五日目 非番 午後(6)
五階は、子供のために作られた楽園だった。
廊下を出てすぐ、重厚な扉がそびえていた。扉を開けると、土足禁止、と書かれた大きなプレートがある。靴を脱いで備え付けのビニール袋に入れ、小さく縮めてポケットに入れ、柔らかなコルク素材の床を踏むと、その心地よさに唇が綻んだ。靴脱ぎの空間は狭く、前後を扉に挟まれて、静まりかえっている。
しかし、子供部屋に通じる方の扉を開いた瞬間、その印象はがらりと変わった。
子供の声が、怒濤のように押し寄せてきた。
マリアラは驚いた。――広い。
コルク素材の床が一面に広がるその空間は、平均的な体育館のゆうに五倍はあるだろう。その中央に、大きな木がそびえ立っていた。木の回りには直径十メートルほどの穴が空いていて、下の四階――乳児・幼児寮があるという――につながっている。木の枝にはそこここからロープが吊され、子供たちがぶら下がっている。木の梢には三つほどのツリーハウスが見える。遊べるものは木だけではなく、東の方には大きな砂場とおにぎり型の滑り台が設けられ、西の方には巨大なお城が建っていて、その向こうにはたくさんのブランコ群が見え、あちらこちらに土管や穴の空いた壁が作り付けられ、それらを縫うように川が流れている。
天国だ。ここは本当に建物の中なのだろうか。
「ここが子供寮。寝る部屋とか勉強部屋とかはあっちの扉の向こうにあるけど、マリアラに関係あるのはこっちの方」
「ここの担当になることもあるの?」
期待が表れていたのだろうか、フェルドはマリアラを見て笑った。
「あの木の根元は四階にあって、根本はクッション素材の海になってるんだけど、それでもやっぱ落ちてケガしたりってことはあり得るだろ。幼児階に詰所があるよ。そこにいてもいいし、子供と遊んでもいい。ダニエルは担当時間じゃないときも殆どずっと入り浸って――」
「あっフェルドだー!」
突然元気な男の子の声がしたかと思うとフェルドが大きく動いた。五、六歳くらいの男の子が放った跳び蹴りを避けて、笑う。
「修行が足りねーな」
避けられた男の子は大きくつんのめりながらも方向転換し、こちらに向き直って叫んだ。
「ねえねえフィ! フィは!? フィはフィは!? 貸して貸してー!」
騒ぎに気づいて、四方八方から子供たちが集まってくる。フェルドの胸元からフィが飛び出し、ぽん、という音を立てて元の大きさに戻った。
『よっしゃ、誰からだ!?』
「おれ! おれおれ! おれがいっちばーん!」
跳び蹴りの子供が柄を掴んだ。かろうじて間に合った他の子も合わせて三人が歓声と共に宙に舞い上がった。マリアラはハラハラした。ちょっと、あまりにも、乱暴なのでは――と思った瞬間にフィが急降下し、ぎゃははははは、としがみついている子供たちが笑う。
あ、ひとり落ちた。コルク素材の床の上で男の子は笑い転げている。残った子供も必死でしがみついているが、フィはわざと柄をくねらせ穂を振って振り落とそうとし、他の子供たちが次は自分の番だ、とばかりにそちらへ向けて走って行く。
楽しそうだ。
『あたしもあたしもー!』
出し抜けにミフがマリアラの胸元から飛び出し、部屋中から続々集まってくる子供たちがわあっと群がった。ミフは子供の手が届かないところで静止して、宣言した。
『あたしはお行儀良く乗ってくれる子しか乗せないよ。お部屋の中をゆっくり優雅に飛びたい子はだーれ?』
程なくミフも、三人の子供を乗せて飛び始めた。ミフの方は1.5メートルくらいの高さをゆっくり飛んで行く。それはそれで望ましい子が大勢いたらしく、ミフの方もフィの方も順番待ちの列があっという間にできあがった。
「すごいねえ」
マリアラはすっかり楽しくなっていた。フィとミフに群がった子供たちの他にも、部屋のそこかしこに子供の姿が見えた。木に沿ってゆっくり歩くと、木の後ろ側にアスレチックまであるのが見える。木の枝から張られたロープの網にも子供がぶら下がっている。ツリーハウスの窓から顔を出している子は結構大きい。
「フェルド、その人誰? 相棒?」
窓から顔を出している男の子がそう声をかけてきた。フェルドは仰向いて、よう、と言った。
「まだわからない。今日子供部屋に清掃隊の人来たか?」
「うん、さっき来てたよ。なんか異臭騒ぎがあったとかで……でももう帰った」
「そっか。ありがとう」
「ねー、フェルドの相棒なの?」
男の子は直接マリアラに声をかけてきた。マリアラより二、三歳くらい年下だろうか。
「まだわからないの。今研修中」
「ふーん。孵化ってどんな感じ? 痛かった?」
「うん、ちょっとだけね」
「来るときって、その……」男の子は少し言いよどんだ。「前々から感じてたりするもんなんでしょ? ちょっと痛かったり苦しかったり……発作みたいなのが、何度かあるもんなんだよね?」
「わたしは違ったよ」
