病室で
リンが次に我に返った時、目の前にサンドラがいた。
「あらあら……ひどい顔」
サンドラはとても優しい声でそう言った。リンは全身が重いのに気づいた。体中、いやそれどころか、瞼まで重い。目はヒリヒリと痛み、まるで体が地面に縫い付けられているかのようだ。
でも、サンドラだ。
久しぶりだ。
リンは少し嬉しくなった。サンドラに会いにきてもらえるのは、いつでも嬉しい。
のそのそと体を――なんとか――起こして、リンは言う。
「サンドラ……こんにちはぁ」
「もう夜よ」サンドラは笑う。「ちょっとつきあってよ。あなたはまだ十七歳だから違法だけど、あたしは飲みたい気分なのよね」
言いながらサンドラはサイドテーブルをゴトゴト持ってきて、そこに、紙袋から出したさまざまなものを次々に載せ始めた。
そこで、リンはやっと気づいた。
ここは、病室だった。見覚えがある。
「……あの……」
「大丈夫大丈夫、リンさえ飲まなきゃ叱られない、って」
サンドラは缶詰やおつまみのパッケージを次々に開け、紙皿の上に中身を出していく。ひととおり出すと椅子に座り、ぷしゅっ、と缶のプルトップを開けた。はい、と差し出されたそれは、炭酸入りのレモンソーダだ。サンドラはもうひとつぷしゅっとプルトップを開け、嬉しそうに椅子に座った。
「はい、かんぱーい」
「か、かんぱー……い?」
サンドラの手にあるのは、まがう事なき缶ビールだ。
サンドラは実においしそうに、喉を鳴らしてビールを飲んだ。いい飲みっぷりだった。ぐびぐび、という擬音はきっとサンドラの飲みっぷりを表すためにできたに違いない、と思うほどだった。
「まー食べて食べて。飲み物はいくらでもあるから、好きなのを」
「ウィード!!!」
ばーん、と扉を蹴り開けて現れたのはジェイディスだ。リンは考えた。してみると、ここはどうやら医局である。
見覚えのあるのも当然、前にも入院した、医局の個室、の、ようだ。
――どうして?
「あんったって子は……っ! もう面会時間過ぎてんでしょーが! どっからもぐりこんだ! てか、酒!!! 病室で酒盛りするんじゃなーい! ケンカ売ってんの!?」
「リンには飲ませてないですよ。リンのはジュースですよ」
「当たり前よ! あーもーだからここで飲むな! 表に出やがれ!」
ジェイディスはサイドテーブルを、上にのっているおつまみごと担ぎ上げ、病室から出て行った。サンドラは涼しい顔で、ビール片手に袋を探り、裂きイカを取り出した。片手で器用に細く裂いて――
「はい、あーん♪」
「えっ」
「だからあんたって子はー!」
ジェイディスが戻ってきた。ジェイディスは、口から裂きイカをぴょこんと飛び出させたままのサンドラを急き立てて病室から追い出し、リンの上にガウンを投げた。
「あんたも出なさい。神聖な医局の個室で酒盛りだ? ふざけんなっつーの」
「あ……あ……あの……」
「いーからいーから」
ジェイディスはさっさとリンを外に追い出した。リンは目眩がした。何が起こっているのかさっぱり分からない。ずぶずぶの砂袋のようだった体は、追い立てられると意外に軽い。病衣の上にガウンを羽織らされ、リンはジェイディスに有無をいわさず連行された。
通り過ぎる医局のそこここにいるマヌエルや医師達はみんな苦笑している。もしかして、よくあることなのだろうか――などと考える間に医局を出、休憩室にぺいっとほうり出される。
「騒いだら窓から蹴り出すわよ」
ジェイディスはドスの効いた声でサンドラにクギを刺した。サンドラはジェイディスが先ほど担ぎ出したサイドテーブルの上のおつまみを、休憩所備え付けのローテーブルの上にせっせと移しながら、朗らかに聞いた。
「ジェイディスさん、シフト何時までです?」
「あー? ……八時までよ」
