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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の相棒
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五日目 非番 午後(8)

 一階に足を下ろした瞬間、今までとは違う音がした。硬く乾いていた靴音が、湿っている。

 “礼拝堂”が近いのだ。


 【魔女ビル】の一階には湧き水と、それを祀る"礼拝堂"がある。歴史書にも、“マーセラ神のご神体(湧き水)を守るために巨大な建物を建てた”という記述がある。マーセラ神はこの世を創ったとされる創世の女神だ。


 神話によると、遙かな昔、双子の女神がいた。姉はエスティエルティナという名で、破壊と闇、それから毒を司る残忍な性格の女神だった。銀色の巨大な狼を従え、生きとし生けるものを捕らえては魔力を奪い、金色の大鍋で煮込み、毒を作り出すのが生業だった。


 妹はマーセラという名の、慈愛と浄化の女神だ。真っ白な翼を持つ獣がその傍らにはいつもあった。マーセラは愛する民を殺し続けるエスティエルティナと訣別し、姉を閉め出すために箱庭(せかい)を創った。彼女の白い腕の中に抱き締められた世界には〈毒〉は入り込まないが、閉め出されたエスティエルティナは怒り狂い、今も彼女の白い腕をこじ開けようとし続けている。マーセラは姉の干渉を防ぐため、世界のあちこちに清浄な泉を配置した。〈毒〉が染みこんできたら、すぐにわかるように。


 【毒の世界】は〈白い腕(はこにわ)〉の外だ。毒に満ち、魔物の棲む、エスティエルティナの治める世界だ。

 今からやろうとしていることは、その扉を開けて、エスティエルティナの眷属を返すということだ。

 もし数百年前、マーセラ教にもっと力があった頃だったら、マリアラもフェルドも異端として火炙りにされていたかも知れない。


『14メートル前方に魔物。“礼拝堂”通風口まで17メートル。“礼拝堂”内は無人。通常門に施錠、〈アスタ〉のカメラ・マイク共にオフ。――準備完了』


 淡々としたラセミスタの声が響く。マリアラは堪えきれなくなって、声を大きく張った。


「ラセミスタさん! どうもありがとう」


 無線機の向こうで、息を呑む音がした。――沈黙。


「あの、ただ、言いたかっただけだから。わたしの我が儘に協力してくれて、本当にどうもありがとう。伝えたかったの。ただ、それだけなの」


 無線機は何も言わない。静寂の中に、ふたりの足音だけが響いている。マリアラは、内心を吐露した気恥ずかしさをなんとか押さえ込んだ。


 と。


 にゃあ。


 かすかな声がした。

 フェルドが光珠を翳した。光の届く範囲ギリギリの辺りに、白い猫が座っていた。にゃあ。猫がもう一度鳴いた。ふたりが近づいていくと、白い猫は尻尾で奥を指して見せた。その先にあるのは今までより尚いっそう濃い、闇だ。

 ――違う。

 マリアラは足を速めた。

 そこに、魔物がいた。


 駆け寄ると魔物は今、猫に見えた。ひげが触手のようにうねうね動いているのと、光を浴びても輝かない毛皮、猫にはあり得ないくらいの大きさを除いたら、ではあるけれど。今魔物は1メートルくらいの大きさになっている。様々な色が渦を巻く美しい色をした瞳がマリアラを見て、微笑んだ。

 知性を感じる瞳だった。


 とたんに、昨日の出来事が怒濤のように押し寄せてきた。


 杭を撃ち込まれ与えられる苦痛によって無理矢理暴れさせられていた。この子がこちらに向かってきたとき、迎え撃とうとしたフェルドを止めた。我が儘を言い、付き合わせて、それどころか様々な準備も根回しも全部丸投げして、【魔女ビル】中に異臭騒ぎを起こさせて。自分の我が儘が数々の波紋を呼び、ラセミスタとフェルドに多大な迷惑をかけた。

 でも、今。それが起こるべくして起こった出来事だったのだと言うことを思い知った。

 見捨てることができなかったから。不可能だったから。

 たぶん何度同じ境遇になっても、同じことをするしかないことが、わかったから。


『それは確かに"我が儘"だったのかもしれないけど』


 聞き慣れない声がした。女性の声だった。ラセミスタの声とは違い、もっと低い、落ち着いた大人の声だ。それでいて、どことなく無機質な声だった。人工的に創られた声を思わせる。

