グレゴリーからの通信
ララが引き返して行くのが見えた。
マリアラは思わずため息をついた。もう少しのところだったのに。
『マリアラ、そのまま少し待ちなさい』
耳元で、グレゴリーの声が聞こえる。
『何があったのか〈アスタ〉の中を探ってみる』
『じゃあ一度降りて来て』
デクターの声がグレゴリーの声にかぶさる。マリアラは声を出しそうになり、あわてて口を押さえて頷き、ビルの階下へ続く非常階段を目指した。
グレゴリーはもう、空島へは戻らないのだという。この件が済んだら、どこか南の島へ行って悠々自適の余生を過ごすのだと笑いながら言っていた。ガルシアへ行くのが一番いいとマリアラは思っていたが、もしグレゴリーが大っぴらにガルシアへ亡命でもしたら、ラセミスタを呼び戻す口実――ガルシアへ二人もリズエルを取られるわけにはいかない――を『あの男』に与えかねないから、敢えてそうしないのだろう、と、教えてくれたのはディーンだった。
自分の望みが、大切な人を窮地に陥らせることになるなら、敢えてその望みを捨てる。グレゴリーの決断は、マリアラにはとても眩しい。そんなこと、マリアラには到底できそうもない。
ラルフがケティを通じて伝えてきた『プランB』の内容がショックだった。一睡もできなかった。先程から街が騒がしいのも気になっていた。それは、青い制服に身を包んだ清掃隊の人数が、普段より多いからだろう。反面、マヌエルの制服は見えない。
マヌエルは、違う任務のために駆り出されているからだ。
――そっちはラルフに任せるのがいい。
デクターも、ディーンも、ハイデンも、オリヴィエも、ジェイドさえそう言った。そうなのだろうとマリアラも思う。
マリアラが失意の楔に囚われてぐずぐずしていたから、フェルドを穏便に迎えに行く事などできなくなってしまったのだ。『マリアラを待っていられない状況に陥ったら、ラルフが〈人魚の骨〉を使ってフェルドを外に出す』――これがプランBの内容だ。
だから。
独り身の右巻きの姿が街から消えている今、それが恐ろしくてたまらない。
右巻きたちはきっと、フェルドを捕まえに行ったのだ……。
ビルから降りるとそこにデクターがいた。壮年の男の外見で、青色の、清掃隊の制服を着ている。
「寒いから、そこの休憩所の中にいるといいよ」
これだけは変わらない声で言い、道ばたに備えられた休憩所を示した。マリアラは頷いた。吹雪が唐突に襲ってきたときのために、エスメラルダの町中にはそこかしこにこういう休憩所が設けられている。壁は強化ガラスで出来ていて、発熱するのでいつでも外の様子を見ることが出来る。中には温かな飲み物と食べ物の自動販売機が備えられており、残金が足りなくなっても、〈アスタ〉のデータベースに登録されている人間なら誰でも後日払いで精算することが出来る。男女別のトイレも完備され、毛布もあるし、簡易寝台もあるし、新聞や雑誌、本なども備えられていて、数日なら閉じ込められても耐えることが出来る。
デクターが清掃隊のふりを続け、マリアラは、休憩所の中に入った。ふわりと暖かな空気に包まれて、ホッとする。
今日は吹雪が止んでいるから、誰もいない。センサーが働いて、ぱっと明かりがついた。ガラスの向こうに、雪の積もった路地と、青い制服姿の壮年の男が動き回っているのが見える。
――初めてフェルドを見たのも、休憩所の中からだった。
そう思い出すと、あの時――仮魔女期が終わる寸前、最終試験を翌日に控えたあの吹雪の日のことが、まざまざと思い出された。あの時、仕事を押し付けられても投げ出さず、自分の責任を果たすフェルドを見て、あんな人と相棒になれたら――と淡い願望を抱いた。
その願望は叶ったのに、今は、なんて遠いのだろう。
マリアラはコートを脱ぎ、窓辺に近づいて、デクターの働きぶりを眺めた。清掃隊に化けることはよくあるようで、どこで手に入れたのか、専用の道具まで持っていた。道具を操作する様子も慣れていて、的確で、どこからどう見ても清掃隊の隊員だ。その所作の的確さに、マリアラは、デクターが今まで校長に対抗するためにエスメラルダの中に紛れてさまざまな活動をしてきた年月の長さに想いを馳せた。
