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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
間話 雪の降る街〈下〉
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間話 イーレンタールの引越し

 引っ越し作業は遅々として進まない。

 リズエルになってから十二年、自分の巣としてきた工房だ。未練などないと思っていたが、いざ引っ越しを始めると、それは酷く気の重い作業だった。


 ラセミスタがガルシアへ出向してから一年と少し、経って、初めて、ラセミスタの痕跡をそのままにしておいたことを心の底から後悔していた。


 雑然とした工房の中にぽかりとある、妙に綺麗なラセミスタのスペース。

 そこだけは片付ける必要がないということなのに、その綺麗な一角が気になって、却って片付けが捗らない。


 次に来るリズエルは、まだ決まっていない。グレゴリーが出奔し、ラセミスタは出向し、イーレンタールはリズエルの位を剥奪された。選抜試験が行われているそうだが、今現在、エスメラルダにはリズエルと呼ばれる位の持ち主がいない。


 だからしばらくは、大丈夫だろうけれど――。


 何ヶ月か後にこの工房に引っ越してくるリズエルは、きっと、どこからどこまでがイーレンタールのスペースで、ここからがラセミスタのスペースだ、ということなど、考えてみもしないだろう。そう思うと手が止まってしまう。


 思えば〈アスタ〉の復旧作業とカメラの再セットアップに時間を取られて、最近あまり眠っていないのだ。自覚はないが、きっと疲れているのだろう。


 ――だいぶ前にラスが作った。コインの波長を調べるって魔法道具。


 唐突にフェルドの声が耳に聞こえて、ぎくりとした。


 その言葉を実際に聞いたわけじゃない。イーレンタールはレジナルドからその言葉を聞いた。なのにその言葉は事あるごとにフェルドの声でよみがえって、イーレンタールの耳元で呟き続けている。


 ――だいぶ前にラスが作った。コインの波長を調べるって魔法道具。


 どうしてそんなことを言ったのだろう。本当にわけが分からない。

 それに。


 ――イーレンタールがリズエルの位を剥奪されたら、空島はイーレンタールに譲る。


 グレゴリーは、空島の権利書に、弁護士を介した公的な書類として、その一ページを付け加えたらしい――。


 ああ、まただ。イーレンタールは両手に顔をうずめた。


 片付けがはかどらないのはこのせいもある。ラセミスタとフェルドとグレゴリーが、邪魔をするのだ。

 何もかも彼らのせいだ。


 フェルドがあんなことを言ったせいで、イーレンタールはレジナルドに嬲り殺されずに済んだ。またグレゴリーのせいで、イーレンタールはこれから空島に住むことが出来る。住む場所にも隠れ場所にも、食料にも水にも甘い物にも魔力の結晶にも、困らずに済む。

 リズエルの位を剥奪されたというのに、だ。


 権力の手先となってアルフィラを作り替えてレイエルに起訴され、裁判にぼろ負けし、リズエルという名誉職を剥奪された天才技術者の末路、などという美味しいネタの提供元として、マスコミに追いかけ回されたりしないで済むのだ。


 それもフェルドと、グレゴリーのせいだ。


 ――なんでだよ。


 そう思わずにはいられない。あの時イーレンタールはグレゴリーの構築したシステムを乗っ取って、グレゴリーの声を使ってマリアラをおびき寄せ、その事実をわざわざグレゴリーに見せつけた。あの時、イーレンタールは確かに、グレゴリーを追い詰め、自分の非力を思い知らせ、絶望の底にたたき落とすことが楽しかった。


 それなのに。


「あんたらは……どーして……」


 ラセミスタのスペースを見つめて、イーレンタールは呻いた。

 どうして、そんなことをするのだろう。


 何のために。




 こんこん、とノックの音がして、イーレンタールは顔を上げた。どーぞ、と言うと、入ってきたのは、見覚えのある事務官だった。


「失礼します」


 そういった声を聞いてイーレンタールはギョッとした。レジナルドだ。


 今、レジナルドは指名手配されている。ジレッドに命じて清掃隊のシュテイナー班長、リメラード班員に大怪我を負わせた。また清掃隊三名を襲い【魔女ビル】中に【毒】をまき散らした魔物を、そうと知りながら放置し、あまつさえ自らの目的のために使役した、という、けっこうな容疑がかかっている。おまけに留置所からイクス=ストールンを連れて逃げた。数日経っても、【魔女ビル】内はかなりの厳戒態勢が取られている。