「ふーん、頑張ってくださいねー」
「……え、それだけ!? 誘えよ!」
「あ、すみません冷蔵庫貸してー」
「貸すかー!」
「ジェイディスさんの分のビールがぬるくなっちゃいますよ?」
「雪持って来ればいいでしょ! そこのドア開けたらすぐ外よ! 八時までに全部飲み尽くしたら縫合するわよ!」
「へーい」
サンドラはひらひらと手を振り、ジェイディスは憤然と立ち去った。リンは思わず言う。
「……いいんですか……?」
「そりゃいーわよ。何も問題ないでしょ。八時か、あと一時間半……んー、途中で買いにいかなきゃ縫われちゃうかな」
「……何を縫うんですか?」
「そりゃ目とか、口とか? あらやだリン、どこ想像したのー? ぎゃー、痛いわーそこ。しかも困るわー」
言ってサンドラはあっはっは、と笑った。意味が分からない。先程の飲みっぷりで既に酔ったのだろうか。
サンドラは楽しそうに裂きイカをつまんだ。
「で、聞ーてよリン、ほら、あなたも知ってるでしょ? ガルシアに行ったベネット。あいつから連絡来たんだけど、それがね、音声のみだったの。どう思う?」
「……ど、う……?」
「それがね、〈アスタ〉を介してはいるんだけど、声しか聞こえないの。カメラの前に何か、多分布か何か掛けてるのよ。変でしょ?」
リンは呆気に取られたままだ。サンドラはピーナッツをかりっと噛んだ。
「それでね、変だなーって思って、こないだ連絡したの、こっちから。そしたら最初は普通に映像映ってたのに、ベネットが入って来たなって思ったら……あいつ、顔映す前にやっぱりカメラに布、かけるのよ! おかしいでしょ! それで、『なんで顔隠すの、やましいことでもあんの?』って聞いたんだけどごまかすのよね~」
「……ベネットさんと……仲いいんです……?」
「そーよ」
サンドラは一瞬、口ごもった。
そしてまた、軽やかに話し続けた。
「でね、フェリクスから連絡あった時、それ聞いてみたんだけど……くくくく」サンドラは押さえ切れないというように笑い出した。「フェリクスに聞いてやっとわかっ……くくく……ベネットったらね、ガルシア行って半年で二十キロ太ったんだって!」
リンは目を剥いた。「にじゅっ……!?」
「そりゃ顔隠すわ! あははははは! 知ってた、ガルシアってすっごくご飯がおいしい国なんですって! でね、ベネットが護衛してるリズエルいるでしょ、ラセミスタ。リンの友達なんだっけ? その子がガルシアの有力貴族に気に入られてね、街中のお屋敷に頻繁に呼ばれるんですって。で、送迎してるうちに、ついでにベネットももてなされるようになったらしくて……毎日毎日ご馳走責めにされてさ。気づくとあっと言う間に二十キロ! あっはははは! もーガストンさんに会わせる顔がないって半泣きで筋トレしてるらしいんだけど、ご馳走三昧じゃ無理よね! 無理無理!」
「サンドラ、ベネットさんとも……フェリクスさんとも……」
そうか、と思った。
きっと同期なのだ。
リンはぎくりとした。何をやってるんだ、と思った。
なんであたしは、こんなところでサンドラと楽しく飲み会なんて――
――彼女を殺したのは僕じゃない。君だよ。
「か、えって、ください」リンは腰を浮かせた。「あたし……あたしに、あたし、っ、」
「バーカ」
サンドラは優しい声で言った。
それから手にしていた缶ビールをあおった。ぐびぐびぐびぐび、と飲んで、病室に向かおうとしたリンの手をさっと握った。
「サンドラっ、」
「バーカバーカバーカ」
たん、と空き缶をテーブルに載せ、サンドラはポケットを探る。
「いー機会だからガストンさんも呼んじゃお♪ リンも友達呼べば?」
「サンドラ!」
「あたしはそう簡単には殺されないわ」
下からリンを睨み上げたサンドラの眼光は鋭く、そしてひどく優しい。
