イーレンタールの悪意
グレゴリーは物置から出て、リビングのダイニングテーブルに陣取っていた。
始めのうち、その手つきも、マリアラと【風の骨】を誘導し指示する声もきっぱりとして、自信にあふれていた。
雲行きが怪しくなったのは、ララがマリアラと会う前に引き返したことがわかった直後だ。少し調べてみる、と言い、端末をのぞき込んだグレゴリーは、「ん?」と軽く声を上げた。
「何だこれは……」
「どうしました」
ハイデンが声を上げた。グレゴリーは顔をしかめ、
「今変なものが見えた。今の式は何だ……?」
指先がしばらくパタパタと動いた。「暗号……バグ……さざ波……」単語の断片が続き、「……これは」グレゴリーはわずかに腰を浮かせた。
「リン、ちょっと教えてほしい」
唐突に振られ、リンはのけぞった。「は、はいっ!?」
「君は【風の骨】が世界を『ずらす』ところを見たことがあるかね?」
「ず――ずらす?」
「その場にいるのに、外から見えなくなる。推測だが、中は無音だ――そう、『歪み』と言い換えた方がいいかもしれない。光だけが届く、もうひとつの世界――」
「……」
意味が分からない。リンが目を白黒させているのに、グレゴリーは全く気にしなかった。
「理論上は可能だ――歪みを操ること――しかしマヌエルには無理だ、いや、だが、時空に存在するあの要素に働きかけるすべさえ持っていればだ! 可能なのだ! だがこの研究をイーレンタールが今のこの時期にこれほど厳重に秘匿しながら続けている理由はなんだ!?」
意味がさっぱり分からない。
「グレゴリー。俺は昨日、【風の骨】に、リンを待つ間変な空間に入れられました」
そう言ったのはジェイドだ。グレゴリーが動きを止め、ジェイドは頷いた。
「外は見える。でも、外からは多分見えない。音も聞こえないし、雪も風も一切入らない。雪の粒は俺の体を突き抜けて行くように見える、でも痛くない。何も感じない。でも、その『中』の音は聞こえる」
「あ――ああ! ああ、はい、はい! あたしもそれなら知ってます!」
リンは遅れて手を挙げ、グレゴリーは、どすん、と椅子に座った。
「そうか。やはり――これは勘でしかない。しかし、イーレンタールは現実にこれを研究していて、厳重に秘匿している。これは事実だ。ということは――」
「……あの『歪み』を研究してるんですか」
ハイデンが訊ね、グレゴリーは顎に手を当てた。
「そのものの研究ではない。その――『歪み』の場所を感知する研究だ」
「そんなことが?」
「さっきも言ったが、理論上は可能なのだ。空間――時空の中に存在するある要素を操ることができれば。その要素自体は四十年前から発見されていた。人間にもマヌエルにも操ることは無理だが、その要素を解析すれば、ごく狭い範囲だが、どこが『歪んで』いるのかを把握できる。どうかね。【風の骨】はそれを多用するだろうか。今この時にも――」
「濫用まではしないが、『救い手』を隠すために必要とあらば躊躇わないだろう。危険だ。伝えなくては」
ハイデンが言い、グレゴリーは首を振った。
「イーレンタールは用心深い。たとえ裁判の途中でも、アラームは仕掛けていると見るべきだ。今僕が通信に利用しているのは〈アスタ〉の通信網だ、たとえプロテクトをかけても、秘匿中の研究のキイワードが〈アスタ〉の中を流れればアラームが鳴るだろう。【風の骨】」
端末のボタンを押して、グレゴリーは言った。
「すまんが一度戻ってきてくれないか」
指を放し、少し考え、またボタンを押した。
「少々ややこしい事態らしい。いくらイーレンタールが不在でも、〈アスタ〉を介して伝えられる事態じゃない……ふたりでは目立つだろう、その休憩所なら安心だから、ひとまずあなただけでも」
『わかった』
【風の骨】が淡々と答え、マリアラに、『すぐ戻る』と伝えたのが聞こえる。ハイデンが眉をひそめた。
「ひとりにするのは心配だな」
「イーレンタールの研究がどこまで進んでいるか分からない。もし『歪み』を操ることができる存在そのものの居場所を感知する段階まで進んでいたら、【風の骨】と一緒にいるだけでマリアラの居場所も察知されかねない」
「じゃああたしがっ」
リンは立ち上がり、駄目だ、とハイデンにすげなく言われた。
「忘れたのか。あなたの居場所は『あちら』の全保護局員から血眼で捜されてる。ミーシャに変装している〈救い手〉よりずっと目立つ」
「俺が行きます」
言ったのはジェイドだ。ハイデンが頷き、ジェイドはリンを見て、
苦笑した。
「リン、そんな顔しないで。……あの、グレゴリー。前にリーナがグレゴリーと、それから俺の、目と耳になったことありましたよね。あれ、リンにやってあげてくれませんか。俺がリーナを連れて行けば、リンもマリアラの様子を見られるでしょう」
「……!」
リンの期待が全身にみなぎってしまったのだろうか。グレゴリーもリンを見て笑った。
