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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の訓練
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蜂蜜

「リケロさん、私が、記録を精査してみましょう」


 穏やかな声がそう言って、リケロがギョッとしたように振り返った。

 そこにアイリスがいた。診療院で病気の子供たちの面倒を見ているエスメラルダの医師だ。リンの友だちだと聞いた。


 彼女を呼んだのはルッツらしかった。ルッツは息を切らしているが、リケロを睨んでいた。こいつもいるんだとラルフの中でさっきの怒りが叫んでいる。その叫びは、絶望の響きを持っている。この島にはルッツもいる。この世で一番怒らせたくないやつが。ラルフを案じ、様々な知恵を授け、食べるものにさえ気を配れと忠告をくれるやつが。


 だから俺は、永遠にここから逃げられない。


 リケロの声がひび割れた。


「よそ者が……っ! なんの権利があってしゃしゃり出てくる! 引っ込んでろ!」

「記録を調べたのはあなただけなんですよね?」アイリスはリケロの怒りが全然気にならないようだった。「こういう疑いをかけるなら、ダブルチェックは絶対に必要だと思います。私は記録を読めますし、計算もできます。複数の人間が確認して同じ結果が出て初めて、ラルフを糾弾するのが筋だと思いますが」


「あんたはラルフの味方だろ。ラルフに有利な結果を出すだろうが!」

「へえ。あなたはラルフの味方じゃないから、ラルフにとって不利な結果を出すんですか?」

「……っ」


 リケロの顔が赤黒くなり、わなわなと震えた。図星を刺されたのは明らかだった。

 

「リケロさあ――」


 リックが言いかけ、リケロがぎくりとする。ラルフはあれ? と思った。

 リケロはリックに怯えてるみたいだ。

 ちょっと前までこうじゃなかった。リックがいろんなことをリケロにねだり、リケロは鷹揚に笑って、リックの願いを叶えてやるのが常だった。

 でも今は違う。今回、リックはねだっているわけではない。

 脅している。


「とにかく、ラルフに【人魚の骨】は相応しくない」


 リケロはせかせかと言った。手に持った帳面を、アイリスから隠すようにして。


「ラルフ、島の世話役としての命令だ。差し入れはリックに譲れ。みんなのための差し入れをくすねるようなやつに、差し入れは務まらないから」


「あんたに命令される筋合いはないよ」


「ラルフに差し入れを託したのは【風の骨】だ」ルッツが声を張った。「そもそも差し入れは【風の骨】の善意だ。島の人間が量や種類を指定する方がおかしいんだ!」

「ルッツ、役立たずのお前は黙ってろ!」


 リックの恫喝が飛んだ。リケロはリックの援護を受けて奮い立ったようだった。


「もちろん、【風の骨】にはとっくに連絡済みだ。あの人も賛成している。ラルフ、【人魚の骨】を出せ!」

「いや、出す必要はないよ」


 新たな声がして、リケロが振り返る。

 そして動きを止めた。


 ラルフもそちらを見て、そこにデクターがいるのを見た。

 何を考えているのか、彼は、自分本来の姿のままで来ていた。ウィナロフより遥かに背が低く、若く、頼りなげな姿だ。なんでウィナロフの姿で来ないんだ。ちょっと呆れてしまう。ディーンの事務所で、『もう顔を忘れた』と言っていたけれど、冗談じゃなくて本当に忘れたのだろうか。

 案の定、リックが怒鳴った。


「誰だお前? よそ者が邪魔すんじゃねーよ!」

「いや、あの人は【風の骨】だよ。あれがあの人の本当の顔なんだって」


 ラルフは言い、【風の骨】が頷いた。

 【風の骨】――デクターは、黒髪の癖っ毛で、まだごく若い。上背がそれほどないから、大柄で髭まで生え始めているリックより、幼く頼りなく見えるくらいだ。コートの襟を立てていて、鼻の下まで隠れている。ふわふわの癖のある髪の下から、黒い瞳がじっとリケロを見ていた。


「俺はラルフ以外の人間に【人魚の骨】を渡す気はないよ。ラルフに差し入れを運ばせるのが気に入らないなら、差し入れ自体をやめる。リケロ、俺の方針はハイデンから聞いているはずだ」


