祈り
リンはガストンの端末の番号を押した。グレゴリーが声を上げた。
「気をつけろ。イーレンタールは自分の裁判の最中に、それを放棄して端末に向かってる。あの子は本気だ。マリアラの危機をフェルドに伝えることを見過ごすはずがない」
「えっ、じゃあっ」
振り返った時、ガストンが出た。取り込み中らしく、あちらの周囲は喧噪に満ちている。『もしもし』ガストンの声にリンはまた電話機に向き直り、
「あのっあたし、私リンです! ガストンさんっ、ガストンさんっ、フェルドと話したいんです! 緊急です、至急です、大至急! 居場所知りませんか――」
『少し待て』
ガストンの声が途切れた。あちらから怒号だの呼び子だのが切れ切れに聞こえてくる。リンはじりじりしていた。イーレンタールが気づく前に――どうか、どうか、神様!
『……もしもし』
――出た……!
リンは震えた。またしても、泣き出しそうだった。
「もしもしフェルド!? 無事なの!? 今どこ!? お願い早くきて、マリアラが……! 【魔女ビル】だよ、【魔女ビル】だよっ、【魔女ビル】に行って! 早くお願いっ」
「もう切れた」
ハイデンが冷静に言った。我に返ると、確かに、受話器がツーツー音を立てている。「イーレンタールだ」グレゴリーが言った。「通話に気づいて遮断した……フェルド、という名にアラームが……」
「どっ、どこまで通じました!?」
「【魔女ビル】が入ったかどうかというところだ」
「うああああああああ!」
リンは頭をかきむしる。どうして。どうして自分の足で、駆け出して行けないのだろう……!
でも、仕方がない。自分にできることを全部やるしかないのだ。わめいている時間も、心配したり悔やんだりしている時間もない。さっきのロスが惜しかった。なんで初めから、思いついておかなかったんだ!
「ティティさん! ティティさんんんんんっ!」
風呂場に突進し、脱衣所の扉を開けると、そこにディーンがいた。
椅子に座って、こちらを見ていた。リンは愕然とする。
「なっ、何をし……!?」
「状況は大体聞いていました」ディーンは静かに言う。「だがティティさんに頼るのはどうだろう……あの人は朝から魔力を使い過ぎた」
「なんじゃ」
眠っていたらしい。ちゃぷんと水音がして、風呂の中から、眠たげなティティの声がした。
リンは耳を疑った。
確かに、ティティの声なのに。
深い、柔らかな、艶のある、大人の女性の声だった。
「……マリアラがどうかしたか。何ぞ不都合でも」
「あ、え、え、……ええ、はい」リンは咳払いをする。「イーレンタールが、裁判をほうり出して、端末に向かったらしくて……」
扉越しにかい摘まんで話しをすると、ティティはしばらく考えた。
それから、呟いた。
「きな臭いのう」
「きな?」
「かまわぬから入って来やれ……ディーン」
「はい、はい」
ディーンはいそいそと返事をした。ティティに名を呼ばれたのが、嬉しくてたまらないという風に。
「すまぬが、も少し、分けてくれるか……」
「もちろん。今お持ちします」
「構わぬ、そなたも入って来やれ」
「……」
ディーンが震えたのをリンは見た。
リンはその時、初めて気づいた。
ディーンは、まるで、ティティに恋をしているみたいだ……
かすれた声で、ディーンは、答えた。
「はい。ただ今」
そしてディーンは、おそるおそる、震える手で、ティティのいる風呂場の戸を開けた。
「ああ……!」
中を覗いて、リンは思わず悲鳴を上げた。今朝、マリアラが風呂に茶を持って行った時、驚いていた理由が分かった。
ここの湯船は民家にしてはとても大きい。少女寮の浴場に負けないくらいの広さがあるのだ。深さもかなりある。一番深い場所は、リンが背伸びをして首が出るかどうか、というほど深い。いったいどうしてなのかと不思議だったが、今、その理由が分かった。
ティティは人魚になっていた。
