目覚め
十二月二十六日
ゆらゆらと揺蕩う温かな水が体中を包んでいる。
生まれる前の赤ちゃんは、もしかしてこんな感じなのかもしれない……そう思った。温かくて、とてもいい気持ちだった。
目を開けると、あたりは明るかった。彼女はしばらく考え、そっと手足を伸ばした。緩やかに腕が伸び、緩やかに足が伸びる。体中が羽根になったみたいに軽くて、綺麗な空気を吸い込んだみたいにすがすがしい。頭を動かすと、短い髪が揺れた。ゆっくりと体が回って、足が下に、頭が上になった。
そこは水の底だった。かなり深いようだ。魚がたくさん泳いでいるのが遥か遠くに見える。水はとても澄んでいて、お日様の光がちらちら踊りながら辺りに満ちていた。
彼女はまだ少しうとうとしながら、なんていいところだろう、と考えた。いい香りがする。花のような匂いだ。悪いことなど過去にも未来にも起こったことはないだろう――周囲に善意が満ちていて、全てが正しく、在るべきところに在って――
心配するようなことを、全て忘れていられて……
心配事――
――心配な、こと。
少し不安になった。何か忘れているような気がする。
誰かの命が、目の前で失われようと、していた、ような……
「……え……」
声を出した瞬間、
マリアラは、全てを思い出した。
「あ……っ!」
悲鳴を上げた瞬間、周囲の水がざわめいた。室長が、そうだ、ヘイトス室長が、死にそうだったのだ。マリアラは辺りを見回した。ここはどう見ても、【魔女ビル】ではない。【水の世界】だ。
「……ティティさん……っ!」
「おや、目が覚めたか」
出し抜けに横から声をかけられ、マリアラは飛びのいた。
マリアラの周囲を取り囲むようにごつごつした岩があり、そのひとつの陰から見覚えのある女性が顔を見せた。
マリアラは瞬きをした。それはティティではなかった。
でも、見覚えのある人魚だった。
人魚はとても美しかった。まろやかな見事な肢体をくねらせて、岩陰から滑り出て、マリアラの近くへやってくる。
「あ……リエルダ、さん……」
王宮地下で、媛とアルガスと巡り会った時。シェスカを排除し、非礼を詫び、アルガスに『利己的な』望みを叶える権利をくれた。シェスカに奪われたマリアラの声と引き換えに、あの時マリアラを苦しめていた疲労を、綺麗さっぱり持っていってくれた。人魚の長の立場にある人魚だ。
怖いくらいに美しくて、それでいて優しい人だった。この方にまた会えて嬉しいと、マリアラの魂の奥底が震えている。
しかしリエルダは、とても怒っていた。周りの水が緊張している。リエルダの怒りに触れ、水たちはとても狼狽している。女王の怒りはあまりに絶対的で、無慈悲で、絶対に抗ってはならぬと、マリアラに警告を伝えてくる。
「目覚めたか。まずは重畳。――上々じゃな。免疫系等も、特に異常はないようじゃ」
リエルダはしげしげとマリアラを眺めた。
それで気づいたが、マリアラは全裸だった。わあ、と声が出た。女王の前で、あまりに不躾だと思えてならない。
しかしリエルダは全く気にする様子がなかった。どこからともなく薄い布が現れて、マリアラの体に絡みつく。何がどうなったかわからないうちに、マリアラは袖なしの白いワンピースを着ていた。膝下まである、裾がふんわりと広がるデザインで、肌触りがとてもいい。いつの間にか下着も身につけている。
リエルダはそっけなく言った。
「貴女は二本足ゆえ、今は着るものをやろう。しかしこれから永い年月を我らが邦で暮らすのであれば、少しずつ慣れてゆかねばな」
「え――?」
ワンピースの極上の肌触りにうっとりしていたが、マリアラは驚いてリエルダを見た。
「永い年月を、ここで?」
「貴女はもはや地上へ帰さぬ」
――怒っている。
黒々とした美しい瞳に見据えられ、マリアラは固唾を飲んだ。
何が何だかわからないが、リエルダの怒りの理由はマリアラのようだ。
「……あの、なぜ……」
「わからぬか」
わからない。
マリアラはそわそわし、リエルダは、マリアラの胸の真ん中を指差した。触れられていないのに、心臓がどきんと飛び跳ねた。
「……なぜあのようなことをした。なぜ魔力の結晶を飲み込んだりしたのじゃ! 死ぬ気であったか。なんと! 無謀な! ことを!」