 まあこの人にとっては、指名手配なんて脅威でもなんでもないわけだが。


 時代が変わりつつあるのを感じる。何しろガストンはついに、アロンゾ=バルスターを権力の座から引きずり下ろすのに成功した。レジナルドが幾度でも校長になり替わることができたのは、バルスターの存在が大きかった。おまけにジレッドもベルトランも魔物もいない。この人がほぼ丸腰になる日が来るなんて、ちょっと前までは想像もできなかった。


 イーレンタールは咳ばらいをして動揺をごまかした。


「……どこに隠れていたんですか」

「引っ越しの手伝いでもしようかと思ってね」


 質問には答えずにそう言って、レジナルドはゆるゆると姿を変えた。服装だけは変わらない。この人にこの能力があって、同時に『エルヴェントラの小石』を保持している限り、いくら丸腰になったとしても、【魔女ビル】内を歩くことになんら支障はないのだろう。


「……いらないですよ。すぐ終わりますから」

「一向に進んでいないようだけどね」


 レジナルドは周囲を見回してからかいの声を上げる。まあね、と言って、イーレンタールは間を持たせるために注文パネルを操作して香茶と菓子の籠を頼んだ。レジナルドはお構いなく、と言ったが、勧められるままにすとんと椅子に座った。


「空島はグレゴリーの私的財産だったんだよ」


 いつ本題に入る気なのかわからないが、そんな風にレジナルドは始めた。イーレンタールは黙って頷いた。イーレンタールも、今度のことが起こるまで知らなかったことだった。


 グレゴリーは慎重に慎重を重ねて、そのことが公にならないように手を打っていたらしい。


 よくよく権利書を調べてみるとそれがわかる。空島はエスメラルダの国家プロジェクトの一環として作られたもの、との体裁がとられているが、どうも逆だった。グレゴリーが初めに空島を作り上げ、それをエスメラルダの国家プロジェクトに売り込んだ、というのが真相だった。その報酬は空島の代金そのものではなく、エスメラルダの上空に住む権利と、定期的に魔力の結晶および生活必需品を受け取る権利だった。上空の歪みのデータが欲しかったエスメラルダは、ふたつ返事でそれに乗った。


 空島に住むのは“リズエル”ではない。

 データを提供することができ、空島の権利書をもっている人間なら、誰でもいいのだ。そう、イーレンタールでも。


「一度リズエルの位を剥奪しようと思ったことがあるんだ。あそこから〈アスタ〉の中を探られるのに嫌気がさしてね」レジナルドは淡々と言った。「でも意味がなかったんだよね。リズエルじゃなくなってもあそこに住めるように、グレゴリーは初めから手を打ってたんだ。したたかなオッサンだった。まあそのお陰で君が住む場所にも隠れ場所にも困らないんだから、ありがたいと思わなくちゃね」


「……そうですね」

「優しい先輩がいて羨ましいよ」


 レジナルドは穏やかにそう言い、イーレンタールは今度は何も言わなかった。

 ややしてお茶と菓子籠が届いた。これを準備した人間は、と、イーレンタールは思った。

 イーレンタールが平然とリズエルの権利を使い続けることに、呆れただろうか、と。


 しかしリズエルの称号が剥奪されるのは今月末だ。今現在は、まだリズエルでいいはずだ。そんなことを考えるイーレンタールに、レジナルドが言った。


「封印は済んだかな」

「ふ……?」


 驚いて顔を上げるとレジナルドは、

 先程の穏やかさかが嘘のような、


 酷く荒んだ顔をしていた。


 イーレンタールは目を見張った。

 一瞬、死体のように見えた。


 頬は青白く、唇はかさつき、目は落ちくぼみ、――荒涼とした砂漠を覗いたような、そんな錯覚に駆られる。


 でもそれは一瞬だけで、瞬きをしたそこに見えたのは、やはり生きているレジナルドだった。美しい顔に真剣な色を浮かべ、イーレンタールをじっと見る。


「〈アスタ〉の中にいる〈何か〉。あれはもう、二度と、出てくることはない?」


 声が堅い。

 よく見れば、指先が神経質に椅子のひじ掛けをこすっている。イーレンタールはぞっとした。レジナルドは全然平静じゃない。それはそうだ。ガストンが目を光らせている【魔女ビル】の中に一人でやってきたのだから、世間話をしに来たわけがない。