見事な黒髪がティティの回りをゆらゆらとただよっている。一般的に人魚は人間の女性とあまり変わらない大きさだと言われるが、ティティは、長い年月を生きたせいなのか、もう少し大きかった。尾鰭の根元から頭まで、二メートルはあるだろう。尾鰭がまた見事で、きらめく薄い紗布のようだった。
ちゃぷん、とティティが水面に顔を出した。リンは立ちすくんだ。
なんて綺麗なんだろう。こんなに綺麗な人を見たのは生まれて初めてだった。瞳の色がとても深くて、小さな鼻も、唇も、なまめかしくて、同時に荘厳で。
ディーンが洗い場に座り込んだ。
ティティが微笑む。
「ディーン。こちらに来やれ」
ディーンの声はかすれていた。
「……よろしいのですか」
「そうでなくば分けられまい」ティティは優しく笑った。「すまぬの、また痛い思いをさせるが」
「もったいないお言葉です……」
ディーンは、恐る恐るティティににじり寄った。ゆっくりと伸びたティティの手が、ディーンの頬を撫でる。
「そなたが生きておる限り、儂が他の者から命そのものを分けてもらうことはない。それに免じて許しておくれ」
「許すだなどと」
リンはそろそろと後ずさった。邪魔しちゃいけない。どうしてだろう、ものすごく、そんな気がする。ティティはディーンの首に両手を回し、ディーンの頭越しにこちらを見た。
目眩のするほどの美貌に見られ、文字どおり、足から力が抜けた。冷たい洗い場に座り込んだリンに、ティティは優しく微笑んだ。
「すぐすむ。少し待ちやれ」
そして、ティティは、ディーンの首筋に牙を立てた。
びくりとディーンの体が震えた。
静寂の中、くっ、くっ、とティティが鳴らす喉の音がはっきり聞こえた。水音と、それから、心臓の音。どくん、どくん、と脈打つ、たぶんディーンの……
命の、音だ。
「……すまぬの」
ティティはすぐに口を放した。ぺろりと傷口をなめたのが見えた。真っ白な牙がちらりと覗く。ディーンから離れようとしたが、ディーンがその前にティティの手をつかんだ。
リンは目をそらした。今度こそ。
ややして、ティティが静かな声で言う。
「アリエノール。待たせたの。ふむ……年も性別も合うゆえ、そなた少し手を貸しやれ」
「は、はいっ」
リンは向き直り、立とうとして立てず、そのまま洗い場を這って行った。ディーンが身を引いた。
リンはそちらを見られなかった。
絶対に立ち会ってはいけない場所にいてしまった、邪魔をしてしまったのだ、という居たたまれなさが執拗にリンを責める。ティティはリンの手を取り、そっと撫でた。
「儂はもう生き永らえる以外に使える余力がないのじゃ」
手を撫でながらティティが言う。リンは、そうなんですか、と言った。
ティティは悲しげに微笑んだ。
「他のことをしようと思うと、こうしてディーンに命を分けてもらわねばならぬ。しかしこれは他言無用じゃ。よいか。〈花〉に無用の心労を担わせるのは好かぬ」
確かにと、リンは思った。
マリアラの外見を変えるために、ティティは二度も魔力を使っている。マリアラがこれを知ったら、きっと申し訳なく思うだろう。リンはうなずき、ティティは微笑んだ。
「よい子じゃ。さて……」
リンの手を握り、ティティは目を閉じる。
そして、歌い出した。
リンの全く知らない言語だった。しかし、意味はわかった。ティティは捜していた。誰をだろう。マリアラではないことは確かだった、旋律は低く、ティティの怒りをはっきりと現している――と、ティティの浸かっている風呂水の面に何かが映った。どこかの風景だ、が、リンが把握する前に目まぐるしく移り変わっていく。ティティは歌い、水面はざわめいた。しばらく経つうちにリンは気づいた。
移り変わっていく景色はみな、水のある場所だった。
――どこじゃ。
ティティの怒りはいよいよ激しく、居丈高に水に命じるのがはっきりわかる。水たちはティティのために必死でその人を捜していた。どこじゃ、とティティが訊ねた。どこじゃ。どこにいる、
――出て来い裏切り者!
