間話 アリエディアでの話
時間がだいぶ戻りまして、アリエディアで、大怪我をしていたマリアラが元気になる話です。
デクターが雪山を越えると言って出て行った直後のシーンです。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
気が付くとデクターはもういず、グロウリアの心づくしのフレンチトーストもすっかり冷めていた。マリアラはフレンチトーストを食べようとした。自分でお食べ、とグロウリアは言ったのだ。あんなに優しい人の心づくしをそのまま返すなんて悪いことだ。
でも指が動かなかった。
もう少し、とマリアラは思う。もう少し、時間をもらおう。眠って、日向ぼっこをして、もう少ししたら、きっと動くようになる。考えるだけで疲弊する。さっきみたいに意識を飛ばすのが無性に恐ろしかった。自分の体が自分のものでなくなってしまったかのような恐怖は、マリアラの思考までをも縛り付ける。
また目を閉じて、体の力を抜いた。お日様の光を瞼に浴びて、うとうととまどろみに入ろうとする――。
「ちょっと待て。どういうことだ」
懐かしい声が聞こえた。
マリアラは目を開けた。その声の主が誰だったか、一瞬、思い出せなかった。非難するような口調だったせいかもしれない。この声に非難された覚えがほとんどないのだ。マリアラは瞬きをし、晴れた視界に飛び込んできたのは、お日様の光を編んだかのような色をした、柔らかく渦を巻く金色の髪に、碧色の光。
「……ダニエル……?」
「どういうことだ」
ダニエルはすごい形相だった。間違えようもなく、その碧色の目はマリアラを睨んでいる。ダニエルにこんな目で睨まれたことはいまだかつて一度もない。やっぱり、と思った。やっぱり責務を果たそうとフェルドを迎えにきたことを、ダニエルまでもが怒っているのだ――
「なんで治ってないんだ! 一週間だぞ! 一体何を考えてるんだ!?」
つかつかとマリアラに歩み寄るや、ダニエルは鬼の形相でマリアラを覗き込んだ。
「一週間だぞ!」
その左手がマリアラの肩に翳される。少しずつ、少しずつ、肩の痛みが消えていき――それで初めて、その左肩に痛みがあったことにマリアラは気づいた。
「ふざけるなよ!? 可愛い一人娘が家出して、俺がどんなに心配したと思ってるんだ! 死んだり凍えたり泣いたりしてないかって散々心配したけどな、ケガと病気だけは自分で治せるはずだって、そこだけは安心してたのに!」
噛み付かれそうな剣幕だった。ダニエルはそもそも顔の作りが恐いので、心底怒っている今は、客観的に見ればマリアラの首をつかみ上げて頭からバリバリ食べそうな形相だった。マリアラはぽかんとしていた。ダニエルにこんなに怒られたことは今まで一度もない。状況がよく飲み込めなかった。でも、聞き捨てならない台詞にだけは反論しないわけにはいかない。
「……家出じゃないよ」
「ああ!?」
「家出じゃないよ……」
「うるさいお前なんか親不孝な家出娘だ!」
「家出じゃないもん! ずっと帰りたかったもん……!」
「じゃあなんで治さないんだ! ケガしてたままじゃ帰れないだろ!」
「な、治せなかったんだもん! 魔力の使い方、よく、わかんなくなっちゃったんだもん……」
ダニエルはマリアラを睨んだ。がるるるる、とうなり声が聞こえそうな迫力だった。マリアラは視線をさまよわせ、うつむいた。本当に治せなかったのか、実のところあまり自信がない。
マリアラは今まで、あの橋の下から自分を助け、ここまで連れてきたのが誰なのか、よくわかっていなかった。漠然と、デクターだろうと思っていたのだが、それにしてはデクターの反応はおかしかった気がする。マリアラが目を覚ました時、デクターがちょうど駆け込んできて、無事だったか、と言ったのだ。
そうか、と、頭のどこかで思っていた。
マリアラをここにつれてきてくれたのは、ダニエルだったのだ。どうしてなのかは、わからないけれど。
「……あの時は時間がなくて、止血しかできなかったんだ。ララより先に帰ってなきゃならなかったからな」
マリアラの足に屈み込んで治療を始めながら、ダニエルが言う。マリアラは考えた。【風の骨】と契約して秘密の治療院を運営しているという左巻きのマヌエルは、もしかして、ダニエルだったのだろうか。