答えると男の子は、目を見開いた。「そうなの?」
「うん、本当に突然だったよ。だからすっごくびっくりしたよ。朝ご飯を食べてたらね、突然心臓が――ぎゅうってなって。息ができなくて。それまで全然兆候なかったから孵化だなんて思わなくて、すごくびっくりした」
男の子はまじまじとマリアラを見ていた。
それから、笑った。
「そっか、そうなんだ」
「うん」
「そっかー」窓から顔が引っ込んだ。「そっかそっかー」ツリーハウスの中で、くぐもった声が聞こえる。
あの子は孵化を待っているのだろうとマリアラは思った。
健康診断で魔力量の数値が高かった子は、孵化しやすい子だけが集められた寮に入るが、だからといって必ず孵化すると保証されたわけではない。たまごのまま十六歳を過ぎると、大抵皆、孵化することを諦める。半分以上が孵化する寮で育ったら、未孵化のまま卒寮する子はきっと肩身が狭いだろう。【魔女ビル】育ちならなおさら。
魔力の強い子には、また違った苦労があるのだ。
孵化があの子に来るといいなとマリアラは思った。自分の力ではどうにもならない出来事だから、そう祈ることしかできないけれど。
「下降りるよ。木で降りるのとロープか網で降りるのと、どれがマシ?」
フェルドに聞かれて、マリアラは微笑んだ。
「木がいいな。夢みたいだよ!」
下に降りるとそこは更に夢のような世界だった。ダニエルがここに入り浸っていたという気持ちはとてもよくわかる。小さな子供たちが大勢いて、上の階に比べると大人の数も多い。
「こっちこっち」
フェルドは勝手知ったる風に幼児たちの間を抜けていくが、マリアラはそうはいかなかった。小さな子供たちや赤ちゃんに近いような子供たちの賑やかな様子に、どうしても目を奪われてしまう。あっちこっちで紛争が起き、勝敗が決しあるいは仲裁され、大声で泣いたり地団駄踏んだりし、嵐が過ぎるとけろっとしてまた平和が訪れる。移り変わりがめまぐるしくて、目を離せない。
ここの担当になる日が楽しみだ。盛大に後ろ髪を引かれながらマリアラは急いでフェルドの後を追った。
幼児部屋の隅に、木でできた小さな家があった。
幼児のサイズに合わせてあるので、天井は低いが、窓から覗くと、中は意外に広いのがわかる。中で、女の子がふたり遊んでいた。おかっぱ頭の女の子はぱたぱた走り回って家中のお掃除――たぶん――をしており、三つ編みの女の子はキッチンで、わーわー喋りながら料理をしている。
フェルドが扉をノックすると、おかっぱ頭の女の子がこちらを見てぱっと顔をほころばせた。
「お客さん! お客さんよ!」
「いらっしゃいいらっしゃい! どうぞ入って入って!」
ふたりはいそいそと愛想良くフェルドとマリアラを招き入れた。ずっと屈んだままでいなければ頭をぶつけてしまいそうになるが、中はとても明るくて居心地が良かった。暖炉があり、内装がいちいち凝っている。フェルドとマリアラをダイニングに招き入れて席を勧め、ふたりの女の子は大急ぎでお茶の支度をした。冷蔵庫から次々にお菓子や食べ物が出てきた。全部プラスチックだが、精巧に作られている。
「来てくださって嬉しいわ。今日はダンスパーティがあるのよ。さあさあどうぞ、シュークリームをめしあがれ」
言いながら三つ編みの子がマリアラの前に皿を並べ、レモンのおもちゃを丁重な手つきでおいてくれた。
「これはねえあたしが作りましたのよ。コオミ屋で!」
「なるほど」
「そちらの大人さんには夏のおすすめ、ぜっぴんメニュー! くるみ入りざくざくクッキーでございます。ご注文は?」
フェルドがまじめくさって言った。「じゃあそのクッキーください」
「わかりました! 少々お待ち下さいね、今かってきます!」
なかなか楽しい。
ふたりはそれからひとしきり注文したりお茶に呼ばれたりした。お掃除が始まったりダンスパーティの練習も始まり、今彼女たちが何の遊びをしているのかがわからなくなってきた頃、家の外でチャイムが鳴った。とたんにふたりの女の子たちは飛び上がって駆けだしていく。
「おやつだー!」
「わーい!」
なるほど、あのチャイムはおやつの時間を知らせるものだったらしい。上の階からも、木やロープを伝って子供たちが続々降りてくるのが見える。フェルドは腰を屈めて扉へ行き、中からそっと閉めた。こちらを振り返って、やれやれ、と言いたげに笑う。
「じゃあ行こうか。俺が先に行って見てくるから、合図するまでちょっと待ってて」
「行くって――」
どこへ、と訊ねようとしたときには、フェルドは既に暖炉の床に屈み込んでいた。四隅を触ると、かこっ、と軽い音がして、床が外れた。フェルドがようやく通れるかどうかという穴に、ごそごそ潜り込んでいく。
「久しぶりだからな、通れっかな……意外に狭くなってる」
抜け穴だ。
マリアラは感嘆した。なるほど、このためにここに来たのか。