五日目 非番 午後(9)
『そなたどういうつもりなのじゃ』
幼女は三歳くらいに見えた。むくむくと太った体つき、ぷっくりふくれたほっぺたがとても可愛らしい。なのに尊大な言葉遣いと、優しさも思いやりも欠片もない冷たい声が不釣り合いだ。
魔物は凍り付き、怖い怖い、と繰り返すだけだ。マリアラは魔物を抱えたまま木のうろに視線を投げた。ここはどうやったら開くのだろう。幼女はマリアラの視線を読んで、嘲笑った。
「開けてどうする。儂がそいつを逃すと思うか。追いかけて喰ろうてやるわ、下賤な、弱く臆病で、アシュヴィティアの崇高な意志から逃げるようなものなど――その身に宿った〈毒〉がもったいない。一滴残らず吸い尽くしてくれる」
幼女は裸足だった。ひた、ひた、ひた。小さな足が、水の退けられた池の底を歩いてくる。体はとても小さいのに、威圧感がひどい。引きずり込まれるような重力を感じる。マリアラは抗うように後ずさり、踵が木のうろに触れた。
その瞬間、
ぐるり。
視界が回った。
気が付くとマリアラは魔物を抱えたまま、緑の草原の中に立っていた。
既視感を覚える。ダニエルとララの下で仮魔女期を過ごしたとき、ふたりと一緒に、落ちた人を助けるために出動した、【毒の世界】の空気だった。来たのは三度目だったが、懐かしさなど覚えるような場所ではない。足の下にあるのはどことなくくすんだ色合いの、ちくちくとがった草だ。草原は果てしなく続いている。空はどんよりとした曇りだ。ひどく寒々しく、よそよそしい風景だった。
振り返るとそこに木のうろがある。驚いたことにうろの向こうにフェルドの背中が見える。声は聞こえないが、その背中が張りつめているのがわかる。水しぶきが飛んだ。マリアラの腕が緩んだ隙に、魔物が身をひねって飛び降りた。
ありがとう。
小さな声が聞こえた。マリアラは振り返り、魔物がすでに、元の大きさに――むくむくと――戻り始めているのを見た。魔物は微笑んでいた。まだ怯えながらも、優しい声で続けた。
また帰ってこられるとは思ってなかった。本当にどうもありがとう。生き延びられたらみんなに伝える。
何を、と聞き返そうとした時には、魔物は背を向けて走り出していた。マリアラはうろを振り返り、フェルドの背が変わらずにそこに立ちはだかっているのを見た。その背の向こうに、魔物が見えた。さっきの魔物よりやや小柄でありながら、禍々しい目をした生き物が何か叫んでいる。さっきの幼女は魔物が姿を変えたものだったのだろうか。
でも、あの幼女はどこから来たのだろう? さっきは普通に【魔女ビル】の中を歩き回っていた。
――そいつを逃がすと思うか。
――追いかけて喰ろうてやるわ。
逃げ延びられたら、と、さっきの魔物は言った。
マリアラはうろに手を触れた。再び視界がぐるりと回って――
とたん、激しい水音に包まれた。
広々とした礼拝堂の中を、水流が暴れまわっていた。まるで猛々しい龍のようだ。巨大な魔物はフェルドの目の前に迫ろうとしているが、水龍に襲い掛かられて前進を阻まれている。
魔物は虎に似ていた。さっきの魔物があどけない子猫に思えるほど、凄惨な雰囲気をまとっていた。前足で水の龍を叩き、水が霧散した隙に前進しようとするが、足元に落ちた水が魔物を絡めとる。いたちごっこだ。
魔物は喚いた。
『ええ忌々しいっ、ここが“外”ならば人の身にすぎぬエルカテルミナごときに後れを取ったりせぬものを! 無駄な足止めだということが分からぬか! あの猫、どこへ逃げたとしても必ず見つけ出す。許しておくものか……! アシュヴィティアに従わぬ“仔”など、絶対に許しておくものか……!』
魔物は呪うように喚きながら体を撓めて振った。
毒の香が立った。
魔物の喚きに応えるように、空中に漆黒の砲弾が出現した。数十はありそうだ。
「出ないで」
フェルドが言い、二人の目の前に、水の壁がそそり立った。
