再会3
ティティは微笑んで、持っていたカップからこくりとお茶を飲んだ。
「なになにこれしきのこと。そら、グレゴリーじゃったか、へたれておる暇は無いぞ。そなたにはばりばり働いてもらわねばならぬ」
「そうでした」
グレゴリーはよろよろと立ち上がり、深呼吸をひとつすると、ポケットから、細長い魔法道具を取り出した。
リンはちょっと息を詰めた。こないだ、イクスがリンの体に翳したものとよく似ている。
「ジェイドから話は聞いてる。まずは、ええと、リン、君からだね。ちょっと失礼。何か魔法道具を持っているかな――もちろんリーナだが、その他に」
「あ、はい」
リンはハンドバッグを取り出した。グレゴリーが受け取って棚の上に載せ、それから、光る棒をリンの体に翳した。何の音もしない。グレゴリーは頷き、壁にかけたリンのコートも調べ、続いて自分とジェイドも同じように調べた。棒は一度も音を発しなかった。グレゴリーは微笑んで、みんなに頷いて見せる。
「大丈夫そうだ。リン、これは、君に預けておくよ」
「あ、はい。お借りします」
リンは受け取り、しげしげとその棒を眺めた。その間に、グレゴリーはマリアラのところへ行き、微笑んでその手を取った。
「久しぶりだ、マリアラ。無事で――本当に、無事で何よりだった」
「はい。ご無沙汰しています、グレゴリー。ラスの……義手を、作って、くれたんですよね」
「もちろん」グレゴリーはニヤリと笑った。「いろいろな機能のついた最高の義手をね。手の甲に収納ポケットはもちろん、薬指から照射した光をどこか平らなところに当てれば現在地周辺の地図を見ることができ、中指からは出力自在のレーザー光線が出る。最大にすれば護身刀代わりに使えるし、最小にすればプレゼンで使えるレーザーポインタになる。人差し指からはもちろん、自動ドライバーだ。手の甲に収納しておいたさまざまな種類のものを付け替えることができる、もちろんライト付き――そう言ったら君は信じるかね?」
マリアラは笑った。「もちろん。ラス、喜んだでしょう」
「ものすごくね。ああ、せがまれたが、爆破機能はつけなかったよ」
「よかった!」
ふたりは楽しそうに笑った。グレゴリーはそれからコートを脱ぎ、室内履きに履き替え、マリアラに促されるままにリビングの方へ行った。リンが続いてリビングに入った時、グレゴリーは、ティティに差し出されたお茶に歓声をあげたところだった。
「ああ、ああ、ありがたい。いただきます。吹雪の中を翻弄された後に熱いお茶をいただけるなんて夢のようだ」
「甘いものは好きか?」
「大好きですとも!」
「よしよし」
ティティがどこからともなく菓子が満載されたカゴを取り出したので、リンは吸い寄せられるようにそちらへ行った。ティティが言う。
「グレゴリーにはこれからたくさん働いてもらわねばならぬからの。腹が減っては戦はできぬ、じゃ」
「それですが」グレゴリーが居住まいを正した。「イーレンタールの予定を出来る限り細かく把握したい。こんなことを認めるのは残念ですが、私はもう、イーレンタールを相手にして渡り合うことはできません。年は取りたくないものです」
「アリエノール」
ディーンに言われ、リンは菓子籠から目をもぎ離し、慌ててハンドバッグを取りに行き、駆け戻って一枚の書類を差し出した。
リスナ=ヘイトス室長がわざわざあの事務所に、自らやって来てくれたのは、法律の概要を渡すためではない。
法律を隠れ蓑にして、このスケジュール表を渡すためだった。
「イーレンタールの、今後一週間の裁判のスケジュールです」
みんなが覗き込んだ。
ややして、ディーンが言った。
「……どれくらい時間がかかりますか」
「今夜一晩いただければ……」
「ならば」
ディーンは書類の一点を指した。
明朝、八時二十分から、『被告側の申し立て』という予定が入っている。リンはうなずいた。
「ミランダ側の訴えに対する反対弁論、しかも最終です。これをキャンセルしたら、訴えを全面的に認めることになりますから、この時間は絶対、カメラの前にいるはずです」
「随分時間が早いのう」
「時差がありますから。ウルクディアは午前十時二十分です」
「この時間に間に合いますかな?」
ディーンが念を押し、グレゴリーは深々とうなずいた。そして、マリアラを見た。
「最善を尽くすよ」
「よろしくお願いします」
マリアラが頭を下げた時だ。
玄関の方で物音がし、ハイデンが見に行った。すぐに、【風の骨】が戻って来た、と、こちらに伝えた。
オリヴィエも、一緒だった。
リンが【風の骨】とオリヴィエに魔法道具探知機を翳し、コートとブーツを脱いで、という一連のやり取りの後、オリヴィエはリビングに招き入れられた。オリヴィエにみんなを紹介する役目はリンに託され、リンは少々緊張しながらオリヴィエにひとりひとりを紹介した。ティティさん――人魚さんです。ディーンさん――ルクルスの元締めです。【風の骨】――狩人の役付きだった人です、と、ひとりひとりを紹介していくたびに、なんて多種多様な顔触れだろう、と思わずにはいられなかった。マリアラに至っては世界に残った希望の花とやらなのだそうだし、ジェイドだってマヌエルだ。一般人で何の能力も持たない自分がなぜこんな人達の中に紛れているのか、我ながら不思議で仕方がない。
