ライラニーナ
どん、どん。
どんどんどんどんどん。
どこかで振動が聞こえている。
ライラニーナは階段の途中でそれに気づいた。
「――ったいどういうつもりですか!」
悲鳴のような声も聞こえる。ライラニーナは少なからず驚いた。
それがヘイトス室長の声だったからだ。
ヘイトス室長が声を荒げることがあるとは知らなかった。階段を上りきり、踊り場を突っ切って廊下を覗くと、小柄なヘイトス室長がイーレンタールの工房の扉を叩きまくっているのだった。
「出てきてください! 出てきてください!! 裁判を棄権するなんて――どのような判決が下されるかわからないんですか!?」
(裁判を、棄権?)
ライラニーナの心の奥底で誰かが慌てた声を上げた。
(ということは、イーレンは今、端末に向かっているの?)
「室長」
声をかけるとヘイトス室長が振り返った。ライラニーナを見て、一瞬、青ざめたようだ。すぐに自分を取り繕ったヘイトス室長のところへ、ライラニーナは足早に歩いて行った。
「イーレンタールがどうかしたんですか」
「……裁判の途中で、急に」ヘイトス室長は咳払いをする。「急に……どこからか、連絡が入ったような感じで……耳に、小型無線機を取り付けていたようです。裁判長が弁護士に質問し、弁護士が答えている最中だったんです。弁護士も慌てています。今すぐ戻らないと」
(マリアラがエスメラルダに来ているとレイルナートは言った!)
(なのに、なのに、なのに……!)
(レジナルドがそれを知って、イーレンを呼び出したんだ! 一足遅かった! イーレンはもう、マリアラを捜す作業に入ってるんだ!)
ライラニーナの心の奥で、誰かが悲鳴を上げ続けている。ライラニーナは顔をしかめ、固く閉ざされた扉をどんと叩いた。
「イーレン! 開けなさい!」
中から答えはなかった。ライラニーナはノブに手をかけ、また声を上げた。
「〈アスタ〉! この鍵を開けて!」
「むだです。〈アスタ〉にはその権限がありません」
「でも放っておくわけにはいかないわ! 今……」
ノブに力を込める。ヘイトス室長はそのライラニーナの横顔を、じっと見つめていたらしい。
ややして、囁いた。
「あなたは……もしかして、ご存じなのですか……」
「知らないわ!」
必要以上に鋭い声になった。ヘイトス室長が、ノブにかけたライラニーナの右手の上に左手を重ねた。
「イーレンタールを、今、この時間に、端末に向かわせるわけにはいかないんです。お願い、どうか、どうか……あなたを頼りたい」
「頼れると? あたしに? 本気で思ってるんですか」
「今までは思いませんでした。でも今は」
「あたしは犬よ。今までも――これからも」
「そうでしょうか」
「違うと思う?」
「違うと思います」
「お生憎様ね。あたしにそんな話をしていいの」ライラニーナはヘイトス室長を睨んだ。「あなたどういうつもり? あなた、まさかあなたが、『あっち』だったっていうの?」
「『あっち』じゃありません。『こっち』です。あなたにとっての。そうでしょう?」
「違うわよ。あなたともあろう人が、なぜそんなことをあたしに――」
「女の勘です」ヘイトス室長の左手に力がこもった。「私の勘は当たるんです。お願いします、力を」
「触らないで!」
ライラニーナはヘイトス室長の左手を振り払った。湧き起こりかけた風は、何とか押さえた。ヘイトス室長はライラニーナをじっと見ている。眼鏡の奥の瞳が、ライラニーナにありとあらゆることを訴えかけてきている。
ヘイトス室長の瞳がこんなに澄んでいたなんて、初めて知った。
ライラニーナはその瞳から目をそらした。
「……あなたの〈娘〉が」囁き声が聞こえた。「来ています。イーレンタールが裁判をほうり出して端末に向かった。彼女が危険にさらされている。お願い、どうか」
「聞きたくないわ!」
ライラニーナは耳を塞いだ。ヘイトス室長が一歩足を踏み出し、ライラニーナは恐怖に駆られた。何をさせようというのだ。マリアラのためにレジナルドを裏切れと言うのか。
ダニエルを裏切れと言うのか――
(それは、でも。ダニエルを裏切ることにはならないんじゃないかな)
『誰か』がつぶやき、ライラニーナは激昂した。
「あたしも捕まえるわ! 目の前に来たら――そうするしか、ない……!」
「――」
ヘイトス室長をそこへ置き去りにし、ライラニーナは走った。裏切られた、と思っていた。ヘイトス室長はレジナルドの右腕だと思っていたのに。自分の同類だと、思っていたのに。それがどうだ、ヘイトス室長は『あっち』だったのだ、レジナルドの右腕というポジションに入り込むために、周囲を欺き続けて来たのだ!
(――羨ましい)
「どこがよ!」
(『あっち』だったんだ……ううん。『こっち』だったんだ、ねえ……)
「許せないわ……!」
(じゃあ殺すべきじゃない?)
