来訪者
楽しい時間はあっという間に過ぎ、もう夕暮れだ。
大きなショッピングセンターで、たくさん買い物をした。ガルシアへ行く途中に通る広大な荒野は吹き荒ぶ風が厄介なのだそうで、デクターから言われていた風除けになるしっかりした上着と防風ブーツ、帽子、寝袋もすべて、揃えることができた。
プレゼントも山ほど買った。ミシェルとディノにはフェルドが選び、シャルロッテとリンにはマリアラが選んだ。ミランダにもトールにも、もちろんラセミスタにもと、いろいろなお店に立ち寄っていたら、予想より少し遅くなってしまった。
今日は別に帰ってこなくてもいい、とデクターに言われたが、子供たちにもたくさんお土産を買ったし、荷物の整理もしたいから、一度ホテルに戻ることにした。ミシェルに会いに再び出かけるとしても、デクターに予定を伝えておいた方が良いだろう。
しかし帰ってみるとケティが泣いていて、マリアラはびっくりした。
「どうしたの?」
「お姉ちゃん、ラルフが、……ラルフが……!」
ケティが泣きじゃくり、ルッツが沈鬱な顔でメモを見せてくれた。デクターはソファに座っていたが、難しい顔をして腕組みをしている。
『三日だけ時間が欲しい。絶対帰ってくるから、放っておいてください』
ラルフはまだ文字が上手くない。でも、必死さがにじみ出るような文字だった。マリアラは後悔した。浮かれて買い物を満喫している場合ではなかったのに。
「ラルフ、具合が悪いのに……探しに……」
「やめたほうがいいよ」
フェルドがそう言った。
それはどうやら、ルッツとケティ、デクターの間で、さんざん話し合われていたことだったらしい。ケティは涙に濡れた目でフェルドをまじまじと見て、デクターがうなずいた。
「今それを言っていたんだ。俺もやめたほうがいいと思う」
「でも、ラルフ、普段ならともかく、今は歩けないくらいなのに。もう暗いし……」
「いやあのね、マリアラもケティも、一番よくわかってるんだよね。ラルフの体はどこも悪くないんだって」
「これはラルフの字で間違いないんだよな」
とフェルドが言い、ルッツがうなずいた。
「そんなら、自分の意志でさ、中から鍵を開けて出て行ったんだろ。三日欲しいって言うんだから、三日あげたほうがいいと俺は思うよ。心配は心配だけど、ラルフが本気で隠れたら、箒のない俺たちに見つけられるわけがないし」
「そ、う……だけど……」
「ルッツもケティも、ほんとに偉かったね」とデクターが言った。「むしろ二人がラルフを捜しに外に出る方が危険だったと思うよ。よく出なかった。ほんとに偉かったよ」
ルッツは口をへの字に曲げて頷いた。ケティが泣きはらした目を逸らした。きっとひと悶着があったのだとマリアラは考えた。ケティを引き留めるのに、ルッツは大変な苦労をしたのかもしれない。
「……あなたたちが無事でよかった。二人で心細かっただろうに、よく頑張ったね」
マリアラは心を落ち着けて、なるべく穏やかな口調でそう言った。
ラルフが心配でたまらなかったが、確かに――確かに、やみくもに捜し回ったって、見つかるとは思えなかった。ラルフが自分で、三日欲しいと書きおいて行ったのなら、それを尊重するしかどうしようもない。あの子は普通の子供じゃない。嵐の中に小舟で漕ぎ出し、モーガン先生の文献リストをたった一人で取りに来るような子なのだ。
――相手をな。尊重するということじゃ。
――察するのをやめ、先回りをするのをやめ、あちらの準備が整って、自分で立つのを信じてお待ち。
ああ、リエルダの教えは、なんと難しいものだったのだろう。もしラルフが何かの事件に巻き込まれていたらと思うといても立ってもいられない気持ちになるが、もし今捜しに行って、首尾よくラルフを見つけたとしたら、彼女は二度と、マリアラを許さないだろうという気がする。三日くれ、という願いさえ尊重してもらえないのかと、諦められてしまう気がする。つまりここでジリジリしながら待つしかないということなのだ。なんてつらいことなんだろう。
「じゃあさ、今から客を呼んでもいいかな」
フェルドがそう言い、デクターが顔を上げた。
「客?」