『別のとこ見ててよ。雪かきじゃないんだからあんまり見てたら変でしょ』
通信機で釘を刺されてマリアラは慌てて目を逸らす。確かに、マヌエルの雪かきは注目の的になるが、清掃隊の仕事をまじまじと見ている人はあまりいない。
目を逸らした先にはガラスケースがあって、寝袋や毛布が仕舞われているのが見える。そのケースに、ミーシャにそっくりな自分の姿が映っていた。ふっくらとした頬。長い長い亜麻色の髪。仮魔女だった頃の自分ととてもよく似ている。
ミーシャに何か囁くように顔を寄せたフェルドの絵が目の前に見えた。神託は、絶対に起こったことなのだとレイルナートは言った。同時に、絶対に未来ではないのだと。紛うことなき嫉妬が胸に渦巻き、マリアラは悲しくなった。こんな時だというのに、そんな矮小な感情に翻弄される自分にうんざりする。
――今は、わたしにできることを、ひとつひとつ、精一杯やるしかない。
深呼吸をして、心を落ち着ける。そうだ、そのためにエスメラルダに来たのだ。フェルドのためではなく、自分がそうしたいから。フェルドはもちろんだが、どうしても、ララを放っておきたくなかった。あんな場所に置き去りにして、見捨ててしまいたくはなかった。
この計画で、マリアラの担当になっているのはララだけだ。
でも――
誰にも言えなかった。ティティにさえ。それが約束だったから。
――でも。
二兎を追う者は――と、わかっているけれど、でも。
どうにかして、あの人を入れられないだろうか。機会は今しかない気がする。あの人は、あの時マリアラを助けてくれた。それなら今、あの人が危険にさらされている、今、助けに行くことは、マリアラの義務であるような気がする――いや。
そうじゃない。義務など関係ない。
ただ、そう、放っておきたくない。ララと同じように、見捨ててしまいたくない。あの人のためではなく、マリアラ自身のために、あの人を助けに行きたいのだ……。
『【風の骨】。すまないが、一度、戻って来てくれないか』
グレゴリーの声が再び聞こえたのは、ほんの数分後のことだった。
『少々ややこしい事態らしい。いくらイーレンタールが不在でも、〈アスタ〉を介して伝えられる事態じゃない。ふたりでは目立つだろう、その休憩所なら安心だから、ひとまずあなただけでも』
『わかった』
デクターは答え、ガラス越しにマリアラに頷きかけた。
『そこにいて。すぐ戻るから』
分かった、と返事しかけて、マリアラは慌ててうなずきを返した。
ややこしい事態って、いったい何だろう。
フェルドに何か――
そう思って、ゾッとする。ララが呼び戻されるような事態だ。いくらフェルドでも、国中の右巻きと、その上ララを、敵に回して、無事でいられるわけがない。マリアラは自分を戒めた。闇雲に駆け込んだって何の意味もない。マリアラのためにたくさんの人が動いてくれているのに、自分の望みのためだけに駆け出すのは間違っている。ラルフとフェルドを信じることも、自分にできることのひとつだ。今は自分に出来る精一杯のことに最善を尽くさなければならない。
デクターの姿が消え、少し、心細い気分になった。
ポケットの中の、フェルドのコインを確かめる。グレゴリーが魔力の結晶を取り付けてくれたから、魔力が『すっからかん』のマリアラでも、問題なく使えるはずだ。もうひとつのコインは、安全な場所にしっかり設置してある。
危なくなったらすぐ逃げられる。対策は万全だ。マリアラはほっとして、デクターの姿が見えなくなった窓の外を眺めた。
――ラルフ、お願い。
お日様に向かって祈る。
――フェルドの力になって。お願いだから……。
男に恥をかかすでない、と言ったティティの声を思い出し、マリアラは少し微笑んだ。フェルドを助けようとマリアラが死んだりしたら――ああ、それは本当に、惨い仕打ちだろう。フェルドに幾重にも科せられている枷をもうひとつ増やすだなんて、そんなこと、絶対にするべきではない。一緒に来てほしいとお願いするにも、生きていなければ無理だ。