言うたびにマリアラの心臓が飛び跳ね、マリアラは両手で胸を庇おうとした。しかし全くの無意味だった。リエルダの怒りが心臓を直接締め上げ、苛み、いたぶり、翻弄した。マリアラは喘ぐ。
「だって、目の前で、ヘイトス室長が、死にかけて、だから……!」
「だからと言って! も少し遅かったら死んでおった、体内に取り入れた魔力に内部から食い破られるところだったのじゃぞ! ほんに、ほんに、……思慮のない! も少し分別があっても良さそうなものじゃ!!」
「ぐぅ……っ」
リエルダは指一本触れずにマリアラを揺さぶった。体の内部にある水たちが反乱を起こしている。かつてイェイラがラルフの体内の水に働きかけようとしたことがあったが、あの時ラルフはこんなに苦しかったのだろうか。
その嵐は数瞬で収まった。体内にいきなり酸素が流れ込み、マリアラは喘ぐ。
「ああ、はあ、はぁ……」
「二度とするな。わかったか」
リエルダがそう言ったが、マリアラは心臓のダメージをやり過ごすのに精一杯で、すぐに返事ができなかった。
その沈黙をどう捉えたか、リエルダが再び両手を上げた。周囲の水が瞬時に凝り、マリアラはうめく。
「で、も、でも……!」
「聞き分けのない愚かな娘の考えることなどわかっておる。貴女はまだ自らの片割れがこの世に存在していると思っているのじゃろ。かの若者が今後、いつか、もし死にかけてしまったら、やはり同じ方法を取ってでも治療をしなければならぬ、じゃから約束はできぬというわけじゃな。……じゃがな、もはや貴女があの方法を取る必要はない。貴女の片割れ――フェルディナントとか申すマヌエルの若者は、もはやこの世におらぬ」
マリアラは苦しさを忘れて顔を上げた。
「え……っ!?」
「この世はすでにエルカテルミナの片割れを喪ったのじゃ。……貴女の短慮のせいでな。あの若者は貴女を助けようとして、人魚に貴女を託した。儂は留守にしておっての、止められなんだ。人魚はもはや愚かで思慮のない存在ばかりじゃと言うことは、こないだ知ったじゃろう。儂の静止がなかった故に、若い仔たちが、若者に取引を持ちかけた。マリアラ、貴女の治療と引き換えにな、若い仔たちは、貴女の片割れを儀式に使ってしもうたのよ」
目の前が真っ暗になった。
――嘘だ。
そう思おうと思うのに、うまくいかない。
それはきっと周囲の水たちがざわめいているせいだ。悲壮な雰囲気をまざまざと伝えてくる。それが真実なのだと。女王が嘘などつくはずがないと。
「……今更気づいても遅い。自己犠牲の心は尊くても、結果はどうじゃ。貴女は助かった、ヘイトスとか申す女も助かった。が、貴女があの若者と会う日は二度と来ぬ。嬉しいかえ。若者の命と引き換えに自分が助かって、貴女は喜べるかえ。……違うじゃろう。あの若者にとっても同じことなのじゃ。自分を助けるために貴女が死んだとしたら。それがどんなに相手にとって酷い仕打ちか、考えてみやれ」
「……そんな。……そんな」
マリアラは両手を上げた。顔を覆って、そこに爪を立てた。痛い。痛い。これは夢じゃない。夢じゃ。
「およし」
リエルダがその手を離させて、瞬きをしただけで顔の傷が癒える。マリアラはリエルダに縋りついた。
もう水たちは何もしていないのに、苦しすぎる。息ができない。
「ね。嘘……でしょう? 嘘、ですよね?」
「そうじゃな。嘘じゃ」
あっさりと言われて、マリアラは瞬きをする。
「……え?」
「じゃから嘘じゃと言った。貴女があまりに聞き分けがない故に、ちとお灸を据えてやったまでのことじゃ。あの若者は生きておる。さすがにエルカテルミナを儀式に使うほどには、儂が一族はまだ堕ちきっておらぬ」
リエルダはそう言って笑った。明るい光がキラキラと周囲に散るような笑い声だった。水たちの緊張が解け、周囲に細波のように喜びと安らぎが広がっていく。温度が少し上がり、海面から光まで差してくるようだ。
その劇的な変化の中で、マリアラだけがまだ取り残されている。
「……え? 嘘、……なんですか?」
