再会
「何じゃ、まだおったのか。小屋へ帰っておれと言うたはずじゃが」
ティティはマリアラをそこに残し、砂浜を上がっていく。
そうしながら彼女はゆるゆると姿を変えた。体が見る見る内に縮み、二歳くらいの、あの小さな幼女の姿に変わっていった。小さな裸足がぺたぺたと砂に跡をつける。どこからか取り出した薄布を羽織りながら、ティティは振り返って笑った。
「少し移動しておっての、海水を通らねばならなかったゆえ、温かな真水をかけて塩を落としておやり。いかにアナカルシスじゃとは言えこの季節じゃ、風邪を引かせぬようにな。儂は【風の骨】と打ち合わせをしておる。後で来るが良いぞ」
マリアラはまだ海水に浸かったまま、呆然としていた。
なぜフェルドが、ここにいるのだろう。
フェルドはティティの話を聞きながら、立ち上がったところだった。黒々とした瞳がマリアラを見る。レイルナートの絵で知ってはいたけれど、マリアラがほんの数日で飛び越えてしまった半年という歳月が、フェルドにもたらした変化を目の当たりにして、打ちのめされてしまいそうになる。
背が伸びていた。肩幅も少しだけ、広くなった気がする。頬が削げ、前にはあんなに濃かったやんちゃ坊主の印象が、ほとんど無くなっていた。睨むようにマリアラを見る瞳の鋭さに、やはり怒っているのだと、たじろぐ。
でもそれは、間違いなくフェルドだった。短い黒髪も、黒々とした瞳も、一本気な眉も……
見るだけで泣き出しそうなほど、フェルドそのものだった。
フェルドは怒ったような顔でこちらへやってきた。
靴を脱ぎ、ざぶざぶと海の中に入ってくる。
手が伸びて、座り込んだままの、マリアラの肩に触れる。
「冷て」
それがフェルドの第一声だった。熱いような手のひらが、マリアラの腕をそっと掴んだ。
「上がれよ。風邪引くだろ」
手を引かれるまま、呆然としたまま、砂浜を歩いた。他にどうしようもなかった。何も考えられなかった。マリアラのつま先が海から出たところで、フェルドが、ティティの言い付けどおり真水を降らせた。温かなシャワーを浴びて呪縛が解け、マリアラは手のひらで顔を覆った。
どうしよう。
涙が止まらない。
温かな水の中で、マリアラの短い髪を、フェルドの指先がそっとかき回した。頭髪の中に海水が残らないようにしてくれているだけだと、わかっているのに、嬉しくて、苦しくて、息ができない……。
冷えきった体が十分暖まるまでシャワーは続いた。それが止まり、ふわっと温かな風が吹いたかと思うと、もう髪まで全部乾いていた。続いて毛布にすっぽり包まれて、マリアラはもう、呻くしかない。
「……フェルド……」
辛うじて声が出た。ひっく、しゃくり上げて、なんだか久しぶりだと思った。
そういえば、最近、泣いていなかったような気がする。
「なに?」
訊ねられ、マリアラは途方に暮れた。何なんだろう、と自分で思った。何で今、名前を呼んだのだろう。
わからない。わからない、けれど。
「……フェルド」
「んー?」
「フェルド」
「うん」
「フェルド……」
「何だよ」
フェルドが笑った。マリアラは顔を上げ、その笑顔を見た。顔をくしゃくしゃにする、あの笑い方だ。
ちっとも変わってない。
「……ごめ、ん」やっと言えた。「……半年、も……経って……ごめん……」
「そりゃこっちの台詞だろ」
フェルドの腕が伸びた。
毛布ごと抱き締められて、マリアラはほっとした。心底、心底、ほっとした。ほっとして、また涙が出た。ひっく、しゃくりあげて、喘いだ。
「……会いたかっ……」
「それもこっちの台詞。あー……ほんと……ごめん。遅くなってごめん。無理させて、大ケガ、させて、ほんとごめん」
マリアラの頭に頬を寄せて、フェルドは長々と息をついた。その息は少し震えていた。
「もーホントにさ……生きててよかったよ……」
「ど、して」
ひっく、また嗚咽がでた。どうしてこうも、みっともなくしか泣けないのだろう。
「……ど、して、……ここ……」
