出立
*
「――っと無理じゃないですかねえ。この子がこんなに弱るなんて……」
ソフィアの声で、ラルフは目を覚ました。いつの間にか眠っていたらしい。
「いや、連れて行くよ。俺がおぶって行く」
そう言ったのはデクターの声だ。ラルフは耳をそばだたせた。存外近くにいるらしい。
「船は誰が操るんです?」
「ルッツに頼むよ」
「え、ルッツも連れて行くんですか?」
「うん。本人にはもう話した。十六歳にはだいぶ早いけど、勉強始めるのは早いほうがいいと思うんだ。それに俺はこれから遠くに行くから、次にいつ来られるかわからない。この機を逃したくない」
「……淋しくなるわねえ」
ソフィアの声が湿り、デクターの声が笑った。
「淋しがっている暇はないよ。診療院の手伝いをしてくれるんだろ? これからどんどん忙しくなる。……ラルフ、起きられるか? 船の準備ができた。そろそろ行くよ」
「……マリアラたちんとこ?」
毛布から顔を出すと、デクターがそこにいた。外套を羽織って、すっかり出かける支度をしていた。ラルフはもぞもぞして毛布を外そうとして、襲ってきためまいと吐き気に呻いた。昨日話していた時には一度すっかり消えたはずだったのに、いったい俺の体はどうしてしまったんだろう。
「大丈夫ですかねえ、こんなに弱ってるのに旅だなんて」とソフィアが気を揉んでいる。
「ケティが一緒なんだし、大丈夫だよ」
デクターは淡々と言った。ラルフの体調不良を心配がるでも不思議がるでもないその様子が、ありがたい。
「ええ、私も、ラルフは外に出たほうがいいと思いますよ」
奥からアイリスの声が言った。話し声がこちらに近づいてくる。
「私の診たてでは、ストレスによる自律神経の不調です。ストレス源からは距離をおくのが一番。朝日を浴びさせて、なるべく規則正しい生活をさせてください。よく眠ってよく食べて、心配しないで楽しく過ごすうちによくなりますよ。成長期の子にはよくある症状なんです」
ラルフの視界に、アイリスが入ってきた。彼女は今日も白衣姿で、話しながら壁際の棚のところへ行った。ごそごそと棚を探して、すぐに目的のものを見つけ出す。
「ガストンさんからの支援物資の中に車椅子も入っていたんです。船に乗るまで、使ったらどうです?」
「それはありがたい。借りるよ」
あっという間に車椅子が整えられ、ソフィアによって防寒着に包まれたラルフはそれに乗せられた。デクターが車椅子を押してくれる。このまま船に向かうのだろうか。ルッツを見送るためにか、アイリスもソフィアも一緒にくるようだ。
車椅子に乗るのは久しぶりだった。今はどこも悪くないはずなのに、あの時よりももっと酷い。あの時は自分の手を使って車椅子を自在に操れたのに、今はがたがた揺れる車椅子の上で吐き気に耐えるしかない。本土と違ってこの島はほとんど舗装されていないから、車椅子が小刻みに飛び跳ねて、体がずり落ちてしまいそうだ。
体を支えつつ吐き気に耐えているラルフの後ろで、アイリスがデクターに言った。
「【風の骨】。ルッツを頼みます。あの子は本当に賢い。飲み込みが早いし、医師の仕事に興味津々だ。心根が優しいし、すごくいい医師になる」
「わかってるよ」
「あの、学費を私にも出させてもらえませんか。少しだけど、医師だった時の貯金があるから」
「いや――さっきも言ったけど、俺はこれから遠くに行くんだ。何年か留守にするかもしれない。だから今できるのは、あの子の環境を整えるところまでなんだよ。あんたの手助けは、その先に取っておいたほうがいいんじゃないか。将来何があるかわからないんだから」
「……そうですね。行き先は、アナカルディアですか?」
「いや、イェルディア。全寮制のいい学校がある」
「遠くないですか? どうしてアナカルディアじゃダメなの」
「アナカルディアだとリファスが近すぎる」
二人が話すのをぼんやり聞いているうちに、広場に差し掛かっていた。
