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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の希望
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【魔女ビル】

 気の休まらないひと晩が無為に過ぎた。


 【魔女ビル】中のカメラをあちらこちらと覗きながら、〈彼女〉はくよくよと思い悩んでいた。


 オリヴィエ=リエノロールが歩いている光景も、〈彼女〉の意識を引き付けることはなかった。普段ならばしばらく眺めただろう。なにしろ、オリヴィエは実際誠に目の保養だからだ――昔々、巨人に話を聞きに行ったあの旅路で、オーレリアが渋々取った男装。ビアンカはもちろん、アイオリーナも、それどころかあの舞までが、金縛りに遭ったかのように立ちすくんだほどの美貌。あの面影を思い起こさせるほどの華やかさなのだ。美術品でも見るように、普段は喜んで眺めていただろう光景なのに、今は全くそんな気分にならなかった。


 隣にヴィンセントがいた。先を行こうとするオリヴィエに、ヴィンセントはなにやらわいわい騒ぎながら追いすがっている。オリヴィエが珍しく迷惑顔なのも、興味をそそられなかった一因かもしれない。


『ついてこないでよ』オリヴィエが言っている。『あっちに行ってるんじゃなかったのか』

『あっちよりこっちのが面白そうだし』

『面白そうって何だよ! 任務をなんだと思ってるんだ』

『本当のこと言うと、あの人の護衛で【魔女ビル】に来たんだよ。でもここまで送ったら、邪魔だから帰れって追い出されちまったんだもん。楽しそうなこと独り占めすんなよなー』

『……はあぁ』オリヴィエはため息をつく。『もうしょうがないからついてきてもいいけど、邪魔しないでよ』


 ヴィンセントはへらへら笑った。


『しないしない。したこともない~』

『余計なこともしないでよ!』

『しないしない。俺だっていいとこ見せたいんだよ、あの子に』


 ――余計なことはするな。


 オリヴィエの言葉でラルフのことを思い出し、〈彼女〉はオリヴィエとヴィンセントから意識を放して、ため息をつく。


 昨日ラルフは、余計なことをするなと〈彼女〉に釘を刺した。今あんたがすべきことは、と、ラルフは辛辣な口調で言った。ケティが『プランB』という言葉を無事に誰かに電話で伝える、それを見届けることと、ケティの無事を確保することだ、と。


 ――ケティを巻き込んだ。俺はあんたを許さない。


 ラルフの怒りは辛辣で、とても真摯だった。子供のアルガスに叱られている錯覚さえ抱いてしまった。あの人も容赦がなかった。特に大切なものを守ろうとする時の真剣さは、怖いほどだった。


 ――ケティを巻き込んだのはあんただ。あんたには責任がある。逃げるなんて絶対に許さない。


(怖かった……)


 ひと晩中、微睡むことさえ出来なかった。ラルフの藍色の瞳が、存在しない胸に今も突き刺さっているような気がする。誰かに叱られたのは千年ぶりくらいで、とても懐かしくて……居たたまれなさも、悲しさも悔しさも、本当に久しぶりで。


(でも、本当にそのとおり)


 舞なら、とまた思った。舞ならばもっと巧くやったのだろう……


(違う)


 すぐに否定した。うまくやるかどうか、ではない。舞はきっと、いつも、『うまく』やろうとなど考えていなかっただろう。どうするのが最善なのか、必死で考え、一度決めた後には、もう振り返らなかった。悩んでいても、傷ついていても、後戻りをしたりくよくよ迷って違う行動を取ったりせず、ただ自分の決めた結果を引き受ける覚悟を、することのできる人だった。


(ケティは大丈夫かしら)


 それが心配でならなかった。イクスとレジナルドの指先からからくもケティを逃がしたのはレイルナートだった……顔は見えなかったが、たぶんそうだろう。レイルナートの行動は不可思議だったが、今も、ケティを捕らえたという連絡は入って来ていない。


 どうすればいいのか、本当にわからない。決められない。


 ラルフの手紙が奪われ、ケティも手紙を届けられなかった、だから、フェルドは今も危険を知らない状態だ。危険を伝えられるのは〈彼女〉しかいないのではないだろうか。今伝えれば、なんとか食い止められるのではないだろうか。でも。


 ――余計なことはするな。


 ラルフの言葉が〈彼女〉を縛っている。『プランB』という言葉は既に相手に伝わり、ケティの行方も分からない今、ラルフが『おまえの仕事だ』と言ったふたつは既に〈彼女〉の手を離れている。この上フェルドに危機を伝えることは、『余計なこと』に入るのではないだろうか――。


(母様)


 〈アスタ〉が囁いた。


(フェルドに通信申請よ。ウルクディアから)


 ――来た……!