 リケロは何も言わない。

 ラルフもリケロを見た。


 リケロは目を見開いていた。その赤ら顔から血の気が引いていた。自らの悪事を暴かれようとしているからかと思ったが、リケロは喘ぐように言った。


「そ――その顔……あんた……ほ、ほんとに……」

「覚えてるんだ? ずいぶん記憶力がいいね。あの頃、六つやそこらじゃなかったっけ」

「ば、……化け物……っ」


 リケロは喘ぎ、へたへたとその場に座り込んだ。リケロはこの島ではずいぶん年長の方だ。もしかして一番はじめにこの島に来た時の、デクターの顔を覚えていたのだろうか。

 そう考えながら体が勝手に動いていた。気づくとラルフは、リケロの胸ぐらを掴んで雪の上に仰向けに叩き付けていた。――ダン! 衝撃を遅れて左腕に感じる。ぐっとリケロの喉が鳴り吐き出された息は、果物が腐ったような匂いがした。嗅ぎ慣れない、しかし絶対にどこかで嗅いだことがある匂い。


「待て」


 デクターの静かな声がラルフの右手を止めた。その声が一瞬遅かったら、リケロの顔をぶん殴っていたところだ。化け物だと? 【風の骨】の差し入れで四十年以上も生き延びてきたくせに!

 ラルフは食いしばった歯の間から声を絞り出した。


「撤回、しろ……!」

「ラルフ、ありがとう。殴るのは後にして。俺は今、とにかく確かめたいことがあるんだ。話しづらいから、起こしてやって」


 デクターが近づいてきている。リケロは仰向けになったまま、震えていた。ラルフは左手に掴んでいたリケロの胸ぐらを引き上げた。起き上がったリケロは、尻餅をついたままじりじりと後ずさろうとし、その背後にやってきていたネイロンに両肩を掴まれて止まった。


「リケロ」


 しゃがんで、デクターが取り出したのは、何か細長く四角い装置だった。手のひらに握り込めるサイズで、ボタンがついていて、とても小さな窓のようなものがついている。その装置をリケロの口元に持っていって、デクターは言った。


「息を吐け」

「ね、ネイロン! 手を離せ! こ、この、この化け物を――ぐふっ」


 顔を背けてリケロは喚く。その言葉をまたリケロが言った瞬間に、ネイロンがリケロの頭を【風の骨】に無理やり向けさせ、ラルフの右手が勝手に動いてリケロの腹を押していた。吐き出された息が装置にかかり、装置がぴぴぴと音を立てる。

 その装置についた窓には何か数字が浮かび上がっている。デクターはその数値を見て、ふうっとため息をついた。


「利発で記憶力の良い子だったのに。どこで間違って、こんなふうに育ったんだろう」

「なに、それ?」


 我慢しきれなくなってラルフは訊ね、デクターは、その装置の窓をラルフにむけてくれた。数値が出ているが、何を意味しているのかはわからない。


「リケロは飲酒してる」

「ん!?」

「ほろよい程度だが、この島では異常な数値だ。まあ飲酒自体が悪いわけではないけど――ネイロン、」デクターはリケロを押さえつけているネイロンを見上げた。「最近、蜂蜜は届いているか? 以前、あんたからの要望を聞いて、量を増やすよう頼んだんだが」

「え? あ、頼んで、くれて……たんですか?」


 ネイロンは困ったようにそう言った。ネイロンからの要望は、ラルフも聞いていた。蜂蜜の量を増やせないか。具合が悪くて食事を取れない子供にも舐めさせてやりたいから、一キロでもあれば充分なんだが。

 そのささやかな要望が聞き届けられたのかどうか、そこまでは知らなかったけれど、差し入れがラルフに代わった時も、蜂蜜が増えたらいいんだが、と、ネイロンがつぶやいていたのを覚えている。


