五日目 非番 午後(7)
フェルドの頭が抜け穴に消えて、少し。
マリアラは窓から見える風景に心を奪われていた。おやつの時間、幼児部屋はとても賑やかだった。初めは阿鼻叫喚に近い騒ぎだったが、それもすぐに収まった。どうやら上の子供部屋から来た子たちにはこういうときに世話を焼く幼児の担当が決められていて、幼児の分を確保したり食べるのを手伝ってやったりしている。この辺のシステムは、マリアラの育った子供寮と同じだ。
賑やかで楽しそうで、幸せそうだ。眺めているだけで和やかな気分になる。と、フェルドが穴の底から呼んだ。「大丈夫だった。降りてきていいよ」
うん、と返事をして暖炉に向き直った――と、その時。
賑やかだった子供たちの声が、ざあっと潮が引くように静まった。
マリアラはぎくりとした。あれほど大勢の子供たちが、しん、と静まりかえっている。
窓から覗くと、子供たちは――大きい子も小さい子も――皆一様に、マリアラの今いるおままごとの家とは反対側の方を見ていた。そこの扉が開いていて、そこに。
ジェイドと、黒い髪の幼い女の子が立っていた。
ジェイドは明らかに戸惑っていた。何故子供たちが息を呑むようにして自分達を見ているのか、わからない様子だ。その代わり、ジェイドがつれている幼い女の子の方は落ち着いていた。ジェイドの手を握ったまま、にっこり笑う。
「……」
何か言った。声までは聞こえなかった。子供たちがざわつき始めている。急に扉が開いたから、きっと皆驚いたのだろう。そう結論づけて、マリアラは暖炉の穴に足を入れた。穴は狭いが、その分体重を支える手がかりがある。
最後に蓋を閉めるのを忘れなかった。
*
フランチェスカは、みんなが食べているおやつには見向きもしなかった。
ジェイドは混乱していた。集まっていた子供たちがフランチェスカを見た瞬間に静まりかえったのが気になっていた。あの沈黙は異様で、そして今もまだ残っていた。おやつに関心を移した子もいる、戸惑いながらも普段どおりにふるまい始めた子もいる、でもまだフランチェスカを見たまま凍り付いている子もいるのだ。
そう、彼らは怯えている。――ように見える。
「あの、その子は――」
寮母のひとりが声をかけて来、ジェイドは固唾を飲んだ。
ここの子じゃないのか。
訊ねようとした瞬間に、フランチェスカがぎゅっとジェイドの手を握った。
「お父様がお仕事のあいだ、ここで遊んでいなさいって」
甘い声だった。寮母の心を蕩かすような声。
ジェイドの持つ違和感は益々深まっていく。フランチェスカの話し方が違う。あどけない口調は完璧に、少し賢い幼い子供の口調だった。274歳設定はどこへいったのだ。手が冷たい。とても冷たい。ずっと手を握っているのに、フランチェスカの指先は一向に温まらない。
寮母はフランチェスカの愛らしさにすっかり魅了されたようだ。
「あらそう、じゃあお入りなさいな。おやつはいかが?」
「さっき食べたからお腹いっぱい」
フランチェスカは手を放し、ジェイドを見上げて微笑んだ。
「ここまで連れてきてくれてありがとう、お兄ちゃん」
「ど――どう、いたしまして……」
「ご苦労様です」
寮母がねぎらってくれる。フランチェスカはもうジェイドに興味はないと言う風に、とことこと部屋の中に入っていく。子供たちの間を抜けて、時折ふんふんと匂いを嗅ぎながら、あちらこちらを見回しながら、中央にある木の幹の方へ歩いて行く。
「……あの……?」
寮母に促され、ジェイドはああ、ああ、と意味不明な声を出しながら踵を返した。
フランチェスカを連れて来て良かったのか。
そしてこのまま放っておいて良いのか。
得体の知れない不安にちくちくと苛まれながら、と言ってどうすれば良いのかもわからず、子供部屋を出た。
*
短い穴を抜けると、石造りの狭い通路? に出た。フェルドが光珠を持っていて、周囲にやわらかな光を投げている。壁を構成している石は明らかに、人の手で積まれたものだ。
「ここ……何?」
言葉を出すと、冷たい石壁に反響して思わず身を縮める。靴下だけの足が冷たく、急いで靴を履いた。