「ちゃんと治してやれなかったのが心配で――でも自分で治せるはずだって、安心してたのに。お前どうしてくれるんだ!」また怒った。「俺の安心を返せ!」
「意味わかんないよ……」
「背中!」
怒鳴られて、渋々寝返りを打ち、ダニエルに背中を向ける。その時、中庭を取り囲む城の中に、ちらりと人影が見えたような気がした。グロウリアだろうか、デクターだろうか。
ダニエルに散々怒鳴られているマリアラを見たら、デクターは心配するだろうか。ふと、そんなことを考えた。
それとも安心するだろうか。どっちだろう。
ダニエルはまだぶつぶつ言いながらマリアラの後頭部に手を翳しているらしい。そこで鋭い痛みが走って
「あ痛っ」マリアラは思わず声を上げた。
「お前これ、木片が食い込んでたぞ……なんでこんな」ダニエルは低い声で言う。「ああ全く、つくづく、やっぱ全身チェックしてから帰るべきだった。お前、ホントに、ふざけんなよ。自分の体も大事にしない奴が、何か大きな仕事なんかできるわけないだろ」
何だかとても、温かかった。お風呂にでも入っているような気分だった。
「聞いてるのか」
「……うん」
「自分を大事にすることも忘れちまったんなら、首根っこ引っつかんでつれて帰るぞ。思い出すまで外に出さない」
ダニエルが低い声で宣言する。そうしてくれたらいいのにとマリアラは思う。
そうできたらいいのにと、ダニエルもきっと思っている。
背中の傷が全部治された。ダニエルが手を放したのを感じて、マリアラは、また寝返りをしてダニエルに向き直った。ダニエルの左手が、マリアラの顔に伸びてくる。顔にも傷があったらしい。当然かもしれない。顔をかばうこともできなかったマリアラの上に、木片が山ほど降ってきたのだから。
「……治療のやり方が、思い出せないの」
言うとダニエルは、ふうん、と言った。
「二度目の孵化の後からか」
ダニエルは何も知らないのだと思っていたが、そうじゃなかったらしい。
「……うん」
「俺は迎えてないからなあ。アドバイスとかはできないけどな。ララにいろいろ言われて、混乱しただろうし。ケガをして、体調も悪くて、血も魔力も足りなかっただろうし……まあ思い出せなくても無理はない」
「また、できるようになるかなあ」
「なるさ」
軽く、あっさり請け合われたことで、何だか救われたような気分になる。マリアラは手を伸ばして、ダニエルの右手をつかんだ。大きくて、温かな手だ。
「なんだ。甘えてんのか」
「うん。……ダニエル……」
「んー?」
「デ……【風の骨】と契約して、治療院をやっていたの?」
いつからなのだろう? マリアラはもちろん、ララでさえ知らないのだとしたら、そんなに長いことではない気がする。ダニエルは少し考え、やっとマリアラを見て笑った。
「違うよ。俺が契約してるのはグロウリアさんだ。もう十年になるかな」
「そんなに……?」
「ふだんはひと月かふた月に一度くらいしかこないしな。【風の骨】もグロウリアさんと契約して、ここを拠点にしてるんだろ。【風の骨】とは今まで面識なかったよ。何度か姿を見かけたくらいだ。あっちは俺を知らなかったと思う」
「グロウリアさんに……頼まれたの?」
「逆だよ」ダニエルはまた笑う。「グロウリアさんに頼んで、ここで治療をさせてもらってるんだよ。金銭のやり取りは一切してない」
「……どうして……?」
ダニエルはいつでもどこでも治療をしている、マリアラはそう思っていた。それなのに、休みの日に、ララの目を盗んでまで、ここにきて治療をするなんて。
ダニエルは少し考えて、苦笑した。
「俺はレジナルドが昔から嫌いなんだよな」
マリアラは目を見開いた。「レジ、ナルド」
「なんだ? もう知ってるんだろう、ずっとエスメラルダの校長として君臨してきた男の、初めの名前だよ。レジナルド=マクレーン。ドンフェル=マクレーンの、長男だ」
マリアラは思わず跳ね起きた。
「……え……!?」
「当然知ってるだろう? 史上最悪の暴君と今では呼ばれてる、あのドンフェルだよ。二百年前、ドンフェルはルクルスとしてエスメラルダに君臨してた。妻も当然ルクルスだった。ああ、あの時代は、本当にひどいものだった。ルクルスだけが人間で、『それ以外』は家畜同然の扱いだったよ。ドンフェルはレジナルドが邪魔だったんだ。何しろ、ルクルス同士の間に生まれた子でありながら、『それ以外』だったんだからな」
