製薬所の主人
――シール型イヤホンは、捨てたほうがいいだろうか。
マリアラはミシェルの後ろに乗ったまま、決めあぐねている。
――このイヤホンから流れ出る声は、本当に、グレゴリーの声なのだろうか。
そうだったらミシェルに、マリアラが今わけあって声を出せないことくらい説明してくれても良かったはずだ。グレゴリーが説明してくれることを期待してイヤホンを渡したのに、あろうことかミシェルに『邪魔をするな』と言った。どうして? ミシェルが邪魔だなんて有り得ない。グレゴリーなら、そんなこと絶対に言わないはずだ。でも。
――これがグレゴリーの声じゃないのなら、いったい誰の声なのだろう?
ミシェルが返してくれたイヤホンを指に持ったまま悩んでいた時、突然、下から突風が突き上げた。
「っと!」
がくん、と視界がブレて、マリアラはミシェルの背にますます強くつかまった。その拍子にイヤホンが指から外れた。マリアラは頭の位置を変えないように注意して、イヤホンがひらひらと落ちていくのをできうる限り見守った。グレゴリーの声が何か叫んでいるのがみるみる遠ざかっていく。
――落としちゃった。
もしあの声が本当のグレゴリーだったなら、デクターにマリアラの居場所を伝える手段がなくなってしまったということになる。寄る辺なさを感じたが、
「マリアラちゃん、大丈夫――!?」
ミシェルが聞いてくれ、マリアラは噛みしめていた口元を少し緩めた。声を出せないから、ミシェルの背中に押し当てた頭の動きで伝えるしかなかったけれど。
なんて心強いのだろう。イヤホンの喪失など大した問題ではないとすら思えてくる。命綱くらい掴んでおいて損はないでしょと言ってくれた、初めて会った時のことを思い出す。あの派手な、爆発的な七色のカツラ。ラーメン屋さんに連れて行ってくれて、なんだかんだと手助けをしてくれて。あの時は何とか断らなければということしか考えられなかったが、今は、この命綱の力強さが身に染みる。
――わたしを助けてくれたことで、ミシェルさんは、これから困った立場に置かれたりはしないだろうか。
ミシェルに何も返せないのが、本当に心苦しかった。
*
ミシェルがマリアラを連れて行ったのは、八階にある製薬所だった。
八階の足場から入る時に少し緊張したものの、待ち構えている人は誰もおらず、ミシェルはつつがなく廊下を通って、何だかんだと話しながらその扉の前に立った。
マリアラが以前よく通っていたのとは違い、工房に隣接したその製薬所は、マヌエルたちの巾着袋の中に入れるための薬を作るところなのだそうだ。医局に必要とされる薬とは違うものが多いし、種類もそこまで多くないから、製薬所はとても小さくて隠れ家のようなのだ、とミシェルは言うのだった。
「とにかくスピードが命だからなー」
ミシェルはそう言って、こんこんこっここん、と製薬所の扉を叩いた。
少し間があった。
ぱたぱた……と足音が近づいてきて。
がちゃっと鍵が開いて、
「もーミシェルさん、またきたのー?」
懐かしい声がそう言いながら、扉を開けた。
マリアラは思わず、本当に危うく、声をあげてしまうところだった。
そこに立っていたのは、シャルロッテだったのだ。
「よーっす邪魔するぜーやーやーどーもどーも」
などと言いながらミシェルはさっさとマリアラを製薬所の中に押し込んだ。中にいたのはシャルロッテだけのようで、中はがらんと静まり返っていた。狭い部屋の中に長机が二つ。奥側の長机に本が積み重なっていて、ノートも広げられている。ここで一人で勉強していたのだろうか。
シャルロッテはじっとマリアラを見て、何も言わなかった。久しぶりに会う彼女はかなり背が伸びて、以前はほっそりしていた体つきも、少し変わっていた。丸い頬にそばかすが散っている。
「……なんでその子連れてきたの?」
シャルロッテは咎めるようにミシェルにそう言い、苛立たしそうに扉を閉めた。たん、と扉が立てた音の鋭さに、シャルロッテがこちらにいい感情を持っていないことがわかる。
しゅんと心が縮むのを感じた。半年もの間フェルドを一人で放っておいたことを、ミシェルも怒っていた。シャルロッテも、怒っているのだろう。確かに、本当に、酷い話だ。言い訳もできない。
シャルロッテの苛立ちに対して、ミシェルは何も言わなかった。パイプ椅子にどかっと座り、早速目を閉じていた。箒と視界を同調させて、探り始めてくれているのだ。