「【魔女ビル】ができた頃に使われてた通路なんだってさ。今は排気ダクト代わりに使われてる。ラスが昔見つけたんだよ。――ここには〈アスタ〉のカメラもマイクもないから大丈夫。今まで話せなくてごめんな。
魔物は朝の内に同じような通路に入ったんだ。そろそろ一階まで進んでるはず」
言いながらフェルドはポケットから無線機を取り出した。
『……はい』
無線機から流れ出たか細い声が、石造りの通路に響いた。ラセミスタだ。声が固い。何か待ち構えるような覚悟するような言い方だ。
フェルドが言った。
「どーですかそっちは」
『……何で敬語なんですか』
「そっちの様子はどーですか」
『…………順調です。今二階付近。フェルド今……四階だね、東に向かって。十二メートル先に階段がある』
「ありがとうございます」
『………………言いたいことあるなら言ってよ』
「俺から言うことは何もないですよ。こんなに協力していただいてるんですから。心より感謝しておりますよ。カップケーキの他に召し上がりたいものあれば何でも言ってくださいね」
『言いたいことあるなら言ってよー!』
「行こう」
と、マリアラを振り返って言った。無線機は切らずに持ったままだ。マリアラは歩き出しながら、ラセミスタと話したいと思った。無線機の向こうで、居たたまれない気持ちでいるだろう彼女に、そんな気持ちになることはないのだと伝えたい。マリアラのわがままに協力してくれている彼女に、怒るなんてあり得ないのに。
魔物が誰にも見つからず、目的地である“礼拝堂”まで順調に進んでいるのは、ひとえに彼女の尽力によるもの――なのだろう。何らかの手段を用いて、あの子を誘導してくれているのだろう。
彼女はリズエルだ。マリアラには絶対に不可能なことを、やってのける能力を持っている。
でも能力を持っていることと、それを使ってくれるということはまた別の話だ。
階段があった。漆黒の闇の中を、でこぼこした階段が続いていくのが見えている。
【魔女ビル】ができた頃――というと、暗黒期の前になる。少なくとも千年以上前に作られたはずだ。すっかり近代的な内装・外装を施された今は、その歴史の重みをあまり実感することはできなかったが、
「すごい……」
思わず声が漏れ、フェルドが振り返った。「ん?」
「すごいね……ここ、千年以上前に作られて……実際に千年前の人が歩いた通路なんだよね。すごい……」
モーガン先生が来たらきっと喜ぶだろう。ここに光珠をいっぱい持ち込んで、隅から隅まで調べて回るだろう。今自分でそれができないのが歯がゆい。こんな時でなかったら、千年前の人が残した痕跡をひとつひとつ探して回りたい。天井にフックのようなものが見える。あれはきっと、この通路が現役だった頃、光珠を吊すために使われていたに違いない。行き過ぎる壁に絵や文字の残骸のようなものが見えるたびに、足を止めたくなる衝動と戦わなければならなかった。
階段を降りきり、ラセミスタの誘導に従って次の階段に向かいながら、フェルドが笑った。
「怖がられたら困るなって思ってたんだけど、余計な心配だったな。怖くない? 子供の頃から【魔女ビル】の怪談をたくさん聞かされた身としては、血まみれの王女とか閉じ込められた王子とかに出くわさないかってちょっと冷や冷やしてるんだけど」
「そんな伝説あるの!?」
「出くわしたらむしろ喜びそうだよな。インタビューとかしそうだよな」
「だって今、昼間だよね? 夜に来たらちょっと怖いかも知れないけど」
「ちょっとかよ」
フェルドはもう一度笑い、また階段を見つけて降り始めた。
*
フランチェスカは匂いを嗅いでいた。かすかだが、別の毒の香りがする。
こうかすかでは、区別するのが難しい。ジェイドを返して正解だった。ジェイドにも南大島の汚染の残り香がついていたからだ。
でも、今はわかる。これは別の魔物の匂いだ。
部屋中をあちらこちら覗いて回った。“養い親”の言ったとおりだった、と、探しながら考えた。人の親切を無碍に断るものじゃない――ジェイドの親切は少々鬱陶しかったが、あの子の親切に乗ったお陰で、どうやら行方がわかりそうだ。
部屋の端にあったおままごとの城に来た。匂いが濃い。
フランチェスカは微笑んだ。
――見つけた。