島で
島でアイリスが受けた歓迎は、密やかで、質素なものだった。
アイリスがここへ来るのは二度目のはずだ。ハイデンがわざわざ、二度目はぜひ一緒に、とリンを誘った理由がよく分かる。
長年『隔離』されてきたルクルスたちの感情が、頑なであることは当然のことだ。ラルフやシグルド、ハイデン、ゲンといった人たちしか今まで知らなかったから、もっと歓迎されるものだと思い込んでいたけれど――。
でも、アイリスは全く気にしていないようだった。近寄って来るごく少数の人たちと、にこやかに挨拶をした。ネイロンと名乗る二十代半ばくらいの男の人とすぐに専門的な打ち合わせを始めたので、リンはアイリスから少し離れ、周囲を見回した。
ここはエスメラルダ本土のある方角とは反対側の海岸だ。砂浜はなく、ごつごつした岩に囲まれた天然の船着き場があった。ルッツは慣れた手つきで、岩に固定された鉄柵に船を縛り付けている。少し離れた場所に、大柄な男の子と、彼を取り巻く四人の男の子たちがいるのが見えた。ルッツをちらちら見ながら、ひそひそ話している。ルッツやラルフより、三、四歳は年上だろう。
――やな感じ。
敵の多い幼少期を過ごしてきたリンの、第六感が訴えてくる。
ああいう男の子たちは、本当にどこにでもいる。自分の中にある鬱憤を晴らすのに、自分より弱い人間を狙う、力を持て余した男の子たち。
「『それ以外』の橋渡しをするなんて、ルクルスの風上にもおけねー奴だ」
大柄な男の子が口火を切った。そうそう、と周囲を取り囲む四人がいっせいに声を上げる。
「ラルフがいなきゃなんにもできねーくせに」
「頭でっかちの、いっつもボウズで帰ってくるだけの、漁もできねーできそこないのくせに」
「医師に取り入って漁を免除してもらうなんて、ホントずるいよなー。でもしょーがねーよなー。ラルフが魚、分けてくんねーと、お前一匹も釣れねーもんな」
「ラルフも酷いよなー。お前みてーな出来損ないを見捨てるなんてさ」
「差し入れならリックに任せりゃいーのに。ラルフは女なんだぜ。島に残って女の仕事、すんのは、他の誰にも無理なのに、その義務をほうり出して自分だけいー思いしやがって」
「なあ知ってっか? 【風の骨】ん時より、差し入れ減ってるんだって。あいつきっとこっそりくすねて――」
「リック!!!」
ルッツが、いつの間にか五人のすぐそばにいた。
ルッツは怒りに目を吊り上げて、リックに飛びかかった。
「そんなわけないだろ! あいつはそんなことしない! 差し入れだって減ってない! リケロの嘘を真に受けて、この――!」
「――」
不意打ちを食らってリックは引っ繰り返っていた。二発ほど、殴られたらしい。周囲の男の子たちが我に返ってルッツを引きはがすと、リックが起き上がった。
――まずい。
リンは振り返った。背後で響く重い打撃音に身をすくませながら、アイリスと打ち合わせをしていたネイロンを探した。幸い、まだ近くにいた。
「きゃー!!!」
大声を出すとネイロンが振り返った。
「どうっ、」
「大きな男の子たちがルッツを殴ってる! ネイロンさん、早く! 早く来てっ」
「るっせー、『それ以外』! ルクルスじゃねーくせにっ」
リックが怒鳴った。
見るとルッツは既に地面に蹲っていた。リックはルッツの背を蹴った。重い音。
「手ェ出したのはこいつが先だ。そうだよなあ、ルッツ?」
ルッツの襟首をつかんで、立ち上がらせようとする。ルッツは抵抗したが、周囲の男の子たちが寄ってたかって引きずり起こした。
リックの前に、ルッツの無防備な腹がさらされた。
「やめて――!」
ネイロンがリンの隣に来た時に、リックの右手がルッツの腹に食い込んだ。
「――やめろリック!!」
ネイロンの制止が、続けての暴力を辛うじて止めた。リックはルッツをのぞき込んで何か言った。ネイロンがそこへたどり着いた時、男の子たちが腕を放し、ルッツはその場にくずおれた。
「こいつが先に手を出したんだ」リックは平然と言った。「ラルフがいなくなってから、こいついっつもボウズだろ。ラルフが今までこいつに魚、分けてやってたんだよ。それで、今日の午後の漁で俺に、魚分けてくれって言うから、ふざけんな自分で採れって断ったら、逆上してつかみ掛かって来たんだ。俺は悪くないよ」