ティティの握るリンの左手がみしりと音をたて、リンが痛みを飲み下した時だ。
「見つけた!」
ティティは叫び、リンの手を放して水面に飛び込んだ。水しぶきが上がりリンが顔を庇ったとき、波打つ水面の向こうがちらりと見えた。黒髪の少女が鏡を見ていた。どこか寝台の上で、鬼気迫る表情で――ひざの上にスケッチブックが載っている――
〈見つけるわ――絶対見つけてみせる――あたしがこの力でっ、絶対、絶対、絶対!〉
〈幸せになんかさせるもんか! 絶対許さない! あたしはこのまま座してあの子を逃がしたりなんか……!〉
ティティがたどり着いた。黒髪の少女がこちらを見、悲鳴を上げた。
〈な、……に!?〉
――愚かな小娘が、身の程をわきまえるがいい!
ティティは少女の両肩をつかむや、身をたわめ、引きずり出した。
風呂水が飛び散った。ティティは少女を力任せに引きずり上げると風呂桶の縁に押さえ込んだ。少女は暴れていたが、首元を押さえ込まれて呆然とティティを見る。
「儂が誰か分かるか」ティティの口からちらりと牙が覗いた。「愚かな小娘が――そなたにその力は過ぎた贈り物じゃった」
「に……人魚……!?」
「〈水鏡〉はそも〈花〉の道を照らすためのもの。よりによってその力を〈花〉を堕とすために使いおって。自らの犯した罪を知るがいい。人魚の怒りを知るがいい」
ティティの手が少女の右腕をつかんだ。呆然としていた少女は悲鳴を上げた。
「い……嫌……!」
「黙れ」
「いや、いや、嫌ああ! 放して、放してえっ! 放し――」
「〈水鏡〉はこうして使うのじゃ!」
ティティの手が少女の右手をねじり上げ、水面からスケッチブックと鉛筆が飛び出した。ティティのもう片方の手が少女の額をわしづかんだ時、鉛筆が少女の右手に飛び込んで行く。少女は絶叫した。ねじり上げられた腕が勝手に動いて、盛り上がった水に支えられたスケッチブックに絵を『吐き出した』。
リンにはそう見えた。写真がプリントアウトされる過程を見るようだった。瞬く間に一枚が描き上げられ、「アリエノール!」ティティにせかされ、リンは慌ててその絵を破り取った。現れた新たな紙にまた絵が『吐き出され』ていく――。ティティの行為は情け容赦がなく、少女は悲鳴を上げ続けている。リンはその凄惨な行為から目をそらして、今破り取った紙に目を落とした。
「……マリアラ……」
マリアラがいた。箒に乗った若者の背にしがみついていた。箒を操る若者にも見覚えがある。誰だっけ。リンは必死で記憶を探った。
「それはだいぶ前じゃ。二十分ほどか」
ティティがそう言った時、絵の中で二人の姿ががくんと揺れた。下からの突風が箒を突き上げ、マリアラが一瞬目を閉じた。亜麻色の髪が翻った。
「絵が動いた!?」
「長くは保たぬ。それは絵ではなく〈水鏡〉じゃ。動くのは当然のこと」
「え……!?」
音は聞こえなかった。箒を操る若者はとても背が高く、長い足を持て余しているように箒に乗っている。キリンみたいな人だとリンは思い、その印象で唐突に、その人の名前を思い出した。
「ミシェルさん!」
「誰じゃ」
「右巻きの、独り身のマヌエルです。フェルドとマリアラの友達なの!」
「ほう、それは朗報じゃこと」
ミシェルとどこで会ったのかはわからなかったが、朗報であることは確かだ。ミシェルとは、マリアラとフェルドと、ダリアとそれからディノという別のマヌエルと一緒に、みんなでスキーに行ったのだ。ミシェルさんはとても明るく能天気で、思ったことをそのまま口に出してしまう人だったが、悪い人じゃないのはあの一日だけでもよくわかった。ミシェルはマリアラを、【魔女ビル】に連れていこうとしているらしい。絵の中、二人のすぐそばに、【魔女ビル】の壁面が見えている。高さを見ると、五階か六階、くらいではないだろうか。
絵はそこでかき消えた。「次」ティティが冷たく言う。リンは慌ててスケッチブックからまた絵を破り、ティティに囚われた少女がまた次の〈水鏡〉を描かされるのに背を向けて絵に見入った。
二人は【魔女ビル】の壁面に飛び出した足場に降りていた。ミシェルが扉を開けて先に中に入った。んもうどうしてミシェルさんはマリアラを説得してくれなかったのだろう、八つ当たりのようにリンは思う。
「ジェイドに連絡を取れ。どの方角か分からぬか」
ティティが言い、リンは顔を上げた。リンの後ろに座り込んだ人がいたからだ。グレゴリーだった。端末を操作して、ジェイドに呼びかけ始める。
「ジェイド、ジェイド、聞こえるか――」
リンは必死で絵の中から手掛かりを見つけようと目を凝らした。
「うーん、白黒だからなあ……足場に手すりがついているから、五階以上なのは確かですが、どの方角かというところまでは……」
