正義の側
――まずはおめでとうございます。表彰式では堂々としていましたが、やはり緊張しましたか?
アリエノールさん:「もう、心臓が喉から飛び出そうでした」
――ほんとですか?すごく堂々としてましたよ。
アリエノールさん:「だって先輩方に迷惑になっちゃいけないから、もう必死で。とにかく背筋を伸ばさないとって思って、それ以外なんにも覚えてないくらいです。」
何度も読みすぎて、文章をすべて覚えてしまった。ラルフはとてもカラフルなそのページを眺めた。リン=アリエノールはあまり写真写りが良くないのだと、今回初めてラルフは知った。実物はもっと元気で綺麗なのに、写真の中で、彼女はひどく窮屈そうに見える。
こんなにでかでかと載ってしまって大丈夫なのだろうか。少し心配になる。リンみたいな仕事の人間にとって、あまり顔が売れるのは、弊害が大きいような気がするけれど。
――リン。俺どうすればいい?
そう聞きたい気がした。リンはルッツに、『お天道さまに顔向けできないようなことはしない方が、結局はお得なのよ』と言ったらしい。アイリスが刺される直前のことだ。あのときリックたちがルッツを殴った。よってたかって、暴行を加えたのだ。リンがネイロンを呼んだから暴力はそこで止まったが、リックはそろそろ歯止めがかからなくなってきていたから、リンが止めなかったらルッツはどうなっていたかわからない。
あの島で、ルッツの命はとても軽かった。ルッツもそれを知っていたから、なるべくリックたちの挑発には乗らないようにしていたのに、あの時だけは無理だった。リックがラルフを侮辱したからだ。バカだなぁとラルフは思う。なんであいつは、無駄な男気に溢れているのだ。弱いくせに。自分への侮辱は、いつも笑って受け流せるくせに。どうしてラルフへの侮蔑は見過ごせないのだ。命の方が大事だろ。
あの島で、読み書きや算数という、ルッツの得意なものの価値はとても低かった。アイリスが来て診療院の手伝いをするようになってから、やっとルッツの存在が認められるようになったのだ。それまで島の者たちにとって、ルッツは『ラルフのおまけ』でしかなかった。リックが殴り殺しても、海に捨てればそれで話は済んでいた可能性が高い。リケロは特にルッツを軽視していた。たぶん、ルッツがあまりに賢いから警戒していたのだろうと今は思う。
でもリックは報いを受けた。子供たちの『王』の地位から引きずり下ろされた。
――リンは正しかったんだな。
あの島を出てメディアに到着するまでの数時間の船旅は、リックにとって地獄そのものだっただろう。何しろリックは、言い分を聞いてもらうことはおろか、船に乗せてすらもらえなかった。水球から頭だけを出したあの無様な格好で、海の中をすべるように連れてこられたのだ。あれはまさしく『連行』と呼べるものだった。リケロの懇願にも耳を貸さず、リックの哀願も聞こえないふりをして、あの時のデクターは本当に非情に見えた。あんな一面を隠し持っていただなんて、今まで知らなかった。
――リンだったらどうしただろうか。
リンがデクターの立場で、同じような力を持っていたら。デクターのように、リックを引きずってきただろうか。フェルドだったらどうだろう。やはりリックを氷詰めにでもして、無理やり連れてきたのだろうか。
今回恐ろしい一面を見せたのはデクターだけではない。メディアの港で待っていたシェロムも恐ろしかった。屈強な男たちを従え、普段の柔和さが嘘のような迫力を湛えていた。ジークスの賭場にいた悪者たちよりもずっとずっと迫力があって、ケティは震えあがっていた。
『ようお前がリックか』シェロムはリックを見下ろしてニタリと笑った。『よく来たな。お前みたいなのは今までは全部狩人に取られちまっていたからなあ――久しぶりで腕が鳴るぜ』
マリアラとフェルドを迎えに行くためにデクターがいなくなり、水球の支配から脱するとすぐに、リックは暴れた。ルッツを人質にでもすれば自分の境遇が変わるとでも思ったのだろうか、本当に馬鹿なやつだった。あっという間に取り押さえられて――駅員たちが取り囲んでリックに何をしたのかは、ラルフのところからは見えなかった。ただ喚き声が聞こえなくなり、『それじゃあな、先にリファスに行ってるぜ』と言って彼らは先にリックを連れて行ったのだ。