マリアラは呆気に取られてその話を聞いていた。
なぜそれをダニエルが知っているのだろう、という疑問がぐるぐる回る。
「あの人は、生まれてすぐ地下神殿に落とされた不遇の子供だ。そりゃあ、レジナルドがルクルスを憎むのは無理はないさ。あの人は『それ以外』によって大切に大切に地下で育てられた。『それ以外』の希望だったんだ。ルクルスは選ばれた人間だという学説を元にエスメラルダを支配していたルクルスの、主張を真っ向から覆す存在だったから。
……みんながあの人を崇めていた。ルクルス同士の間に生まれた『それ以外』で、生き延びたのはあの人だけだった。聡明で利発で、いつかルクルスの支配を覆してくれる希望の子供。でも俺は……子供のころからあの人が気に入らなかった。なんでだろうなあ」
「……ダニエル……」
「俺はあの時代に生まれたんだよ」ダニエルは微笑んだ。「十四歳まで、二百年前にいたんだ。ララが俺をこの時代につれてきた。お前たち、一度、過去に行ってるんだろう? ラスとフェルドと三人で、行方不明になった時。あの時、過去に行っていたんだろう? ――ララも昔、過去に行ったんだよ。十六歳、孵化したばかりのころ。二百年前に行ったんだ」
「そ……」
「あの革命が成功したのはララの力があったからだ。最後まで見届けたわけじゃないけどな。……話を戻すけど。俺は昔から、本当によちよち歩きのころからあの人が虫が好かなかった。今も嫌いだ。今じゃあ、この世で一番憎んでるって言ってもいいくらいだ。……だからさ。あの人に許可されてない人間を、治療するのが楽しいんだよ。レジナルドにエスメラルダから追い出された人間とか、ルクルスとか、そういう人間をね」
「で、でも。どうやって、ここに来てるの? 空気孔は、出られないだろうし、【国境】を通っていたら――」
「秘密兵器があるんだよ。……ずっとララにも秘密にしてたんだけどさ、こないだいきなり、アリエディアに行くことになった、って言うからさ。ばれたのかな、と思って、心配になって、箒をつけてたんだ、ララに」ダニエルは苦笑した。「ララは気づかなかったよ。自分が人を箒で追い回しておいて、同じことを自分がされるなんて思ってもみないところが、ララらしいよな。抜けてて」
その言い方にはララへの紛れもない優しさがこもっていて、マリアラはドキリとした。マリアラを見て、ダニエルは座り直し、頭を下げた。
「ララがひどいことをした。俺の責任だ。悪かった、マリアラ。本当に悪かったよ」
「ララは――」マリアラは咳払いをする。「ひどいことなんて、しなかった、よ」
「そうか?」
「そうだよ。ララは……わたしを、見つけたから。守ろうと、してくれたんだよ。そうでしょう」
それが悲しかったのだ。今まで。
それが辛かったのだ。それに、今初めて気が付いた。
マリアラがここで、失意のどん底に沈んで逃避していたのは、ララの真意がわかっていたからだ。ララはマリアラがエスメラルダにくるのを何とか止めようとしていた。脅かしてでも。お前の家なんかもうどこにもないのだなんて、嘘までついて。マリアラをこれ以上、傷つけないように。――マリアラを、大切に、思っていてくれたからだ。
エスメラルダの中に入ったら、さすがにマリアラを捕まえないわけにはいかない。だから来るなと言っていた。傷つけるはめにならないように。ビアンカの言葉は少しだけ間違っていた。『彼女はためらいなくあなたを殺す』と言ったけれど、ララはためらった。イクスを遠ざけるためにマリアラを魔力で追い立てて走らせ、落ちたマリアラを探そうとしたイクスを威嚇して。
あの子に手を出したら殺す。
そんなことまで言って。
フェルドに会わせないように、しようとしていたのだ。
「ララはな……」
ダニエルは言い、ふうっ、とため息をついた。
「責任を感じてるんだ。俺に」
「責任……?」
「いや、俺にというか、俺の母親に、だろうな。どうも、約束をしたらしいんだ。母さんに、俺をつれて行く、つれて行く以上は、絶対幸せにするって。約束したらしいんだ」