 ――ばれてるのか。


 一瞬そう考えた。


「あ……ああ、はい」イーレンタールは頷いてみせた。「削除までは無理ですが……」

「なぜ」


 冷たい目だった。そのときイーレンタールは悟った。

 レジナルドはイーレンタールを信じていないのだ。


 カタカタと何か音が聞こえ始めた。レジナルドは疑っている。疑っている。当然だ、と思った。あの事件の後ずっと、心のどこかで恐れていた。


 ――だいぶ前にラスが作った。コインの行き先を探る魔法道具……


 フェルドはそう言ったらしいが、しかし、あの装置を作ったのは本当はラセミスタじゃない、イーレンタールだ。フェルドの命を救い、レジナルドを窮地に追いやったあの装置を、フェルドに貸したのは他ならぬ自分だ。


 レジナルドはとっくにそれを知っているのではないだろうか。イーレンタールがそれをフェルドに貸し出し、レジナルドに黙っていて、レジナルドがフェルドに殺されかけるのを見過ごしたのだと、疑っているのでは。だからわざわざここに、やってきたのでは。


 ――殺される。


 そう思った瞬間、カタカタ鳴っているのは自分の歯の根だと言うことに気づく。


「なぜ削除できない?」


 レジナルドは立ち上がった。かちゃ、とカップが音を立てた。


「君ほどの技術者が、なぜ、〈アスタ〉を完全に支配することが――」

「パ、ス、ワードが、あるからですよ。ご存じでしょ」


 言って、イーレンタールは自己嫌悪を覚えた。なんて阿るような、ご機嫌を伺うような、言い方なのだろう。


「パスワードだって、本当はわかってるんだろう?」

「わかってないですよ!」


 いったいコレは何の話なのだ。イーレンタールはわけがわからない。

 レジナルドが疑っているのは、あの装置のことではないらしい。


 レジナルドが疑っているのは、ビアンカ、とかマリアラが呼んだ、あの謎の人格を封印したかどうか、ということらしい。でもなぜ、こんな疑いを持たれなければならないのだろう? イーレンタールは宥めるように両手を挙げる。


「あんな人格が潜んでいたことだって知らなかった。だからもう、完全に封印しました。あの人格が外に出てくることはありません、もちろんその、誰かが解除すれば別ですが……でも、あの、パスワード、最後のひとつがわからないことには削除までは」


「本当に?」


 訊ねられてイーレンタールは息をのむ。

 この形相は何だろう。


 フェルドとマリアラをとり逃がしたことも、ライラニーナとダニエルに逃げられたことも、どうでもいいようだ。自分が捕まる危険を冒してまでわざわざここまで確かめに来た。〈アスタ〉の中にいる人格が、なぜこうもレジナルドの神経を逆なでしているのか、イーレンタールにはさっぱりわけがわからない。


「……本当に? わからないのか、イーレンタール」

「わかりませんよ……七文字だってことしか」

「七文字!?」

「……七文字だってことは、わかってるんですが」

「ヴォルフ=グウェリンだ!」

「は!?」

「ヴォ、ル、フ、グ、ウェ、リ、ン、で、七文字だろ! 入れてみろ! 早く!」

「は……はあ」


 ――ヴォルフ=グウェリン。


 仕方なく端末を開いて〈アスタ〉の根幹にログインするための画面を呼び出すべく入力を始める。しかし、その名には聞き覚えがあった。イーレンタールは打ちながら、レジナルドを振り返った。


「〈死神〉の名前じゃないですか……!」

「そうだよ。君は知らないのか。エヴェリナは〈死神〉に心を奪われた」


 ログイン画面が出た。そこに言われたとおりの文字を入力しながら、イーレンタールはもう一度レジナルドを振り返った。


「……姉ちゃんが?」

「そうさ。〈アスタ〉の根幹に潜む〈誰か〉――あの女性の人格は、エヴェリナだよ」


 ぴー。

 警告音が鳴り、イーレンタールはまた画面に視線を戻した。

 そして、言った。


「違いますよ」

「違う? だってそうだろう、あの声、あの機転、あのひたむきさ、あれはエヴェリナだ」

「それじゃねえよ」つい素が出た。「パスワードだよ。違う。ヴォルフ=グウェリンじゃなかった」

「……違うのか」


 レジナルドが息をつく。イーレンタールはレジナルドに向き直った。


「それにあの女は姉ちゃんじゃないですよ。マリアラが、ビアンカ、とか呼んでたし――そもそも姉ちゃんの声じゃない。あんたは二百年ぶりだろうけど、俺は十八年だ。さすがに姉ちゃんの声かそうじゃないかくらいは覚えてる」