『誰か』に囁かれ、ライラニーナは足を止めた。
ヘイトス室長を振り返る。
廊下の向こうで、ヘイトス室長はまだこちらを見ていた。
(あたしがレジナルドの犬ならば……そうであり続けるつもりならば……彼女を殺しておくのが、裏切り者を処断しておくことが、レジナルドへの忠誠の証しになるんじゃない?)
「そこまで……」
ライラニーナはヘイトス室長から目をそらした。
そこまでして忠誠の証しを立てる必要なんかない。
近くの階段を探した。踊り場へ入り、少し悩んで、上へ向かうことにした。部屋に帰って寝よう。工房でイーレンタールと話をすることもできなさそうだし――。
(そもそもどうして、工房へ行こうと思ったのかな)
『誰か』がぶつぶつ呟いている。
(あたしも、マリアラが来ているらしいから……イーレンの注意をそらしておこうって、思ったんじゃないのかな……)
「どうでもいいわ……」
ライラニーナは頭をひとつ振り、足早に階段を上がった。
十階まで来て、さすがに息が切れ、足を止めて呼吸を整えていた、時だ。
上から軽い足音が響いて来た。ライラニーナは顔を上げ、ミーシャが降りて来たのを見た。
ミーシャは一瞬、ぎくりとした顔をした。ミーシャはライラニーナを恐れている。ダニエルはともかく、ライラニーナはミーシャとほとんど話をしたこともなかった。ライラニーナは無視して階段を上がって行った――でも少し、違和感を覚えた。さっき、ミーシャは真っ白のもこもこしたコートを着ていたのは覚えている。今は脱いでいる、だから、服装が違うのは当然だ。
でも、どうだっただろう。
今、ミーシャはジーンズをはいていた。
さっきのビルの上で、ミーシャは、スカートだったような気がする……。
「あの」
か細い声がして、ライラニーナは足を止めた。珍しく、ミーシャがライラニーナに声をかけた。振り返るとミーシャは、真剣な眼差しでライラニーナをみている。
「どこへ行くんですか」
「あんたに関係ないでしょ」
「あります」ミーシャはララを睨んでいた。「今更――今更どういうつもりなんですか? レイルナートが、マリアラさんを呼んだのはあなただって」
「へえ」
「本当なんですか。今さら。……本当に今さら! 何のために呼んだんですか!? どういうつもりなんですか!?」
「あたしは関係無いのよ」
「嘘!」
「信じないならどうして聞くの」ライラニーナはへっと嗤った。「レイルナートもそうだけど。あたしが呼んだってことが、あんたたちの中で既に事実なら、今さらあたしに確かめる必要なんてないじゃない」
「可哀想だと思わないんですか」
意味が分からず、ライラニーナは目を丸くした。「は?」
「マリアラさんですよ。今さら、本当に、何のために呼んだの? もう部屋もないのに――相棒もいないのに。その事実を突き付けるために呼んだの? ね、フェルドを知りませんか。あたし連絡を受けて来たんですけど、ついでだからフェルドからきっぱり断ってもらおうと思って部屋に行ったの、でも、いないし。〈アスタ〉に聞いても口を濁すばかりで」
「……」
「なんか、逮捕されちゃうみたいですよぉ」
残忍な笑みがちらりと頬に浮かんだ。
“可哀想”?
ライラニーナはまじまじとミーシャを見た。
可哀想だなんてかけらも思ってない。優越感と嗜虐姓を満足させるための言葉だったのだとはっきりわかる。
――どうしてこの子が、マリアラに似てるなんて思ったんだろう……
「【国境】を通らずに出入国って、結構重い罪になるみたいですね。知りませんでした? ――冗談じゃないです。今さら、本当に何のつもり。あたしが【魔女ビル】のマヌエルたちに受け入れられてないのは知ってますけど、でも、この仕打ちってあんまりじゃないですか。あたしは相棒を横取りしたわけじゃないわ。〈アスタ〉がそう決めたんだもの、あたしが責められる筋合いなんかない。なのに今さら戻って来たら、あたしがどう言われるか」
「……」
この子は何を言ってるんだろう。
『誰か』と一緒に、ライラニーナも訝しんでいた。
マリアラを“可哀想”だと言った直後に、可哀想なのは自分だと――
(ああ)
『誰か』が声を上げる。
(そっか。言い訳をしてるのか)
被害者なのはマリアラではなくミーシャなのだから、マリアラが逮捕されたり、フェルドに拒絶されたりするのも仕方がないのだと、自分がそれを望んで、喜んでも、当然なのだと――言い訳をしてるんだ。
――本当に、この子がマリアラに似てるなんて、どうして思っていたのだろう。
「わかっててやってるんですよね。ララさん、そんなにあたしが嫌いですか、そうですか。マリアラさんにもガッカリです。逮捕される危険を冒してまで新しい相棒に嫌がらせって、執念深くてねちっこくてドン引きですよ。こんな怖い人だったなんて知らなかった」
ライラニーナはため息をついた。この子もだ、と思った。