「……そう、なの」
「俺はちょっと事情があって、発育が遅かったんだ。ララはあの時俺を、多分十歳以下だと思っていたんじゃないかと思う。でも俺はそんなに小さくなかった。中身はね。ララに初めて会ったあの時、俺は十四歳だった。……口ではそう言ったし、ララも了解していたはずだけど、見た目がちいさきゃそりゃ守ってやらなきゃって思い詰めるだろう」
「う、ん」
「しかも俺は途中で落っこちた」
言ってダニエルは苦笑した。
「ララは正確な帰り方がわかっていたわけじゃない。雷雨の中を箒に乗って飛べば帰れるんじゃないかと思っていただけだ。まあ、正解だったんだけど。俺を後ろに乗せて飛んでたんだが、嵐が結構ひどかったらしくて――まあその、三人乗りだったし、俺は意識もなかったから、途中で落ちたんだ」
「待って。三人乗り?」
「ああまあ……イーレンも一緒だった。無理やりくっついてきたらしい」
「!!」
「三人乗りは推奨されてないだろ。イーレンは一番後ろで、意識のない俺を挟むようにしてララにしがみついてたそうなんだが、ただでさえ不安定なところに土砂降りの雨と稲光と暴風だからなあ。イーレンと俺は途中で落ちたんだ。で、気が付いたら現代のエスメラルダにいた。ララが戻ろうとした時代の、六年前のエスメラルダに」
マリアラは呆然としながら考えた。そうだ。そうでなきゃ、つじつまが合わなくなる。
イーレンタールもダニエルも、ララより四歳年上だと聞いている。それにダニエルはフェルドが子供のころから【魔女ビル】にいて、何くれとなくフェルドとラセミスタの世話を焼いていたと、何度も聞かされている。ラセミスタに懐かれ、思春期に突入したフェルドには保護者代わりに反発されるほど、ずっとずっと、近くにいた。
「六年経って、レイキアから、ララが来て。ララはすぐ過去に行って――戻って来た時には大変だった。俺を落っことしてしまったって、半狂乱だったよ。何しろ外見が全然違うもんな。再会したとき俺は二十歳だった。十歳以下の小さな子供に見えていた人間が、いきなりこんな鬼瓦になったんだから、そりゃ混乱もするだろう」
「……そっか」
「そこは一応、鬼瓦じゃないよ、とか言うところだ」
言われてマリアラは微笑んだ。「ごめん」
「……だからララは、いまだに、俺の母親との約束を守り切れてないって、心のどこかで思ってるんじゃないかと思う。幸せにするはずだった小さな子供は、ララにとっては落っことしたままなんじゃないか。その子を守れなかった代償に、俺を必死で守ろうとしてるんだろう。……だからといって」
ダニエルはまた苦笑した。
「俺は今までずっと、ララが気が済むようにさせてやりたかった。いくら俺が、あの時の小さな子供はちゃんと助かって、エスメラルダで豊かに暮らせるようになったんだ、それはララのお陰なんだって言ったってさ、ララが納得するまではそんな言葉には何の意味もない、そう思ってたんだよ。ララは俺の恩人だ。母さんも俺も、ララのお陰で救われたんだ。何より母さんに心の安寧をもたらしてくれたことに、俺はどんなに感謝してもしきれない。だからララの気の済むようにするべきなんだって、ずっと思ってた。……だからさ。今回のことは俺の責任なんだ。本当に申し訳なかった。生きててくれて――取り返しのつかないことにならないでくれて、ありがとうな、マリアラ」
「……う、ん」
「でもそれももう、今回のことで終わりだ」
ダニエルは優しい声で言った。
「もう充分だ。俺はもう、堪忍袋の緒を切ったよ。可愛い【娘】に大ケガをさせ、その後しばらく放置したことだけは、見過ごすわけにはいかない」
「……イクスさんが……一緒にいたからでしょう」
「そうだな。追い払った後すぐに戻って、必死でお前を捜したらしい。今は、お前が死んだと思っているのかもしれない。【風の骨】が見つけたはずだと自分を納得させたかな。でもまあ、だいぶ憔悴してたよ。俺はお前の無事を、話してやらなかったから。――気の毒だと思うけど。右巻きと左巻きの思考回路の違いだと、思うこともできるけど。イクスが一緒にいたままじゃ、病院にかつぎ込んでも、お前の居場所がレジナルドにばれて包囲されてた。お前が捕まるという事態だけは避けるべきだと判断したんだ、と、思うこともできるけど。