それ以降、ラルフはリックを見ていない。マリアラたちと合流して鉄道に乗り、リファスで数日滞在した時も、リックの影すら見かけなかった。消息も聞きたいとは思えなかった。
――最後には、絶対正義が勝つんだから。
リンがルッツに言ったという言葉が、ラルフの耳の中でわんわんする。
リンは正しかった。そう、最後にはきっと正義が勝つのだろう。――でも。
ラルフには、自分が『正義』の側にいるという実感がない。いつ何を間違えて、デクターやシェロムから、あの恐ろしい一面を向けられるかわからない。リックとラルフの違いはなんだろう。お天道様に顔向けできないことさえしなければ大丈夫なのだろうか。今の自分は、『お天道様』に顔向けができるのだろうか。
差し入れのことはいったん忘れていいとデクターは言った。ガストンの手配はしばらくの間は問題なく届きそうだから、差し入れは最悪届かなくても問題なくなった。すでに準備されている次の差し入れ物資については、ディーンさんがアナカルシス中の拠点に連絡をして、輸送費を支払い、エスメラルダの【駅】まで配送するよう依頼したそうだ。
もっと早くシステム化しておくべきだったよ。
デクターはそう言った。
だからラルフはもう、どうしていいかわからないのだ。差し入れの仕事をしない、なのにラルフは今、ここにいる。島に戻らなくていいという言葉に甘えて、何の理由も権利もないのに、こんな立派なホテルに部屋をもらっている。マリアラとフェルドはラルフとケティとルッツにとても親切で、ルッツが寮に入って勉強するなら、いろんな寝具や文具や防寒具など、必要なものを一緒に買いに行こうと提案する始末だ。ラルフも学校に行きたければ行っていいとデクターはいう。もちろんケティもいいのだと。なんで。そんな幸運を、なぜラルフは与えられて、島の大勢の子供たちは、与えられないのだろう。
自分とリックの、そして島の子供たちの違いは、いったいどこにあるのだろう。
ハイデンもデクターもいなくなったら、ラルフに『お天道様への顔の向け方』を教えてくれる人はいない。それが怖い。怖くて怖くて、たまらない。
*
マリアラが着ていたのはギンガムチェックのコートとふわふわのマフラー、ボアのついたショートブーツで、彼女にとてもよく似合っていた。
ケティは窓から、フェルドがマリアラに左手を差し出すのを見ていた。二人は自然に手をつないで歩き出した。いいなぁ、と思う。マリアラをみるフェルドの視線があまりにも優しいので、もう、ちょっと笑えてくるくらいだ。胸はまだ痛いけれど、あまりに思い知らされすぎて、痛むことすらおこがましいと思えてくる。ミーシャもフェルドがマリアラと一緒にいるところを実際に一度でも見たことがあったら、あんなことしようとも思わなかっただろう。
フェルドとマリアラは、これから誰かと合流して、ガルシアを目指す。デクターも一緒だ。
ルッツは学校に入る。ラルフはどうするのだろう。ケティは責任を感じている。ケティはラルフをあの島に帰したくない、だから、差し入れをしなくていいと言われたことは歓迎だ。でも、ラルフはそれが少しショックだったみたいだ。
島に帰らないで世界一周でもしようと言ったとき、ラルフは確かに、嫌がっていなかった。むしろ、そんな道があったのかと驚いたような、感じだった。少なくともあの島で、女なんだからと言われながら、言いがかりをつけられながら、リックみたいな乱暴者と付き合い続けるよりはずっと
いい道だ――と、ケティは思う。
でも、実際そうなりそうなのに、ラルフの具合は良くならない。
ケティは小さくなっていくフェルドとマリアラの後ろ姿を見るのをやめて、リビングを振り返った。
ルッツは入学手続きの書類を書いている。丁寧に書こうとしているから時間がかかっている。ラルフの部屋は扉が閉まっている。デクターは出かけるつもりなのか、上着を手にしたところだ。ケティは声をかけた。
「あの、……デクターさん」
「ん?」
デクターは振り返った。この人はイリエルなのだ、とケティは思った。リックをやすやすと排除した。狩人と聞いていたけれど、イリエルだったなんて。
「あのね。この街で人の治療をしてお金を稼ぐには、どうしたらいいですか?」
「ん?」
デクターは目を見開いた。
「なんで?」
