食事と話し合い
デッキから入るとすぐ、広々としたリビングになっていた。
家具があまりなく、実際の面積より広く見える。磨き込まれたフローリングの床はつやつやしていて、清潔で、居心地の良さそうな部屋だ。
部屋中に、何やら香ばしい美味しそうな匂いが漂っている。なんだろう、とても、美味しそうな匂いだ。先程から感じていた空腹が、抜き差しならなくなってくる匂い。
キッチンカウンターの隣に置かれたダイニングテーブルで、ティティとデクターがお茶を飲んでいた。
ふたりが入って来たのを見て、ティティはにっこり笑ってキッチンへ入っていった。デクターはこちらに向き直る。
「生きてて本当に、何よりだったよ」
そう言ったデクターの頬は、左側が赤く腫れていた。唇も切れたようだが、そちらはもう塞がっている。
マリアラは目を丸くした。
「その頬、どうしたの……!?」
「あーこれは気にしないでいーから」デクターは軽く笑った。「暴走列車にちょっとぶつかったみたいなもんだから」
「死ぬよ!?」
「それは人魚にも治せぬ傷じゃ。ま、おいおい腫れも引くであろ」
キッチンカウンターから顔を出したティティが言う。
「さ、ふたりとも、手伝っておくれ。出来立てでなくて済まぬがのう」
言いながらティティはカウンターの上に次々と料理を並べた。フェルドがそれを受け取って机に並べ、マリアラはフォークとナイフを並べながらデクターを見る。
「人魚にも治せないって……どうして……」
「気にしないでいーから」デクターはグラスに水を注ぎながら言う。「もうそんなに痛くもないし。それにしても、本当に申し訳なかったよ。やっぱり一緒に戻るべきだったな」
休憩所でのことを言っているらしい。マリアラは身を縮めた。
「う、ううん、わたしが……騙されちゃったから、だから」
「さあさあ、座りやれ。難しい話は後じゃ」
ティティがカウンターから身を乗り出して言い、みんな席に座った。
目の前に並べられた食べ物は、色とりどりで、とても美味しそうだった。トマトのサラダとポテトサラダと野菜スティックと、コーンスープとミネストローネ。その真ん中に、カウンターを回って来たティティが、大きな皿を載せた。
こんがり焼かれた、大きな鶏の丸焼きだ。
「すっげ」
フェルドが言い、マリアラは何も言えなかった。鶏のお腹から、ぎっしり詰められたお米があふれ出ている。バターと香草と肉汁の、魅惑的な香りがする。部屋中に漂っていたのはこの香りだったのだ。
「さあ」ティティが微笑む。「召し上がれ。アデルの料理じゃ。今日はお祝いじゃもの」
今夜食べた料理は生涯忘れられないだろう。一口食べた瞬間に、マリアラはそう思った。香草と一緒に詰められたお米は鶏の肉汁を吸ってもっちりとふくらみ、肉の皮はパリパリとしていて、肉はほろほろだった。ミネストローネも、コーンスープも、サラダもみんな美味しくて、食べながら泣きたくなったのは生まれて初めてだ。
――あなたは今何を食べても感動などせぬ。
ティティに言われた言葉を思い出す――確かにそうだと認めないわけにはいかなかった。フェルドに会うまで、美味しさも、周囲の美しさも、感じていたはずなのに、心の奥底に届いていなかった。
かなりの量の食べ物があったが、フェルドとデクターが綺麗に全部平らげた。マリアラもお腹が一杯になるまで食べた。ティティはあまり食べず、とろりとしたお酒を飲みながら、三人が食べるのを嬉しそうに眺めていた。
食べ物がすべてなくなり、後片付けもみんな済むと、ソファの方でティティが呼んだ。
ティティの入れてくれた香茶の配置に従って座ると、マリアラとフェルドが隣になり、その向かい側にティティとデクターが座る形になった。なんだか打ち合わせでもするような配置だとマリアラは思う。
そして、その印象は正解だった。おもむろにティティが始めた。
「さて――儂は店があるゆえ明日の朝には帰らねばならぬ。食べ物を消化すべき時間に済まぬが、今のうちに話をさせてもらおうと思ってな」
「話……?」
「責務を果たすにはさまざまな協力者が必要なのじゃが、人魚の協力も不可欠じゃ。あなた方が今後どうするかは儂には分からぬし、儂が指示するべきことでもない。じゃから――覚えておいてほしい。責務は儂の希望でもある。人魚の悲願そのものと言える。じゃから協力が必要な場合はいつでも儂かリエルダを呼べ。危機に陥らずとも、躊躇わずに儂らを頼れ。あなた方に頼られるのは、儂らにとっても祝福じゃ。それを覚えておいてほしい」