でも俺はララに、あのまますぐに駆け降りて、お前を捜してほしかったよ」
「……」
「それに――俺を『幸せに』しようとすればするほどララは苦しむんだって、今回のことでよく分かった。俺の意見を言わせてもらえば、俺は別にエスメラルダに住まなくたっていいんだ。レジナルドは俺を過去に送り返すことができるんだって言って、ララを脅していたらしいんだが――だからなんだ、って話なんだよ。俺はもう、過去に戻ったって恐くもなんともない。孵化もして、大きくなって、人の治療もできるし、フェルドほどじゃないがサバイバルだってできるんだ。もうとっくの昔に、孵化に脅えて発育を遅らせてた小さな子供じゃなくなったんだから。まあ、過去に戻ることになったら、むりやりにでもララをつれて行くけど」
「……うん」
「『幸せ』というのは、結局は主観なんだ。貧しくても、豊かな生活なんてできなくなっても、俺はちっとも構わないんだ。ララと一緒にいられさえすれば、それで俺は『幸せ』なんだ。そろそろ、ララにもそれを理解する義務がある。――だから」
ダニエルは言い、ポケットから、一通の封筒を取り出した。
「悪いけど、ついでに配達を頼みたい。俺はもう、エスメラルダに戻るつもりはないから」
マリアラはその封筒をじっと見た。
ついでに持って行ってくれ、と、ダニエルは言っている。
今からエスメラルダに行くのだろうから、ついでにララにこれを届けてくれ、と。
「ここでいつまででも待ってるからさ。もしあっちでララがお前を捕まえに出て来たら、これを見せれば盾になるだろ」
――今からエスメラルダに行くのだから。
指先が震え始めた。体の不調はもうすっかりなくなっているはずなのに、貧血の前兆に身を堅くする。『どっちに転んでも』とジェムズは何度も言った。ジェムズはきっと、フェルドに拒絶された後、マリアラの身を守れるように、ここに連絡しろと、あんなに何度も念を押していたのだ。
――ララだけでなく、ジェムズにも、マリアラが失敗するだろうと判断するだけの材料があったのだ。
吐き気に口を押さえかけた時、ダニエルが左手を延ばした。胃の不快感が霧散して、マリアラは息をつく。指先のしびれはなくならないけれど、息苦しさも、消えないけれど。
「危険な目に遭わせるのは、申し訳ないと思う。でも、悪いけど……フェルドをさ」ダニエルは優しい声で言った。「迎えに行ってやってくれよ。俺じゃだめなんだ。毛を逆立ててる虎みたいになってて、俺の声なんか届かない。――あいつもああ見えて、ただの人間なんだ。あのままじゃそのうち壊れちまう」
「迎え、に」
マリアラはあえぎ、ダニエルは優しく笑った。
「あいつはよくやってるよ。ララはすっかり騙されてる。ララだけじゃない、【魔女ビル】にいる人間のほとんどはすっかり信じ込んでる。――でも俺まで騙せるほどじゃない。あいつもまだまだ詰めが甘いよ」
「騙し、て、るの?」
「見事なもんだ」ダニエルは喉の奥をくつくつ言わせて笑った。「よりによって賭場とはね! よく考えたもんだと思うけど。ミーシャのこともそうだ。ミーシャだけをそばにおいて、期日が来たらすぐにでも相棒になろうと言わんばかりの態度。あいつの誤算は、」マリアラの額を軽くつついた。「そういう噂が、お前の耳にも入るだろうってことまで思い至らなかったことだな」
「……ミーシャは、フェルドの、相棒になる、ん、でしょう……?」
「今のままならな。仮魔女中に言葉も交わして、ゲームも成立してる。あの子はすっかり相棒気取りだな」
ダニエルの言い方はとても素っ気なくて、ミーシャのことを気に入っていないことがよく分かる。意外だった。ダニエルは【魔女ビル】の、年若い子たちから世話役のように思われている。面倒見がよく、優しくて、頼りがいのあるダニエル。きっとミーシャのことも、大事にしているのだと思っていたのに。
「よく誤解されるんだが、俺はそれほど博愛精神に富んでるわけじゃないんだよ」ダニエルは優しく言った。「そんなに誰でも彼でも、懐にいれるわけにはいかないだろ。俺が面倒見るのは、心根が真っすぐなのに、レジナルドの構築したシステムから弾き出されて苦労しそうな子だけだよ。フェルドだろ、ラスだろ、ミランダだろ、そして、お前だ」