うなった瞬間に絵が消えた。リンは再度スケッチブックから絵を破り取り、悲鳴も気力も尽きてしまった少女がぐったりとしながらも、再び無理やり絵をかかされ始めるのを見た。
気の毒だ。
「……そろそろか」
ティティは呻くように言った。見ると少女の絵を描く速度は格段に落ちていた。のろのろと描かれていく絵は、今度はマリアラのものではないらしい。
ようやく描き上がると、ティティは少女の額をつかんだ手に力をいれた。少女が呻き声を上げる。
「〈水鏡〉は返してもらう。そなたには過ぎた力じゃった」
少女は呻いた。「いや……ぁ……」
「利き腕を貰い受ける。二度と絵など描けぬようにな」
「いや……いや……!」
「そなたに〈水鏡〉を与えたは人魚が責。これがけじめというものじゃ。マリアラが知れば哀しむじゃろうが――」
「哀しむもんですか……!」
少女が叫んだ。ティティが、ほう、と言った。
「まだ叫ぶか。なかなかたいした根性じゃの」
「哀しむもんですか! あたしのためになんか哀しまない! 自分のせいであたしが腕を失ったことを哀しむだけ! 自分が穢れることを哀しむだけの、卑怯な、卑賎な、狡い、ただの人間よ! 何が〈花〉よ、何が〈救い手〉よ、あいつにそんなもの背負えるもんか……! いつか、いつか思い知る! 自分にそんな技量なんかなかったんだって! 世界なんか背負えなかったんだって、負けて、惨めにどん底まで落ちて、全部なくして泣けばいい……!」
「呪ったか」ティティは嗤った。「人魚の前で〈花〉を呪うか。勇気のある――愚かな娘じゃ。気が変わった」
少女の額から手を放し、ティティは少女を、とぷん、と風呂に沈めた。
「〈水鏡〉だけ返してもらおう。今後は自らの力だけで絵を描け。今までどれほど〈水鏡〉の恩恵を受けていたか、自らの才能がどれほどのものじゃったか。既に得た称賛も名声も、すべて自分の力などではなかったという事実を、思い知るがいいわ……」
水の通路を通って、ティティは少女を、元の場所に突き飛ばした。
そこは、たぶん、医局だった。医局の、個室。以前リンも入院したことのある、【魔女ビル】の三階だ。少女はベッドに落ち、勢い余って床に転げ落ちた。ティティが嗤う。
「〈水鏡〉を無くし、自らの力だけで、どれほど描けるか見ものじゃのう……」
ふと。
気づくとティティは元どおり風呂の中に沈んでおり、水面には何も映っていなかった。ティティは眠ってしまったらしい。スケッチブックは風呂桶の縁に落ちている。リンはそれをちらりと見たが、どう見ても今の事態には関係無さそうだったので――見知らぬ少女と、壮年の男の絵だった――今は目をそらし、最後に破り取ったマリアラの絵を見た。
マリアラは、もう、建物の中にいた。さっきの絵よりもずいぶん時間が経ったようで、絵の中の景色は大きく様変わりしていた。
「これは……製薬所……?」
グレゴリーが頷いた。
「そのようだ。製薬所は【魔女ビル】の中にいくつかあるが……ジェイド、おそらく八階だ。魔法道具工房に付属している方の製薬所だと思う。ミシェル=イリエル・マヌエルが一緒にいる」
ああ本当に、ミシェルが一緒にいてくれて助かった。ここでマリアラが一人きりでいるところを見ていたら、心配で心配で、心臓が潰れてしまうだろう。
絵が消えてしまったスケッチブックを前にリンは祈る。
どうか無事に戻ってきて。どうか、どうか。
フェルドに危険を知らせ、ジェイドにマリアラの居場所を伝えた。ここから【魔女ビル】はかなり離れているから、まだジェイドは着いていないだろうけれど――。
【風の骨】もまだ戻ってこない。リンが外に出ると却って危険だと諭されている。だからもう、リンにできることはなくなってしまった。
あとは祈ることだけだ。どうか、マリアラが、無事に戻って来ますようにと。
――マリアラ。
さっきの少女は、マリアラのことを、『ただの人間』だと言った。世界なんか背負えなかったんだと思い知るといい、と言った。それは、言葉を変えれば、そう、リンの思いと似ている。
もしかしてあの少女は、本当は、マリアラが好きなのかもしれない。そう思う。
リンも、マリアラが『ただの人間』だと知っていた。〈世界の花〉なのだと言われても、全然ピンとこない――というよりむしろ、少し、悔しいような気持ちだった。ティティやディーンや、【風の骨】がマリアラを助けたいと思うのは、〈世界の花〉だからなのか。そう、憤るような気持ちだった。フェルドがマリアラを好きなのは、自分の片割れだったから? マリアラがフェルドを好きなのは、共に責務を果たす相方だったからなのか?