「リンがさ、マリアラが【魔女ビル】に向かってて大変だからって連絡くれて、【魔女ビル】に飛んでったら、マリアラが血まみれで倒れてたんだよ」
「そ……」
「ヘイトス室長は助かったよ。今日からアナカルシスに異動だって」
「う……ん」
「ララは何か、ダニエルんとこ行った、らしい。マリアラが届けたコイン使って……行き先はダニエルんとこで、いーんだよな。アリエディアとかって、聞いたけど」
「ん……。ミシェル、さん、は?」
「ほんと、あいつのお陰で助かったよ……。なんかね、イェルディアに異動になったらしいんだ。あそこにはディノさんがいるだろ。ディノさんが成果出してるからもっと増員しようってことみたいで」
「そ……なんだ」
シャルロッテはその知らせを聞いて喜んだだろうか、とマリアラは思う。
ミシェルにとっては良いことだろう、と思う。ディノとは仲が良さそうだったし、ギュンターがミシェルを認めた、ということだから。
でも、シャルロッテにとってはどうなのだろう。これからもエスメラルダで医師の勉強を続けるのだろうシャルロッテは、ミシェルのことをどう思っていたのだろう。製薬所にミシェルが遊びに来なくなることを、悲しんではいないだろうか。
そして。
「ビアンカ、は」
その名が勝手に口からこぼれ落ち、フェルドが訊ねた。
「びあんか?」
「ヘイトスさん、ララも、何か、言ってなかった……? わたし、わたしのせいで……ビアンカは、イーレンタールさんに……」
フェルドは少し考えた。
それから、言った。
「もしかして、声だけの……若い女の人の声のことか」
「聞いたの?」
顔を上げると、フェルドは片腕を放して、ポケットからタオルを出してくれた。マリアラが顔を拭いた時、フェルドが言った。
「聞いたよ。つーか、あの人がいなかったら、絶対間に合わなかった……。あの人、何なんだ? 〈アスタ〉なのか」
「違う……。〈アスタ〉のお母さんだって」
「は」
「わたしのせいで……ビアンカは……イーレンタールさんにつかまって、閉じ込められてしまったかもしれないの……」
涙がまた溢れた。タオルに顔を押し当てると、フェルドがタオルごと、マリアラの頭を抱いた。
「マリアラに伝えて、って言ってたよ。あの人、今幸せなんだって。だから大丈夫だって」
「……そ……なの……?」
「今まで生きて来た中で、最高に幸せだって。ありがとう、って、言ってたよ」
「……」
ビアンカは今どうしているのだろうとマリアラは思う。
幸せだと、ヘイトス室長にも言ったらしい。本当だろうか。
イーレンタールがビアンカを閉じ込めてしまったのか、それともビアンカがどこかへ逃れることができたのか、どうやったら確かめることができるのだろう。
でも。
「【風の骨】は」
言うとフェルドはマリアラを覗き込んだ。「ん?」
「【風の骨】は……わたしが寝ている間に……あの人のことを、知ったかな……」
室長に釘を刺されたことを、戦慄と共に思い出す。心しておくことです、と、ヘイトス室長は言った。あなたは絶対に、彼とやらに、彼女のことを話してはいけません……
「さあ……まだあんま話してないからなあ。話題にはしてなかったと、思うけど」
「後で全部話すから……あの……ビアンカのことは、【風の骨】には、内緒にしておいてくれない……?」
「いーよ」
あっさり請け合われて、マリアラはほっとする。よかった、と呟くと、フェルドが言った。
「よくないよ。俺の寿命は五年縮んだ」
「寿命?」
「やっと見つけたら血まみれとか、頼むよマジで、勘弁してくれ。人魚がいるなら大丈夫かと思って来てみりゃティティさんが慌てふためいて【水の世界】に連れてくって言うし。人魚でさえその場で治せねえってどんだけ……おまけに一週間も、潜ったまま出てこないし」
「ごめ、ん」
「覚えといて」
言いながらフェルドは数歩歩いて、マリアラを抱えたまま、乾いた砂浜の上に座り込んだ。
「今後絶対、血まみれ禁止」
「……禁止、され、ても……」
