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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
間話 雪の降る街〈下〉
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島へ


 最近いいお天気が続いている。


 フェルドとマリアラが再会したあの日から、ずっと晴天続きだ。一般的に晴天の日は、放射冷却で気温が下がるものだが、今年は去年に比べるとかなり暖かく感じる。お天気も言祝いでいるのだろうか。波も凪いでいて、そよそよと吹く風のお陰で船はすいすいと走っている。


「大したもんだねえ」


 リンの向かいで、アイリスが言った。視線の先にいるのは艀に立つルッツだ。


 ルッツは穏やかな、人好きのする少年だ。口数が少なく、しかし笑顔は多く、アイリスにくっついてただ遊びに行くだけのリン相手にも嫌な顔をしなかった。時折話す言葉はラルフに比べれば丁寧で、ラルフと同い年だというのにとても大人びている。


 ルッツは今、帆綱を持ってただ立って、進行方向を見ているだけ、の、ようにみえる。


 でもよく見ていると時折軽く帆綱を引いたり帆の向きをかすかに変えたりしている。そのお陰で船は真っすぐに進んでいるのだろう。リンも頷いた。


「本当にねえ……こんなに小さいのに……」


 自分について話されていると分かったのか、ルッツがこちらを見た。


「なに?」

「感心してるんだよ。船の操縦」


 アイリスの言葉にルッツは、ああ、と言った。


「南大島のルクルスなら当たり前だよ。できなきゃ死ぬ――というより、できない奴はここまで大きくなってないんだよ」


 そしてルッツは一瞬、遠い目をした。


「こんなことできてもちっともすごくないよ」

「そんなことないよ。君に送迎してもらわないと、私はあちらに行くこともできないんだから」


 アイリスが言い、ルッツは、真っすぐにアイリスを見た。


「ううん、あの島に生まれ育って十年経てばこんな技能はすぐ身につくんだ。他の奴らとおんなじだ。

 ラルフみたいなのを本物っていうんだ。あの子ね、本当にすごいんだよ。嵐の中船出して、沈没しないでいられるんだ。釣竿一本で、船いっぱいの魚釣ってくるし……だから俺」


「?」


「おねーさん、お医者さんなんでしょ。俺、俺ね、本で読んだことあるんだ。お医者さんって、人の病気を治す人なんでしょ。魔女じゃなくても、孵化なんかしなくても……魔力なんかなくても、病気を治せるんでしょ?」


 その言葉は思いがけず熱がこもっていた。その熱をアイリスも感じたのか、座り直した。


「……そうだね」ゆっくりとアイリスは言った。「もちろん、私たちの治療には魔力はいらないよ。その代わりに知識と薬を使う。先週知ったけれど、ルクルスの人たちは【風の骨】の差し入れに入っている薬のほかに、南大島に自生してる薬草を使っているよね。そういう、自然に生えている植物から取れる薬も使うけれど、私が学んできたのはエスメラルダで使われる薬だから――そっちの薬を作るには、やっぱり魔力が必要だ」


「でもさ、薬さえあれば、その薬の上手な使い方さえ知っていればさ、俺も、人の病気を治せる?」


「何年も何年も勉強すればね」

「お姉さん、俺、俺、俺っ、お医者さんになりたいんだよ!」


 ルッツの叫びは、リンが息を飲むほど悲壮だった。


「ワクチンをみんなに打ったりさ――消毒したりさ、俺、できるようになりたいんだ! 肺炎とか、化膿とかで小さい子が死んだりするの見て、でもでも本で読んだんだけど俺っ、ケガして熱出るのってはしょーふーって言うんでしょう! 世話役は傷ができたら唾をつけろって言うんだけど、釣り針でケガして熱出して死んだ子もいて……でも、初めの方で消毒すれば大丈夫だって読んで……ワクチン打つのも消毒なんでしょ、だから三日病にかからなくなるんだよね」