「……増えていないんだな?」

「ええ、子供の口には……入っていないですね。すみません、俺、蜂蜜は高価だから、増やせてないんだと思ってて」

「リケロ」デクターの声が深みを帯びた。「差し入れをくすねてるのはあんたじゃないのか。蜂蜜酒を、作ってるんじゃないのか?」


「あ。この匂い……前に嗅いだことがあると思った。そっか、前に【魔女ビル】で、マリアラを探していた時――」


 ラルフの脳裏に、その時の記憶が甦った。

 落とし穴に落とされたマリアラの手がかりを捜していた時、ラセミスタが駆け込んだ部屋にいた人が、こんな匂いをさせていた。その人の名前は忘れてしまったが、デイスイしてる、お前はまだ知らなくていいと、シグルドが言ったのは覚えている。ミランダが無理やり正気に戻らせた。今日は大暴れよ、と、優しい女性の声が言っていたっけ。


「リケロ……あんた……」


 ネイロンがリケロの肩を掴む両手に、力がこもっている。

 気持ちはわかる。差し入れは神聖なものだ。島の子供達の命を繋ぐ命綱だ。差し入れを盗んでいると言いがかりをつけられた時、そんな概念がこの世にあったことに驚いた。そんなことができるわけがない。みんなの命を削るようなこと。

 リケロがその嘘を思いつけたのは、自分がやっていたからだったのだ。


 リケロは蒼白になっていた。


「ち、ち、ちが……っ」

「何が違うんだ。言ってみろよ!」


 普段穏やかなネイロンが声を荒げる。リケロは慌てたように言った。


「何かの間違いだ。蜂蜜が増えていたなんて私も知らなかったんだ。女たちが先に取ったのかも。ソフィアは目端が効くし」

「今度はソフィアさんに濡れ衣を着せるんですか?」冷たい声で言ったのはアイリスだった。「あの人は、診療院で高熱を出している子供たちのために、自分の割り当ての分を持ってくるって言うような人ですよ」

「し、しかし、私は知らん。知らん、知らないんだ!」


「俺、リケロがどこに蜂蜜酒を隠しているか、知っていますよ」


 リックが猫撫で声でそう言った。リケロが弾かれたように顔をあげてリックを見上げた。その顔が、絶望に染まっていく。


「リック、お、お前……」

「前に、リケロが蜂蜜を隠すのを見たんです。量が増えたから、たくさん作れるって喜んでましたよ」


 そのとたん、子供たちにもじわじわと広がっていた理解の波が決壊し、リケロに襲いかかった。


「はちみつ!」

「え、なに? どういうこと?」

「【風の骨】が俺たちのために増やしてくれてたはちみつ、リケロが隠してたってこと?」

「草原のレンゲ蜜たくさん持ってきたってラルフがさっき言ってた、それを――」

「ひどい!」

「ずるい!」


 その非難がリケロに向かうのを、リックは満足そうに眺めていた。その微笑みが異様で、ラルフは戦慄する。


 ――知ってたんだ。


 リックがリケロを脅していたネタは、みんなのための蜂蜜を隠していたことだったのだろう。

 リックはそれを知り、みんなのための蜂蜜を取り戻すよりも、隠して利用することを選んだ。その方が、リケロから多くのものを得られるから。

 そう悟り、絶望を感じた。さっきの、怒りにも似た激しいものではなく、諦めと悔しさに満ちた、深く静かな絶望だった。


 この島には、この世には、こんなに醜いものがあるのか。

 その中で生きている限り、その醜いものと永遠に関わり続けなければならない。

 これからもこんなことは続くのだろう。ラルフの持つものを奪うために、島の命といえる差し入れを利用しようとする。良心の呵責さえ覚えない、リックのようなやつに、これからも立ち向かい続けなければならない。生きてる限りずっと。


「ふうん。案内してくれるか」


 デクターがそう言い、リックは熱心に頷いた。まるで自分もリケロの悪事に憤ってるというように。


 リックが先に立って歩き出し、デクターはその後に続こうとして、立ち止まり、ネイロンを見上げた。


「悪かった。あんたに気軽に相談してもらえないような状況にしていたのは俺の落ち度だ」

「何を言うんです! 申し訳ないのはこちらです」

「うん、そうだね。あんたの落ち度でもある。……ネイロン、あんたは子供たちのために蜂蜜を増やしてくれって言ったんだろ。それが増えてなかったら、俺に文句を言うべきだったよ。あんたは世話役なんだ。子供の権利を守る責任があるんだからさ」