「いやもーそれだけはマジ無理。絶対禁止。俺の身が持たないから。あーホントに……心臓止まるかと思った……」
フェルドの腕にまた力がこもった。温かくて、苦しくて、不自由で、狭くて、泣きたくなるほど幸せだった。
「今さら、なんだ、けど」マリアラは囁いた。「あの、あの……わたし、わたし、わたし……できればなんだけど、あの、フェルドと……一緒に、いたいの」
「え」
フェルドが絶句した。マリアラは必死で言葉を探した。
「あの……お金無いし、仕事もないし、それどころか住む家さえないし、追われたり、危険だったり、するんだけど、でも……わたし、フェルドと、離れたくない……。巻き込ん、じゃい、たいの。一緒に来て、ほしいの、ミーシャの方があれなんだけど、その、条件ずっといいんだけどあのっ」
「……」フェルドががくりと頭を垂れた。「……何言ってんだ……」
「半年も経っちゃって、自分でももう、今さら何言ってんだって、そう思うんだけどでもっ」
「そっちじゃないよ。つーかもうとっくにここエスメラルダじゃないし」言ってフェルドは苦笑する。「今更エスメラルダに帰れって言われたらそっちのが俺暴れるんだけど。それこそこの島ひとつ沈めるレベルでの大暴れだけど」
「でもフェルド、」
「そもそもマリアラ、もう俺に会ったんだろ」
フェルドはマリアラから腕を放した。
マリアラはぞっとした。見捨てられるのではないか、そんな根源的な恐怖を感じる。
しかしフェルドは座り直して、真面目な顔をしてマリアラを覗き込んだ。
「巨人の亡骸のある島で。俺に会ったんだよな」
「う……ん」
「あの時もーホントに腹が立って」
言われてマリアラは絶句する。「怒っ……」
「こんな今にも消えそうな人にこんな顔させて放ったらかして、相棒はどこで何してんだって。俺が相棒なら絶対ひとりで放っておいたりしないのにって」
言いながらフェルドはポケットを探り、きらめく小さな金属を取り出した。
「あ」
マリアラは息を飲んだ。三年経って、十徳ナイフは、前より艶を増したようだった。
手の中でひねくり返して、フェルドはつぶやく。
「これ……もしかして赤い塗装が剥がれたのかな」
「う、う……ん。ごめん……」
「そっか……赤いの買えばこうはならないだろって思ったのにな」言いながらフェルドはマリアラの手の中にぽとんと十徳ナイフを落とした。「ずっと借りたままでごめん。あの後、帰って来て、半年後くらいに、一般学生のマリアラを見つけてさ。すっげ驚いた。元気そうで……楽しそうで……幸せそうでさ。だから俺、孵化することにしたんだ。もしかして……うまくやれば……あんなつらそうな境遇に、させずにすむかもしれないって思った。結局うまくいかなくて、おまけにほったらかしてた相棒も結局、自分だったってとこが情けないんだけどさ」
「……」
「だから……」
フェルドの大きな手のひらが、マリアラの頬をそっと撫でた。
「マリアラがいないなら……エスメラルダでマヌエルやってく理由なんてないんだ。俺には」
あんなに言いたいことがたくさんあったのに、言葉が喉の奥でつっかえて、うまく出て来てくれない。何度も何度も、何か言おうとしては諦めるマリアラに、フェルドが顔を寄せた。
唇がそっと触れた。あの時と同じ感触に、酔いそうになる。
「ララを助けてくれてありがとう」
もう一度マリアラを抱き寄せて、フェルドが耳のそばで囁いた。ううう、マリアラは呻いて、……なんとか、微笑んだ。
「……フェルド、いつ、甘い物食べるの……?」
「えっ」
「ダニエルが、言ってたよ。フェルドは今も頑として甘い物を食べないから……どんなに装っても、変わってなんかいないって」
「あー……だからダニエルは嫌なんだよ。なんでも見透かすんだからなあ」
フェルドは苦笑し、腕を離して、立ち上がった。差し出された手につかまって、マリアラも立ち上がった。剥がれた毛布をフェルドが拾って、またマリアラの背に掛ける。
「行こう。さすがに冷えてきたし」
「ん……」