「あの時に声をそのまま保存できるシステムを使えたかどうか。あの声のデータは別人の物で、今名乗っている名はビアンカで、でも人格はエヴェリナだったとしたら……」


 あり得る、と、イーレンタールは思った。

 そして、ぞっとした。

 だからだ、と思う。レジナルドはだから、この件に関してイーレンタールを信じられないのだ……。


「で、も、なんで。何で姉ちゃんが入れるパスワードが〈死神〉の名前になるんだ。あんたの名前ならまだしも」


「さっきも言っただろう。エヴェリナは〈死神〉に心を奪われた」

「そうかなあ? 〈死神〉ってあん時もうずいぶんなオッサンだったじゃ……」

「そう、二十歳以上は離れているね。でも、恋に年齢なんか関係するかな」


「姉ちゃんはあんたを愛してたんだ」ずきりと胸が痛んだ。「あんたの頼みで、〈死神〉を殺しに行ったんだ。自分の命なんか――家族を巻き添えにすることまで厭わないで、あんたのために! なのにっ」


「ああ」レジナルドは一瞬顔をしかめた。「知らなかったのか……確かにエヴェリナが〈死神〉を殺していたら、イーレンタール、君の命も危なかっただろうね。でも、そうならないようにするって僕はエヴェリナに約束したんだ。〈死神〉が死んだらすぐ決起する、イーレンタールが捕まる前に絶対に革命を起こしてみせるって。だからエヴェリナは君を巻き添えにすることを厭わなかったんじゃない。巻き添えにはさせないと約束した、僕の言葉を信じてたんだ」


 ――知りたくなかった。


 イーレンタールは反射的にそう思った。


 ――姉ちゃんが俺を捨てたんじゃないってことは。

 ――俺が姉ちゃんを……

 ――俺の方が……


 ――エヴェリナはあんたを捨てたりしてないわよ……


「とにかく」


 レジナルドの鋭い声に我に返った。冷たい、余裕のない、声が続いている。


「〈アスタ〉の根幹を削除する、そのためにパスワードが必要ならそれを探る、ということを、最優先にしてもらいたいんだよ。封印だけじゃ不安だからね」

「……姉ちゃんを」


 呟きにレジナルドは意外なほど強い反応を見せた。


「君は知らないんだ! 逃げたからだ!」


 その言葉が深々と胸に突き刺さる。レジナルドは壮絶な顔でイーレンタールの両肩を掴んで覗き込んだ。


「……エヴェリナを置いて逃げたからだよ」

「俺、は」

「ライラニーナが連れて行きたかったのはダニエルだけだろ。君はそこに無理矢理乗っかった。雷雨の中、箒に三人乗りなんて無謀だ。だから途中で落っこちた。ライラニーナが来る四年も前のエスメラルダに!」


「……!」


「君は本来ここに連れてきてもらえる立場じゃなかった。……だから知らないんだ。エヴェリナがあの裁判で何をしたのか……」

「し……ってるよ」

「文字で?」


 言われて、イーレンタールは何も言えなくなった。レジナルドは嘲笑う。


「ルクルスを庇い、国民の怒りを浴び、投獄され、文献整理をして生涯を閉じた……たったの一行で収まる文章で何がわかるって言うんだ! あの子は……! あの子は……」


 激情を飲み込み、レジナルドは嗤って見せた。


「……僕を憎んでいたはずだ。あの子の命乞いにもかかわらずルクルスを大勢殺した僕をね。〈アスタ〉の中に潜んで……名を変え、声を変え……僕を呪い続けてきたんだ。消してくれるよね、イーレンタール? 彼女は妄執の固まりだ――二百年も――君のことも呪っているだろうよ……あの地獄のただ中にひとり置き去りにして自分だけ逃げ、豊かな生活を満喫してきた君のこともね」