 声の出所を探すと、白い猫がこちらを見ていた。そしてもう一度、口を開いた。


『言うことを聞いてあげたくなる"我が儘"と、あげたくならない"我が儘"がある。――あなたの"我が儘"を聞いて、手伝いたくなったのはあたしの意思だから』

「あ……」

『だから……伝言を……伝えられなくてごめんなさい』


 言うやいなや、白い猫は逃げ出した。止める間もなく、マリアラとフェルドが今来たばかりの道を逆戻りする形で。その白い背はあっという間に闇に紛れて消えてしまった。フェルドが笑う。


「バカだなー。魔法道具だけ逃げてどうすんだよ」


 無線機は何も言わなかった。マリアラは微笑んだ。確かに、ラセミスタ自身はあの無線機の向こうに、今までと変わらずにいるはずだ。


 いつか、もう少し、後ほんの僅かだけでも、打ち解けてくれたらいいな。

 そう思いながら、マリアラは魔物に手を伸ばした。


「行こう。――お家に帰ろう」


 猫の姿を取った魔物は、頷くような仕草をして、先に立って歩き始めた。気温が下がっている。いや、周囲の石壁からしみ出る水が、増えているのかも知れない。ぴとん、ぽとん、いつしかひっきりなしに水の滴る音が聞こえている。

 静かだ。

 水音が聞こえているのに、周囲は静まりかえっていく。


「ラス。入口はどこだ?」


 フェルドが訊ねた。ラセミスタは答えなかった。フェルドが無線機を見下ろした。

 マリアラはそちらに気を取られ、柔らかな冷たいものに蹴躓いた。

 順調に進んでいた魔物が、立ち止まっていた。


 驚いて見ると、魔物は今来た方を振り返っていた。ラセミスタの発言を伝えたあの白い猫が、逃げ去っていった方向だ。ぶるぶる震えているのが見える。立ち止まっているというより、凍り付いているのがわかる。マリアラは魔物を覗き込み、その美しい複雑な色をした瞳が、恐怖に染まっているのを知った。

 と、


"――て――"


『フェルド!』無線機が叫んだ。『なんか来る! 入口まであと五歩、――逃げて!!』


 マリアラは思わず、凍り付いた魔物を抱き上げた。


 今やマリアラも、その"恐怖"を感じ取っていた。何か来る。暗闇の向こうから、地鳴りのような低い振動が伝わってきている。がん! フェルドが壁に蹴りを入れると金属でできた蓋が外れ、丸い光が差し込んだ。水面の色。ゆらゆらたゆたう光の色は、こちらの闇に比べて神々しいほど綺麗だ。


「先行って」


 フェルドが身を引き、マリアラはその穴の中に魔物を押し込んだ。

 どぼん。水しぶきが上がったが、構っている場合ではない。急いでその後に続いた。出た先はとても広かった。ステンドグラスから光が差込み、幾重にも重なった光が広々とした水面に落ちている。飛び降りると太ももまでが水に浸かる。

 フェルドが続いて来る。その表情が険しい。


 礼拝堂は全体的にすり鉢のような形をしている。天井は三階までぶち抜きになっていて、歴史の資料集で見た円形闘技場を彷彿とさせる。すり鉢の底に静謐な水がたまり、湧き水、という言葉の印象を裏切る広々とした池を形作っている。


 マリアラは慌てて周囲を見回した。【扉】はどこにあるのだろう。水に浸かった魔物はがたがた震えている。助けて助けて。その小さな声が確かに聞こえる。助けて、つかまりたくない。殺されたくない。死にたくない。アシュヴィティアの眷属に取り込まれるのは厭。怖い怖い、怖い怖い怖い怖い怖い――


 水面が揺らいだ。次いで、ざざざざざざ――潮が引くように湧き水がわきに動いた。フェルドが水を退けたのだ。隠れていた木のうろが、露わになる。

 マリアラは凍り付いて動けない魔物を抱え引きずるようにしてうろのところへ連れて行った。水底に沈んでいたというのに、木のうろは朽ちていなかった。いい匂いがする。四枚花弁の小さな花がうろの辺りにたくさんついている。


『逃がしはせぬ』


 幼い声が、背後で聞こえた。

 さっき入ってきた礼拝堂の抜け穴から、幼い少女が顔を出していた。

 ジェイドがつれていた、幼児階で見た、あの幼女だった。

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