 ネイロンはしょぼんと俯いた。


「……すみません」


「いやでも、あんたの立場なら俺に言いづらかっただろうと言うのもわかるよ。こないだ、ラルフに言われて反省したんだ。ラルフは自分の生活費を差し入れ代から出すことさえしようとしないし、ネイロンは俺に差し入れの注文をつけることすらしようとしない。俺も気が回らなくて悪かったけど……あんたたちも、ちょっとはリケロの図太さを見習った方がいいんじゃないか」



    *



 リケロの住まいは、『公民館』から少し離れた場所にある。

 子供たちのいる場所から少し離れた場所で生活したがる世話役は多い。あまりにも賑やかすぎるからというのだ。そういう場合もだいたい二人から三人で一つの建物に住むのが普通だが、リケロはあまりに偏屈で口うるさく、またいびきが大音量に過ぎるために同居を敬遠されるとかで、長い間一人で寝起きしていた。


 だからこそ今日までリック以外に見つからなかったのだろう。と、扉が開いた瞬間にラルフは悟った。同居する人間がいたら誤魔化しようのない、特徴的な匂いがする。

 そしてその部屋は、ずいぶん汚かった。意外だ、とラルフは思う。リケロは几帳面だ。島の記録や物品の管理を一手に担う管理人だ。だから自分の家も相当綺麗に保っているのだろうと思っていたけれど。

 溢れた液体を拭かずにいたのか、床にいくつものシミが見える。テーブルや床の上に食べクズやゴミが落ちている。チーズやナッツの包み紙。テーブルの上で、燻製にした鮭の切り身が干からびていた。ビスケットも。どれも全部覚えていた。燻製の鮭もビスケットも、エマさんが用意してくれたものだ。一口かじって残している。エマさんの心づくしを。

 ラルフは吐き気を感じた。


「ラルフ、ルッツ、外にいな」


 ネイロンが言い、ルッツがラルフの手を引いた。二人とも、ラルフの吐き気に気づいていることは明らかだった。ルッツの手は決然として、絶対にラルフをここからどかせる、という意志が感じられた。くっそこいついっつもひょろひょろしてへらへらして頼りないくせに、なんでこういう時だけ堂々としてやがる。腹の底で苛立ちを感じながらもラルフはルッツに連れられてリケロの小屋から離れた。アイリスが入れ代わりにリケロの家の方へ行った。さっきリケロが持っていた帳面は、今は、彼女の手の中にあった。


 アイリスは険しい顔をしていたが、ラルフを見て表情を少し変え、優しい声でルッツに言った。


「もう真っ暗だ。子供たちに夕食を取らせないといけない。診療院でね、ソフィアさんが留守番してくれてるんだ。ルッツ、ソフィアさんにね、今夜は女性たちも子供たちも、支援物資の中に入っていた缶詰を食べてはどうかと伝えて。場所も教えてあげて欲しい」

「わかった」

「ラルフ、診療院にケティもいる。診療院に入院している子たちにも流動食を食べさせないといけないから、ここじゃなくて、そっちを手伝ってくれないかな。小さな子供たちに言うことを聞かせるのは、ラルフが一番得意だよね?」

「……わかったよ」


 アイリスは女性で、お医者さんなのに、どうして子供たちの夜ご飯のことまで気にかけるのだろう。そしてラルフのことも。優しい手のひらがラルフの肩にそっと触れた。ラルフをいたわる気持ちがこもった柔らかな手のひら。マリアラの柔らかさを思いだす。あの人だったら、リケロになんて言うのだろう。



 リックはリケロの家の中から持ち出したスコップを持って、少し離れた場所の雪を掘り始めていた。手慣れた動きだった。何度も掘ったことがあるに違いない。

 酒ってどうやって作んのかな、と、ラルフは思った。蜂蜜は無事だろうか。子供たちの口に入る分が、少しでも残っているといいけれど。


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