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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の訓練
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診療院のお医者さん

 ルクルスの島は、今日も雪に埋もれている。

 でも今年の冬は、去年とは全然違う。ソフィアはいきなり大きく変わった生活に戸惑ってはいたが、その変化はおおむね、喜ばしいものだった。まず第一に、吹雪が止んでいた。ここ数日いいお天気が続いていて、まるで時代が変わったというみしるしかなにかのようだった。真冬に青空を拝めるなんて、おそらく生まれて初めてだ。


 そして次の大きな変化は、本土の『良識派』の人たちからの、支援物資が届いたことだ。

 ソフィアはずっと、『それ以外』はみんな一致団結してルクルスをこの島に捨てているのだと思っていた。

 けれどそうではなかった、らしい。『それ以外』の大半は、ルクルスが虐げられていることを知らされてもいない。そして知っているごく一部の人々は、『良識派』と『校長派』に別れていて、『良識派』たちはずっと、ルクルスとの協力関係を構築したがっていたのだという。


 そしてこの度ルクルスたちは、『良識派』と手を組むことに決めた。その結果、ルクルスをこの島に閉じ込めて虐げている勢力の親玉を、権力の座から追い払うことに成功した。――らしい。


 その恩恵は、目に見える形で届けられた。

 本土の技術の粋を極めて作られた大きな建物が三つ、ルクルスの島に建ったのだ。『良識派』とルクルスの協力関係が構築されたことを寿ぐような、とても立派な建物だ。


 一番大きな建物は、子供たちと世話役のために使われる。『公民館』と名付けられた。ボロボロの小屋が吹き飛ぶことを心配しながら身を寄せ合って吹雪をやり過ごしていた子供たちは、これからはずっと、乾いた頑丈な暖かい建物の中で安心して眠れるはずだ。

 中くらいの建物は、女たちのために使われる。ソフィアもその建物の暖かさと快適さの恩恵を受けている。外の音が全然聞こえないから、吹雪がきてもミシミシ言わないはずだ。何より厠が素晴らしい。匂いが全然しない。しかも建物の中にあるから、寒くないのだ。どこもかしこもピカピカで、快適そのものだ。


 そして最も重要なのは、一番小さな建物だ。

 ここには、お医者さんがいる。――それも女性の。




 他の女たちからは呆れられるのだが、ソフィアはお医者さんが気になってたまらない。

 だから今日も、長い廊下を渡って、診療院の方へやってきてしまった。

 何しろここで流感の患者たちを必死で治療している人は、数日前に悪漢に刺され、冷たい海に落ちたばかりなのだ。


 【風の骨】が事前に警告していたから、ネイロンが船を出していて、すぐに助けることができた。またラルフが連れてきた不思議な少女が、お医者さんの命を救い、あっという間に怪我を治した。まあ、ここまではいい。少女は話に聞く『左巻きのマヌエル』だったのだろう。シグルドが命を救われたと聞いたこともあるし、左巻きのマヌエルは、怪我したり死にかけたりした人を放っておけない、という話も正しかったのだろう。


 不思議なのはここからだ。お医者さんは治るやいなや立ち上がり、ルクルスたちの治療を始めた。冬になるとこの島では、いつも子供たちがバタバタ倒れる。流感と呼ばれる病気が、何人もの命を奪っていく。ソフィアも何度か罹ったことがあり、あの苦しさを覚えている。高熱と体の節々の痛みと悪寒。今年も流行っており、発熱した子供たちは皆、『公民館』で寝かされていたのだが――お医者さんは刺されて海に落ちた翌日に立ち上がり、世話役のネイロンたちを引き連れて、『公民館』から熱が出ている子全員を担ぎ出した。行き先は、診療院の一室だ。


 何はともあれ元気な子たちから隔離して、湿度を保った暖かい部屋で栄養と水分を山ほど取らせないとダメだ。


 世話役たちはお医者さんにびしびしこき使われても口答えひとつしなかった。お医者さんの言い方には知識と経験に裏付けられた確固たる自信があり、有無を言わせぬ迫力があった。元気な子供も世話役も女たちも全員、しつこいくらいに手を洗え、その都度うがいをしろと厳命され、本土から来た上等な石鹸をじゃんじゃん使って洗いまくった。


 もちろん『よそ者が』と反発する人間もいた。けれどお医者さんは、嫌われても平気なようだった。一番見ものだったのは、『病気は左巻きに治療させろ』と主張したリケロが、黙らされた時だった。


『彼女にはそんな暇はない』とお医者さんはリケロを一喝した。『ケティがここにいられるのは数日しかない。貴重な時間を治療に割いてしまっては、彼女が救えるのは多くて十人というところだろう。――だがマヌエルはインフルエンザの特効薬を作れるんだ。薬の処方なら私もできる。ケティがここにいる間に特効薬をできるだけたくさん作ってくれれば、彼女が救う人数は、これから先、何百人にもなるぞ』