「……はい」
マリアラとフェルドは頷いた。ティティは微笑む。
「話はこれで終わり。次は贈り物じゃ。贈り物は責務とは関係ない。儂の誠意じゃ。――話に聞いたが、マリアラの似顔が近隣諸国にばらまかれておるとか。フェルディナント、貴方も遅かれ早かれ同じことになるじゃろ。そこで呪文をひとつ、贈ろうと思う。人魚の呪文は声の高さも重要になるゆえフェルディナントには無理じゃろうが、マリアラがうまく唱えれば発動するはずじゃ」
そしてティティは、短い旋律を歌った。
発音は全く分からなかった。が、意味は分かった。
「鏡を、歪ませる……?」
「鏡というか、外からの印象を歪ませるわけじゃ。これはあなた方をよう知っている人間には意味をなさぬ。また一握りの特殊な記憶術を生まれつき持つ、もしくは学んで習得した人間も、騙せぬ。じゃがあなた方を全く知らぬ大多数の人間は、似顔を見て抱く印象――可愛いとか、優しそうとか、おとなしそうとか、育ちが良さそうだとか。その印象と、マリアラを見た時の印象が合致して初めて、あの似顔の主なのではないかと疑うわけじゃ。そうじゃろ」
「……は、い」
「この呪文は、その印象を狂わせる。この呪文が発動すれば、周囲の大多数の者たちは、マリアラの外見に対してなんらかの印象をもつことができぬようになる」
「え……と?」
「道行く人の顔を一々覚えておる人間は少ない。印象に残らねばすぐに忘れる。あなた方の外見には人の印象に残るであろういくつかの特徴があるが、その特徴をくすませる。知り合いに会わぬ限りあなた方が誰であるかを認識できる人間はほとんどいなくなる。もっと高度な呪文を使えば、こないだのように外見を変えることもできるが、呪文を覚えるのに何年もかかるようでは意味をなさぬであろう。〈鏡歪〉の呪文なら簡単じゃし、声を発しても解けぬ。じゃが一度眠れば解けてしまうゆえ、朝起きたらすぐに掛け直せ」
「うわあ……」
マリアラは嬉しくなった。なんという贈り物だろう。
「ありがとうございます――そしたら、そしたら、町に行ってお買い物とかしても、大丈夫になるんですよね」
「そうじゃな。繰り返すが、あなたを知っている人間には効かぬぞ。エスメラルダでは用をなさぬと考えた方がよい」
「充分です! 嬉しい……!」
「よしよし」ティティは優しく笑った。「魔力の方も心配いらなさそうじゃ。そばにおるだけで、じゃろうか、魔力が既に入り始めておる。ディーンからぼいすれこーだーというものをもらってきた。ここに入っておる。何度でも繰り返し聞いて、しっかり覚えるのじゃぞ」
「はい! ありがとうございます!」
「それでこっちも」
デクターが、言いながら、ひとつの革袋を取り出した。
机に載せると、じゃら、と音がした。
「フェルディナント、あんたに、ディーンさんからだ。贈り物っていうか、返金だって言ってたけど」
「返金?」
フェルドが聞き返し、デクターは頷いた。
「ラルフとケティの代金、金貨千枚分」
何それ、と、マリアラは思った。フェルドはああ、と言う。
「そっか……でもディーンさんって、ルクルスの元締めなんだろ? ラルフはともかくケティの分は」
「そっちはガストンが保護局の予備費から出すと言ったらしいが、ディーンさんが押し切った。ケティはこれからさし入れ巡りに同行する。あの子がもう孵化したという話は聞いた? 予想通り、左巻きのレイエルだったそうだ。ケティが島に来てくれれば、三日病にかかったルクルスも治療してもらえるようになるんだ。払わせてもらわないと心置きなくこき使えないから困るってさ」
「あー……そーなんだ。ありがとう」
「どういたしまして。それでマリアラ、これもディーンさんから、贈り物、というか、取引だって」
デクターはもう一つ革袋を出した。
それから通帳と、印鑑と、カードが出て来て、マリアラは目を丸くした。見覚えがある。革袋以外は、みんなマリアラのものだ。
「わたしの……」
「そう、これはあんたのものだ。あんたが出奔するまで利用してたもの。【魔女ビル】の部屋が片付けられた時、リスナ=ヘイトスが保管していたらしい。それをディーンさんが入手した。でね、ディーンさんから提案なんだが、この通帳と印鑑とカードを、中の預金ごと買い取りたいんだって」