――この子も、自分の見たいものだけを見ている……
そんなことにつきあってはいられない。ライラニーナは口を開いた。
出てきた声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「ひとつだけ言っておくけど。マリアラはあんたなんか眼中にないわ」
ミーシャの可愛らしい顔が真っ赤に染まる。
「……!」
「戻って来たのが何のためか知らないけど……少なくともあんたに嫌がらせするためじゃないってことだけは確かだわ。あの子はそんなに暇じゃないの」
ミーシャは答えず、ライラニーナをにらみつけ、そのまま階段を駆け降りて行った。ライラニーナはため息をつき、階段に座り込んだ。中空を見上げて、ぽつりと呟く。
「ね、イーレン。……聞いてるんでしょう? どうせ」
イーレンタールは答えなかった。ミーシャの足音が消えると、周囲は静けさに包まれていた。
「あんた、どうしてレジナルドに従うの」
ずっと聞いてみたいと思っていたことだ。
二百年前――イーレンタールとダニエルが生まれ育った時代は、確かに地獄のようだった。イーレンタールは本能的に魔法道具を作ることを求めており、それを許されない時代に絶望していたことも確かだろう。ライラニーナもこの目でみた。イーレンタールが家でこっそり作っていた魔法道具が見つかった時、ルクルスたちが何をしたのか。粗末な家を叩き壊し、イーレンタールの魂たちを泥の地面にたたきつけ、踏みにじり、イーレンタール本人を殴り殺す勢いで――まるでボールでも蹴るように、数人で笑いながらだ。確かにあの時に戻されることは、恐怖以外の何物でもないだろう。
でも。
「あんたもう大人でしょう。それに、あの時……革命が成就する一歩手前まで来てたでしょう。あれから何年? もう十二年よ。今戻っても、きっと革命は終わってる。ルクルスの支配も。魔法道具を作ることが禁じられた時代も。……それならもう、怖くないじゃないの」
イーレンタールは相変わらず無言だ。
「そうまでして、どうして?」
返事はない。
「あたしみたいな足かせがあるわけでもないのに……。今も、きっと、マリアラを捕まえようとしてるんでしょうね。捕まえたらあの子がどうなるか、わかってるでしょうに……」
『マリアラは俺を見捨てたんだ』
イーレンタールのかすれた囁き声が、手摺りの陰から聞こえてきた。そんなところにも〈アスタ〉のスピーカーがあったとは知らなかった。
「あの子が?」
『そうさ。あの子がトールを連れて逃げたせいで、俺は……』
「トールを先に盗んだのは誰よ? ヴィヴィを作り替えて、」
『俺は悪くない! そうするしかない! あんたは知らないんだ、あの時代がどんなに……どんなに……』
「エヴェリナに会いたいと思わない?」
『姉ちゃんは……!』悲鳴じみた声だった。『会いたいもんか! 姉ちゃんこそ元凶だ! 姉ちゃんは俺を捨てたんだ!』
ライラニーナは少し目眩を感じた。
――イーレンもなのか。
――あたしのそばに残る人は、みんなそうなのか……。
「エヴェリナはあんたを捨てたりしてないわよ」
『うるさい!』
ぶつっ、とスピーカーが音を立てる。今のせりふ、エヴェリナが聞いたら哀しむだろうなとライラニーナは思った。
(今のイーレン、あたしそっくり)
『誰か』が呟き、ライラニーナは考える。どこが? ミーシャにそっくりというならわかる、でも――。
(自分は被害者なんだ、だから誰かを裏切ってもしょうがないんだ、って思わないと、自分を許せなくなるじゃない)
(ミーシャもだけど、あたしにもそっくり。ダニエルのためだ、だからしょうがないんだ、って、自分に言い聞かせてる)
(ミーシャはマリアラとあたしを。イーレンはマリアラとエヴェリナを悪者にして、大義名分を得ている)
(だったら)
(あたしが悪者にしているのは……)
「……うるさいっ!」
ライラニーナは耳を塞ぎ、発作的に立ち上がり階段を駆け降りた。でも当然、心の奥底の『誰か』から逃れることはできなかった。
(ほら、やっぱりそっくり……)
呆れたように呟く『誰か』。図星だと分かっていた。本当だ、と思う。本当に、あたしもそうなのだ。
だから、マリアラやミランダや、ラセミスタや、そして、ダニエルにも――捨てられても仕方がないのだ。
ミーシャはどこへ行ったのだろう。今部屋に戻るなんて無理だ。ミーシャは誰かに呼ばれ、先にフェルドを呼びにきて、でもいなかったからそのまま降りてきた、と言っていた。
ならば行く先に、マリアラがいるのではないだろうか。
(行ってどうするの……)
『誰か』が呟く。知るもんですか、とライラニーナは思う。
ただ何も考えたくないだけだ。ダニエルが帰ってくるという保証を、確かめたいだけだ。
レジナルドに、ダニエルを返せと迫れる材料を、少しでも多く手に入れたいだけだ……。




