攻防
魔物の放った〈毒〉の粒子が、空気中でパチパチと燃えている。
マリアラが上からどいて、ララは起き上がった。マリアラは痛そうに顔を顰めていたが、物理的な痛みの他には、〈毒〉の影響が全くないようだった。ララはまじまじとマリアラを見ながら、両手でぱたぱたと彼女の細い体を叩いた。信じられない、無傷みたいだ。
「……なんで?」
「あのね、わたし今、魔法が使えないって言ったでしょう? 体内の魔力がすっからかんになってしまっているんだって。だから、〈毒〉にあたっても平気なの。ララは大丈夫だった? 当たらなかった?」
「大丈夫、おかげさまでね」
「ミシェルさん」
マリアラが立ち上がり、ミシェルを見上げた。
どこで手に入れたのか、ミシェルはガスマスクをつけていた。熱処理ノズルの扱い方を知っていたのは、雪かきシフトの賜物だろうか。ミシェルは魔物が逃げた先に視線をやっていたが、ノズルをまだ構えたままマリアラを見下ろし、にへら、と笑った。
「よっす。無事でよかったわー」
「助けてくれて、ありがとう。シャルロッテが治療してくれたの? ごめんなさい、さっきは……」
「あーいーっていーって、あっこに寝っ転がしたままのほうが安全だと思ってくれたんでしょ。つーか今も立ち話してる場合じゃなくね? なんでまだコイン使ってねーの?」
「あの消火器のところまで行かないと、コインを使えな」
言いかけたマリアラの声が途絶えた。
ララは目の前で、マリアラの頬に鳥肌が走ったのを見た。
マリアラの視線の先で、ヘイトス室長は立ち上がってこちらに来ようとしていた。彼女の向こう、赤い消化器よりもさらに先に、背の高い男が姿を見せた。ジレッドだ。手に構えているのは保護局員が支給されている片手弓。
「ヘイトスさん……っ!」
マリアラの悲鳴とともに射出音が響き、
短い矢がヘイトス室長の背中に吸い込まれた。
「まっ」
挙げた手は一瞬遅かった。マリアラの袖をかすめただけだ。マリアラは走って行く。ジレッドとの間を隔てる防火シャッターのボタンを押した。ごうん……鈍い振動とともにシャッターが降り始める。ジレッドが怒号を上げてもう一度片手弓を撃とうとし、ミシェルが放った風がその矢を逸らした。
「……!」
ミシェルはそのままよろめいた。斜め後ろの死角から撃ち込まれた黒い塊が、ミシェルの首に直撃したのだ。
ララは振り返り、そこにアロンゾ=バルスターがいるのを見た。
バルスターは黄金色の〈銃〉を構えて、ぜいぜいと息をしていた。ララは驚いた。この人が自分の手を汚すなんて。
バルスターは狡猾で賢い男だった。どんなに悪事に加担しても、自分が逮捕されるようなヘマをしたことがない。長い間校長の秘書として、レジナルドの治世を支え続けた男。狩人の〈銃〉を直接持って誰かに向けるなんて、今までなら絶対にしなかったのに。
ジレッドがたどり着く前にシャッターが降りた。マリアラはひとまずは無事だ。
ララの呼んだ風がバルスターに襲いかかるが、バルスターは存外素早い動きで床に身を投げ出し、低い体勢からララを狙った。ララは水を呼ぼうとし、この辺りには呼べる水がほとんどないのを知った。巾着袋を引っ張り出し、中身をぶちまける。水の入ったポリタンクが三つ。だが、拾って元の大きさに戻している暇がない。
どうん、発射された〈毒〉の塊がララの髪を掠めて天井に炸裂した。金臭い香りが鼻をつく。下がろうとして体勢が崩れた。ミシェルにつまずいてしまったのだ。視界が斜めになって、バルスターが次の弾を装填しながら嗤う。
――まずい。
水があれば氷漬けにしてやれるのに。
「もらった!」
バルスターの〈銃〉から黒い塊が飛び出した瞬間、視界がブレた。
床から伸びた長い長い腕が、ララの左腕を捉え引きずり倒したのだ。
「――ミシェル!?」