「うん、今日、ばったり会ったんだ。ミシェル=イリエル・マヌエル。こないだ【魔女ビル】でマリアラを助けてくれたのはヘイトスさんとララだけじゃなくて、イリエルが二人いるって話したろ。そのうちの、右巻きの方。魔物を火炎放射器で撃退した奴だよ。なんでか今イェルディアにいるんだって。さっきはすっげ急いでたみたいでほとんど話せなかったんだけど、夜なら体が空くって言うから。出かけようかと思っていたけど、ここに呼んでもいいよな?」
「いいに決まってるよ」デクターはそう言って立ち上がった。「それならルームサービスより屋台飯のほうがいいよな。買ってくる。一人で来るのかな」
「いや、会わせたい人がいるって言ってた。それがディノだったらさ、イェルディアの警察にも顔が利きそうだし、ラルフのことも聞けるかもしれない」
「わかった。すぐ戻るよ」
そう言ってデクターは上着をつかみ、さっさと出て行った。フェルドは上着と荷物を置きに行き、マリアラは上着を脱いで、ケティの隣に座った。彼女をぎゅっと抱きしめる。すすり泣くケティの体はとても細くて、震えていた。ラルフが出て行ったと知ってから、何時間くらい二人で耐えたのだろう。本当に可哀想なことをしてしまった。
「――ケティ、ラルフは大丈夫だよ。きっと大丈夫。荒波の中を一人で船を出せる子だもん。わたしよりずっと危険に対処できる子だもん、きっと無事でいるよ。今頃、海を見てるんじゃないかな」
「海……?」
「ずっと見てなかったでしょ、だから海風に吹かれたくなったのかも。イェルディア湾の夜景はすごいっていうから、見に行ってるのかも。あの子は魚も釣れるんだし、きっと元気になって帰ってくるよ。大丈夫だよ。大丈夫……」
ルッツも吸い寄せられるように寄ってきた。マリアラは右手を伸ばして、ルッツを呼んだ。ルッツはマリアラの隣には座らなかったが、マリアラの右手が届くところにうずくまるようにしゃがみ込んだ。
「ルッツも怖かったでしょ。よく頑張ったねえ」
そういうとルッツは、ぎゅっと顔をしかめた。
「――うん。だってちょっと目を離したらケティが駆けだそうとするんだ。ほんとに大変だったよ」
ケティが唸った。
「だってさ、だって……すぐ追いかけたら捕まえられたかもしれなかったのに……」
「あいつが本気で逃げたら、俺たちなんかに捕まえられるわけないじゃん」
「そ、だけど……そもそも、なんで……なんでラルフに逃げらんなきゃなんないのかわかんない……!」
マリアラは左手でケティをギュッとして、右手を伸ばしてルッツの頭を撫でた。ルッツは嫌がらずに、なんだか猫みたいに目を細めた。
ややしてフェルドが戻ってきて、リビングに備え付けの電話に向かった。ミシェルに連絡をするのだろう。その後ろ姿を見ながら、ケティが言った。
「お姉ちゃんはさ」
「んー?」
「エスメラルダにいたとして、相棒のお兄ちゃんが一人でこっそり賭場に行ってるって知ったら、追いかけて行ったでしょ?」
「ん、……んー!?」
マリアラはうめいた。確かに。
確かにケティの今の状況は、それと同じことかもしれない。
実際にはエスメラルダにいなかったマリアラにさえ、あの噂が聞こえてきた。フェルドは変わってしまった。賭場に通うようになってしまった。仕事もなるべく避けようとする。口止め料を山ほどふんだくった。まるですっかり人が変わってしまったみたいだと。
あの時、もしマリアラがエスメラルダにいて、フェルドの相棒だったとして。賭場に通うようになった、仕事をサボるようになったと気づいた時、自分はどうしただろう。
「んー……追いかけた、ねえ……」
「追いかけるんだ」
ルッツが言い、マリアラは苦笑した。
「尊重するのって、難しいね。わたし、訓練しないといけないって言われたの、ほんとに、確かにそう。どうしても行かなきゃいけないなら、せめて連れてってって、頼んじゃったと思う。でもそれは、……わたしが、フェルドの問題に、口を出すということになるのかな。難しいなあ……」
ケティがマリアラを見上げた。
「お姉ちゃんも、難しい?」
「難しい。今までもずっとそう。すごく悩んで苦しんで、悩んで選んだ道は間違ってて、落ち込んで悔やんで振り返って」
「そうなの?」
「そうだよ」
「お姉ちゃんも?」
「そうだよ。わたし、ずっと、そんなことばっかりだよ」
「そこにいたらいいよって、ラルフは言ったよ」
ルッツがそう言った。ケティが訊ねる。
「そこに?」