その時、雲間から光がさしてきた。
マリアラは顔をあげ、道ゆく人々が一様に顔を仰向けてお日様を探すのを見た。日光が降り注いでいた。真冬のエスメラルダでは、奇跡のようなお天気だ。人通りはますます増えた。周囲の建物から駆け出してくる人までいるほどだった。みんな、笑顔だった。久しぶりの陽光を精一杯浴びようと、皆が上を向いている。休憩所のガラスの中にもお日様の光はふんだんに注ぎ込んでくる。暖房も効いているからぽかぽかしてとても暖かい。
『マリアラ』
グレゴリーの沈鬱な声が、マリアラの胸を突いた。
あまりに暗い声で、なんだかゾッとする。
『驚かないで聞いて欲しい。悪いニュースだ』
――まさか。
予感を肯定するように、グレゴリーの声が静かに言葉を紡いだ。
『ララの行動だが……やはり懸念のとおりだった。先程フェルドが【魔女ビル】に戻った。――というより、戻された』
マリアラは目を閉じた。
頭の芯がぐらりと揺らぐ。
――わたしのせいだ。
静かな声がそう言った。
わたしのせいだ。
わたしがちゃんと、ララを捕まえられなかったから……。
『どうする。こうなった以上、君が、コインを持って、【魔女ビル】に行くしかないと思うのだが――しかし……』
「……」
『【風の骨】は君の判断を尊重すると言ってる。僕も勧めない。だが、できるだけのことをするよ。今ならイーレンタールが裁判中だ、この老いぼれにも、打つ手はいろいろあるからね。フェルドの居場所を探って、君をそこまで誘導することはできる。でも、急いでほしい。裁判の予定は一時間。既に三分の一は過ぎている。あまり猶予はないんだ』
――ラルフはどうなったのだろう。生きているのだろうか。
――フェルドは……
マリアラは声を出さないまま、休憩所の扉を開けて外に出ていた。マリアラが移動を始めたことが分かったのだろう。グレゴリーの声が少し変わる。
『――勇気があるな、君は』
「……」
勇気があるわけじゃないんです。マリアラは声を出さずにそう答えた。
ただ他の方法を、知らないだけなんです。
『【風の骨】もそのまま【魔女ビル】を目指すそうだ。外で合流すると目立つから、西の通用門の――知ってるね? 中に入って少し進むと右側に休憩所があるだろう、そこの観葉植物の陰で待っているそうだ。〈アスタ〉の目は何とかしておく』
ありがとう、と、返事できないのが心苦しかった。
マリアラは急いで動道を目指した。【魔女ビル】は見えている。急げば五分で着くはずだ。コインがあれば、フェルドに近づくことさえできれば、一緒に逃げ出すことは可能なはずだ。
――大丈夫。
マリアラは自分に言い聞かせた。
――大丈夫、まだ、希望はある……
*
ほんの数分で【魔女ビル】の通用口にたどり着くと、バルスターは既にそこにいた。
レイルナートと一緒だった。
この寒いのに外套も着ていなかった。スケッチブックを握り締めた指先は真っ白になっている。顔色も蒼白で、唇が青い。しかし、相変わらず美しい少女だった。
「来たわね、ライラニーナ」
レイルナートはライラニーナを睨みつける。バルスターはやんわりと間に入った。
「そう、来ただろう。さ、中に入ろう。こんな場所では人目につくし」
「そんな悠長な場合じゃないわ!」
レイルナートは怒鳴り、ライラニーナの前に、スケッチブックを突き付けた。
ライラニーナはそれを見て、一瞬目眩を感じた。
そこにマリアラがいたのだ。
レイルナートの腕も、神託についても既に知っている。描かれたばかりの神託に違いない。神託の中で、マリアラはリン=アリエノールと一緒にいた。リンの体に飛び散った、お茶か何かを拭いてやっているらしい。元気そうで、可愛らしかった。アリエディアでも思ったが、痛々しいほど痩せてしまった。が、どうしてだろう、以前よりずっとずっと、美人になった気がしていた。