ずしゅっ、鈍い音と共に壁に毒の塊が食い込んだ。いくつもいくつも飛来しては壁を突き破ろうとする。壁を迂回するように砲弾が飛来し、フェルドは仮魔女試験のあの時のように足を踏みしめた。水の壁が二人を押し包むように形を変え、密度を増し粘度を増した。
嵐のような数瞬が過ぎた。水の壁は殆ど黒に染まりながらも、まだ破られずに二人を守っていた。
毒が届いていないと知って、魔物が金切り声を上げた。
『おのれ……おのれ……! アシュヴィティアの左翼たる儂に、無礼な! 無礼な!!』
地団太を踏んだと同時に、魔物の背から巨大な翼が飛び出した。
その瞬間。
ずしん。
空気が変わった。
極寒の冷気。
鋭い冷気を吸い込みかけ、マリアラは手のひらで口を覆った。痛いほどの低温が押し寄せる。フェルドの作り上げた水壁がぴきぴきと音を立てて凍っていく。マリアラは水の壁越しに見える魔物のその姿に絶望に似た戦慄を覚えた。翼とともに迸った寒気はあまりに膨大で、ずっと聞こえていた湧き水の音が途絶えた。ステンドグラスが凍り付き、吐く息が白く濁る。
『卑小な人の身でよくも儂を』
聞くだけで凍るような魔物の声が響いてくる。
『そこをどきやれ。見ず知らずの――そなた達には仲間ですらない魔物のために、自らの身を凍り付かせてまで儂の行く手を遮る意味があるのかえ』
フェルドは水の壁を溶かそうと奮闘し続けている。今もう一度毒の砲弾が降り注いだら、変幻し絡め取ってくれる水の防壁がないも同然だ。
マリアラはフェルドの背に震える手を当てた。彼の負担を減らし空気を温め凍気を遠ざけることさえ、マリアラには出来そうもない。
「フェルド」
寒さに収縮していたフェルドの筋肉を和らげて、血流を助け魔力の循環を助けながら、囁いた。
「この水を溶かして――あの魔物を包むことってできる?」
ミシェルに言われた時、確かに、命綱を掴んでおくのは悪いことではない――と、思った。今日ここで、フェルドという命綱が一緒にいてくれなかったなら、マリアラはあの魔物を“家”に帰してやることも、なぜか現れた“追手”を食い止めてやることもできなかった。いやそもそも、ここまでたどり着くのだって無理だった。
でも、それでも。
掴ませてもらった命綱に、縋りつき体重を預けるだけでいたくはなかった。
“お客さん”を助けて家に帰すのが魔女の仕事だ。仕事を共にする相棒の背に負ぶわれているだけでは、いつまでたっても“ちゃんとした魔女”になどなれない。
「チャンスは一度かな」
久しぶりに聞いたフェルドの声はいつもどおり落ち着いている。マリアラは微笑んだ。水の壁はもはや完全に凍り付いていた。フェルドは既にそれを溶かそうとするのをやめ、ふたりの周りに寒気を入れない方に魔力を回していた。それでも息は白く、ふたりの髪は既に白く凍り付き、頬もぴりぴりと痛い。
沈黙が落ちた。
マリアラは蹲ってじっとしていた。チャンスは一度しかない。絶対にし損じるわけにはいかない。
永劫にも続くような静寂のあと、ようやく、魔物が動き出した音がした。
独り言も聞こえてくる。
『凍えたか。――やれやれ聞き分けのないこと。早う退けば、余計な苦痛を味わわずに済んだものを』
魔物がゆっくりと水の壁を回ってくる。フェルドもマリアラも動かなかった。マリアラは後ろで白く凍り付いている木のうろをちらりと見た。まだあちら側の、くすんだ緑の草原が見えている。あの子はどこまで行っただろう。ここをどうやって閉じればいいのかわからない以上、あの魔物をこのまま通すわけにはいかない。
魔物が、【魔女ビル】を我が物顔で歩き回っていたことが気になっていた。
この魔物はどこから来たのだろう。狩人によって連れ込まれたのだろうか? でもそれにしてはおかしい。マリアラが【魔女ビル】に魔物を連れ込んだ時には、ヘイトス室長や清掃隊まで出動する事態になっているのに、この魔物は幼い子供の姿を取ってジェイドと一緒に歩いていた。
この魔物は――いったい、何なのだろう?