雪山2
ケティの喉にかけられていたイクスの指先に水が這い上った。ぴきぴきぴきと音を立てて凍る。
イクスが悲鳴を上げて飛びのき、氷の破片が飛び散った。レジナルドが狼狽の声を上げた。ラルフは緩んだ網の中でもがき、もがき、もがいて、何とかはい出した。立ち上がろうとして転げ、そのままケティのところへ這って行く。
「お、にい、ちゃん……」
ケティが、レジナルドの方を見ながら呟いた。
「ケティ、ケティっ、だいじょうぶか、なあっ」
ケティの肩をつかんで揺すると、ケティはまだぼんやりした声で言った。
「ラルフ……ラルフ、あたし死んじゃったのかなあ……」
「はあぁ!?」
「だってお兄ちゃんが……」
「死んでねーよ! 死ぬわけねーだろ! そんなことあるわけねーだろ……!」
「ラルフ、苦しい、ぃ」
ケティが呻く。ラルフはいつの間にか、ケティに抱き着いてぎゅうぎゅう締め上げていた。お前は自分が思うよりずっと力が強くなったんだ、というハイデンの声が聞こえて慌てて緩める。
「ごめ、ごめん。だいじょうぶか」
「うん。……お兄ちゃん、無事だったね」ケティは言って、へら、と笑った。「ラルフがどうにかしてくれたの? だから、無事だったの? だから、だから」
「んーん、俺は何にもしてねーよ。ただ知ってた。フェルドならきっとこうするだろうって。初めから分かってたんだ。ごめん」
「……え……?」
【壁】のこちら側は、とても暖かかった。
レジナルドの用意した外套が邪魔になるくらいだ。しとしと雨に濡れるのなんか、全然気にならない。外套も何もかも脱ぎ捨てて、雨を浴びて踊りたいような気分だった。
「……コイン、自分が逃げるためには使わないって。違うことのために使う気なんだろうって、初めから分かってた。ごめんな、言えなくて。ケティのそばに、トーチョーキが仕掛けられてたら、まずいと思って」
「どうして分かってたの? 教えてもらっていたの?」
「まさか」
ラルフはケティの頬についていた泥を拭った。
でもラルフの手のひらに、既に血と泥がついていたので、余計に汚しただけだった。血だ、とラルフは思った。そう言えばさっき、目の前で血が飛んだ。
――誰の血だ?
「……ラルフ、ケガ、してるよ」
ケティは体を起こし、ラルフの額にそっと触れた。そっか、とラルフは思った。あの網の中で暴れるうちに、皮膚が傷ついていたのだろう。
「かすり傷だよ。へーき」
「どうして、わかったの? お兄ちゃんが、こうするつもりなんだ、って」
ケティは囁いた。ラルフは笑って、【壁】の向こうに目をやった。
フェルドが、そこにいた。
レジナルドは雪の上に尻餅をついており、フェルドはその前に立っていた。【壁】に開けられていた【穴】は閉じられ、その装置は既にどこにもない。イクスはとっくに逃げ出していた。レジナルドをそこに残して、死に物狂いで斜面を駆け降りて行く。
フェルドは黙ってレジナルドを見ていた。
ラルフは、ケティに腕を差し伸べながら、言った。
「……フェルドと俺は、同類だからだよ」
「どうるい」
「本気でマリアラを守ろうと思ったら……こうするのが最善なんだ。そうだろ?」
ラルフは手の甲を探り、その場所を探り当て、歯で少し噛み破った。小さくして皮膚の中に埋め込んでもらっていたそれを吸い出し、ケティに差し出す。
「血、ついてて悪いけど……元の大きさに戻して」
ケティが大きくする間にラルフはハンカチで傷を縛り、ケティからそれを受け取った。指輪に小さな装置と魔力の結晶を埋め込んだそれが、ラルフの使う【人魚の石】だ。
「なに、それ……?」
「これを使って【壁】を通るんだよ。行こう」