マリアラはシャルロッテに向き直り――ちょっと、驚いた。シャルロッテがまじまじとこちらを見ている。
「ミーシャ……じゃ、ないの?」
「……」
「ええ……も、もしかして……マリアラなの……?」
少し勇気が要った。うん、と頷くと、シャルロッテが両手を広げた。今や二人の目線は同じくらいで、マリアラが飛び越えてしまった半年が、シャルロッテにもたらした変化の大きさを雄弁に物語っていた。シャルロッテは泣き出しそうに顔を歪め、
「マリアラ……!」
ぎゅっと抱きついた。
マリアラは驚いたが、ついで、胸の奥から嬉しさが突き上げてきた。シャルロッテと一緒に製薬所で薬を作った日々が、まざまざと思い出された。『独り身』の左巻きはとても数が少ないので、製薬に携わる子たちとはすぐに顔見知りになった。年齢も近い子たちが多く、ヴィックとシャルロッテを初めとしたみんなと仲良くなれて、本当に貴重な機会だった。
そうだ。【魔女ビル】には本当に多くの知り合いがいるのだ。
ヒルデもランドも、ジーンとメイカも、医局の女傑ジェイディスも、みんな心配してくれているはずだ。【魔女ビル】に住んでいた頃、本当に幸せだったのだと今更思う。大勢の人たちに囲まれて、気にかけてもらって、挨拶されて、誘われて。
ここ最近の自分が、いかに、こういう温かさに飢えていたのかを思い知る。
シャルロッテは何も言わず、マリアラももちろん何も言えなかった。少ししてシャルロッテは、我に返ったように顔を上げる。
「って、こんなとこで何してんの!? なんか指名手配されてるとか、見つかったら捕まっちゃうとか聞いたけど……!」
「今ねーその子話せねーんだって」今も目を閉じているミシェルが言った。「シャル先輩、いてくれる時で助かったわ。多分この辺りに入ったってのは目撃されてるだろーから、隠してやって」
「はああー!? 言うのが遅いんですよ!!」
シャルロッテとミシェルは随分打ち解けた間柄のようだ。シャル先輩ってなんだ、とマリアラは思う。ミシェルはフェルドと同い年なのだから、シャルロッテより三つも年上のはずなのに。
シャルロッテはぷんぷんしながら「ちょっとこっちに」マリアラを押して壁際へ連れて行った。
「喋れないって何? て言うかなんで捕まっちゃうの? 何にも悪いことしてないんだよね? ほんと意味わかんないんだけど! あのねマリアラ、この製薬所にミシェルさんがよく来るのはね、この辺り――この部屋だけじゃなくて廊下とか、とにかくこの辺りぜーんぶ、〈アスタ〉のカメラが壊れてんの」
「……」
マリアラは両手で口を押さえた。危うく驚きの声を上げるところだった。この【魔女ビル】の中に、〈アスタ〉が覗けないところなんて、修羅場中のイーレンタールがいる工房くらいかと思っていた。
「ちょっと狭いけどここ、入って。右斜めに体をひねるようにして進むと、ちょっと開けたところに出るから」
シャルロッテが示したのは、ずっしりした見た目の薬品棚だ。ガラッとスチールの扉を開けると、下の段に古ぼけた段ボール箱が置いてあった。随分日に焼けていて、もう十数年はここにあるだろうと思われるような風情だった。シャルロッテがその段ボールをどかし、棚の床板に爪を立てた。つるんとした床板に見えていたが、同じ色の薄いシートを被せてあったようで――ぺりっとシートを剥がすと、そこに現れたのは、黒々とした大きな穴だ。
「入って。大丈夫よ、ミシェルさんがたまに使ってるから通れるはず」
――まるでフェルドに案内してもらったあの『子供部屋』から続く古い時代の通路のようだ。
そう思いながらマリアラは身を屈めてその中に入った。床下には大昔の排気ダクトらしきものが通っていて、すうすうと空気が流れている。朽ちかけた古い金属のパイプがすぐそばを通っている。ダクトの隙間を身を捩るようにして右斜めに進むと、確かに少し開けたところに出た。ダクトの底に穴が空いていて、そこから降りると、八階と七階の隙間にできたくぼみがあった。立って歩けるほどの高さはないが、座ってくつろぐにはちょうど良い。排気ダクトの通風口が開いているから、わずかにだが外が見える。十二月には奇跡のような晴天の光が、隙間から溢れている。
――フェルドが来たらきっと喜ぶだろう。