「……どうして?」
「んー、エスメラルダ国民の正式な口座だからなあ、監視されてるとは言え、ルクルスの元締めとしては魅力的なんだよ……大きな声では言えないんだけどね。ただまあ、ディーンさんのことだから、人身売買だの麻薬密売だのの資金には使わないはずだ。口座の取引があれば始めのうちは監視されるだろうけど、その内別人が使ってるってことにあちらも気づくだろう。監視が解ければ、本当に使い道はいろいろあるんだ。
この革袋に、預金と同額、それから口座の買い取り代金が入ってる。あんたにはもう使えない口座なんだし、悪い取引じゃないと思う」
悪い取引じゃないどころの話じゃなかった。
つい先日まで、どんなに、自分の預金が恋しかったことだろう。自分の身支度やちょっとした楽しみのために気兼ねなく使える、自分のお金だ。買い取り代金なんていらない。あの預金をもう一度使えるようになるだけで夢みたいだ。
「……いいの、かな」
「ディーンさんは自分に損になる取引はしない人だよ」
「嬉しい……ありがとう……」
「どういたしまして。あとガストンから身分証も預かってきたよ。前のものだと名前が本名のままだったから不都合だろうって」
エスメラルダの身分証を二枚、滑らされ、至れり尽くせりだ、とマリアラは思う。ガストンさんも、デクターも、ディーンさんも、本当に行き届いた人たちだ。
「それから――今後の話をしたい」
改まった口調で言われ、マリアラは思わず背筋を伸ばした。デクターは真面目な顔をしている。
その頬の腫れが、先程より少し引いている。
デクターは香茶を一口飲んだ。
カップを戻し、ポケットから、コンパクト型の探知機を三つ、取り出した。マリアラは反射的に首元に手を入れた。グールドの発信機と対になったものだ。
「……これはもう、俺が持っているべきものじゃない」
デクターはそんな風に始めた。
「俺が今までマリアラと一緒にいたのは、責務を果たせるエルカテルミナだったからじゃない。俺のせいで相棒と引き離すことになり、またその身が狙われるような状況に陥らせたからだ。
そもそもあんたたちふたりは、俺が何もしなくても、ガストンの指示で外国に行くはずだった。そうだろ? だから今のあんたたちは、俺が手出しをしなかったらそうなっていたはずの状況に戻った。ふたりで、無事に、エスメラルダ国外にいて、指名手配もティティさんのお陰で無効になったと言っていい。だからもう、俺の責任は果たしたと思う」
「……」
そうか、と、マリアラは考えた。
だからデクターは、今まで、責務のことをマリアラに話さなかったのだ……。
「俺があんたたちと同行する理由もなくなった」
デクターは淡々と話を続ける。
「で、さっきティティさんも言ったけど、責務を果たすには協力者が必要だ。人魚、それから、銀狼も必要なんだ。ほかにもまだいろいろな立場の人達の協力が必要らしいけれどね。今この時代、銀狼の能力を持っているのは、俺とレジナルドしかいない。レジナルドに協力させることは難しいだろうから――もし責務を果たすつもりになったら、あんたたちはまた俺を捜すことになる。
だから一応、今後の手間を省くために、念のため、俺の予定を話しておこうと思って。責務を果たさないなら忘れればいいことだから。――俺はこれからガルシアに行く。ラセミスタにまだきちんとした謝罪をしていないし、カルム=リーリエンクローンに話があって」
「カルムさんに?」
「まあ、伝言渡すだけだから、すぐ済むけどね。その後は……差し入れはラルフに譲ったし、狩人も終わったから、特にいかなきゃいけない場所も、いなきゃいけない場所もない。でもまあ、せっかくガルシアまで行くから、ミンスターに顔を出そうと思う。ちょっと昔因縁があってね」
マリアラは首をかしげた。
ミンスター、という名前が少し、記憶の縁に引っ掛かっていたような気がする。
「……ラスが誰かの出身で……何か……葡萄酒が美味しいとか、言ってたような。グスタフさんだったかな……?」