ルッツもケティもそこにいた。二人はそこに集まった子供たちと朝ごはんを食べ終えたところだったようだ。車椅子に乗ったラルフを認めるや、二人はぱっとこちらに駆け寄ってきた。ルッツの顔は紅潮していた。普段から丸いほっぺたが、喜びでぱんぱんにはち切れそうだった。一緒に行くと言うのは本当らしい。小さな鞄が用意されている。
「ラルフ、俺、一緒に連れてってもらえるって。アナカルシスで、学校に行かせてもらえるって」
「学校……?」
「学校っていうのは、子供が勉強をするところだよ」とケティが言った。「文字を読んだり書いたり、計算を覚えたりするの。お医者さんになるための知識を教えてもらえる」
【風の骨】らしくない、と、ラルフは思った。
今まで【風の骨】は、どんなにせがまれても、誰かを連れて行くことなどなかった。差し入れを届けるだけで、島の中のことにはほとんど関わらないようにしていた。ラルフに差し入れを譲ってくれたのも驚きだった。一人だけ贔屓するようなことなど、それまで一度もなかったから。
なのに、ラルフだけでなくルッツも連れて行くという。まだ十二歳にすぎないルッツを、ここまで優遇するなんて、今までの【風の骨】だったら絶対にしなかったことだ。なんだか少し、不安を感じた。どうしてかは、わからなかったけれど。
「よかったな」
ラルフが言うと、ルッツは泣き出しそうな顔をした。
「……うん!」
「ルッツ、いいなー!」
「ばっかお前、ルッツは診療院の手伝いとかしてるだろ、だからだよ」
「イェルディアってどんなとこ?」
子供たちがわいわい話し出した。ルッツが手に入れたとびきりの幸運を、みんなおおむね喜んでいる様子だった。ルッツはどん臭くて魚を獲るのも下手だが、リックに阿らず、またとても賢いので、子供たちからは一目置かれている。
いや、冷ややかな目を向けている子供たちもいる。もちろん筆頭はリックだ。取り巻きたちと一緒にひそひそしているのが目の端に映る。でもあいつらはもう何もできないのだとラルフは思った。さっきの会話からすると、ルッツはイェルディアの学校に行くらしい。イェルディアのような遠い都市から休暇のたびに帰るなんて現実的ではないし、ルッツが立派なお医者さんになってこの島に戻ってきた時には、あいつらはとっくに巣立っているはずだ。リックが世話役になるなら残っているはずだが、まさか島のためのお医者さんになったルッツに、危害を加えるようなことはしない、はず。
「ラルフ、大丈夫かよ」
リックが少し近づいてきていた。ラルフは吐き気が強まるのを感じた。ああなんて、なんて嫌なやつだろう。ラルフのことを心配なんて全くしていないくせに、ラルフの体調不良をことさらにみんなに印象付けようとしているとしか思えなかった。
しかし無視するわけにもいかない。ラルフはなんとか喉から声を絞り出す。
「んー」
「【風の骨】、ラルフを連れて行くんですか? 本当に? ずいぶん具合が悪そうだけど」
リックは大人の前で見せるよそゆきの、聞き分けの良い親切な子供の仮面をかぶって、心配そうに言った。
「この島で、お医者さんの治療を受けてゆっくりさせたほうがいいんじゃないですか。……差し入れも一旦、別の誰かにさせたほうが……」
それが魂胆かよ、くそ。
「リック、その格好で行くのか?」ラルフの後ろで、デクターが信じがたいことを言った。「荷物も何も用意してないみたいだけど、手ぶらでいいのか?」
「……え?」リックは目を丸くした。「なんの話……ですか?」
「何言ってるんだ。お前も一緒に行くんだよ」
その瞬間、ルッツがさっと青ざめた。子供たちがざわめき、リックの取り巻きたちが色めき立った。周囲がざわざわする中、リックが笑った。
「えっと、俺も? そんな話、聞いてないですよ」
「昨日言ったろ。ハイデンもネイロンも了承してる」