毛布の合わせ目から出した手をつないで、歩いていった。話している間に夕焼けはすっかり消え去り、空に、満天の星空が瞬いていた。小さな島は闇に沈んでいたが、少し先にぽつりと明かりが見える。
「そっか。もう食ってもいいんだよなあ」
少しして、フェルドが言った。
マリアラは、ダニエルの声を思い出した。
ダニエルは、フェルドが甘い物を食べないのは、味覚の変化のせいではなく、願かけのためではないかと言った。
――半年近く監禁されてて、人が変わったようになって出て来た、今でも、あいつは甘いものを頑として食べない。
――だからあいつは、長年願かけしてきた何かの成就を、今も諦めてない。それだけは確かだ。
「どんな願かけしてたの?」
訊ねずにはいられなかった。
フェルドはしばらく考え、ようやく言った。
「初めに何食うかな。やっぱおはぎかな。いや団子か」
「……教えて、くれないんだ……」
「豆大福……いややっぱ、ここは団子だ。団子に決めた」
「お団子、好きなんだ」
知らなかった。全然知らなかった。
フェルドは真剣に悩み始めた。
「あー、でもどうすっかな。みたらしとあんことどっちにするか、それが問題だ」
その時マリアラは、唐突に、自分が空腹だということに気づいた。
「わたし」堪えきれず、マリアラは笑い出した。「和菓子なら、柏餅が好きだな。こし餡の」
「柏餅……!」
「桜餅も好き。つぶつぶが残った餅米で、あんこを包んであるやつ」
「い、いやだから、団子だっつってんのに……!」
フェルドが悶え、マリアラは声を上げて笑った。幸せだ、と思った。フェルドはもう、どこかに閉じ込められることはないのだ。どこにでも、自分の足で、好きなところに行って、いろんな物を見て、今まで断ってきた甘いものも、好きなだけ食べられるようになったのだ。
そしてその横に、マリアラもいさせてもらえるのだ……。
ちくりと胸が痛んだ。ビアンカが閉じ込められてしまったかもしれないのに、今どんな境遇にいるのか、全くわからないのに。自分の幸福に酔うなんて、とても利己的なことじゃないだろうか。
でも。
でも、と、マリアラは思う。
自分の幸せを、ビアンカのために申し訳ないと思うなんて、失礼なことだという気がする。絶対、絶対、忘れたりしない。でもガルシアへ行って、ラセミスタに会って、協力を依頼するまで、できることは何もない。
ヘイトス室長の言葉が胸に刺さっていた。あなたは自分の無力を知らなければなりません、優先順位をつけられない人間に、大きなことなどできません――本当にもっともで、切ないほど真理だった。
マリアラは無力だった。ヘイトス室長を治療するだけで、ティティどころかリエルダにまで面倒をかけ、おまけに一週間も眠り続ける体たらくだ。誰かを助けたいと願うなら、強くならなければならないのだ――そして自分が弱いのなら、助けて、手伝ってくれる人を見つけて、協力してほしいと、誠心誠意頼むしかない。
だから、今だけ。
今だけ――
マリアラは涙を飲み込んで、できるだけ明るい声を上げた。
「わたし、最中も好きだな。美味しいよね。白餡の入ったやつがいいなあ、噛むとなんだか、さりさりってするやつ」
「あーもー、団子のみたらしか、あんこか、今はその二択でお願いします」
「あーお腹すいた。お汁粉食べたい」
「だから増やすなって!」
フェルドも笑い出した。
幸せだとマリアラは思った。
罪深いほど――絶望的なほど――幸せだ。
星空の下、波の音に満ちたその島は、どこもかしこも美しかった。雪はどこにもなく、エスメラルダに比べたらかなり暖かだ。フェルドはコートさえ着ていない。
砂浜が途絶えたところに、小屋があった。小屋と言っても、想像していたより大きい。ウッドデッキに上がると、フェルドが足の先に真水をかけてくれた。砂を洗い流して、用意されていた綺麗なサンダルを履く。
「【風の骨】が……あとティティさんか。他には誰もいない」
フェルドはそう言って、扉を開けた。