 リケロが目を白黒させて黙ったのには、本当に、胸がすっとした。


 だからソフィアは、お医者さんが気になってたまらないのだ。

 ソフィアだったら、目の前で熱を出して苦しんでいる子供がいたら、何はともあれこの熱をどうにかしなければ、と狼狽してしまうだろう。リケロやうるさい世話役たちにやいやい言われたら尚更だ。


 でもお医者さんは違う。女なのに女の仕事をしない。代わりに自分にしかできない仕事をする。この人は、『ラルフ側』の人だったのだ。

 ルクルスの女に生まれたのに、女の仕事をしない。

 そんな選択肢があるなんて、ソフィアは考えたこともなかった。

 でもラルフはその道を掴み取った。幼い頃からハイデンに信頼され、様々な仕事を任されてきたラルフは、ついに、【風の骨】から重要な仕事を任されるまでになったのだ。


 ラルフは特別だから。

 そう思っていたけれど。

 ここのお医者さんもそうだったなら。

 ソフィアもいつか、自分にしかできない仕事を見つけたら……


「アイリスさん、荷が届きましたよ」


 扉が開いてルッツの丸い顔がひょいと覗き、ソフィアは嬉しくなった。

 将来はお医者さんになりたいのだと言うルッツに、この『診療院』はピッタリだ。ここにいればルッツは誰よりも役に立つだろう。取れない魚を取ろうと頑張るよりずっと建設的だ。


「僕、開けましょうか?」


 お医者さんは奥にいたらしい。快活な声が答えた。


「ありがとう、頼むよ。でもその前に、氷嚢が足りないんだ。雪なら外にいくらでもあるんだけど。そんなに汚れてない袋があったら助かるんだが――次の荷に、ビニール袋を入れてもらうべきだな……」

「袋ですか。女たちの建物に行けばもらえるかも。ラルフに頼んできます」


「ルッツ、あんたが直接行ってももう怒られないわよ。いつでもきていいのに」


 思わず口を出すとルッツがびっくりしたようにこちらを見た。

 お医者さん――アイリスのいる場所からはこちらが見えない。ソフィアがいるのは、女たちの建物に続く長い廊下で、診療院の診察室に繋がる入り口のすぐそばだ。


「ソフィアさん」


 ルッツがはにかんだように笑い、ソフィアも微笑んだ。じんわりと胸が暖かくなる。




 ルッツは昔から小さくて、弱々しくて、また甘えん坊な子供だった。

 ソフィアはルッツが可愛くてならなかった。ソフィアを見つけたときのぱあっと綻ぶあの笑顔が、今でも胸に浮かぶほどだ。紅葉の葉みたいな小さな手のひらをいっぱいに広げてとてとてとこちらにやってくるあの子が、本当に愛しかった。大きな男の子たちにいじめられたり小突かれたりしているのが可哀想でならなかった。あの頃ソフィアはまだ十六やそこらで、『女の仕事』をしなければならなくなったばかりで、毎日が辛くてたまらなかった。あの頃、ルッツの愛らしさは本当に救いだった。


 ルッツを隠れて可愛がっているのを見咎められ、『一人だけ特別扱いは困る』と正式に苦言を呈され、ルッツがソフィアに会いにくるのを辞めさせられた時は、本当に辛かった。あんなに小さくて弱々しくて甘えん坊な子が、大きな子供たちに踏み潰されるのではないかと、よく心配したものだ。


 もう大きくなったのだから、いつでも遊びに来ていいのに。

 いじめられっ子やおとなしい子、乱暴が嫌いな子、魚を取るのが苦手な子たちは、たまに女たちの建物に避難しにくるのだ。女たちも大っぴらに迎え入れることはしないが、目くじら立てて追い出したりもしないものだ。細々した仕事を手伝わせることで、世話役も大目に見ることが多い。ルッツも来ればいいのにといつも思っていたのだが、四歳の時に言い含められた教えを、今も律儀に守っていたらしい。


「いや――俺が行くと怒られるでしょ?」


 案の定ルッツはそう言い、ソフィアは笑った。


「何年前の話をしてるのよ、今のあんたならどこに行ったって、追い出されることはないわよ。――で、袋が足りないんだって?」


 入り口から覗き込むと、完全防備のアイリスがそこにいた。

 真っ白な服。髪はほっかむりで包み、白い紙? でできたマスクをし、手袋もしている。アイリスはぺこりと頭を下げた。


「ソフィアさん、こんにちは。そうなんです。袋をいくつか分けてもらえませんか」

「そうねえ。雪を入れるんなら、なるべく水が漏れないのがいいのよね――革袋でよければいくつかあるわ。持ってくる」

「ありがとう! 助かります」

「でもあんまり綺麗じゃないわよ」

「いいんです、仕方がない。ないよりはずっと助かる」

「わかった。見つけたら、雪を入れて持っていくわ。ルッツ、袋はあたしが探すから、あんたは荷物を開けちゃいな。お医者さんのお手伝いができるなんて、あんた本当にすごいわねえ」


 えへへ、とルッツが笑い、ソフィアも笑って足早に廊下を引き返した。ずいぶん久しぶりに、胸がワクワクしていた。

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