言いがかり
まだ真っ暗にならないうちに集落が見えてきて、ラルフはほっとした。今日はルノがいるから早めに切り上げたのだが、ルノが興奮してなんども魚籠を覗き込むものだから、暗くなる前に辿り着けるかどうか冷や冷やした。
ラルフの持つ魚籠の中には三尾のアイナメが入っている。ルノには四尾入った魚籠の方を持たせてやった。これだけあれば、リケロにも文句は言われまい。ルノは大喜びだ。ルノが初めて自分で釣り上げたアイナメにはヒレに黒い模様がついている。四尾の中からその黒いヒレを見つけようと何度も立ち止まるので、ラルフはその度に、帰ってから見ろ、と言った。一人なら暗くなっても全く気にしないのだが、ルノがいるとそうもいかない。本土みたいに舗装されているわけじゃないし、街灯もない。
シグルドは偉大だった。
なんであの人はあんなに忍耐強かったのだろう。シグルドだったらルノに、忍耐強く付き合ってやっただろうに。――いや、とっくに肩車でもして集落に連れ帰っていただろうか。
集落はぼんやりと明るかった。『良識派』――ガストンたちが贈ってきた山ほどの支援物資の中に、光珠も入っていたのだ。それも、魔力の結晶が内蔵されていて、スイッチを押せば光る。つまりルクルスでも使えるものが、山ほど。
――エスメラルダは変わる。
ガストンがディーンに言った言葉だ。これから変わる。どんどん変わる。偉い人間との間を繋ぐ役目をしていた『あちら』のなんとかというオッサンを権力の座から追い落とせたのがとても大きかった、らしい。偉い立場の人たちに、ガストンからの連絡が届くようになった。今まで息を潜めていたガストンの仲間たちも、大っぴらに働けるようになった。今までは、ガストンの仲間だとバレたらすぐに外国に飛ばされてしまっていたらしいけれど、これからはそんな心配もしないで良くなった。
その結果がこれだ。ルクルスの島に建った、とても大きくて立派な建物。吹き飛ぶことを心配せずに、吹雪の最中でもぐっすり眠れる、暖かくて清潔な寝床。支援物資はこれからも定期的に届くという。光珠ももっと増えるという。今ある分でさえ、松明よりもはるかに明るく、揺らめかず、濃すぎる影を作らない。確かな変化を感じさせる。次の荷がきたら、もっと変わるだろう。これからどんどん、もっともっと変わっていくだろうと実感させる、強さがある。
ラルフにとっては複雑だった。これからこの島にどんどんいいものが届いて、食料も薬も針も糸も布も、必要なもの全てを手に入れられるようになったら。
ラルフがようやく手に入れた『女の仕事以外の仕事』も、不要になってしまうのだろうか。
そしたら――。
「ネイロン! ただいまー!」
考えているうちにルノが集落に駆け込んで行った。
炊事場で火を起こしていたネイロンが顔をあげている。
真冬なのに今日は、炊事場で調理をしている。そう考えると少し嬉しくなった。今日の晩飯も、温かいものが食べられる。ここしばらく晴れていて、風もそんなに強くないからだ。吹雪の間は火が使えないから、ごく簡単なものしか食べられない。
ネイロンの声も明るかった。
「ルノ、ラルフと一緒にいたのか」
「見てみて! 見てみてー!!」
ルノは誇らしげに魚籠をネイロンに差し出す。覗き込んだネイロンは、おおっ、と声をあげた。
「すごいじゃないか! どうしたんだ、これ」
騒ぎを聞きつけて、子供たちが集まってきている。ルノは大きな声で言った。
「俺が釣ったんだ!」
「嘘だー! ラルフが釣ったんだろ」
すかさず子供の一人がそう言い、ルノが叫ぶ。
「違う! このヒレに黒いシミがついてるアイナメは、俺が釣った! ね、ラルフ!」
「うん、ルノが釣った。こいつなかなか見どころがあるよ」
「いいなー!!!」
「ずるーい!!」
「なんでルノだけ!! 俺も連れてってよ!!」
一斉に歓声とブーイングが上がる。全部聞き流してラルフは、自分の魚籠もネイロンに差し出した。
「全部で七尾。晩飯の足しにして」
「お前、ちょっとは休んでろって言ってるのに……でもありがとな。助かるよ」
ネイロンにそう言われると、ラルフとて悪い気はしない。へへへ、と笑ったとき、えへんおほんという咳払いが聞こえた。
それがリケロの声だったので、子供たちが一瞬で静まり返った。リケロがこうやってみんなの注意を引いて、いいことが起こった試しがない。