「それはそうじゃろう。ちと考えればわかるはずじゃ。儂らが一族はそこまで愚かではないし、大怪我をしていた貴女をはじめに託されたのは姐――ティティ姐さまじゃもの。あの方が、そんな暴挙を許すわけがなかろう」
「……」
「しかし肝に銘じるのじゃ。貴女がさっき抱いた絶望は、貴女の片割れが感じていたはずのものじゃ。貴女が今回助かったのは運が良かっただけ。比較的短い時間で儂のところまで運ばれてきたからなんとかなった。じゃが次もこううまくいくとは限らぬ。……約束しておくれ。二度と同じ手は使わないと。たとえ貴女の片割れが死にかけていたとしてもじゃ、絶対に同じ手を使うてはならぬ。良いな?」
「おや」
軽やかなティティの声がした。
リエルダの向こうの岩陰から、一際大きな人魚が現れた。
「ティティさん!」
あのディーンの民家の巨大な浴槽の中にいた、ティティその人だった。水たちがますます歓喜の色を帯びた。長い美しい髪がティティの第二の尾鰭のようにゆるやかに舞い踊る。
「目が覚めたか。ああ、ほんに良かったこと。リエルダ、助かった。ありがとう。貴女が近くにいてくれて」
「姐さま、少し待っておくれ」
リエルダの声は、ティティに向かう時は少し柔らかくなる。
「儂はまだ、花の答えを聞いておらぬ」
「答えとな」
「そうじゃ、もう二度と、魔力の結晶を飲み込んで周囲から魔力を呼んだりせぬと、誓わせねばならぬ」
「おお、それは良い。儂も加勢しよう」
ティティがリエルダの隣に並んだ。
二人の人魚に覗き込まれると、それはもう、恐ろしいほどの圧力だ。マリアラは後ずさろうとして、水が逃がしてくれないのに気づいた。後ろの水が密度を増し、壁となって背後を取り囲む。
リエルダが言った。
「身に染みたはずじゃ。どれほど酷い仕打ちかわかったはずじゃ。自分のために片割れが死ぬのは嫌でも、片割れのために自分が死ぬのは許してほしいなどと、そのような利己的なことを言うほど愚かではないな? 言うのじゃ。一言で良い。はいとお言い。言うまでこの国から出さぬぞ」
「あの、あの。ヘイトスさんは、」
「貴女が身を挺したお陰で死は免れた」と言ったのはティティだ。「魔女の治療を受けてな、今日――もう昨日か、ウルクディアに配属になったそうな」
「ああ、良かった……」
「ほう。こたびの花は、なかなかいい度胸をしておるな」
リエルダがマリアラの視線を捉えた。
指先がひらめき、マリアラはもう、リエルダから目を離すことができなくなった。瞬きもできない。水の中だから眼球が乾いてしまうことはないが、まつ毛一本すら動かせない。リエルダの美しい瞳がマリアラを絡め取って離さない。心の奥の奥の、さらに奥まで覗き込まれそうな叡智の色。
「まだ聞いておらぬぞ」恐ろしいほどの威圧。「誓うまで外へは出さぬ。儂らにとって十年二十年はさしたる長さではないが、人間にとってはどうかな」
「二本足にとっては人の治療を禁じられることは非常に苦しいことなのじゃそうな。じゃから最終手段は確保しておきたいというところなのじゃろ」
ティティがそう言った。マリアラはといえば、困り果てていた。
マリアラとしても命を粗末にしたいわけではない。あの時の恐怖と苦しみはよく覚えているのだ。体の内側に突然、強酸がぶち撒かれて、内臓全てを焼かれていくような痛みだった。あんなこと、二度と経験したくない。
けれど、自分の愚かさはもうとっくに思い知っている。体内の魔力がどうやったら戻るのかもわからない今、もし目の前でフェルドが死にかけたとしたら。いくらここで口先だけで誓ったとて、愚かな自分のことだ、誓いなど一瞬で忘れ去ってしまうに決まっている。
「頑固じゃのう。口先だけでも『はい』と言えば良いのに」
ティティが呆れている。と、リエルダの長い指先が唐突にマリアラの頬に伸びた。
「言わぬか!」つねり上げられた。「致命傷を塞ぐだけで自らも死にかけるということは、二人とも大怪我で動けなくなるということじゃろうが! 怪我人を増やしてどうするのじゃ、それくらいなら初めから助けを呼べばいいのじゃ、なぜそれに思い至らぬ! 人魚たる儂にそこまでっ、こちらから言わせる気なのか!?」