「来いって言ったの、見送りのことだと思ってました。あの……せっかくですけど俺は、お医者さんになる気はないですよ。この島に残って、みんなのための世話役になるつもりで」
「何を勘違いしているのか知らないけど、リック、お前が行くのは学校じゃない。シェロムさんのところだ」
デクターが言い、リックは目を丸くした。
「俺が? なんで?」
「シェロムさんがてぐすね引いて待ち構えてる。お前の性根を叩き直してやるって」
「い――」リックの目が泳いだ。「や、俺、だって、世話役にならないと」
「いや、ならなくていい。お前は世話役にふさわしくない」
「なんで! リケロの蜂蜜酒、俺のおかげで場所がわかったじゃないですか!」
「残念ながら蜂蜜は全部酒になってしまっていて、もう、酒として利用するしかない。この島のために世話役になるつもりがあるんなら、リケロが盗んでいると知った時対処しているはずだろ。そうしてたら蜂蜜は無事だったはずだ」
「俺のせいかよ!? リケロのせいだろ!」
「蜂蜜を取り返すよりもお前は自分の欲望の方を優先したんだ。リケロを脅して、ラルフから〈人魚の骨〉を取り上げようとしたよな。世話役になりたいのだって、みんなのためじゃなくて、ここに王様みたいに君臨したいからだろ」
デクターは淡々とそう言った。ラルフはびっくりしていた。デクターがこんなふうに人を断じるところを聞くのは初めてだった。
ウィナロフだった時にはこんなこと、一切なかった。
さっきの不安がまた頭をもたげた。なんでだろう。なんで今回デクターは、ウィナロフの姿をとらず、本来の自分のままできたのだろう。リケロの悪事を暴いて、ルッツをお医者さんにするために連れて行こうとして、リックをこの島から排除しようとしている。今までどんなに望んでもしてくれなかったことを、いったいどうして。
「――差し入れなんて、お前には絶対に任せられない。この島にお前はふさわしくない。だからシェロムさんのところに行くんだ。二度とこの島に来るな。性根を叩き直してもらえ」
「うるっせえ!!!」
リックが吠え、肌がビリビリした。リックは一瞬で距離を詰めてきた。どしっ、足音が重く響いた。ラルフの上からデクターにつかみかかる。
「なんの権利があって、よそ者のくせに――!」
「悪いけど、お前の意見は聞いてないんだよ」
デクターが低くつぶやいた途端、ラルフの右側にある雪溜まりがごそっと溶けた。溶けながら立ち上り、ラルフの右横からリックに襲い掛かった。「!!」間近でリックを飲み込んだ水は少し離れたところで止まった。リックの顔が歪んで見える。水をかいて外に出ようとしてもかなわず、リックはもがいた。
みんな静まり返っていた。リックがパニックになっているのが見えた。がぼっ、と口から空気が吐き出され、リックは苦しそうに両手で口を押さえた。――と、水が突然リックを解放した。ばしゃん、水が地面に落ちてリックがむせる。
真冬のこの気温でびしょ濡れになったら凍死まっしぐらだ、とラルフは思った。
リックは激しく咳き込んでいた。水を飲んでしまったらしくえずき、寒さに震えて顔をあげ、空気を深々と吸い込んだ。
その瞬間、待ち構えていた水が再びリックを捕えた。水の中で、リックの顔が恐怖に歪んだ。
――死ぬかも。
ラルフはそう思った。目を覆いたくなるような惨状だった。リックはもがき、水の中でのたうち回った。二回目ではそれほど酸素ももたなかった。堪えきれずに空気を吐き出した瞬間、また水がリックを放した。ばしゃん、水たまりの中にリックが落ちる。
「がはっ、ぐ、ぐうっ」
水たまりの中にうずくまって、激しく咳き込む。外気に晒されて、濡れたリックの肌や髪が白く凍っていく。咳き込む合間にひゅうっと喉が鳴って、歯の根ががちがちと音を立て始めた。水たまりはどこにも流れて行かず、いつでもリックを閉じ込められるように待機している。
「……まだ元気ある? ちょっともううんざりなんだけど」