リンはぞっとした。
なんて事だ。なんてイクスにそっくりな子なんだろう。周囲の男の子たちもまじめくさった顔で、ネイロンにうなずいて見せる。
「……ルッツ?」
ネイロンがのぞき込む。ルッツは黙っていた。その頬に諦めの色が見え――リンは声を上げる。
「あたし聞いてたよ。全部」
ネイロンが顔を上げた。その向こうで、リックが見せた憎悪の表情に、リンはぞっとした。
でもここで引くわけにはいかない。
「そのリックって子が、ラルフを侮辱したのよ。女のくせに島に残る義務をほうり出して、差し入れをくすねて自分だけいい思いしてるって……それでルッツが怒ったの。確かに最初に手を出したのは、ルッツの方だったけど」
「ネイロン」リックが悲しそうに言った。「俺の言葉と『それ以外』の言葉と、どっち信じんの……?」
「撤回する気はないのか?」
ネイロンがリックを見る。リックはふてぶてしく頷いた。周囲の男の子たちも平気だ。
ルッツは咳き込みながら荒い息を吐いて無言だった。
ネイロンがリンを見た。
「撤回する気はないな?」
「あたしが? あるわけないわ」
「ネイロン。俺のこと信じてくれないの?」
リックがか細い声で言う。本当に、本当に、なんてイクスに似てるんだろう、とリンは思う。いつものイクスの手口だった。加害者でありながら、自分が被害者になるよう立ち回るイクスの狡い手口が、今のリンには良く見える。
そこへ、崖の向こう側から背の低い初老の男がやって来た。リックが声を上げる。
「リケロ……ネイロンが、俺のこと疑うんだ。『それ以外』の言葉の方を信じるんだって」
リケロと呼ばれた男は、顔をしかめた。ああこれはダメだ、とリンは思う。
案の定、リケロはネイロンを咎めた。
「ネイロン、何があったか知らんが、リックは無闇に暴力をふるう子じゃない」
ネイロンはため息をついた。
「あんたはいつもそうだ。リックの言葉を頭から信じ込むから、」
「子供は信じて、褒めて伸ばしてやる、それが当然だ。リックは子供たちのリーダーとして、いつもよくやってるじゃないか。ルッツは身の程を知るべきだ。医者になりたいなどと夢のようなことを言う前に、漁で一匹でも魚を釣れるようにならねば。男の子たちがルッツを侮るのはしょうがない」
「リケロ、冗談じゃない。今度と言う今度は」
「リック、向こうへ行きなさい。漁の時間だ。……しかし」
きっとネイロンの反感が予想以上だったのだろう。リケロは咳払いをした。
「少々やり過ぎたようだ。ネイロン、その点は、お前の言うとおりだな。
いいかリック、どんな理由があっても、弱い人間をここまで痛め付けるべきじゃない。お前は良きリーダーとして、周囲の手本にならねばならないのだぞ」
「はい。気をつけます」
リックは真摯にそう言った。そしておもねるようにリケロを見上げた。
「あの話、考えてくれましたか? 今度ラルフが来たら、〈人魚の石〉を俺に譲るように命じてくれって、ハイデンに話してくれましたか?」
「ああ、近々話すよ。誰が見てもお前の方が適任だものな」
「ありがとう!」
リックは朗らかに叫んだ。いかにも子供らしく。
最後にルッツに投げた残酷な笑みを見て、ネイロンはきっと真実を悟ったはずだ。でもリケロは見ていなかった。ダメな大人の見本のような人だと、リンはいっそ感嘆していた。リックがイクスのように育つのは時間の問題だ。
悪いことをしても叱られない子供は不幸だと、リンは思った。
そして、そういう子供のそばにいて、虐げられる小さな子供も。
「ルッツ。大丈夫か」
ネイロンがルッツを支えて立ち上がらせた。
ルッツは黙りこくっていた。
「すこし横になった方がいい。幸い医師が来てる」
「いい」
ルッツの声は頑なだった。
「こんなケガであのお医者さんの邪魔したくない。あっちで寝てる」
「なあルッツ。あいつらを罰してやれなくて悪かった」
ネイロンは率直に言った。それから、リンを見た。
「あんたが見ててくれてよかった。ありがとう」
「え、いえ、……いえ」