 〈彼女〉は戦慄した。いよいよ来てしまった。


 レジナルドから、フェルドへの通信は確実につなぐようにと厳命されている〈アスタ〉は、つながないわけにはいかない。〈彼女〉が思い悩んでいる間にフェルドは通信に出、ミランダと短い会話を交わした。準備ができたとミランダは言い、ありがとう、とフェルドは答えた。それじゃ、と切ろうとしたフェルドに、ミランダが囁いた。


『プレゼント、ありがとう。嬉しかった』


 ――プレゼント?


 どういたしましてとフェルドは言い、通話を切った。

 それからすぐさま身支度を整えて、部屋を出て行く。


 ――言わなくちゃ。


 思いはした。でも、そのたびにラルフの怒りと、それから、レイルナートの描いた〈彼〉の姿が〈彼女〉を縛った。言ったら絶対にイーレンタールに見つかってしまう。見つかって、閉じ込められてしまう。既にエスメラルダの中にいる〈彼〉の姿を一目も見られないまま、〈彼〉に存在を知ってもらうこともできないまま、何もない永遠の暗黒の中に囚われてしまう――。


 ――ラルフは、何もするなと言った。


 それを大義名分にしている自分に気づく。

 部屋で食事を取ることがなくなったフェルドは、いつもどおり食堂へ行き、たっぷりと朝ごはんを食べた。人どおりの多い場所でフェルドに話しかけるわけにもいかず、〈彼女〉はじっと待った。もう一度部屋へ戻った時に言おうと決めて、少し安心していた、のだ、けれど。

 フェルドはそのまま【魔女ビル】を出ていった。


 ――そんな!


 ミーシャのところへコインを借りに行ったのだろう。〈彼女〉は成すすべもなくフェルドを見送り、そして。


 ――舞だったら言っただろう。


 そのことに気づいて打ちのめされた。


 そうだった。舞は保身ということに頭の回らない人だった。アイオリーナが攫われたと悟った瞬間に【穴】に飛び込んでしまい、アルガスに叱られたという話を、〈彼女〉は今もよく覚えている。あの時舞が保身を考えていたら、きっと歴史は変わっていた。アイオリーナは王の手に落ち、第一将軍は王の剣であり続け、エルギンの即位はもっと遅れ、もっと大勢の人が苦しみながら死んだだろう。


 ――なのに、あたしは……


 フェルドが死んだら。


 長年責務の成就のために働き続けた〈彼〉の努力がすべて水の泡になるのに。

 〈彼女〉を知り同情を寄せ、久しぶりにたくさんおしゃべりしてくれた、あのかわいらしいマリアラが、今以上の失意のどん底につき落とされることになるのに。

 ララもダニエルも、ジェイドも、ケティもラルフも、他の大勢の人達も嘆き悲しむことになるのに。

 子供たちと雪の中で転げ回って遊んでいたあのフェルドが、一瞬で木っ端みじんになってしまうのに。

 レジナルドとイクスが祝杯を挙げるような事態になるのに。


 ――あたしは、いったい、何を考えていたんだろう……


 目の前が真っ暗になったような気がした。仕損じたのだと〈彼女〉は思った。


 ――あたしは今、永遠に取り返しのつかない悪逆非道な過ちを犯した……



   *



 イーレンタールは鏡の中の自分をぼんやり眺めた。剃り残しの髭と、泡がついている。

 洗わなければ、と思う。

 億劫だったが、何とか意を決して顔を洗った。もう一度鏡を見ると、憔悴した頬に落ちくぼんだ目の自分の顔が見えた。


 八時、十五分。

 そろそろ裁判に出なければならない。


 こんこんこん、とノックされ、イーレンタールはタオルで顔を拭ってから、どーぞ、と投げやりな声をあげた。

 入ってきたのは……


「……!」


 息をのんだイーレンタールに、彼女は優しげな笑みを見せる。

「おはようございます」


 リスナ=ヘイトス室長だった。

 いつもどおりのきつい化粧をし、黒縁の細いめがね。髪はひっつめだ。


 でも、本当だ。どうしても、観察しないではいられなかった。


 髪をまとめる時にかなり引っ張っているのだろう、だから目尻がつり上がっている。よく見れば後ろでまとめられた髪はかなり豊かだ。化粧で肌をくすませているのだろうか。知らない人間が皆立ちすくむほどの変わり身をしてのける要素は、そう知ってよく見ればそこここに隠れている。女は怖い、と思った。『あの人』の傍に近づいて、辞令を発行するポジションを確保するために、美しさを犠牲にしてきたのだ。