オリヴィエは、しかしそれほど驚いた様子もなかった。緊張はしているようだが、それだけだ。
「アリエノールの後をつけるでもなくまっすぐ事務所に帰ったから、まあ心配ないと思って」
【風の骨】はあっさりとそう説明する。オリヴィエはその王子様みたいな麗しい顔立ちに微笑みを浮かべてグレゴリーを見た。
グレゴリーは早速始めていた。端末をぱたぱた叩くその指には全くよどみがなく、先ほどの言葉が嘘みたいに自信に溢れている。オリヴィエはそれを少し眺めた後、こちらに視線を戻した。
「それで、僕は何をすれば?」
「明朝、グレゴリーが構築したプログラムを〈アスタ〉にインストールしてほしい」
【風の骨】が即答し、オリヴィエは頷く。
「僕は【魔女ビル】配属ですから適任ですね。ただ、魔法道具の専門的な知識はあいにく……」
「大丈夫、コードを差し込めば自動的にインストールされるよう組み込んでおきます」グレゴリーはどことなく芒洋とした声で言った。「〈アスタ〉の根幹には手を出せません……〈アスタ〉を全部作り替えてしまえれば簡単なんですが……パスワードが分からないことにはどうにも」
「パスワード?」【風の骨】がつぶやいた。「それがあれば、〈アスタ〉を作り替えることができるんですか。エルヴェントラに従わないように、なりますか?」
「根幹を消去すればね」
「消去……」
「〈アスタ〉の根幹にあるのはおおむね文献データなんです。望めば誰もが閲覧できるよう整えられた、【学校ビル】の魂とも言えるものだ、だが、紙ベースの資料も現存しているわけだし――エルヴェントラの命令を遵守するという縛りの害悪を考えれば、根幹を消去しても構わないんじゃないかと。パスワードさえわかれば、」
「ダメです……!」
叫んだのはマリアラだ。
マリアラは青ざめていた。首を振って、小さな、でも激しい口調で囁いた。
「ダメです、ダメ、絶対ダメです! 〈アスタ〉の根幹を消去なんて……!」
「しかし、マリアラ」グレゴリーはマリアラの剣幕に驚いたようだ。「〈アスタ〉を支配するものがエスメラルダを支配するという現状を考えれば、〈アスタ〉を掌握する方法を何とか考えなければ、」
「〈アスタ〉の根幹は、何百年も前の人が、後世に伝えようと骨を折って集めた文献を保管するために作られたもの、です、よね。文献そのものも、もちろんそうですけれど――誰にでも、どんな資料でも開示しようという、理想と希望の象徴だとわたしは思います。それをなくせば、〈アスタ〉は本当に、ただの機械になってしまう。わたしは反対です。〈アスタ〉を作った人の意思は、そう簡単に削除していいものじゃないでしょう、だからパスワードを、設定してある、わけです、から」
「まあ――そもそもパスワードがなきゃ消去できないわけだし」
【風の骨】がぽつりと言い、マリアラは息をついた。
「ごめんなさい、興奮……してしまって」
ちらりと【風の骨】を見たマリアラは、しかし、ひどく不安そうに見えて。
リンは内心首をかしげる。マリアラは、〈アスタ〉に、その根幹に、並々ならぬ愛着を持っているらしい。
――こと歴史のことになると、確かに、いつも目の色が変わってしまう子だったけれど……
「それで」とオリヴィエが穏やかに話を引き戻した。「何のプログラムなんですか?」
「ララとフェルドの担当場所をいじったり、ララの箒の波長を割り出して居場所を特定したり、『あちら』の連絡系統を寸断したり、イーレンタールが戻って来た時に〈アスタ〉へのアクセスを妨害したり――ま、そういう小細工だね」
グレゴリーは言い、オリヴィエは頷く。
「リズエルでないと到底無理な仕事ですね。了解しました」
「よろしくお願いします」
マリアラが頭を下げる。オリヴィエはにっこり笑って頷き、リンを見た。
「大丈夫、うまくやるよ」
「うん。ありがと、オリヴィエ。よろしくお願いします」
リンも頭を下げる。オリヴィエは麗しい笑みを見せた。
「もちろん頑張るよ。リンにいいとこ見せないとね」
「へ?」
そしてオリヴィエは、天使のような笑顔でその場に爆弾を落とした。
「リン、君が好きだ。――僕と付き合ってください」
静寂の中に、ぱたぱたキーボードを叩く音が響いていた。
グレゴリーは今の爆弾発言を全く聞いていなかったらしい。プログラムの構築に没頭しているようだ。
リンも没頭したかった。床に沈んでしまいたかった。
「おや」
一番初めに沈黙を破ったのはティティだった。
にんまりした笑み。
「久々にいい言葉を聞いた。若い者はいいのう」
「全くですな」
ディーンも笑う。ふたりはお爺さんとその孫、というような見た目のくせに、まるで枯れた夫婦のような笑みを交わし合った。
「へーお似合いじゃないかー」
【風の骨】が笑う。
「ほんと! ほんとお似合いかも♪」
マリアラも言った。リンは我に返り、マリアラを見、マリアラが少し意地悪げな――大変に珍しい――笑みを浮かべているのを見、『わたしも意地悪したくなっちゃうかも』と唇をとがらせた先ほどの彼女を思い出した。でもあれはジェイドが相手だったはず、
――あたしに意地悪してどうする……!