「……ーゆ顔してたのか。こないだの顔と違うな」
【壁】を抜けると、フェルドが言っている声が聞こえ始めた。
レジナルドは全くの予想外だったらしく、まだ立ち直っていなかった。それはそうだろう。レジナルドは【風の骨】に対し警戒を抱いているらしく、そちらの方へかなりの労力を割いていた。リンと【風の骨】が接触することで、ガストン一派を目くらましにするという、ディーンの計略がまんまと当たったというわけだ。
「……なぜ」レジナルドの声はかすれていた。「なぜここがわかった。コインを使わなかったとしても……この場所が分かるわけ……」
「だいぶ前にラスが作った。片方のコインをはめればもう片方の在りかが分かるって魔法道具。前に工房から持ち出して、何だかんだで返しそびれてたんだ」
フェルドは穏やかと言える口調で言い、レジナルドの前にしゃがみこんだ。
「あんたは完璧主義者っぽいから。俺のこと、だいぶ小せえ頃から閉じ込めてくれてたもんな。最期は自分の目で見たいだろうと思って」
「……」
「……最期にひとつ聞きたいんだけど」
ぴりっ、と、ラルフの肌が脅威の前兆に震えた。
フェルドは手を伸ばし、レジナルドの首元をつかんだ。
「ダニエルをどこへやったんだ」
「……お兄ちゃん……!」
ケティが押し殺した悲鳴を上げ、ラルフはケティを捕まえて地面に伏せた。
頭上を暴風が行き過ぎていく。びりびりと肌が震え、ケティの細い指先がラルフの腕をつかんだ。落ち着いてよく思い返せばケティは外套を着ておらず、濡れた上にこの寒さでは凍えてしまうだろう。ラルフは外套を脱ぎ、ケティの上にかぶせた。
「……遠くにいる」少し余裕を取り戻したレジナルドが言った。「分かっていると思うけど、僕を殺したらダニエルの居場所は二度と――」
「あー、なるほど。ララにはそう言ったんだ」
フェルドは意にも介さなかった。
「まだ従ってんのはなんでなのか、不思議だったんだ。でも俺はララとは違う」声がひどく冷たくなった。「もう殺したんだ。そうだろ?」
「違う」
「違わない。あんたはバカじゃないはずだ。なんの理由もなくダニエルをどっかへやるはずがない。だってそうだろ、こうなった以上、あんたはもう二度とダニエルを返せない。一度でも帰ってきたら、もう一度どっかへやられる前に、ララはあんたを殺すからだ」
「……」
「だからこの事態はあんたにも不本意だったんだ。何かまずいことをダニエルに知られて、殺すしかなかったか。もしくは、あんたもダニエルの失踪の理由とその行き先を知らないか。そのどっちかだ。法律の改正だの、【魔女ビル】の警備強化だの、ずいぶん急いでるみたいだもんな。あんたがララを恐れてる証拠だ」
「……っ」
レジナルドが一瞬息を飲んだ、ようだ。
そっか、とラルフは思った。何がなんだか分からないけれど、レジナルドも、ダニエルとかいう人の行き先を知らなかったらしい。
レジナルドの右手がぴくりと動いた。
何か、武器を持っているのだろうか。右手はそろそろと動いて、コートのポケットに入ろうとした。が、ラルフが警告する前に、その右手が凍り付いた。
レジナルドがうめき声を上げた。
フェルドの声が淡々と続く。
「……だったらもうあんたに従ってても、なんの意味もないのに。ララもそれは、わかってるはずなのに」
「……」
「……よくもうちの姉を、長年苦しめてくれたよな」
「姉だって?」レジナルドは冷笑した。「マリアラに大ケガをさせたのはライラニーナだぞ。ライラニーナは、ずっと、ずっと、君を見張ってた。知ってるだろう、今、きっとここに向かって来てるはず――」
「ララは来ないよ。もう箒もいない。今朝コインを借りにいく前に、氷漬けにして捨ててきたから」