指を向けられ、マリアラはたじろいだ。
「わたし……」
「お前の【親】に指名された時、最初は断る気だった。魔力の数値が低くて、どうやらラクエルらしいってわかってたから、どうせフェルドに宛てがうつもりなんだろうって思ったし。でもなあ……医局にかつぎ込まれた時、ああこりゃ気の毒だ、って思った。孵化するなんて、周囲の誰もが思ってもみなかったほど魔力の弱い子で――しかも本人が喜んでなかった。お前孵化のとき、嫌だと思っていただろう」
「い、嫌じゃなかったよ……誰だって、孵化を迎えたら、嬉しいものでしょう」
「いーや、喜んでなかったよ。後から聞いたが、歴史の教官になりたかったんだろ」
マリアラはたじろいだ。一度目の孵化の時のことは、もうほとんど覚えていない。
でも、そうだった。
マリアラはずっと、モーガン先生のような、学者という仕事に憧れていた。歴史の研究をして、それから、小さな子供たちに歴史の楽しさを伝えられたらと、仄かな願望を抱いていた。
孵化した時、嬉しかった、はずだ。
でも、もう教師になれない、と、思ったことも確かだった。
「何より担当教官が孵化を嘆いた。よっぽど目をかけていた学生だったんだろうな。お前の【親】になってみて、その気持ちがよく分かった。仮魔女期にあんなに薬の勉強した子は、後にも先にもお前だけだよ。お前、医局の医師たちの中じゃちょっとした評判になってたの、知らないだろう? 魔力の弱さを知識と努力で補ってたお前は、医師にやる気を与えてたんだ」
「……そうなの……?」
「エスメラルダの医師は自分で治療できない。マヌエルのサポートができるだけだ。アーミナはそれを憂えてガルシアへ行った。俺の知ってる若い医師もひとり、それが原因で医師をやめて別の職業を目指した。いくら勉強しても人の治療には役に立たない。魔力さえあれば、知識などなくても、本能だけで治療ができる。そんな現実の中では、魔力の弱いマヌエルは治療が下手なはずだ。事実、大多数のマヌエルはそうだ。……でもお前は頑張ってた。魔力が弱くても、薬の勉強をして、適切な薬を選び出す目を鍛えて、最小限の魔力で最大限の効果を上げてた。医師がまとめたレポートにも全部目を通してたんだろう? ほとんどのマヌエルが読まずに捨ててしまうものをね。お前みたいなマヌエルの存在を、医師が歓迎しないわけないだろ。俺は医師たちによくお前を褒められてほんとに鼻が高かった」
「……」
「頑固ってくらい真面目で、一途で、けなげで。優しくて、人の役に立ちたいって気持ちがすごく強くて。そのくせいたずらもふざけるのも結構好きで。おいおいって思うほど無鉄砲なところがあって。散々心配かけるし、ケガした自分を治せなくなったりするし――俺の【娘】は、お前一人で手一杯だよ、全く」
「だって、ミーシャは……」
「登録上は俺が【親】ってことになってるな。レジナルドはそりゃあ、お前の後釜に据えたいんだから、俺が【親】でなきゃ困るだろう」
「違うの……?」
「孵化の手助けをしたのはヒルデだよ。俺は断った。俺の【娘】はひとりでいいんだ」
どうしよう。
マリアラは思った。
泣きそうだ。
ダニエルの声はさらに優しくなった。
「フェルドもきっとそう思ってる。相棒はひとりでいいんだって」
「そ……」
「あいつの魂胆はわかってるよ。相棒を得れば、コインと箒が手に入る。逃げるためには道具が必要だ。そうだろ?」
ダニエルはあまりに自信たっぷりだった。フェルドがマリアラの相棒をやめる気はないことを、確信しているようだった。マリアラは混乱していた。ララとジェムズの、イクスの、王太子の、レイルナートの、言った言葉とあまりに真逆だ。そうならもちろん幸せだけれど、どうしてここまできっぱりと言い切れるのだろう。
マリアラはかすれた声で抗った。
「だって、責務は。害悪なんでしょう……?」
「そんなことまだわからないだろ。魔力というものが消え失せる可能性がある、というだけの話だ」
「だって、でも」