「ああ、それがいいね。リーナを出してくれ、今、設定するから」
リンはいそいそとハンドバッグからリーナをつまみ出した。元の大きさに戻して、声をかける。
「リーナ、起きて」
「……んにゃあああん」
リーナが伸びをし、くわああああ、と欠伸をする。グレゴリーがリーナに屈み込んで、小さな器具からコードを延ばし、リーナの首元に挿した。小さな器具の方をリンに差し出し、握って、と言う。
その時。
「……なんだ、これは?」
ハイデンが声を上げた。リンはそちらを見、グレゴリーがさっき、向かっていた端末の画面が切り替わったのを見た。
唐突に青地のウィンドウが開き、白い文字の羅列がだーっと流れた。グレゴリーは狼狽の声を上げ端末に戻った。すぐにグレゴリーの両手もものすごい勢いで端末をたたき始めたが、青い文字の羅列を止めることができない――
「イーレンタールだ!」グレゴリーが恐怖の声を上げる。「なぜ、なぜだ! なぜ気づいた!? アラームは発動してない、なのになぜ! 裁判はどうした……! くそっ」
もうひとつウィンドウが開いた。そこにも文字が流れ始めた。グレゴリーは死に物狂いでキイボードを叩いたが、やはり文字は止まらない。ぴーぴーぴー、と警告音が鳴った。ウィンドウがもうひとつ開いた。
そこに、マリアラの姿が映った。
休憩所で、マリアラは日の光を浴びて、眩しそうに外を見ていた。
――それはまるで一枚の絵のようだった。
扉のそばに取り付けられた防犯カメラの映像、だろうか。あまり画質がよくない。そのせいか、まるで絵のように見えるのだ。セピア色の柔らかな日差しを浴びて目を細めるマリアラは、そのまま消えてしまいそうに見える……。
そして。
もうひとつのウィンドウに、文字が浮かび上がる。
“マリアラ”
一瞬遅れてスピーカーから流れ出たのは、グレゴリーの声だった。
『マリアラ』
“起こして申し訳ない”
“驚かないで聞いて欲しい。悪いニュースだ”
“ララの行動だが……やはり懸念のとおりだった”
“フェルドが【魔女ビル】に戻った”
“というより、戻された”
ウィンドウに打ち込まれた文字を、『グレゴリーの声』が読み上げる。グレゴリーは脂汗をかいていた。必死で叩き続ける指先にもかかわらず、『グレゴリーの声』は流れ続ける。「くっ」うめき声が聞こえた。
そしてグレゴリーは、端末に拳をたたきつけた。
「……乗っ取られた……」
マリアラが息を飲み、口を押さえたのが見える。
“どうする”
文字が促す。リンは顔中から血の気がひいて行くのを感じていた。
“こうなった以上、君が、コインを持って、”
“【魔女ビル】に行くしかないと思うのだが”
“しかし”
“【風の骨】は君の判断を尊重すると言ってる”
“僕も勧めない”
“だが、できるだけのことをするよ”
“今ならイーレンタールが裁判中だ、この老いぼれにも、打つ手はいろいろあるからね”
“フェルドの居場所を探って、君をそこまで誘導することは……”
文字はそれ以上読めなかった。グレゴリーの声も聞こえなくなった。
グレゴリーの端末の電源が、外部から落とされたからだ。
ぱすん、という音と共に画面が暗くなり、端末の内部からかすかに煙が上がった。
リンはその時、イーレンタールの、底知れない悪意を感じたように思った。グレゴリーの端末を乗っ取り、グレゴリーの声を使ってマリアラをおびき寄せる、それはイーレンタールの立場ならやって当然かもしれない、でも、外部から電源を切るなんて事ができるなら。グレゴリーにわざわざマリアラを見せ、グレゴリーの声を聞かせる必要なんかないはずだ。むしろ、見せない方が安全だったはず。
なのにわざわざグレゴリーに見せた。
グレゴリーの構築したシステムがマリアラを窮地に落とすところを、見せつけた。
グレゴリーは頭を抱えていた。現実から逃げようとするかのように。
イーレンタールに完膚無きまでに喫した敗北に、打ちのめされている……
「フェルドは……」
リンは呻いた。ハイデンに向き直る。
「フェルドに渡した端末の番号! 教えてくださいっ!」
「朝から何度か確かめたが電源が落ちている。もう一度試してみるが」
ハイデンはこんな事態になっても落ち着き払っている。リンはジェイドに向き直った。
「ジェイド、行って! リーナを連れてって! グレゴリー、リーナの設定はできてますか!?」
「あ……ああ」
グレゴリーが顔を上げた。
「行ってきます」
ジェイドがリーナを抱き上げ、部屋を出て行く。
ハイデンが電話機に手をかけ、番号を打ち込み始めた。リンはそわそわとその辺を歩き回った。【風の骨】は今、どこにいるのだろう。
【風の骨】がマリアラを残して出かけてから、まだ十数分しか経っていない。ということは、まだ近くにいるはずだ。
「グレゴリー!」
叫ぶとグレゴリーは緩慢なしぐさでリンを見た。「……何かね」
「【風の骨】と連絡取れませんか!?」
「……」