「清浄な水さえあればな、儂かリエルダの名さえ呼べばすぐに駆けつけられる。リエルダは忙しい身じゃが、貴女にあのような手段をもう一度取られるよりは余程マシじゃ」
「ああ、ああ良いとも、人魚から言わせる気なのじゃな。おとなしそうな顔をしてとんだ強欲じゃの」
ティティは笑っていて、リエルダはマリアラをなじる。マリアラは途方にくれる。リエルダがなぜマリアラを『強欲』だというのか、全くわからない。
――グールドさんにもそう言われたことがあったっけ。
ふとそんなことを思った時、リエルダが言った。
「よしよし、では聞け。貴女が同じ手段を取らねばならないような状況に陥ったら、結晶を飲み込む前に儂を呼べ。な? 世界のどこにいても、水さえあれば儂が自ら行ってやろう。そうすれば貴女があのような手段を取るよりずっと良いはずじゃ」
こうまで言われては、さすがにもう我を張るわけにはいかなかった。
「……ふぁい」
まだ頬をつねられながらマリアラが頷いた、その時だ。
突然リエルダの両手からキラキラと光が散った。その光は螺旋のように絡み合いながらマリアラの両手を縛り上げ、そのまま消えた。あ、とマリアラは思った。この光は前にも見た。リエルダは、あの王宮地下で、フランチェスカという名のあの魔物に同じ魔法をかけていた。
「よしよし」
優しい声でリエルダは言った。つねり上げられた頬の痛みは、リエルダの一瞥で消え去った。
再び視線を動かすことができるようになった。マリアラは光の消えた両手をしげしげと見つめた。
「今の……何ですか?」
「貴女の両手に魔法をかけた。もはや二度と魔力の結晶を口に入れられぬまじないをな」
「……!」
「二本足は慌てるととんでもないことをしでかす生き物じゃ。特に貴女のような左巻きはな、目の前に患者がいると自らの保身も儂らとの約束も全て忘れて治療に没頭してしまうじゃろ。じゃから貴女の両手に覚えさせた。二度と忘れぬようにな」
「……」
それはひどい。
しかしリエルダもティティも、文句があるなら言ってみろと言わんばかりだ。
さっきの『強欲』と言い、人の体に勝手に魔法をかけるところと言い、人魚の文化と人間の文化は少し違うようだ。マリアラはもう一度両手を見て、抗議することを諦めた。
「良いか、絶対に儂を呼べ。呼ばずに死んだら許さぬぞ」
リエルダが念を押し、マリアラは微笑んだ。
「そうします。ありがとうございます」
「うむ」
「ふふ、リエルダも大人になったものじゃの」
ティティが揶揄うように言い、リエルダはふんっと顔を背けた。
「姐さまはまたそれを言う。あれから何年経ったと思っているのじゃ」
ティティはこの国ではとてもくつろいでいる様子だった。あの巨大な浴槽の中で気だるそうに目を閉じていたのが嘘のようににこやかで、快活だった。水の中をなめらかに滑って、マリアラに近づいた。
「うん、よし、もうすっかりようなったな。幸甚幸甚。リエルダ、礼は何が良いかな」
「ぷりんあらもーどじゃな。陸の上でな」
「よしよし、アデルに頼んでおく」
「うん」
子供のようなその答えが聞こえた瞬間、リエルダの姿が消えた。
マリアラは驚いて周囲を見回した。今の今まで、圧倒的な存在感を放っていたあの美しい人魚が、どこにもいなくなっていた。マリアラは声をあげる。
「あ――」
「リエルダは忙しい身ゆえな」
「わたし、まだ、治していただいたお礼をお伝えしていないのに」
「良い良い、あなたが無事に回復して元気になったのじゃ、それで充分。リエルダへの礼は儂からしておく」
「プリンアラモード?」
「そう、昔からのあの子の好物でな」
そう言ってティティはマリアラの手を掴み、尾鰭を振った。
ふわりと体が浮いた。
「プリンをお渡しするときに、わたしからのお礼を伝えてもらえますか」
「わかった」
優しい声でティティは言う。この方にもリエルダにも、何かお礼ができたらいいのだけれど。
ティティに導かれるまま、マリアラはゆっくりと水中を滑って行った。うっとりするほど美しい岩礁の間を抜けて、聳え立つような岩山の山肌に沿って昇っていく。水面までは、だいぶ時間がかかりそうだ。
ティティの美しい長い髪の毛が周囲に翻るのを見ながら、マリアラは言った。