(よかった。無事だったんだ)
(ケガも治ってる。大丈夫だったんだ)
(死ななかったんだ。本当によかった……)
「どういうことよ!」レイルナートはライラニーナに詰め寄る。「どうして元気になってるの!? あなた、諦めさせたって言ったわよね! どうしてエスメラルダにいるの!? ふざけないでよっ、やっぱりあんた……!」
「レイルナート」
「触んないでよ!」
肩に添えられたバルスターの手を振り払い、レイルナートはそのままバルスターに詰め寄った。
「さあ、この女を逮捕してっ! 犯罪者の【娘】を嘘ついて逃がしたんだから同罪よ! 早く! 早くマリアラを捕まえて、保護局員総出で捜し出して! アリエノールに出頭命令出してっ拷問でもなんでもして吐かせんのよ……!」
(何言ってんのよこの娘)
胸の底の誰かが吐き捨てた瞬間、レイルナートがよろめいた。
胸を押さえ、驚愕に目を見開く。がくがくがく、と痙攣したかと思うと、床に倒れた。ひくついて、少しして……かくり、と動かなくなる。
「こ……殺したのか?」
バルスターがうめき、ライラニーナは淡々と、いいえ、と言った。
「ちょっと酸欠で意識を飛ばせただけよ」
「き、気をつけたまえ……! マヌエルによる一般人への暴力行為が厳罰化された、ライラニーナ、下手すりゃこれは……」
「あたしじゃないわ」
「……じゃあ誰が!?」
『心の奥底の誰か』がやったのよ。
という真実は言わず、ライラニーナは黙って首をすくめた。
「早いとこ医局につれてけば? 鎮静剤でも打って寝かしときゃいいじゃない。で、どうするの。マリアラはエスメラルダでは別に犯罪者ってわけじゃない、捕まえたりはできないでしょ」
「だが野放しにはできない。ライラニーナ、行方を」
「知るわけないわ」
「本当かね。レイルナートは君を疑っているようだが」
「疑いたいならどうぞご自由に。でもあたしは知らない。今初めて知って、あたしだって驚いてる」
「……責務など果たされては困る。捕らえなければならん。協力してくれるだろうね」
「さあ、どうかしら」
「反抗的な態度は望ましくない。相棒のためにもだ」
バルスターの言葉に、ライラニーナは頷いた。
「いいわよ。目の前にくれば捕まえる。あたしに何か聞きたいことがあるならどうぞ、何にも知らないけれど、取り調べごっこには付き合ってあげるわ。とにかくその子をまずは医局につれて行けば? いつまで地べたに寝かせておくわけ?」
「て、手伝いたまえ」
「あたしは工房に行くわ」
「相棒のためだぞ!」
バルスターの声がひっくり返った。
(ダニエルの居場所なんか知りもしないくせに)
ライラニーナは頷いて、「〈アスタ〉!」声を上げた。
「急病人よ。担架をよこして。それからウルク地区の担当、誰かに代わってもらって頂戴。あたしはバルスターさんの目の届くところにいなきゃいけなくなっちゃったの」
〈アスタ〉はすぐには答えなかった。
それから、言った。
『人手が本当に足りなくて……ウルク地区、どうにか、行ってもらえないかしら……』
「それは困る。ライラニーナには【魔女ビル】にいてもらわなければ。ライラニーナ、自室で待機だ。事情を聴きに行くから。後で」
「イーレンタールの工房にいるわ」
「……好きにしたまえ」
バルスターはせかせかと歩いて行った。ライラニーナはひとつ息をついた。バルスターは結局、倒れてからのレイルナートには指一本触れなかった。ライラニーナも、抱き上げてやる気にも、担架が来るまでついててやる気にもなれなかった。〈アスタ〉に「後はお願い」と言い捨てて、レイルナートの体をまたいで中へ入り、さっさと工房へ向かった。
(ダニエルだったらすぐにこの場で治療してやったでしょうね)
心の奥底で『誰か』が言う。そうだなあ、とライラニーナは考えた。ダニエルは親切な人だ。とても暖かな人だ。
だからライラニーナは今、寒くて寒くてたまらない。
暖房の効いた【魔女ビル】の中に入っても、寒くて寒くてたまらない。