「見くびらないでよ。あたしのこれまでの人生だって平穏無事ってわけじゃなかった。ジレッドとベルトランと同期なのよ、知ってるでしょ? 正直言って修羅場だったわよ、それを今日まで無事に掻い潜ってきたのよ。そのあたしの行動を、あんたが勝手に決めていいと思ってんの? あたしは今日はここであんたと飲み会したい気分なの。医局の許可も取った。先輩が飲もうつってんのに断れると思ってんの、新人のーヒラのーぺーぺーのくせに」
「だって……っ」
アイリスが。
――アイリスが。
リンはそこに座り込んだ。
――これは始まりだよ。
レジナルドという名らしいあの青年の、麗しい声が耳に聞こえる。リンがエスメラルダに留まる限り、リンの親しい人間は――
ジェイドの脅迫によってリン本人には手を出せないあの人は、その代わり、リンの周囲の人間を害することに決めた。
――彼女を殺したのは僕じゃない。君だよ。
「大丈夫よ」
サンドラはぽんぽんとリンの肩をたたき、無線機に向かって言った。
「ガストンさん、サンドラ=ウィードです。もう着いてます――というか、始めてますけど。え? あは、わかってますよ。リンにはレモンソーダです。あと炭酸系を数本。ビールはいっぱい買いました。え、ウィスキー? すみません、スパークリングワインは三本買いましたがウィスキーはないです。はい。はーい。お待ちしてます」
ぴっと無線機を切り、サンドラはまた無線機を操作した。ぴっ、ぴっ、ぴっ、と音を立て、耳に当てる。
「大丈夫よ」
また言った。それからまた、相手の出た無線機に声を掛けた。
「こんばんはー。急で悪いんだけど飲まない? 【魔女ビル】の三階……そー! 医局の……さすがに外よ。休憩所。ビールはいっぱいあるけど、他のを飲みたきゃ買って来て。あと何かお腹にたまるあったかい食べ物。おでんとか焼き鳥とか焼きうどんとか、そういうのお願い。ふふ、やだーパシリだなんて♪ そんな♪ ばれたか☆」
ぴっと切り、サンドラは笑う。
「オリヴィエも来るわよ。ダリアちゃんだっけ、あの子も呼ぶか」
「やめて……!」
「リン=アリエノール!」
びしりと言われ、リンは硬直した。
サンドラは真っすぐにリンを見ている。
「……大丈夫よ。あたしを信じなさい」
「やだ……! やだやだ、やだ……っ」
「あんたあたしたちをバカにしてんの? そう簡単に殺されると思ってんの? あんたよかずっとちゃんと、自分の身くらい守れるわよ! ガストンさんだってね、ずっと手をこまねいていたわけじゃないのよ。バカにしないで。あたしだって保護局員よ。あたしはリン、あんたが好きだから、たまにはこうして一緒に飲みたい。殺されるかもしれないからって、その楽しみをこの先ずっとあたしから取り上げるつもりなの? 誕生日まで、あと……四カ月ってとこ? まだお酒も飲めないがきんちょのくせに、先輩の行動を勝手に決めようったあいい度胸だ」
「だって! だってアイリスが……アイリスが……!」
こういう時、リンはつくづく、自分がまだ子供なのだと感じる。体は大きくなったけど、いろいろちゃんとできるようになったけど、自分を養えるようになったけど……それでもまだ、あたしは子供なのだと思う。こう言う時、ただただ泣くしかない。大切な何かを失った時。
グールドのときも。
今も。
「アイリスはあたしが……あた……あたしのせいだ……っ」
うあああああ、と肺から勝手に声が出た。体の中にある悲しみを勝手に吐き出していく。だめだと思った。吐き出しちゃだめだ。アイリスへの思いを、そう簡単に吐き出しちゃだめだ……そう思うのに、声は止まらない。
と、その声が少しくぐもった。
サンドラがリンを抱き締めていた。