「ティティさん。ララがどうなったか、ご存知ですか?」
ティティがちらりとこちらを見た。
「ライラニーナか。水に探らせただけじゃが、無事にアリエディアに現れたようじゃ」
「ああ、……良かった。ミシェルさんは、」
「ミシェル? ああ、【魔女ビル】内で貴女を助けたイリエルの若者か」
「はい、その人です。わたし、夢中になってて、周りがあんまり見えていなくて。ミシェルさんはケガはしませんでしたか」
「その辺りは儂にはようわからぬ。【風の骨】に聞いた方が良いな。じゃが死んではおらぬはずじゃ」
「そうですか……」
礼をしたい相手がどんどん増えていく。マリアラはミシェルの無事を祈った。シャルロッテも大丈夫だろうか。二人に助けてもらえなかったら、ララに会うことなんて到底無理だっただろう。
そう思いながらマリアラは、囁くように訊ねた。
「……フェルドの居場所は……わかりましたか?」
「それも【風の骨】にお聞き」
ティティはまた上に向かって泳ぎ始めた。はるかな上空に見えていた赤い水面が、ゆるゆると近づいてくる。
「ラルフが足をケガしてのう、あちらもいろいろと大変じゃったらしい」
「そうですか……」
「ラルフの足は治した。こちらは儂でも簡単じゃった。ケティという友人ができたようで……ケティは戻れば危険じゃそうで、これからラルフと一緒にアナカルシス巡りをするのじゃと」
マリアラは微笑んだ。それは、楽しそうだ。
「雪山から降りる途中でケティに孵化が来てな」
「え……!」
「ラルフも怪我をしておったし、ふたりまとめて保護されてしもうてのう。そこで儂が一肌脱いでな、孵化がひと段落したところを見計らって連れてきた。二人は今、ディーンのれすとらんにいる。しかしまあ」
そう言ってティティは苦笑した。
「喧嘩したり仲直りしたり一緒に駆け回ったり笑い転げたり、まあかしましいことかしましいこと。微笑ましいが儂は正直頭痛がするわ」
「え、ま、待ってください」マリアラは頭を押さえた。「あの、ケティ、もう、目が覚めてるんですか? 孵化って、四日はかかるはず……」
「そうじゃ。貴女が怪我をしてから今日で七日目じゃ」
「……!」
なんということだ。七日も経っているなんて。
ティティは笑った。
「ようやく少し事態が身にしみたか? 人魚の、それも最高の治療の腕を持つリエルダの手にかかっても、目覚めるまで七日を要するほどの大怪我だったのじゃぞ。少しは反省おし。ただの怪我とはわけが違う」
「……すみません」
ラルフが怪我をしたというのも知らなかった。でも今は駆け回っているというのだから大丈夫なのだろう。マリアラは眉をひそめた。ラルフはディーンのレストランにいるとのことだったが、
「ラルフは……フェルドと一緒に、いないんですか?」
「いろいろあったと言うたはずじゃ。詳しくは【風の骨】にお聞き」
ティティは口をつぐんだ。そのままゆるやかに、水の中を昇っていく。
マリアラは口を開け、そして閉じた。フェルドがどこにいるのか、今どうしているのか、ちっともわからなくてうずうずする。
周囲は、夢のような光景だった。もう夕方らしく、辺りは赤い光に染まっていた。刻一刻と濃さを増す複雑な陰影の中を、小さな魚影が踊っている。胸を締め付けられるような色合いの空が、【水の世界】の外に広がっている。
【水の世界】の縁で、ティティが振り返った。
「すまぬの、陸に上がるまでにどうしても、海水をいくらか通らねばならぬ。なるたけ冷たくないようにするが」
「はい、大丈夫です」
「行くぞ」
ティティが言った瞬間、冷たい海水がマリアラを包んだ。
でも、そんなにつらくはなかった。【水の世界】の快適さに慣れた身には確かに冷たかったが、ティティに引っ張ってもらっているから、海水の間を通ったのはほんのわずかな時間だった。すぐにざばっと水しぶきを上げて、ティティとマリアラは水面に顔を出した。
夕暮れの、優しい色合いの空が、広がっている。
そこはどうやら島のそばだ。小さな砂浜があり、そこに雪がないのを見て、エスメラルダではないらしいと悟る。
砂が音を立てた。誰かが跳び起きたような音――。