そんなはず、ないじゃないか。
〈花〉なんかじゃなくてもいい。世界なんて、背負わなくていい。ティティやディーンに手を貸されるほどの価値なんて、いらない。マリアラはマリアラで、それだけで充分で、だから、リンは、マリアラに無事でいてほしいと思う。手助けしたいと思うし、幸せでいてほしいと思う。世界なんか救わなくていい。ただ、元気で、大好きな人と一緒に、笑っていてほしい……
この気持ちは呪いだろうか。ふと、そんなことを思った。
ティティの怒りを買うような、不遜で不敬な、ものなのだろうか。
いや、リンはそうは思わない。
世界の花、最後に残った唯一の――今後マリアラが出会う人達は、きっと、その称号を背負ったマリアラを見る。マリアラを助けるのも、手伝うのも、大切にしたいと思うのも、その称号があるからだ。称号をなくしたら、その人たちにとってのマリアラは、何の価値もなくなってしまうかもしれない。
――でもあたしは違う。
マリアラが称号をなくしたら、きっと嬉しいと思うだろう。
ただのマリアラとおしゃべりをして、デラックスを食べるその日を、きっと心待ちにしてしまうだろう……
――あの女の子、〈水鏡〉をなくしても、ちゃんと、絵を描けるといいな……
スケッチブックを引き寄せ、そう思った。彼女の力が最期に描いた〈水鏡〉は、動き出す前に――誰かが見つめていると発動するのだろう――丁重にしまい、ぺら、と表紙をめくった。
そのスケッチブックに描かれていたのは、数々の見事な絵だった。写真のような、おそらく〈水鏡〉で描かれた絵が大半だったが、たまにカラフルな絵が混じる。落書きのようなものだったが、少女の、並々ならぬ技量を感じる。
そして。
最後に、リンは、その絵を見た。
花畑の中で項垂れる死にかけた魔物に、少女が手を差し伸べる絵だ。
――マリアラだ。
リンは自然にそう思った。顔は見えないが、でもこれはマリアラだ。絶対そうだ。
何て綺麗なんだろう……何て、何て、優しい絵なんだろう。
これはマリアラだ。
――〈花〉じゃない。ただの、マリアラだ。
うつむいた存在がいたら、それがたとえ魔物でも、手を差し伸べずにはいられない……マリアラという少女、そのものだ……。
「……ジェイドは今どこです?」
グレゴリーに訊ねると、グレゴリーはすぐに答えた。
「まだ着いてない。ここは【魔女ビル】からかなり離れていただろう。だが、あと少しで着くはずだ」
「リーナの見てる景色……あたしにも、見せてもらえますか」
「もちろん。居間へ行こう」
グレゴリーは端末を持って立ち上がり、ちらりと、ディーンを見た。
ディーンは座り込んでいた。多分、貧血だろう。ハイデンを呼ぼうかと思ったが、その前にディーンが笑った。
「ここ以外で休む気はないですよ……どうぞお構いなく」
「どいてくれ」ハイデンの声が聞こえた。「マットと毛布を持って来たから。ディーンさん、もう年なんですから、マットに乗りなさい。冷えたら腰に障りますよ」
リンとグレゴリーはハイデンに道を譲るべく、急いで居間へ向かった。