「ワクチンは消毒とはまた別だよ」

「じゃー消毒ってなに!? どうやるの!? 俺知りたいんだよ……!」


 帆綱をほうり出してルッツはアイリスの前に膝をついた。

 アイリスは優しい声で続けた。


「消毒というのは、ばい菌を殺すということだ。唾をつけるというのも初歩的な消毒の一種だ。やらないよりはずっとマシなんだよ。けれど、もちろん完全とは言えない。さっき君が言ったけれど、肺炎を起こすばい菌もいる。そうだね、病気の多くはばい菌が引き起こすから、消毒の正しいやり方を知っている人間がひとりいれば、大勢の人が助かるだろう」


「教えてくれる!?」

「ああ、いいよ」

「……!」


 その時ルッツが浮かべた表情に、リンは胸を衝かれた。

 見ているこちらが泣きたくなるような笑顔だった。

 アイリスはさらに優しい声で言った。


「まず、私がもってきた消毒薬をあげる。柔らかな布に染み込ませて、傷口に塗るんだ。でもね、その布が綺麗じゃないとまたばい菌がついてしまうでしょう? だからまず、道具や布を消毒しておかないといけないんだ。ねえルッツ、ごめんね、私は甘やかされたエスメラルダの医師だから、魔力を使わず満足な物資のない状況で、どのように消毒を行えばいいのかについてはあまり詳しくないんだ。だから、一緒に考えてほしいのだけれど」


 ルッツは目を丸くする。「一緒に……俺が?」


「そう。私は仕事の合間に文献を調べていろいろな方法を見つけてくるから、ルッツ、君にね、どんな方法なら君たちの島でも採用できそうか、判断してほしい。まあ一番現実的なのは煮沸消毒だと思うけれどね……ぐらぐら沸かしたお湯の中に布や道具をつけておくとばい菌も死ぬんだ。それか、火で炙るか……道具ならこちらの方が簡単かもね。南大島に詳しくて、誠実で真剣で、一緒に考えて、私が南大島でやることを手伝ってくれる人が必要なんだ。君がそれをやってくれるなら嬉しいよ」


「やる……!」

「あの」


 リンは思わず声を出した。水を差すようでとても気が引けるけれど。


「わかっていると思うけれど、それってきっと、何年も何年もかかるよ……ね。あの、ルクルスの子供は、十六歳になったら……」

「あ、俺行かない」


 ルッツはあっさりと言う。リンは目を丸くする。


「え、もう決めてるの? 世話役になるってこと?」

「うん、俺、南大島のお医者さんになる。【風の骨】がね、本気で勉強するなら、アナカルシスでお医者さんの勉強できるようにしてやるよって言ってくれてたんだよ。俺のためにいろんな本持ってきてくれてたしね。でも、世話役が言うには、お医者さんの勉強ってすごくお金がかかるんだって。南大島のみんなのカンパじゃどうにもならないくらい……いくらなんでも、ルクルスでもない【風の骨】に、そこまでの負担をかけちゃいけないって」


「……」


「でも【風の骨】はこないだ最後に、俺に、十六歳になるころに、進路を聞きにくるからねって言ってくれた」


「……そっか」


「それにそれに、差し入れがラルフに代わったでしょ。あいつね、すばしっこいし腕っ節も強いんだけど、薬の管理とかできると思う? 俺ね思うんだけど、【風の骨】が今まで薬の補充をしてくれてたんだけど、ラルフにそれまでさせんのは無理っていうか、気の毒かなって思うんだ。普通は差し入れ受け取る方が、数を数えて、次の差し入れまでにどんな病気が流行るかなあって予測して、次はこれをどれくらい持ってきてほしいって、頼むもんじゃない? そうすべきだと思うんだ、だから」