「誰か来たら困るから閉めるね。でも話しててもいい? もー話したいこといっぱいあってさー」
言いながらシャルロッテはシートを戻し、段ボールも戻したらしく、ちょっと声が遠くなった。でも聞き取るのに支障のないくらいのお喋りが、次々に上から降ってくる。
「ジェシカは相棒ができてさ、ヤートルだったか、バートルだったか、とにかくレイキアの方に異動になったのよ。ヴィックはもっと前からいないし、ミランダもだし、マリアラが知ってる子たちはもうあんまり残ってないかも。回転早いよねーあそこ。……あたしもね、相棒の話あったんだけど……ジェイディスに相談したの。あたし、薬作るのが楽しくなっちゃって。薬の研究、やりたくなっちゃって。相棒と一緒に人を助けるのも楽しそうだけど、とにかく薬、極めんのもいいかなあって、思って、て……」
「……」
相槌を打てないのが本当にもどかしくてたまらない。マリアラは窪みの中で精一杯首を伸ばして、シャルロッテの話を聞いた。彼女はおそらく薬品棚に背を預けるようにして座っている。独り言のようなつぶやきは、まるで天から降り注ぐ音楽のようだ。
「【親】には迷惑かけちゃったけど、でも、医局の人はみんな喜んでくれたよ。ジェイディスが全面的に応援してくれてるの。薬の研究するには、やっぱ医師の資格取らないといけないんだって。せっかく孵化したのになんでわざわざそんな茨の道をって、みんなに言われて……でもなんか、どうしても、諦めきれなくて……。左巻きが相棒も断って治療もせず、薬も作らずにいると顰蹙買うでしょ、だからジェイディスがね、ここの薬の管理を任せてくれたの。あたしはここで、薬を一人で、山ほど作ってることになってる。……でもね、ほんとは違うの、あたしがここでしてるのは在庫管理だけで、空いた時間はここで、勉強、させてもらってるの。あたし薬を極めたい。魔女が魔力を使って病巣に働きかけなくても、その薬を飲めば効く、っていうような、特効薬を作りたい。そしたらアナカルシスとかレイキアとか、魔女がいなくて困ってる国の人たちは、きっとどんなに助かるだろうって。
ああマリアラ……あたし、ずっと、ずっと、このことをあなたに話したかった。きっと応援して、励ましてくれるはずだって勝手に思ってた。あたしがしようとしてることは、……意味があることなんだって。言ってくれると思ってた。だって、」
シャルロッテはしばらく言葉を切った。嗚咽のような音が聞こえた。ああどうして今シャルロッテの前にいられないのだろうとマリアラは思う。マリアラは、フェルドが二度目の孵化を迎えて独り身に戻されるかもしれないと思った時の、あのよるべなさと孤立感を覚えている。
孵化してからマヌエル以外の仕事をするという道は、閉ざされているわけではないが、実際には難しいのが現状だ。ディノも、あんなに警備隊に入りたいと熱望していたのに叶わなかった。『あのおっかねー事務方がすっ飛んでくる』と誰かが言っていた。……そしてシャルロッテも苦労しているのだ。以前、フェルドと一緒に【魔女ビル】の子供たちの部屋で医師と一緒に働いた時、確かイリーナと名乗った左巻きが、アイリスという名の医師をこき下ろしていたことを思い出す。
医師が治療を指示するのは越権行為だと、イリーナはひどく不快そうだった。
シャルロッテはきっとこれから、あの時のアイリスと、同じような目に遭うのだろう。【親】には迷惑をかけちゃったとさっき言ったばかりだ。今も、【アスタ】の目の届かない場所に隠れてじゃないと勉強もできない。彼女が医師の資格を獲得するまでに、一体どれほどの困難が待ち受けているのだろう。ただでさえ難関の試験なのに、専攻会のバックアップが受けられるとも思えない。彼女が医師の試験にもし失敗したら、どれほど多くの人が、ほっと胸を撫で下ろすのだろう。
でもそんな人ばかりじゃないと言いたい。
ジェイディスも医局の人々も大喜びする。魔女の治療なしでも劇的に効く薬が開発できたら、魔女がいない国はもちろんのこと、エスメラルダでだって喜ばれるはずだ。彼女がこれから成そうとしていることの価値を信じている、心の底から応援したいと思っていると、言葉に出して言えたら、どんなにいいだろう。
その時、がたん、と、薬品棚が動いた音がした。
誰かが来たのだろうか。ミシェルの箒は、まだ辿り着いていないのだろうか。