グレゴリーは悲しそうにため息をつく。
リンも悲しくなった。どんなにつらいだろう、と思った。以前、グレゴリーは、リンに、イーレンタールも僕の子供のようなものだ、と言ったことがある。手塩にかけて育てたのだと。
自分の育てた技術者に、悪意をもって、その教えて技術でたたきのめされる――それはどんなに、つらいことなのだろう。
でも、今、リンには、それを慮る余裕がなかった。
リンはグレゴリーの前にひざをついた。
「お願い、グレゴリー。もう少し、頑張ってくれませんか」
「……僕は……」
「マリアラは【魔女ビル】に向かってしまいました。あの休憩所は【魔女ビル】に近くて、ええと、動道に乗れば十分もかからずについてしまう。ここは【魔女ビル】から遠い、ですよね、ジェイドがどんなに急いでも、マリアラの方が先に【魔女ビル】に着いちゃう。でも、【風の骨】はまだ近くにいるはずよ」
「……リン。【風の骨】がマリアラのそばに行くのは、却って危険じゃないかと僕は思うんだ……【風の骨】の作り出す歪みの位置を……」
「それはマリアラの居場所がイーレンタールにばれてない時の場合でしょう」
遮るとグレゴリーは、まじまじとリンを見た。
今初めて、リンが目の前にいるのを認識した、というような顔だった。
「ね……もう、マリアラの居場所はばれてしまっているんです。それなら、【風の骨】が行っても同じじゃない? 居場所、わかりませんか。連絡取れませんか、ねえっ」
「……やってみるよ」
グレゴリーは隈の浮いた目をこすり、端末に向き直った。
電源スイッチを押し、深々とため息をつく。
「……電源が入らない」
「直して」
「しかし……」
「直して、グレゴリー。お願いです。自分にできること、何でもやっておかないと、絶対後悔するんです。あたし、あたし、それを身をもって知ってるんです。やってうまくいかないのは、しょうがない。でもうまくいかないだろうって思って、やらないのは……あとで、本当につらい」
目から涙がこぼれた。
リンはグレゴリーのひざに顔を伏せた。
「お願いです、グレゴリー……イーレンタールに一度は負けちゃったけど、でも……自分にまで負けないでください……」
「君は」
グレゴリーの手のひらが、リンの頭をそっと撫でた。
「情け容赦がないね、リン。本当に……」
「ごめん、なさい、でも」
「わかった。ああ、わかったよ、リン。女の子に泣かれて手をこまねいていられるものか。ラスなら、そう……ラスなら……ふふ、手持ちの魔法道具をばらしてでも、もうひとつ端末を作るだろうね……」
グレゴリーは端末に向き直った。
引っ繰り返し、ドライバーを使って鮮やかに端末の底を外した。ちゃかちゃかと音を立てながらよどみなく指先が動く。さっきまでの弱々しさとは別人のような指さばきだ。
リンは涙を拭い、立ち上がった。ハイデンを見る。
「……通じましたか……」
受話器を耳に押し当てたまま、ハイデンは首を振った。
「いや、やはり電源が落ちている」
「……そうですか」
リンはふらふら歩いて、椅子に座り込んだ。
グレゴリーにはやるべきことがある。……それなら。
リンのやるべきことは、なんだろう――?
「……【風の骨】を、捜しに行っちゃ、いけませんか……」
言うとハイデンは受話器を置き、きっぱりと言った。
「駄目だ。動かずにいることも、できることのひとつだ」
「でも……!」
「保護局員の方の動きが分からない。闇雲に飛び出して『あちら』に見つかったら、ガストンも俺達も困ることになる。あなたの存在はガストンにとっても俺達にとっても要なんだ」
「……」
リンはがくりと項垂れた。でも、何か、あるはずだと思う。リンにもできることが、何か。
「……これでよし」
グレゴリーがつぶやいた。端末の底を戻し、ドライバーでネジを留め直している。リンは弾かれたように立ち上がり、グレゴリーのところへ駆け戻った。
「な、直った……です、か!?」
「ふふ、過負荷で断線させられていただけだった。場所さえ分かれば簡単だ」
「すごい……!」
端末のスクリーンに光が灯り、グレゴリーはキーボードをパタパタ叩き出した。軽やかに踊る指先は、まるで楽器を弾いてるみたいに見える。ややして、グレゴリーは、軽く声を上げた。
「ん……雪山の方に……保護局員と右巻きのマヌエルが集合しているようだね。なんだ、これは……【壁】すれすれにかなりの数が集まってる……」
「保護局員……が……」
リンの脳に、天啓がひらめいた。
「そうだ……」
そしてリンは電話に突進した。まだ繰り返し電話をかけ続けているハイデンを押しのけて「すみません!」受話器を取り上げた。
「ガストンさんに電話してみる……! もしかして、もしかして、もしかして今っ、今っ」
それは期待というよりも、もはや願望のようなものだった。
リンの崇拝するガストンならば、絶対にそうであってほしいと祈る、リンの希望だった。