 レジナルドが嗤っている。その時イーレンタールは、ノックの音に気付いて飛び上がった。


「〈アスタ〉。誰だ?」


 ささやくと〈アスタ〉が従順に答えた。


「警備隊のハリソンとリカードです」

「ちっ。ガストンめ、イーレンタールを見張っていたんだな」


 レジナルドはそうつぶやき、


「……また来るよ。次に来る時までには、いいニュースを聞きたいもんだね」


 そう言って、きゅん、というあの音とともに消えた。コインを持っていたらしい。

 常軌を逸しているとイーレンタールはぼんやりと考えた。


 いらだったようなノックの音がもう一度響き、イーレンタールはため息とともに〈アスタ〉に行った。


「鍵を開けて、入れてやってくれ」

『はい』


 〈アスタ〉が鍵を開け、警備隊の見知らぬ男が二人、入ってくる。


「失礼いたします。現在、【魔女ビル】内のパトロールを強化しておりまして」

「ここにさっきユーディス事務官が入室したと思いますが。今、どちらに」

「さっき出てったよ」


 警備隊員は意味ありげに目を見かわした。イーレンタールはうんざりした。嘘なのだとわかっているのに、イーレンタールのことも、様々な理由をつけて犯罪者として扱えばいいのに――体裁だけでも一般市民に対する態度を崩さない彼らの詭弁が、煩わしくてたまらない。


「中を調べさせていただいても?」

「いいよ。でも魔法道具に触らないようにしてくれ。何かの故障が見つかったら警備隊にクレームを入れる」

「承知いたしました」


 舌打ちでもしたそうな表情でそう言って、警備隊の一人が中に入って、捜索を始めた。もう一人は入口に陣取って、イーレンタールをぶしつけに眺めている。


 早いところ引越しを終えて、空島に移ってしまおう。

 そうすればこんな奴らとこれ以上付き合わずに済む。空島で、今度はイーレンタールが『人食い鬼』として、エスメラルダ上空から睥睨してやる。


 警備隊員を無視して片付けを再開しながら、十八年前に別れたきりの、実の姉のことを思い出す。あの時エヴェリナは十六歳で、弟の目から見ても綺麗な人だった。現代ならばあの容姿は祝福であっただろう。姉がその気になれば大勢の男を崇拝者にして、王女のように君臨することもできただろう。しかしあの時代、その容姿は呪いでしかなかった……。


 ――妄執の固まりだ……


 レジナルドの声が耳の中でわんわんする。確かに、姉の最期は幸せだったとは言いがたい。〈アスタ〉の根幹に文献データをインプットしたのは姉だから、あの謎の人格を遺せた可能性も高い。姉の最期を思い返せば、レジナルドを恨み、イーレンタールを恨み、呪いのために人格を遺したのだと言われても納得できる……だが。


 ――妄執の固まり……あれが?


 あの明るい笑い声、ひたむきな熱意を思い返せば、妄執とか恨みとかとは掛け離れた存在であるような気がする。


 ――まあ姉ちゃんだろうと他の誰だろうと……逃がす気はねえけど。


 心の中で呟いた。姉なのだとしたら恐ろしい。姉がこの十八年、一度もイーレンタールに声をかけて来なかったことから考えても、マリアラとフェルドを逃がすのにあれほど熱心だったことを考えても、イーレンタールを許す気がないことは疑いない。


 そして姉じゃないのだとしたら――それこそ脅威だ。〈彼女〉を自由にする理由などどこにもない。


「逃げたようだな」

「コインか。何か対策を考えないとな……」


 警備隊員はひそひそとささやき合い、入口で、イーレンタールに向けて敬礼した。


「失礼いたしました。もし不審者をお見かけになりましたら、最寄りの警備隊詰め所まで通報ください」


 イーレンタールは応えなかった。どのみち彼らは聞いていなかった。ばたん、と扉が閉じる。


 静寂が落ちる。


「くそ……」


 イーレンタールは段ボール箱の中に魔法道具を投げ込んだ。壊れたら、ぶしつけにも中に入り込んで捜索とやらをした警備隊員が壊したのだとクレームを入れてやろう。がしゃがしゃと乱暴に、手当たり次第にその辺のものを放り込みながら、ダニエルとライラニーナのことを考えた。


 ダニエルはどうやらアリエディアにいて、大ケガをしたマリアラを救い、エスメラルダに行くのならララに渡してくれ、と言って、コインを託したらしい。


「俺のことは……捨てたんだ」


 声に出して呟くと、しん、と胸が冷えた。


「……そーかよ」


 へっと嗤って、イーレンタールは両の拳を段ボール箱の中に積み重なった魔法道具たちにたたきつけた。ずきりと拳が痛んだが、意にも介さなかった。


 毒抜きが間に合わずにダニエルの目の前でライラニーナが死ねばいいのに、と思った。

 当然の報いだ、と。

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