「あの……ラルフが元気になるまで、ホテルを借りておいてもらうわけにはいかないでしょ。どこかの部屋を借りるための二人分の生活費を稼ぐには、人を治すのがいいと思うの」
「うん、やめとけ」
デクターはあっさりそう言って、ソファに座った。
出かけるのを延期して、話をしてくれるつもりらしい。ケティはカウチに座った。デクターの右斜め前。
「あたし、それしかできないし――」
「いや、それだけできれば十分なんだけど……なんの後ろ盾もなくそんなこと始めない方がいいよ。あっという間に攫われて、またオークションにでもかけられるのが目に見えてる。この街で人の治療をしたいなら、【魔女ビル】に登録した方がいいよ」
「でも、そういうわけにはいかないでしょう? あたし、箒もコインもないし……」
「あのさ。俺としては、君たちは三人とも学校に行くと思っていたんだ。行くつもりがなかったの?」
「だって、学費がかかるでしょ? ルッツは島のためのお医者さんになるんだからわかるけれど、あたしは――」
「あのね。ヘイトスからきた身分証、ちゃんとエスメラルダ国籍になってたろ?」
ケティは頷いた。リファスの駅に、ウルクディアの【魔女ビル】からの手紙が届いていて、中にはケティ、ラルフ、ルッツの分の身分証が入っていた。名前こそ少し変えてあったが、顔写真入りの正式なものだ。デクターはケティの理解度を計るように、慎重に言った。
「ということは、エスメラルダから学費が出るんだよ。もしかして誤解されてるかもしれないけど、ルッツにも身分証が出てるから、ルッツの学費も俺が出すわけじゃなくなったんだ。ちょっと前までそのつもりだったけど――」
「そうなの?」
「そうだよ。エスメラルダの国籍があれば、どの国の――エスメラルダと国交があればだけど、どの学校に行っても学費はエスメラルダから出る。そういうシステムだ。寮費も出るし生活費も出る。贅沢はできないと思うけど」
「……すごいんですね」
「手厚い国だね。それに、ガストンは行き届いた人間だ。今、レジナルド側が混乱してるから、今のうちにいろいろと手を打っている。今回ルッツとラルフをイェルディアの学校に入れるのもその一環だ。ルクルスの子供も身分証さえあれば学校に通える、その道筋をつけようとしてる。今後、あの島の子供たちからも、アナカルシスの学校に通う子が出てくるはずだ。いきなり本土の学校に通うよりは混乱が少ないだろうからね。
だからラルフさえ望めば、ラルフも学校に行っていいんだ。ケティ、だから、ここで金を稼ごうなんて考えなくていい」
「あたし、ラルフを世界一周に誘ったの。だから責任があるの、もしラルフが学校に行きたくなければ……」
「まあ、行きたくなければそれもいいかもね。でもほんと、この街はあんまり治安が良くないし、もっと治安が良かったとしても、レイエルが何の後ろ盾もなしにその辺の道端で治療を始めたりしたら三日もたたずに拐われるから、ほんとやめてほしい。それくらいなら一緒にガルシアに来て欲しい。というか十二歳の子供をさ、全寮制の学校に入れるつもりがなけりゃ、この街に二人だけで置いてくわけないだろ」
冗談ではないらしく、デクターは真面目だった。ガルシアに一緒に行く――と聞いてケティは、それも楽しそうだ、と思った。そして正直、ホッとした。三日もたたずに拐われるとまでいわれて、ラルフも具合が悪いのに、それでも自分たちだけで道を切り拓いて行けると思うほどには、ケティは大胆ではなかった。
「それでもいいの?」
「もちろん。ラルフの体調もあるから、あんまり長旅は心配だけどね。旅をするうちに気分も変わるかもしれないし、あっちで、ガルシアの学校に通うのもいい。……あんまり勧めないけどね。ガルシアは外国人を受け入れ始めて日が浅いから、イェルディアの学校よりだいぶ苦労するだろうし、ラルフは言葉も通じないしな……でも、ほんとに、二人だけで世界一周もいいけど、もう少し大きくなるまで待つべきじゃないか。いや……いくらラルフがついてても、二十歳、三十歳を過ぎて、充分大人になってからも、レイエルが一人で道端で治療なんてダメだよ。うわあ、めっちゃ怖い……怖すぎる……」
重ねて言われると、そんなに大変なことなのか、という気がしてきた。ケティは眉根を寄せて頷いた。孵化したらお金を稼ぐなんて簡単だと思っていたのに、実のところそうでもなかったらしい。




