……! あああああああァアアアアアア……!』
効果は凄まじかった。マリアラは目を開け、自分の目でそれを見た。魔物が悶え苦しんでいる。自らが起こした行動の結果を、見届けなければ。
さっきからずっと、逃げた魔物に対して彼女が言った言葉が気になっていた。
“その身に宿った〈毒〉がもったいない”
それなら、『その身に宿った〈毒〉』が奪われたらどうなるのか。少なくとも、さっきのような砲弾は撃てなくなるはず、そう思っただけだったのだけれど。改めて自分の引き起こした効果の絶大さを目の当たりにすると、戦慄せずにはいられなかった。
マリアラの意思に従って魔物から毒が抽出されるにつれ、魔物の体は白くなり、それに応じて魔物の苦悶は深まっていく。みるみるうちに動きが弱まり、体も縮んでいく。
死ぬのだろうかと、マリアラは思った。
――わたしは、さっきの魔物は助けたいと願ったくせに……この魔物を、殺そうとしているのだろうか。
最後までもがき続けていた触手が、水の中でくたりと力を失ったとき、魔物の体はマリアラと同じくらいの大きさにまで縮まり、その体は殆ど白くなっていた。自らの体長くらいある大きな翼を持った真っ白な虎に似た獣は、びっくりするほど美しかった。
水の中に排出された大量の毒はもやもやと水の中を漂っていたが、駆けつけたララと、他の右巻きたちによって取り出されていく。取り出された先から燃やされて無害に転じていく。
マリアラは左手を水から離した。
ダニエルがマリアラの隣に並んで、頭に手を載せた。大きな、温かな手のひらの感触にホッとした。入口から続々と人がやって来る。終わった。終わったのだ。何とかなった。少なくとも、最悪の事態にだけはならずにすんだ。
マリアラがホッと息をついた。――その時。
出し抜けに、水球が破裂した。
その場にいた全員の頭上に大量の水がぶちまけられた。魔物が隠していた最後の力を振り絞り、水球の支配を脱した。殆ど真っ白な魔物は空中で身をひねり、一瞬恨めしげな目でマリアラを見たが、そのまま、木のうろに向けて飛び降りた。
うろは、なんの音も立てず反応も起こさなかった。魔物は、さっきのマリアラのように、木のうろを素通りして消えた。
『覚えておれ……覚えて……おれ……』
かすかな怨嗟の声が聞こえたような気がしたが、空耳だったかも知れない。
*
ところ変わって、ここは十六階。東第三階段付近にある、休憩所である。
マリアラはフェルドと並んでソファに座っていた。目の前のソファに座っているのは、リスナ=ヘイトス事務官補佐室長。その隣には、清掃隊の、ディヘルム=シュテイナーが座っている。
ジェイドもいた。ソファには座らず、立ってこちらを見ている。ミシェルも――相変わらず爆発的な頭髪のままで――興味津々と言った風だ。ダニエルもララも、ダスティンまでいる。みんな、まるで見物客のように四人の様子を眺めている。
水族館の、魚にでもなった気分だ。
「――つまり話をまとめると」
ヘイトス室長は、さっきの魔物が放った冷気よりも冷たい口調で言った。
「あなた方はあの魔物がどこから来たのかさっぱりわからない。今日はフェルディナントがマリアラに、【魔女ビル】案内をする予定だったが、異臭騒ぎで遅くなるので初めの方を通りかかったミシェルに頼み、ラーメン屋で交替した。その後子供部屋に行き子供と遊び、お城で一休みしているときに、昔見つけた抜け穴が残っているのを知り“どうしても見せてやりたくなり”“箒を回収すると子供たちが可哀想だからそのままにして”抜け穴から降りた。降りてみたらそこはマリアラのような歴史学の徒には夢のような空間だったため、ラセミスタに案内を頼み、マリアラが気が済むまで探検することにした」
ヘイトス室長が、マリアラとフェルドに行った事情聴取の結果を淡々と続ける。改めてこう聞くと、なかなかちゃんとした言い訳になっている――ヘイトス室長が強調した箇所を除いたら。
「その途中で魔物に襲われ、大量の水を求めて“礼拝堂”へ行きそこで迎え撃った。【毒の世界】への入口を開き魔物を追い出そうとしたがうまく行かず、自らが考案した浄化の方法で魔物を無力化――くっ」
喉が鳴った。マリアラは目を見張った。
――笑った?
しかしヘイトス室長の表情にその兆候はない。相変わらず凍り付いたような冷たい眼差しと態度で、室長は続けた。
「……以上があなた方の主張となりますが、異議はありませんか?」
「ありません」
フェルドが答え、マリアラも頷く。「ありません」
「魔物が【毒の世界】に消えたのを複数人が目撃した以上、【魔女ビル】管理側としては警戒態勢を解くことに異存はありません。清掃隊【魔女ビル】担当班シュテイナー班長、清掃隊の見解をお聞かせください」
ずっと無言だったシュテイナー班長は頷いて簡潔に言った。
「こちらもありません」
「わかりました」
ヘイトス室長はこちらを見た。眼鏡の奥で、鋭い眼光が光った。
「【魔女ビル】の旧通路は立ち入り禁止となっています。ただでさえ多忙で重責の寮母に、担当子の探検を事前に察知し阻止することまでを負わせることはできませんから、子供が排気ダクトに紛れ込んでも不問に処すのが慣例です。が、未成年とは言え十代も後半という分別を弁えて然るべき年頃でありながら」言いながらヘイトス室長は軽蔑するようにフンと鼻を鳴らした。「排気ダクトをごそごそ這い回るようなネズミじみた振る舞いをした者にはしかるべきペナルティを与えるべきだと個人的には思います。が、その途中で潜んでいた魔物を見つけ他にさしたる被害を与えず【毒の世界】へ放逐した手柄を鑑みますと、愚かな振る舞いにも何らかの意味があったということになるのでしょう」
ヘイトス室長の話し方は回りくどくおまけに刺すように冷たく、何を言っているのかよくわからない。一瞬理解が遅れたマリアラに、ヘイトス室長はまたフンと鼻を鳴らして立ち上がった。
「――ケガもなく何よりでしたね。お疲れ様でした。この件でこれ以上、お二人を煩わせることはないとお約束しましょう。事後処理はお任せください。帰っていいですよ」
「あ、……ありがとうございます」
ヘイトス室長が歩き出し、動向を見守っていた皆がさっと道をあけた。ふたりは歩いて行く。が、階段の手前で振り返り、ヘイトス室長は最後に爆弾を投げた。
「ダニエル=ラクエル・マヌエル。〈アスタ〉の配置に異議を申し立てるなら今日の午後五時が最後の機会ですよ」
「聞いてます。異存はないので、大丈夫です」ダニエルが頷く。
「そう。――本当にいいんですね?」
後悔しても知りませんよ――まるで捨て台詞のような言葉を残して、ヘイトス室長は氷の城に君臨する女王のように、シュテイナー班長は女王に付き従う騎士のように、その場から颯爽と退場した。
そうか、と、マリアラは思った。〈アスタ〉の配置――つまりマリアラの相棒を誰にするか、〈アスタ〉の中ではもう決まっているのだ。ダニエルももうそれを知っていて、異存はない。――ということは。
どうしよう。今さら逃げ出したくなってきた。