「責務を果たした後に何が起こるかというのは、諸説あるんだよ。一番説得力があって、研究者の大多数が支持している説は――魔力が消えるのはすぐじゃない。今後何十年も、場合によっては何百年もかかって、緩やかに失われていくだろう、というものだ。新しく孵化を迎える人間は、もしかしてもう出なくなるかもしれない。でも今既にマヌエルになっている人間の魔力まで消えるかというと――それほど劇的な変化が起こるなんて、ありえないだろ。責務を果たすってのは、【毒の世界】の真ん中にある毒の源を消すことだと言われてるが、毒そのものがこの世からすべて浄化されるためには、その後何十年も何百年もかかるだろう? 毒に対抗するために魔力という力が人間にも発現したのだ、だから責務が果たされれば魔力も消えるのだ、という説を採るのなら、毒が残っているうちは魔力も残るはず、という結論にたどりつかなきゃおかしいだろう。レジナルドは仲間を増やすために、あんな急進的な説を積極的に広めるようになっただけだ。ララだって信じちゃいないさ。
お前たちがいつか責務を果たしても、生活はそれほど劇的には変わらないよ。【風の骨】もその説を採ってる。だからあの人はあれだけ一生懸命、ルクルスでも使える技術の開発をしてたんだ。既に進んだ文化のレベルをそれほど後退させる事なく、ただ移行すればいいだけの状態に持っていけるように」
「……そう、なの?」
「だがエスメラルダの人間には受け入れ難いことなのは確かなんだ。魔法道具の技術によって世界のトップに君臨している国が、技術面でアナカルシスに大きく後れを取るということだからな。だが――現在のエスメラルダでだ、【穴】が空いて人が落ちることがなくなり、【壁】も少しずつ消えて、昔の穏やかな気候に戻っていくのだとしたら。そっちの恩恵の方が、計り知れないじゃないか」
それじゃあ――
マリアラは震える息を吐く。
フェルドが責務を忌避する理由も、ない、ということだ。
ダニエルはいたずらっぽく笑う。
「ララはフェルドにすっかり騙されてるが――男の成長期ってのは劇的だからな。ララが騙されるのも無理はないんだよ。特にあいつの場合、だいぶ長いことチビだったから、本当に突然ぐんぐん大きくなったんだ。一週間で見て分かるほど背が伸びてた。成長痛もホントにひどくて、何度も手助けしてやったもんだ。……外見があんまり劇的に変わってくから、味覚もそうだろうってララも、周りも素直に信じ込んだ。でもなあ――確かに甘い物って昔ほど欲しなくなったりするもんだが、味覚なんてそうそう変わるもんじゃないんだよ」
ダニエルはニヤリと笑った。
「それに、あいつに願かけのやり方を教えたのは俺だからな」
「願かけ……?」
「何か大きな願い事をかなえたい時、それが成就するまで、一番好きな物を断つってな、願かけのやり方があるんだよ。あいつは本当に甘いものが好きだった。見るだけで頭痛がするほどだった。箱一杯のおはぎをもう少しで全部平らげるところだった。――俺が覚えている限り、【穴】に落ちて行方不明になるまでは」
「……!」
「三日だったか、五日だったか、行方不明になって――発信機の波長を頼りに捜して、やっと見つけて。持ってた甘いものをちびちび齧って凌いでたらしいんだが。一週間ほど入院して、出て来たらもう、一切食べなくなってた。どんなに勧めても食べなかった。こりゃ何か願かけしてるなって、俺は早い段階から気づいてたよ。それが何なのか、分からなかったんだけどな。……今も分からないけど、でも、ひとつだけわかっている。突然孵化を受け入れた後も、お前と相棒になった後も、二度目の孵化を迎えた後も、お前が目の前で【風の骨】に連れて行かれた後も――半年近く監禁されてて、人が変わったようになって出て来た、今でも、あいつは甘いものを頑として食べない」
ダニエルの大きな手が、マリアラの頭に乗せられた。
ぽんぽん、と軽くたたいて、ダニエルは微笑んだ。
「だからこれだけは言えるよ。あいつは、長年願かけしてきた何かの成就を、今も諦めてないんだ、ってな」
だからお前も諦めないでやってくれ。そういったダニエルの優しい声は、マリアラの胸に食い込んでいた失意の刺を、体を不調と貧血で縛り付けていた楔を、少しずつ溶かしていく。
うん、と頷いて、マリアラはひざを抱えて顔を伏せた。
フェルドに会いたい。強く、強く、そう思った。