泣きやまなきゃ、そう思うのに、声はまだ止まらない。サンドラは何も言わなかった。リンの吐き出す慟哭が自然に力を失うまで、ただ黙って、サンドラはリンの背中を撫でていた。
しばらく経って。
リンは我に返った。一瞬、意識が飛んでいたらしい。サンドラの柔らかな体に凭れていたリンが身じろぎをすると、サンドラは優しい声で言った。
「……リン、あのさ。あなた、あたしを信じてる?」
リンは何も言えなかった。声が出なかったのだ。
何とかかすかに頷くことはできた。するとサンドラは、よしよし、と言った。
「いい子ね。じゃあ……レジナルド、とか、いう男のことは? 信じてる?」
まさか。首を動かすと、サンドラは、よし、と言った。
「じゃあ、レジナルドよりあたしを信じてるのね? よしよし。じゃあ言うわ。アイリスがあんな目に遭ったのは……レジナルドのせいよ。あなたのせいじゃない」
「……で、も」
「あーそこで反論するんだ。あたしの言葉より、レジナルドの方を信じるって意味?」
そんな、と思う。
そんな言い方されたら、こう言うしかない。
「ちが……」
「ガストンさんが、いろいろ調べたのよ……この一週間、ガストンさんはほとんど家に帰りもしないくらい必死で働いてたのよ。いい? レジナルドの手駒はもうほとんどないの。一番大きかったのは、アロンゾ=バルスターを校長秘書の座から追い払えたことよ。清掃隊に感謝だわ――シュテイナーさんたちもなんとか一命を取り留めた。証言が複数取れたから、ジレッドはもうれっきとした犯罪者よ。殺人未遂ですもの、何十年も出てこられない。ストールンも逮捕された。ベルトランが【魔女ビル】にいなかったのが不気味だけど、この事態になったのに出てこないってことは――国内にいないのかもしれないわ。それなら、指名手配して、【国境】さえ通さなければ戻ってこられない。魔物も消し炭みたいになってたのが確認されてる。ね? レジナルドには、あなたが大事に思ってる人間を次々に殺せるほどの余力はないのよ」
――でもレジナルドは動けてるじゃないか。
リンの心に湧いた反発を封じるように、サンドラは続ける。
「それからね、近々、『歪みの研究』誌に――歪み学会という、エスメラルダで一番権威のある歪みに関する学会の機関紙よ――その学会誌にね、論文が載るわ。『宇宙空間に向けて開く穴に関する考察』というタイトルでね、内容は、今まで何度か開いてきた、宇宙空間に向けた穴は、理論的に存在し得るか、ということについての考察なの。発表されたら多分大変な波紋を呼ぶはずよ。
――つまりね、次に『宇宙空間に向けて開いた』という発表がなされる穴については、専門家たちがこぞって研究することになるはずなの。レジナルドはもう、軽々しくその言い訳を使うことができなくなるってわけ」
「……そ、なん、ですか」
「そー。ガストンさんはひとつひとつ、レジナルドの打つ手をつぶしていってる。バルスターを排除できたお陰で、イェール校長とも面会が通るようになった。何度も打ち合わせを重ねてる。大丈夫よ、リン。ガストンさんをもっと信じなさい」
「……」
はい、と、頷くことはできなかった。
そうするには、アイリスの死が、重すぎた。
うつむいたリンを優しく立ち上がらせ、サンドラは、リンを抱えるようにしてソファに戻った。リンを横向きに横たわらせて、頭を自分のひざに乗せてくれた。よしよし、とその手がリンの瞼を撫でる。
そしてサンドラは、手を伸ばしてリンのレモンソーダを引き寄せた。
「備えあれば憂いなしだわ、ほんと」
言いながらストローをさして、ジュースをリンの口元に持ってきた。
「喉渇いたでしょ。飲みなさい」
まるで赤ちゃんのようだと思いながら、リンはサンドラのひざに頭を乗せたままレモンソーダを飲んだ。甘酸っぱくてしゅわしゅわの炭酸が、ひび割れた喉に染みていった。