〈毒〉に侵されたというのに、ミシェルは信じがたいほど俊敏な動きで、床に倒れたララに覆い被さろうとした。次の銃撃はミシェルの背中に炸裂し、「おえっ」ミシェルがえずく。ああもう、ああもう本当にこの子は。この子達は。いったい何度、ララを打ちのめしたら気が済むのだ。
ミシェルが盾になってくれている間にララは手を伸ばしてポリタンクを元の大きさに戻した。その途端、中からタンクが弾け飛んだ。十八リットルの水の塊が三つ、次々にバルスターに襲いかかる。
「く……っ」
バルスターが取り落とした〈銃〉は水に絡め取られて凍りつき、同時に、バルスターの腰から下が氷漬けになった。濡れた衣類と氷が両手をも封じ込める。
「くそ! くそ……っ!」
ララはもがいてミシェルの重たい体の下から抜け出し、バルスターとこちらを隔てる防火シャッターのボタンを押した。何やら喚いている声が、シャッターに遮られて弱まる。
バルスターが視界から消え、ララはミシェルに屈み込んだ。ミシェルの首はとっくに真っ黒に染まり、〈毒〉はすでに顎のところまできている。
――生きてる。
ララはその黒いシミから目を逸らし、マリアラの方を見た。
マリアラは今、床に倒れたヘイトス室長の上にかがみ込んでいた。矢は、室長の背中のちょうど真ん中に深々と突き立っていた。風切羽までもが肉に食い込みそうなほど深い。
――致命傷だ。
かわいそうにとララは思った。マリアラは今魔力が使えないと言っていた。左巻きなのに、目の前で人が死にかけているのに、治療できずにただ手をこまねいているのは、ひどく辛いことだろう。
「……早く……」
ララの腕をミシェルがつかんだ。この子は一体どうしたのだろうとララは思う。こんな子だったっけ。こんなに、必死になる子だったっけ。
あからさまに仕事をサボったり投げ出したりするほどではないけれど、あまり勤勉とも誠実ともいえず、どちらかといえば問題児だと思っていた。休憩時間によく行方をくらまして、〈アスタ〉やリーダーたちの手を焼かせていた。いつもへらへらしてのらりくらりとして、派手なかつらをかぶっていた。
「俺の治療とか……しないで、いいから……。頼りになる、左、巻きが、あとで、来るから……、早、く……あの、子、を……」
ミシェルはヘイトス室長の傷が致命傷だとは知らないのだとララは悟った。
頼りになる左巻きがどこにいようと、『あとで』来るなら、ミシェルはともかくヘイトス室長の命は保たないだろう。
ララは覚悟を決める。
消火器まであと、ほんのもう少し。
マリアラを室長から引き剥がして、シャッターを上げ、ジレッドを排除し、消火器のところまで連れて行かなければ。
「ミシェル、ほんとにありがとう。ほんとに助かったわ。……なのに置いてってごめん」
「そう、して。ほんと、マジで。あの子、無事じゃないと……治療、され、ても……たの……しく……」
「治療されても楽しくないわよね。わかるわ。あたしもあの子を無事に送り届けてからじゃないと、ダニエルに会わせる顔が無い」
あたしは本当に利己的な人間だと、ララは思い知る。
マリアラが無事でいてくれなければ、ダニエルに二度と会えない。
でもヘイトス室長が死んでも会えるだろう。マリアラさえ生きていれば。ヘイトス室長を見捨てた自分を秘密にして、ダニエルの隣で平気な顔で笑えるだろう。
「行くわね。あんたもう、気絶していいわよ」
「うっス……」
ミシェルが『後で来る』と言った、『頼りになる左巻き』とは、いったい誰なのだろう。
その左巻きが、どうか、ミシェルに優しくしてくれますように。いっぱい褒めて、ねぎらって、ミシェルが完全に回復するまで、ミシェルのそばにいてくれますように。
「マリアラ、抜かないほうがいいわ」
ララは立ち上がり、マリアラの方へ行った。
「あんたは何はともあれ逃げなきゃいけない。ミシェルが言うには、すぐに左巻きが来るらしいわ。室長はその人に任せれば大丈夫よ」
「間に合わないよ、ララ」