「だがルッツ、俺はこの人が見てなくても、お前は魚を分けてくれってリックに頼んだりしない。それはちゃんとわかってたよ。だってラルフがお前に魚を分けてたのは、正当な対価だったもんな。あいつにアルファベットと足し算だけでもたたき込んだのはお前の手柄だ。俺もハイデンも、それはちゃんとわかってる」
「……ネイロン」
か細い声で、ルッツは言った。
「ラルフから〈石〉を取り上げたりしないよね。ラルフにこの島に残れなんて、ハイデン、言わないよね……? リケロの嘘を、信じたりしないよね? リケロは、リケロはさ、ラルフがあんまり綺麗になったから……島のものにしたい、だけなんだ。わかってる、よね? ね?」
「ああわかってる。大丈夫だよ」
「ラルフを閉じ込めるってリックが言うんだ」
ルッツは泣き出した。
「今度来たら閉じ込めるって。女がいなきゃ赤ちゃんが死ぬんだから、そうするのが当然なんだって……! 絶対自分のにするって言うんだ! 俺やだ……! いやなんだ、やなんだ、俺……いやなんだよ……」
「大丈夫だよ。ラルフがそう簡単に閉じ込められたりするわけないだろ」
「そりゃそうだ」
とリンは思わず言った。ネイロンはくすっと笑ったが、ルッツは泣き止まなかった。
「だってあいつ食い意地張ってるだろ……リケロは大人だし、頭いいし……」
「んーまあな。じゃあラルフが来たときは、お前がちゃんと守ってやりなよ」
ネイロンは穏やかな声で言い、ルッツの嗚咽が驚いたように止まった。
ネイロンはその背を優しく叩いた。
「お前はラルフより、リックより頭がいい。リックに負けてるのは悪知恵だけだろ。よく考えて、リックの先を読んで、ラルフが〈石〉を盗まれたりしないように気をつけてやれ。大丈夫だ。リックの嘘を信じる世話役なんて一握りだ」
それが本当だといいと、リンは思った。
イクスに騙される大人たちがいかに多かったか、リンはよく覚えている。
ルッツを抱えるようにしてネイロンが歩きだす。
それについて行きながら、リンは言った。
「あたしの先輩にも、ああいう奴がひとりいたのよ」
ルッツがこちらを見た。リンは笑って見せた。
「その人はあたしや回りの人間を落とすことでしか、自分を持ち上げる方法を知らなかったんだ、って、最近分かった。でもね、その人は、今は犯罪者だよ。牢屋に入れられて、裁判待ちよ。本当に随分、酷い目に遭わされたけど――因果応報ってホントにあるのよ。大丈夫だよ。最後には、絶対正義が勝つんだから」
「……本当に?」
ルッツがか細い声で聞いた。
リンは笑って、頷いた。
「お天道様に見られても恥ずかしくないようにちゃんと生きてくのが、結局は一番お得なんだよ。ホントだよ」
「あんたはあの医師と一緒にいてくれ」
ネイロンが囁いて来た。
見ると、ぽつぽつと立つ家の陰から、人影が覗いていた。じろじろと見る視線は、決して友好的なものではなかった。
リンは頷いて、踵を返した。
そして、ティティに伝言を頼もう、と思った。ラルフとケティが今どこにいるのかわからない。
ケティはあの雪山から降りる途中で発作がおき、そのまま孵化を迎えた。一昨日目が覚め、出かけられるようになるとすぐにリンに挨拶に来てくれて――悩んだけれどやっぱりラルフと一緒に行くことにする、と話してくれた。足の治ったラルフが迎えに行って合流し、昨日にはもう、差し入れ巡りに出かけたはずだ。
いいなあ、とリンはまた思った。
アナカルシスは広い。エスメラルダはものすごく小さな国なのだ。そこを出て広い世界を見るということは、どういう感覚をもたらすものなのだろう……。
だからラルフが選ぶならまだしも、誰かがそれを無理やりラルフから取り上げるなんて、絶対に許すべきではない。本当に、ルッツにできることはきっとたくさんある。リケロがもしラルフのつけた記録を改竄するなどして、ラルフを陥れようとしたら、ラルフにはきっと成すすべがないだろう。
でもここにルッツがいれば、きっと大丈夫だ。
――イクスの手口をいろいろと、ルッツに話しておいたほうがいいかもしれない。
隙を見せないこと。周りの、信頼できる大人を味方につけること。どんなに悔しくて、腹が立っても、相手と同じ汚いやり方で報復したら、相手はそれを最大限に利用してくるから、損しているような気がしても、結局はちゃんとした方が有利なのだということ。それからそれから……