デクターが言い、ひでえ、とラルフは思った。この人は、ずっと底抜けのお人よしだと思っていたけど、その気になれば結構、残酷なことでもできてしまう人なのかも。
「じゃあ、行こうか」
デクターはリックをその場に残し、ラルフの乗った車椅子を押して歩き出した。ケティがラルフの横に並んで歩き、ルッツも荷物を持ってついてきた。リックはまだその場で酸素を貪っていたけれど、自分の周りで水が再び形を取ろうと一人でに膨れ上がったのを見て、
「い、やだ――!」
よろめいて、『公民館』の方へ走り出した。ラルフが車椅子から首を伸ばして見ると、リックに再び水が襲いかかっていた。リックが恐怖の悲鳴を上げる。水はますます膨れ上がって、まんまるいボールのような形状になった。リックの頭だけが突き出たその水のボールが、まるで忠実な生き物みたいにこちらの後をついてくる。
リックの声はもはやはっきりと泣いていた。
「いやだ、いやだ、やだ、いやだ! なんで俺が! 駅員なんか! 俺は、俺は、ああ――!」
「【風の骨】……!」
リックの喚き声を抑えるように、そう叫んだのはリケロの声だった。
走ってきたリケロは、なりふり構わぬ様子だった。ネイロンが後を追いかけて来ている。閉じ込められていたところから隙をついて抜け出してきたらしい。リケロは血走った目をして、必死の形相で駆け寄ると、デクターの上着にしがみついた。
「お、お、お願いだ。私も連れて行ってくれ。私も、シェロムのところへ行く。駅で仕事をさせてくれ……!」
どの面下げて、と思ったけれど、ラルフはもう、何も言う気になれなかった。リケロは髪を振り乱していて、酷い様子だった。目が落ち窪んで、顔の赤みはすっかり消えて、二十近くも歳をとったように見えた。
デクターはリケロに何も言わなかった。視線さえ向けなかった。追いついたネイロンがリケロの両手を掴んでデクターの服を放させた。「お願いだ。どうか、慈悲を」リケロがうめき、デクターは、ため息を一つついて言った。
「あんたは連れて行かないよ。生涯ここで、自分が裏切った人たちの世話になりながら過ごせ」
「い、い、いやだ……お願いだ、頼む……」
リケロは泣き出した。まるで子供みたいに。
ネイロンはリケロを押さえている。あの人も大変だなあとラルフは思った。リケロにはもう何も言いたくないけれど、ネイロンには何か言いたい気がした。ネイロンはとても気のいい人だ。ちょっとおとなしくて、口下手で、また色々と気が付かないところもあるけれど、みんなに公平だし、理不尽なことをしない。
ネイロンがこの島の世話役に残ってくれたのは、子供たちにとって、本当に幸運なことだった。
「ネイロン――」
ルッツも同じだったらしい。いや、これからも差し入れにくるラルフとは違って、なかなか帰ってこられなくなるはずのルッツは、下手したらこれから十年以上も会えないかもしれない。ルッツは振り返り、ぎゅっと唇を噛み締めた。ネイロンのところにかけ戻るかと思ったが、ルッツは寸前で堪えた。
「ネイロン、お医者さん――アイリスさんとソフィアさんと、診療院をお願い! 俺、ぜったい、お医者さんになって帰ってくるから!」
「ああ、任せとけ。ルッツもラルフも、頑張ってこいよ!」
リケロもリックも、もう喚いていなかった。ネイロンは笑っていた。いつもちょっと猫背で気弱げで、すごく親切なネイロンは、人より少し長めの腕を上げて、こちらに向けて振ってくれた。
後をついてきていた子供たちがネイロンの周りを取り囲んだ。「元気でねー!」「頑張ってねー!」小さな子たちが口々に叫びながら手を振っている。他の世話役たちも、アイリスとソフィアも、みんな笑顔で手を振っていた。ラルフは車椅子越しに振り返り、ルッツが、彼らに手を振るのを見届けた。
振り終えたルッツがこちらを追いかけてくる。
その頬が濡れているのは、見なかったふりをしてやった。




