五日目 非番 午後(5)
店を出る前に、フェルドは精算の仕方を丁寧に教えてくれた。【魔女ビル】に入っている飲食店や小売店は大抵同じシステムを取っているそうなので、これで他の店に行ってもまごつかずに済みそうだ。
廊下を出て歩き出すと、清掃隊の制服を着た人たちが増えているのに気づいた。美味しく温かな食べもので温まった体と心が、すうっと冷えていく。
フェルドがどうして堂々としていられるのか、それが不思議でたまらなかった。魔物はどこにいるのだろう。“異臭騒ぎ"で部屋中調べられたのに、魔物は何故見つからなかったのだろう。ミシェルが配達してくれた品物は二つとも魔物とは関係なかったし、フェルドは今も魔物について一言も言わない。聞きたいけれど、清掃隊の制服が目の隅でちらちらして言い出せない。
また清掃隊の一班とすれ違った。シュテイナー班のようにあからさまな容疑をかけてくることはなかったが、何か言いたそうな視線を投げられるとやはり身が竦んでしまう。
「あの、地図」
何とか平静を保とうと、マリアラは思い浮かんだことを口にした。
「あれ、デクター=カーンの地図――だよね? すごいね、わたし、初めて見た」
「まあレプリカだろうけどね。すごいよなあ、測量技術も未熟だった時代にあんな精緻なもの描けたなんて」
「見せてくれてありがとう」
ポケットを探って取り出そうとしたが、フェルドはそれを身振りで止めた。
「良かったら預かっといて。俺はもうひとつ持ってるから」
「でも、大事なものなんじゃないの?」
「うん、だからあげるとは言ってないよ」
どこかで聞いたような言葉だ。フェルドはこちらを見下ろして、笑った。
「預かっといて。気が済んだら返してくれればいいから」
「い――いいの?」
「もちろん。俺が持ってる方のはもっとすごいよ。何しろリストガルド大陸の地図なんだ」
リストガルド大陸、と言えば、世界の反対側にあると言われる大きな大陸だ。アナカルシス大陸より何倍も広い。暗黒期以前は航海術と人手と帆船と運さえあれば海を渡ってたどり着くことができたが、千年近くも昔にできた【壁】によって世界が寸断されてしまったため、伝承でしか触れることのできない謎の大陸となっていた。
その大陸へ続く【穴】が発見され、再び交流が始まってから、まだ百年足らず。
フェルドが持っている地図は、そのリストガルド大陸のものだという。
フェルドはマリアラが理解するのを待っている。マリアラは考え、思い至って――叫んだ。
「……世界一周の証拠ってこと!」
「そー」フェルドは楽しそうに言った。「それも船でだろ! いーよなあ」
「船でかあ……」
デクター=カーンが世界地図を描いた頃、世界にはまだ【壁】が殆どなかった。世界は広々として、遮るものはなにもない。【壁】がなかった頃はもちろん【穴】もなかったから、距離はそのまま遠さと等しかった。デクター=カーンの一行は、風を読み、嵐を避けて、何日も何日も船に揺られて旅をした。
どんな気持ちだっただろう。【壁】に遮られることのない、広々とした青空の中を、どこまでもどこまでも進んで行けるなんて。
「地図、見たい?」
訊ねられ、マリアラは両手を握りしめた。
「見たい……!」
「じゃあ今度見せるよ。今日はとにかく【魔女ビル】案内しちゃわないとな。こっから下は元老院議員関連の階が続くから飛ばして、五階に行こう。左巻きは子供寮の担当になることもあるから」
フェルドはそう言いながら廊下を左に曲がり階段に出た。マリアラが続いたその後ろで、廊下にいた清掃隊員が無線機を手に何か話し始める。自分達のことを話されているようで、どうにも落ち着かない。フェルドは既に階段を降り始めており、急いでその後を追いかける。
「あの、案内……って?」
声を潜めて囁くと、フェルドは振り返った。意外そうな表情。
「あれ。……ラスから聞いたよな?」
「ラス?」
聞き返しながら思い出した。マリアラのルームメイト、ラセミスタ=リズエル・シフト・マヌエルの愛称だ。
「今日は会ってない……けど」
「……………………」
フェルドは長々と沈黙した。
それから唸った。
「……あ・い・つ・は……!」
「あの……」
「つーことは今まで――何の説明もなし!? フィの伝言だけ!? わあ! ごめん!」
「……いえ?」
「よしわかった、ラスは後で絞めとくから」
「しめ……」
「今のところはとにかく」
「絞めないで!」
「普通は【魔女ビル】来てすぐ、【親】か相棒が案内するもんなんだってさ。でもほらマリアラの場合は研修が三週間も延びたから、仮魔女時代の知識だけじゃ不便だろうってことで」
「絞めないでね!?」