マリアラがか細い声で言う。ヘイトス室長の眼鏡が落ちていた。引っ詰めにした髪がほどけて頬の周りに散らばっていた。こんな時になって、ララは初めて、ヘイトス室長がその美しさを化粧と努力で隠してきたことを知った。
ひゅうううううう、ヘイトス室長が奇妙な息を吐いた。深々と突き立った矢の位置は、確かに、肺を貫いていてもおかしくない。
ララはもう一度、声を励ました。
「――どうしようもないでしょう、ジレッドを排除して、消火器のところまで行けばコインを使える。ダニエルがあちらにいるのよね、ダニエルのところに連れて行けば……」
空虚だと思いながらもそう言うしかない。
マリアラを騙してでも、引きずってでも、ここから逃がさなければならない。
「それじゃ間に合わない」
マリアラはポケットからコインを取り出した。グレゴリーが取り付けたという魔力の結晶が、淡い光を放っていた。
マリアラが覚悟を決めたのが見えた。
――何を、
訊ねる前にマリアラは、コインから魔力の結晶を外した。
そして口に入れ、飲み下した。
「ちょっと!」
と。
マリアラが歯を食いしばった。
「く……っ」
自分の体を抱き締めるようにしてうずくまる。「うあ、ぁ」呻き声が聞こえる。ぴっ、と鮮血が飛んだ。マリアラの手の甲が裂けた。裂傷は次々に走り、マリアラの頬や首、腕、剥き出しになっている肌に、幾筋もの亀裂が生まれていく。
外からの傷ではないとララは悟った。
中からだ。
「言うこと……聞いて……っ」
マリアラは呻き、右手を伸ばして、ヘイトス室長の背から、弓を引き抜いた。
血しぶきが上がり、ヘイトス室長の体がびくんと跳ねた。マリアラは噴き出る血を押さえ込むように両手をその背に押し当てた。
若草色の粒子が、舞い踊った。
その時ララは、四方八方からマリアラの手の先に馳せ参じる魔力の流れを見た。
けれど、マリアラの体がそれを拒否している、それがはっきりわかった。流れ込もうとする魔力と、押し返そうと奮闘するマリアラの体との軋轢が、傷を生むのだ。次々に肌が裂け血が噴き出しても、マリアラは治療をやめなかった。辛うじて従えられるわずかな魔力を注ぎ込み、ヘイトス室長の致命傷を塞いでいく――同時にマリアラの両手の皮膚が見る間にずたずたに裂けていき、ララは悲鳴を上げた。
「やめてよ! あんたが死んじゃうわよ!」
ヘイトス室長が、息を吹き返した。びくりと大きく痙攣して、げほっ、と咳き込んだ。同時にマリアラの頬が一際大きく裂け、飛び散った血が、ヘイトス室長の血に混じった。ゆっくりと傾いだ体が、床に倒れる……
がん。
ララの背後のシャッターが、大きくひしゃげた。
がん。ごっ、がん、がん、がん、ごすん、
同じ位置を執拗に打ち続ける。ジレッドがいる側のシャッターは、反対に、不気味なほどに静かだった。ララは自分を叱咤して歩を進め、マリアラとヘイトス室長の横を通り過ぎ、ジレッドのいる側のシャッターに歩み寄った。
ふたりを抱えるのは無理だと、考えた。
水が充分あれば別だが、ララ自身の体力は一般女性とそれほど変わらない。ふたりを同時に引きずるのは時間がかかり過ぎてしまう。しかしジレッドを排除してひとりを抱えて十メートル移動し、もう一度戻って来る前に、バルスターがいる側のシャッターを破壊しようとしている何かは、目的を遂げてしまうだろう。
「わか……ます……ね……」
ヘイトス室長が言った。
うつ伏せに倒れたまま、ヘイトス室長はこちらを見ていた。
「なす……べき……こと……」
「わかってるわ」
ララはうなずき、シャッターを上げるボタンに手をかけた。……その時。
四方に存在する〈アスタ〉のスピーカーから、身の毛がよだつほど美しい声が、響き渡った。
『〈アスタ〉――それから〈アスタ〉の根幹に存在する“何か”。エルヴェントラの命令だ。シャッター昇降権を引き渡せ』
数瞬おいて、〈アスタ〉の声が、悲壮な響きが、囁いた。
『了解しました――エルヴェントラ=ル・レジナルド=エスメラルダ』