 ルッツは一気に言った。今までずっと考えてきたことなのだろう。アイリスは微笑んでいた。とても嬉しそうだった。


 リンは何だか取り残されたような気がした。


 さっきの言葉はルッツに向けていたが、でも、アイリスに向けた言葉でもあったのだ。何年も何年も、毎週、こうして、休みの日に南大島に行って、ルッツにさまざまな技術や知識を教えていく――言葉にすれば簡単だが、実際にやるのは大変なことだ。リンだったらできるだろうか、そう考えるとすぐに、しり込みをする自分がいる。そんなことできない。ジェイドと会いたいし、買い物もしたいし、朝寝もしたいし、映画も観たい。

 縁もゆかりもない人達のために、この先何年も何年も何年も……


 ――アイリスはそれが苦じゃない人なのだ。


 そう思うと、アイリスが眩しくて、その光に照らされた自分の卑小さが、悲しくて。

 ルッツは進路がずれていることに気づいて、慌てて帆綱のところへ戻って行った。アイリスはリンの沈黙をどう解釈したのか、しばらくして話を変えた。


「ディーンさんから、あの事務所に、盗聴器がごろごろ仕掛けられてたという話を聞いたよ」


 リンは息を飲んだ。そうなのだ。


 アイリスとジェイド、リン、【風の骨】、ディーンとハイデン、それからラルフ、というメンバーで開かれたあの会合。あの直後から、事務所が見張られるようになったのだという。だからマリアラが来た時には、あの事務所を使うのはやめたのだ。


「ガストンさんも言っていたけど……情報が結構漏れていたらしいよね。『あの男』はガストンさんに言った。君の大事なリスナも【魔女ビル】にいる――ヘイトスさんとガストンさんが恋人同士なんだって、リン、知ってた?」


「……あの時まで知らなかった」


「私も。噂はあったらしいけれど、そういう口調じゃなかったらしい。ヘイトスさんがふだんの姿に戻ったあの時、私もその場にいた。……リン、疑いを持つのは悪いことじゃないよ。私が招かれた直後にあの事務所に目をつけられたことは事実なんだ。【風の骨】もディーンさんもハイデンさんも、ラルフもリンもジェイドも違うなら、疑わしいのは私だけだ。私は自分の潔白を知っているし、疑われるのは悲しいけれど、リン、だからといって思考を放棄してはいけない。あなたが私を疑うのは、しょうがない事情があるとわかっているし、恨んだりは絶対にしないから」


「……アイリス……」


「ジェイドとは会ってるの?」


 また話を変えられ、リンは思わず赤くなった。

 ジェイドから付き合ってほしいと言われてから、まだ一週間だ。


「初めての休みの日なのに。デートもせずに私に付き合ったりしてていいのかい」

「……ジェイドの休みは、今日の夕方からだもん」

「そっか。休みが合ってラッキーだったね。ルッツに送ってもらうのかい」

「ううん、ジェイドが来てくれるから……」

「ふうん」


 アイリスに微笑まれ、リンは急いで話を変える。


「アイリスは今日、島に泊まるの?」

「そうだね、そうさせてもらおうと思う。時間は有効に使いたいからね」


 言葉が途絶え、リンは悲しい気持ちで、少しずつ近づいてくる南大島を見た。目的地は、あの大きな島から少し離れた場所にある小さな島だ。


 情報が漏れていた。それも、だだ漏れ、と言えるほどだった。ヘイトス室長が『こっち』だったことが『あの男』にばれていて――もしマリアラが騙されて【魔女ビル】に行っていなかったなら、一体どういうことになっていただろう。ヘイトス室長もガストンも何も言わなかったが、もしマリアラが【魔女ビル】に行かなかったら。ララが室長を助けたとは思えないし、フェルドもジェイドも【魔女ビル】に行かなかった。ヘイトス室長は情報を遮断され、裏切り者として捕まっていたに違いない。ヘイトス室長が無事にアナカルシスに向かったのは、本当に運のいいことだったのだ。


 よく考えなければならない、と思う。


 好意を持ってしまった相手だからといって、思考を放棄することはできない。それが、『本気で相手をする』ということだからだ。

 グールドに顔向けができるように、しなければならない。


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