「い、イクスが。彼は逃げたんじゃない、今、ライラニーナを呼びに行ったんだ。僕を殺したら、ライラニーナが君を殺す」
「ララはそこまでバカじゃないよ」
「僕を殺したら二度と逃げられないぞ」
「殺さなくても」フェルドは笑った。「永遠に逃がす気なんかないんだろ」
ラルフは、声をかけた。
「フェルド、急いだ方がいーよ。麓から大勢人が登ってきてるみたいだ」
「保護局員だ」レジナルドが早口で言った。「マヌエルの一般人への暴力行為が厳罰化された。僕を殺したら君は逮捕される、殺人は処刑も有り得る、法律の、法律の改正はっ、だからっ」
「お前さえ殺せれば、もうそれでいーよ」
フェルドは言った。ざわざわとレジナルドの足元から水が這い上る。それを追いかけるように下からぴきぴきと凍っていく。レジナルドが上ずった声を上げる。
「今なら! 今なら証言してやるから! 被害者がとりなせばっ」
「放っておいたらあんたはもうすぐマリアラを殺す」静かな声でフェルドが言った。「あんたを殺せばマリアラを組織的に追いかけることなんかできなくなる――」
そうだろうとラルフは思った。
フェルドなら、ラルフの同類なら、絶対そう考える。
フェルドには恐らくたくさんの足かせが科せられただろうと【風の骨】は言った。フェルドが逃げれば、リンと、ダニエルと、ララと、グレゴリーとかいう人と――親しい人間が『かなりの不利益』を被ることになると、通告されているだろうと。
それなら、コインを使って一か八かにかけて自分が逃げ出すより、逃げ出すと見せかけて、レジナルドをおびき出し、排除する。【風の骨】にはできない、他の誰にもできない、マリアラを確実に守れる、最善の方法だ……
――しかし、水はレジナルドの喉元まで来て動きを止めた。
フェルドは一瞬、眉間にしわを寄せた。
そして、こちらを見た。「……邪魔すんな」
「へっ!?」
ラルフは驚いたが、フェルドが見ていたのは、ラルフの後ろだった。
ケティが立ち上がっていた。震えて、涙がぽたぽた落ちている。
「お兄ちゃん……」か細い声でケティが言った。「その人を殺したら……お兄ちゃんはどうなるの」
ラルフはそこでやっと気づいた。
レジナルドの喉元で止まっていた水は、ぶるぶる震えていた。上に登ろうかどうしようか、水が悩んでいるように見えた。
「捕まって……牢屋に入れられちゃう。そんなこと、しちゃダメだよ」
「大丈夫だよ、ケティ」
ラルフは言った。急いでケティににじり寄って、フェルドの視線から、できるだけケティを隠すようにした。びりびりと張り詰める魔力の粒子が、うっかりケティを攻撃することのないように。でも立てないので、あまり意味はなかったけれど。
「俺はね、このために、フェルドのそばに来たんだ」
「このため……に……?」
「初めからわかってたって、言っただろ? フェルドが最善の方法を採ってマリアラの安全を確保しようとするならさ、フェルド自身の安全は俺が確保する。それがサポートってもんだろ。
あのねフェルド、マリアラはもうすぐ、フェルドを迎えに来ることになってるんだ。ごめん、その日がいつなのかまでは、俺は聞いてないんだけど。……でもそれより先に、フェルドの周りが……なんか大変なことになったら。マリアラを待ってられないよーなことが、起こったら。俺、【人魚の骨】を持ってる。今やったとおり、【壁】を抜けられるし、安全かそーでないかを嗅ぎ分けることもできるから。あんたと一緒にとりあえずエスメラルダを出て、マリアラの準備ができるまで違う場所で待ってる。これがプランBだ」
フェルドはラルフに視線を移した。