「あ、あ、あのっ、あああああたしすす好きな人がッ!?」
オリヴィエは全く動じない。「知ってるよ。でも付き合ってるわけじゃないんでしょ」
「で、で、でででもでもでもですねえっ、い、いい今それどころじゃないしッ」
「まあね。でも、あのふたりにあんなひどい目にあわされたのに、へこたれないで目的に向かおうとする君を見て、一緒にいられる身分を手にいれて、できるだけ君を守りたいと思ったんだ」
ドラマのような情熱的なせりふを、穏やかに、臆面もなく言い放つオリヴィエの背に、舞い散る花びらが見える。なぜだろう、眩しい。きらきら光が舞っているのは目の錯覚だろうか。
オリヴィエは手を伸ばして、逃げ遅れたリンの手を握った。
「君はこないだ僕にもヴィンセントにも頼ろうとしてくれなかった。でも……恋人になれば、大手を振って、君を守ることができる」
頭の中が真っ白で、何も考えられない。マリアラが恨めしかった。憎らしく思うほどだ。さっきあんなにジェイドが好きだと言ったのに、友人なのに、マリアラなのに、いったいどうして助けてくれないのだろう……!
――ジェイドは……
麻痺したような頭の中に、その考えが滑り込んで来た、時。
電話が鳴った。
じりりりりん、じりりりりん、と、リビングの向こうで電話が鳴っている。ハイデンが行こうとしたが、先程よりだいぶ人が増えているので少し手間取った。リンはオリヴィエが電話に気を取られた隙に急いで手を取り戻した。オリヴィエの手は意外に骨張っていて、とても温かかった。
――あの時と、同じ。
雪に押し当てられていたリンの頬を包んだ、あの手と。
「いいよ、私が出るから」
とっくに立ち上がっていたディーンがハイデンに言い、部屋を横切って受話器を上げる。「もしもし。……」
相手の声は聞こえなかったが、ディーンの顔色が変わったのがここからもよく見えた。
ディーンは相手の声に耳を傾け、
「……わかりました」
頷いた。
それから訊ねた。
「大丈夫ですか。あなた自身に危険は? あなたは誰ですか?」
【風の骨】が立ち上がる。ディーンは厳しい顔付きで相手の反応を待ったが、ややして、ほう、と息をついた。
「……切れました」
「誰から?」
【風の骨】が訊ね、ディーンはこちらを振り返る。
「ケティだと言いました」
「――ケティが!?」
リンも腰を浮かせる。どうして、と疑問が脳を回る。どうして、ケティが、ここの番号を知っているのだろう。
「……ラルフが『あちら』に捕まったそうです」
ディーンは言い、ハイデンを見、それから、【風の骨】を見た。
「ラルフから伝言です。プランB。――始まりましたな。何もかもが」
その晩は、恐ろしいほど平穏な一晩だった。
いくらケティとラルフ、それからフェルドのことが心配でも、グレゴリーのプログラム構築が終わるまで、こちらには打つ手がないとディーンも【風の骨】も繰り返した。いくらなんでも、闇雲に飛び出すほどのリスクを冒すわけにはいかないし、成果があるとも思えない、と。
当初の予定どおり、プログラムの構築が終わり次第、オリヴィエが【魔女ビル】にプログラムを持って行き、イーレンタールがウルクディアの裁判に出廷する八時二十分を待って〈アスタ〉にプログラムをインストールする。その後、マリアラが出かける、という手筈が改めて確認された。
マリアラとリンは同じ部屋で寝たが、マリアラもリンもほとんど何も話さなかった。マリアラは“プランB”の内容を聞かされて、フェルドが心配だったのだろう。黙ってしきりと何か考えていた。リンもそれを幸い、何も言わなかった。ケティとラルフのことが心配だったし、明日出かけることになるマリアラのことも心配だった。頭の中がぐちゃぐちゃで、とりあえず寝よう、寝てしまおう、と思う。先延ばしにしてもいいことなどないとわかっていたが、今は何にも考えられない。オリヴィエの告白はわけがわからなかったし、それに対するジェイドの反応など知りたくなかった。
でも打ちのめされてはいた。
そろそろ諦める潮時なのかもしれない――そういう思いが、心のどこかにこびりついて、離れなかった。