「ミンスターの白葡萄酒は確かに美味しいよ。グスタフね。そう、ミンスターの出身だ。……そうだなあ、ミンスターに行った後は、まあ、リストガルドにも久しぶりに行くかな。その後は考えてないけど、一年か二年に一度はラルフの様子を見に行くつもりだから、何年かして連絡取りたくなったらラルフを捜すといいよ。……俺の話はそれだけ」
「……で、これは何?」
フェルドが言って、デクターの出したコンパクト型の感知器を指さした。
マリアラは首からネックレスを外して、手のひらに載せ、フェルドに差し出した。
「これ、グールドさんがわたしにくれたの……。グールドさんがアナカルシスに捕まった時に、体内に入れられた発信機を、取り出して、魔力の結晶に入れたもの。発動させると、そのコンパクトみたいな感知器で、わたしの居場所がわかるようになるんだって」
「……へー……」
「感知器は三つだけだ。ここにあるので全部」
「ふうん。わかった」
「アナカルシスの王太子、エルバート=クロウディア・アナカルシスの部下に、ジェイムズ=ベインという男がいる。この感知器を手に入れて、グールドの依頼でマリアラの持っている発信機の波長に調節したのはこの男だ。アナカルシス人だが、生まれも育ちもガルシアでね、ラセミスタの同級生だった。グスタフ、カルム、といった、ラセミスタの友人とも関わりがあるらしい。もう一度ガルシアへ行くことがあったらぜひ連絡するようにと名刺を残していった。彼女の護衛をしたいそうだ」
意味ありげな言い方だった。
マリアラはなんだかそわそわした。ジェムズから、告白とか、求愛とか、されたわけではない。ないのだが、言葉に出さずとも、マリアラには伝わってしまっている。勘違いということもない――はずだ。
フェルドはどう思っているのか、デクターをじっと見ている。
と、デクターがニヤリと笑った。
「ベインの上司、エルバート王太子がマリアラに求婚した話は、まだしてなかったよな?」
「なんで今その話っ」
マリアラはぎょっとし、デクターは、ひひひ、と声に出さずに笑った。
「夜這いまでされて、災難だったよな、あの時は」
「ちょ……っ」
「なんだそれ」
フェルドが言った瞬間、机の上に置かれたままの、香茶のカップがみしりと音を立てた。ティティがたしなめる。
「これ、気をつけぬか。ものを粗末にしてはいかん」
「そんじゃ俺はこれで」デクターは笑って立ち上がった。「あ、マリアラ、寝る時は南側の部屋使って。そうそう、この島から出るのは船を使うしかないんだ。あんたたちがこれからどこに行くにせよ、メディアまでは俺と一緒に行くしかないかな。ま、その話は明日にするか。お休みー」
「儂も寝るかの」ティティはこれ見よがしにあくびをする。「ぼいすれこーだーは渡したかな。……おっと、ここにあった。これがそうじゃ。使い方は分かるな? まあ万一消えてしまったら、朝方なら来てやれるゆえ、海の魚に伝言を託すがよい。ふわあ、眠い眠い。年寄りは夜更かしができぬものじゃ」
すぐわきでぴしぴしと張り詰めていく、フェルドの沈黙が痛かった。
デクターとティティが出て行くと、マリアラは必死で声を上げた。
「あ、あの、あの……あの、王太子殿下は、ただ、エルカテルミナを手に入れたかっただけで、求婚というより取引みたいなものだったし、こっ、断ったしもちろん」
「夜這いってなに」
声が堅い。マリアラはソファの上で後ずさった。
「何もなかったんだよ……! ただ疲れて寝てたらそのっ上に乗られただけでそのっ、すっ、すぐ助けてもらえたからっだからっっ」
「上に乗られたら何もないっていわないだろ」
「そう!?」
フェルドは息を吐いた。
気持ちを切り替えるためか、カップを持ち上げようとして、その取っ手がぽろりと外れた。
外れた取っ手を指に引っかけて、フェルドは苦笑する。
「……今まで何があったのか……話、全部、聞かないといけないみたいだなぁ」
そしてフェルドはマリアラに向き直った。笑顔で。
さあ全部吐きやがれこのやろう、と、フェルドの目が言っている。久しぶりだなあと思った。前にもこんな風に、詰め寄られたことがあったっけ……。
「わたしも、聞きたいことが、いろいろありますけれども」
言ってみるとフェルドはニッと笑った。
「いーよ? んでもまずはここからかな。【風の骨】の正体について」
そうか、と思う。そこからなのか。
長い夜になりそうだ――と、マリアラは思った。