「うん、俺はね、ラルフのお荷物だったんだ。魚獲るの下手すぎて、いっつもラルフがわけてくれてた。あいつ、ハイデンにいろんな仕事任されるじゃん。なのに俺なんか、ラルフに言うこと聞かせるための餌にされたりしてさあ。マリアラに初めて会ったのだってそうだったよ。俺があいつのための人質にされた挙句に熱出してた、だからラルフがマリアラを呼んだんだもんね」
「そうだ、ルッツ、魔物の毒でひどい目にあっていたよね」
懐かしい。あの時は、まだフェルドと相棒になる前だった。
「俺としても自分が情けなくてさ、ラルフに謝ったことがあるんだ。そしたらラルフが言ったんだ。そこにいるだけでいいよって。俺がいるとラルフは、魚を分けたり手加減したり、俺の体重分、船の傾きを計算したりさ、手間がかかるじゃんか。それが嫌になったら言うから、今は嫌じゃないから、そのままでいいよって。別にめんどくさくないし、計算とかアルファベットとか教えてくれるし、ルッツはそこで話したり笑ったりしてればいいよ、嫌じゃないよって」
「そっか」
「……ついに、嫌になったのかな」
ぽろんとルッツの目から涙が落ちて、マリアラは、胸がぎゅっと痛むのを感じた。
右腕を伸ばして、ルッツの頭を抱いた。ルッツは床に座ったまま、マリアラとケティが座るソファにもたれた。ルッツのソファにかけた手が、震えている。
マリアラは言った。
「嫌なわけないよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。きっと今回のことは、ケティもルッツも関係なくて、ラルフだけの問題なんだよ。フェルドは、孵化みたいなものだって言ったよ。わたしも、そうだと思う。ラルフは大人になろうとしてるのかも。誰も自分を知らない場所で、誰からも心配されたり世話を焼かれたりしないで、自分のためだけの時間を、過ごしに行ったんじゃないかなぁ。ここで待っていたら、きっと帰ってくるよ。待っていようよ、で、帰ってきたら、お帰りって言えばいいよ」
「そうかなぁ」
ルッツはつぶやき、顔をぐいっとこすった。
デクターが帰ってきた。彼が買ってきたものはまたしても膨大で、広々としたダイニングテーブルの上に所狭しと積み上げられた。
イェルディアもウルクディアに劣らず、長い歴史と文化を有する都市だ。イェルディア湾というとても有名な港があるから、魚介を使った料理が豊富だった。いい匂いをさせているのは、揚げた魚をタレにつけて、ご飯の上に乗せたもののようだ。イカ焼きや焼き蛤は、すごく太っていて大きくて、とても美味しそうだ。ニンニクとバターで炒めたエビが芳香を放っている。アスパラガスとベーコンを炒めてチーズを絡めたのと、きくらげの入った海鮮焼きそばと握りこぶし大の肉団子、串焼き各種と野菜のピクルス、アルテナ印の肉饅頭。このほかにマリアラたちが買ってきたお団子とどら焼きと、リンゴジュースとオレンジジュースとお茶とミネラルウォーターのボトルが並ぶと、テーブルの上にはほぼ隙間がない。
今日もすごい量だ。
リエルダは、『あの男と共におる限りあなた方が飢えることは絶対にない』と言ったが、確かにそうだ。あの島で作った弁当は消費されるどころか、日々残った料理がどんどん追加されている。イェルディアを離れるときに、ルッツたちの非常食として置いていく予定だ(ラルフとケティが学校に行かないなら、ルッツのために元の大きさに戻してくれる人を探さなければならない)。
隙間に何とか紙皿とコップを並べ、おしぼりを準備する。気を取り直したケティとルッツも手伝ってくれて、お客様を迎える準備はすっかり整った。マリアラはだいぶ気分が浮上するのを感じる。まさかこの街でミシェルに会えるとは思わなかった。ケティはミシェルと面識があるだろうか――そう思っていたとき、呼び鈴が鳴った。
じりりん、じりりん。
「きた……!」
音こそレトロだが、ホテルのセキュリティは最新式で、モニターにパッと人の顔が映った。モニターを覗き込んだフェルドの陰から見えるのは、間違いなくミシェルだった。その後ろにいる人までくっきり映っている。フェルドが「えっ」と声をあげ、マリアラは思わず玄関に飛びついた。
ノブを押し下げる寸前にフェルドが操作してくれた鍵が開き、扉を開けてマリアラは叫んだ。
「シャルロッテ!!」