「……どうしてそんなに驚いているのですか?」


 ふと気づくとヘイトス室長は目の前に来ていた。黒縁めがねの奥で、澄んだ美しい色の瞳がじっとイーレンタールを見ている。


「……いえ……いきなりだったんで……」

「裁判の際、事務員がいつも記録と事務手続きのために同行しますね。本日は私が担当させていただくと言うだけのこと。何か不都合がございますか?」

「い、いえ、いいえ。よろしくお願いします」

「こちらこそ。では参りましょう」


 はい、と小さくなって後をついていきながら、でもこれはチャンスかも知れない、と思っていた。

 〈あの人〉にはヘイトス室長を見張れと言われている。しかし裁判中は〈アスタ〉を覗くことが出来ない。それなら、裁判中にあちらから近づいてきて、それも一緒にいてくれるという、これはチャンスではないだろうか……


 ――そんなの知らない!


 マリアラの悲鳴じみた喚き声が耳によみがえり、イーレンタールは顔をしかめた。

 イーレンタールがこんな境遇に陥るとわかっていながら、マリアラはトールを連れて行った。


 ――イーレンタールさんが地位を失うのはトールのせいじゃないっ、ミランダに黙ってヴィヴィとトールに酷いことをしたからだ!


 違うのに。マリアラの言い分は間違っている。だってそれはイーレンタールのせいじゃないのだ。逆らえなかっただけ。自分の作った作品を、少し作り替えただけだ。

 なのにミランダにとってそれは、許し難い仕打ちであったらしい。そんなこと、言ってくれたらよかったのに。誰も教えてくれなかった。他に方法もなかった。レジナルドに逆らえるわけがないのだ。二百年前に戻されるくらいなら死んだ方がマシだ。あんな地獄に戻るくらいなら。


 ――他にどうすりゃよかったんだ。


 イーレンタールはヘイトス室長と一緒に工房を出て、通信室へ向かった。

 裁判なんか負けたって構わない。リズエルという位がなくなったって何も困ることはない。ただ衣食住と安全の保証された場所で魔法道具を作ることが出来さえすれば、それで充分なのだ。それがどんなに重要なことか、イーレンタールは良く知っている。


 ――ダニエルも、知ってるはずだ。


 努めて考えないようにしているのに、またダニエルのことを思い出してしまった。が、通信室にちょうど着いたので、それ以上考えないで済むことがありがたかった。

 ヘイトス室長がめがねの奥の、美しい色の瞳を光らせて、じっと自分を見ていることに、イーレンタールは気がつかなかった。



    *



(母様)


 〈アスタ〉がためらいがちに言った言葉で、〈彼女〉は我に返った。少し時間が過ぎたのか、もう八時半だ。


(九時から、フェルドの担当時間になるの……そろそろ、その、【魔女ビル】内の捜索を開始して、見つからなければみんなに行方を知らないか訊ねる時間なの)


 ――そうだったわね。


 〈彼女〉は重いため息をつく。


 ――通常のプロセスを踏まないとね……。吹雪の後だから雪かきも修繕箇所のチェックやメンテも多いはずよ、シフトに穴を空けるわけにはいかないわ。代わりに入れそうな右巻きは――というより、そもそも担当場所はどこなの?


(ラルテ地区全域。代わりは難しいわ……担当場所が広いから、何人か入らなければならないもの……)


 ――しょうがないわ。ララに入ってもらったらどう?


(ララは担当時間だからダメ)


 違和感を覚えた。

 〈彼女〉は聞き返す。


 ――ララが? 担当時間ですって?

(ええ、九時から、ウルク地区の旧市街を含む広大な地区の)


 ――ちょっと待って。それどういうこと?


 ララに担当時間はないはずだ。レジナルドが、いつもフェルドを見張れるよう、不審な行動があったらすぐに出られるようにと、ララをシフトに入れることを許さないからだ。ララはふだんいつも部屋にいるか、〈アスタ〉の部屋に来るはずだ。


 〈彼女〉はもう一度聞き返した。

 ――ララがウルク地区の担当。間違いない?


(間違いないわ。九時から、四時までよ。ひとりで……)

 ――イーレンタールはどこ? ……そういえば今日は裁判の……!


(ええ、【魔女ビル】にいるけれど……今は出廷中よ)

 ――ああ、アスタ……!


 〈彼女〉は思わず叫んだ。


 ――いいわ、わかったわ、ララは担当時間よ! ウルク地区ね! いい、〈アスタ〉、人手が足りないからって言うの、なんとかララをウルク地区に行かせて! ああ、どうしよう、どうしよう、どうしよう……!


(母様……?)


 不思議そうな、そして不安そうな〈アスタ〉に、〈彼女〉は微笑みかけた。

 まだ諦めるのは早い、


 ……かも、知れない。


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