おまけにリケロの後ろ、少し離れた場所にリックがいる。腕組みをして、ニヤニヤして、ことの成り行きを見守る体勢だ。
「ラルフ、今回の差し入れでやっと、証拠を掴んだぞ」
リケロがそう言い、ラルフは身構えた。「証拠? なんの?」
「アナカルシスの拠点で準備された菓子と、ここに届いた菓子の量が違う。その証拠だ」
「なんの菓子?」
以前ルッツから受けた指導を思い出しながら、冷静にラルフは訊ねた。
リケロは帳面を見る。
「チョコレートが二十枚、ドライフルーツの入ったヌガーが一キロ。キャンディーが一袋足りない。お前、来る間にくすねたんだろう」
「チョコレートは百枚まとめて紙で包んで入れたってマギーさんが言ってた。ヌガーは五キロの包みに入っていたはずだ。拠点の協力者が荷物に詰めて、小さく縮めてくれるんだよ。俺は元の大きさに戻せないのに、どうやって一部だけ盗むの?」
「お前が連れてきたマヌエルの少女が元の大きさに戻せるじゃないか」
「俺が前回の差し入れ届けたの、ケティに会う前だよね?」
「そんなことわかるものか」リケロが薄く笑った。「ケティに会ったのが差し入れを届けた後だなどと、お前たち以外の誰がわかるんだ? 届ける前から知り合っていたのだろう。そしてケティに荷物を元の大きさに戻させて」
「……あのさあ……。言いたくないけど、ケティにとって、チョコレートとかヌガーとか、わざわざ盗むほどのものじゃないよ。本土に行きゃいくらでもあるもんだし、俺だって」
言いかけて喉が詰まった。リケロの魂胆はわかっている。リックに〈人魚の骨〉を譲らせたいのだ。ラルフが本当に盗んだかどうかなんてどうでもいいのだ。ラルフの仕事を取り上げて、『女の仕事』をさせるために、島に縛り付けておきたいだけ。
今回、賭場で『売られ』そうになった時の屈辱と絶望を覚えている。リケロとリックは、つまり、あの時の賭場の人間と同じだ。ラルフの意思など全く気にせず、自分の思いどおりにしたいだけ。
なんでだよ。
悔しさが込み上げてきて喉に詰まる。ラルフがしているのは差し入れの配達だけじゃない。今回、ディーンとハイデンの指示で、ラルフはだいぶ頑張った――はずだ。それだけじゃない。以前からそうだ。ハイデンはラルフの才能を認めて、様々な仕事を任せてくれていた。狩人がルクルスの若者をそそのかして南大島に魔物を放そうとした時も、ラルフはそれを阻止するのに一役買った。モーガン先生の文献リストを取りにも行った。
嘘をついて差し入れを盗んで自分だけ食べるような子供だと思っているなら、ハイデンが、あんな働きをさせるわけがない。
なのにリケロは、ラルフの働きを絶対に認めない。
女だから、という理由で、島に縛りつけようとする。そのためにラルフの誇りを傷つけ、差し入れを盗むような人間だとみんなに思わせようとする。なんで。どうして。どうしてそこまで。理由なんてわかりきっているのに、地団駄を踏みたくなる。なぜリケロには、こちらの理屈が通じないのだ。
「リケロ、ラルフが差し入れを盗んだりするわけないだろ」
ネイロンがゆっくり動いて、ラルフの横――左斜め前くらいの位置に立った。ラルフの視界を奪わず、それでいて、リケロとの間に割り込むような位置だった。
「ラルフは、【風の骨】からもらってた旅費を、使えなかったんだ。差し入れに使える金が減るからと心配だったんだと。それでディーンさんが、ラルフに生活費を渡すように手配したんだ。旅の間、ラルフだって飲まず食わずってわけにはいかないからさ――差し入れに使える金が減るからって自分の飯も我慢するような子がっ、チョコレートを二十枚も盗むわけがないだろ!」
「ネイロン、お前は計算ができないだろ。俺だって、ラルフに疑いなんかかけたくない。しかし差し入れは減っている、」
「減ってるって言ってるのはあんただけじゃないか!」
ネイロンが怒っている。ラルフはその時、なぜだろう、ネイロンにも怒りを感じた。なんであんたがいるんだと、胸の奥で誰かが叫んでいる。ネイロンがいる。ハイデンがいる。頼りになる大人たち、公平で、ラルフのことを信じて守ってくれようとする大人がいる。だからこそラルフは、この島を見捨てることができないのだ。あんたらさえいなければ。いっそみんながラルフを虐げ、差し入れを盗むような子供だと決めつけてくれたらよかったのに。
そうだったらとっくにこんな島――
ラルフは愕然とした。俺は今、何を思った。なんて罪深いことを。