「いーやもう今回という今回は見過ごせない。ふざけんなあいつ」
先程より音高く階段を踏み鳴らして降りていく。マリアラは急いで後を追った。
「わたし疲れてたから、起こしてくれたのに気づかなかっただけかも知れないし」
「だとしても。何も直接顔会わせて話さなくても、情報を伝える方法はいくらでもあったはずじゃないか」
「忙しかったのかも知れないし」
「不安だっただろ」
問われ、マリアラは言葉を飲んだ。階段の踊り場でこちらを見上げたフェルドは、怒っていると言うより困っているように見えた。
「ミシェルから地図と貯水箱と渡されたときも、わけわかんなくて不安だっただろ? 無理矢理雑談までしろとは言わないけど、必要な情報まで伝えないっつーのは」
「確かに不安だったよ。必要な情報があったのなら伝えて欲しかったとも思った。でも、それはわたしが彼女に伝える。自分でやるから、大丈夫だよ」
そう言うと今度はフェルドが言葉を飲んだ。マリアラは階段を一段降りた。
「わたし、ラセミスタさんと仲良くなりたいから。フェルドに絞められたら困る」
「……いや絞め殺すつもりはないんだけど」
「わかってるよ」思わず笑ってしまった。「……待っててやってって、言ったでしょう? 大丈夫だよ、待ってるから」
「そっか」
「うん」
「うちの妹が、お手数かけますねえ」
話しながらフェルドは再び階段を降り始めた。足音が元どおり穏やかになっている。マリアラは足を速めてその隣に並んだ。ラセミスタが伝えてくれるはずだった“情報”を知りたい、と思ったが、さっき無線機を取り出していた清掃隊員のことを思い出すと難しい気がした。階段には人通りがないが、声が響く。どこで誰が聞いているかわからない。
とにかく今はフェルドによって【魔女ビル】案内をしてもらえるらしい。先程のラーメン屋さんで教わった代金精算方法のような、生活の上で必要なことを教われるならありがたいことだ。魔物のことが心配だったが、フェルドの落ち着きぶりを見ると、ちゃんと手を打ってくれているのだろう。大丈夫なのだと思うことにする。
「妹なんだね」
話を合わせると、フェルドは頷いた。
「もー昔っからさ、手がかかるんだよあいつは」
「幼児寮で一緒だったってこと?」
「あー……いや俺もラスも【魔女ビル】育ちなんだよ。これから行く、乳児・幼児寮で育ったんだ。産みの親が両方ともマヌエルだと【魔女ビル】内で育つのが普通なんだってさ」
「ふうん」
「ダニエルは昔っからお節介焼きで、よく、【魔女ビル】の子供寮に顔を出してた。さっきも言ったけど、左巻きは空いた時間に子供寮の担当になったりするんだ。ダニエルは“独り身”だった頃、殆どずっと入り浸ってたってくらい。ラスの面倒見てやれって、うるせーのなんの」
と言うことはつまり、フェルドは孵化する前からダニエルと仲が良かったのだ。――そしてラセミスタも。
その時マリアラの胸に湧き上がったのは、羨望。
それから、理解だった。
ラセミスタとフェルドにとって、【魔女ビル】は生まれてこの方慣れ親しんだ“家”なのだ。ここから学校に通い、ダニエルを始めとした保護者たちともずっと付き合ってきた。それなら、マリアラが思う以上に、ラセミスタにとって、“新しいルームメイト”の存在は脅威だったのかも知れない。慣れ親しんだ自分の家に、突然土足で踏み込んでくるよそ者を、警戒して拒絶するのは自然なことだ。
【魔女ビル】の廊下は長い。マリアラが予想していた以上に、巨大で広大な建物だ。数千人の人が住み、その数倍の人が毎日通ってくる。この建物だけでひとつの都市、とは、良く言われる決まり文句だ。
十代の若者は二人部屋、というルールこそあれ、これほど巨大な建物で、住むのが魔女やリズエルのようなごく限られた人々だけなら、部屋には余裕があるのではないだろうか。事実、ラセミスタの“兄”であるフェルドは二人部屋をひとりで使っているという。ラセミスタもずっとそうしてきたのだろう。――それなのに。
何もわざわざあたしの城に入ってこなくてもいいのに。
ラセミスタの本音は、それかもしれない。
ダニエルが、ラセミスタの幼い頃からずっと気にかけてきた“親”のような存在なら、その【娘】になったマリアラは更に脅威になり得る。フェルドの相棒に決まったら尚更ではないか。
フェルドに続いて階段をひたすら降りて行きながら、ラセミスタは“偏屈”などではなくむしろ、心が広い子なのではないかと思えてきた。魔物の夢にうなされたあの朝、ラセミスタの見せてくれた心配といたわりの気持ちを思い出す。
いつか、仲良くなれたらいいな。
そう思った時、フェルドが階段をそれ、五階の廊下に出た。