「お前、足どーした」
「昨日すっ転んでちょっと。でもいーじゃん、フェルドがおんぶしてくれれば」
「それで一緒に逃げるとかお前……」
「いーじゃん、【壁】抜けられるってだけですげーだろ」
「伝えて……おいたはずだ……」
レジナルドがか細い声で言った。首から下の全身を氷に閉じ込められて、寒いのだろう、かちかち歯が鳴っている。
「お前が逃げたら……ライラニーナも……ダニエルも……グレゴリーも……ジェイドもアリエノールも、ケティもだ! イクスが、みんな、みんなっ」
「リンのことはジェイドが何とかするって言ってたよ」
ラルフは急いで口を挟んだ。
「グレゴリーは【風の骨】が。ケティも入ってたのか。じゃーちょーどいーや、ケティ、俺達と一緒に行こう」
ケティが声を上げる。「え」
「孵化が起こったらフェルドが手助けできるし、俺ねー、今ね、三カ月かけてアナカルシス一周してるんだよ。いろんなもの見られてすっげ楽しーし、ケティは俺にべんきょー教えてくれればいーし、孵化すれば治療もできるよーになるし、左巻きのレイエルは危ないとかゆーけど、俺がケティを守ってやるよ。一緒に行こーよ、ケティ。アナカルシスは広いんだぜ! ほら、フェルド、早くしないと……」
イクスが先導してくるらしい保護局員の一団の姿が見え始めている。ラルフの体も冷えきり凍えそうだ。
「それなら今、もう、行こう」ケティが言う。「その人を殺さなくてもいいじゃない。殺すことないよ、逃げられるなら、それでいいじゃない……!」
「イクスはもうマリアラの居場所を知ってるって言ってた」とフェルドが言った。「俺が行くまでマリアラが無事でいる保証なんてないだろ。ケティ、頼むよ。邪魔しないでくれ。こいつが今まで何をしてきたか、知ってるだろう」
「お姉ちゃんはきっと無事でいるよ。そのためにお兄ちゃんが、人を殺したりする必要なんかないよ」
「マリアラが一度髪を切るだろうってことはわかってたんだ」
独り言のようにフェルドは言った。
「それまではなんとか無事でいるだろうってわかってた。だから……でも、俺が知ってるのはそこまでだ。あんな髪形、俺は知らない。でもこいつを殺せば、マリアラを殺そうとする人間がいなくなる。イクスだって他の人間だって、組織的に動けなくなる」
「でもお兄ちゃん、そんなの間違ってる!」
「……邪魔するな」
びりびりと肌が震えた。ラルフはじりじりしていた。ケティは本当に分からないのだろうか、フェルドがどんなに自制して、ケティまで攻撃したくなる衝動を耐えているのか、わからないのだろうか? ケティをぶん殴って気絶させればこの事態が打破できるだろうか、そう思う自分と、でもそんなことをしたらケティは二度とラルフを許さないだろうと思う自分が、せめぎ合っている。
ラルフはケティを振り返った。
「闇雲に反対するのはやめろよ。こいつが今まで何人殺してきたか――こいつだって、さっきまで、フェルドを殺す気だったんだ。相手が人を殺すのは良くて、フェルドはダメなのか」
「そうじゃない。そうじゃないよ」
ケティはぶるぶる震えていた。寒いからじゃない、と、ラルフは気づいた。
ケティも、フェルドの自制に気づいているのだ。
それなのに水は未だ、レジナルドの喉元で震えるばかりだった。ケティと、それから、マヌエルであるはずのレジナルドが、必死でフェルドに抗っているのだろう。
「この人が今まで何をしてきたのか――これから何をする気なのか、あたしは知らないし、わからない。でもお兄ちゃんは、さっき言い訳を探した」
「言い訳――」
「ダニエルさんのことも――ララさんのことも、本当にひどいと思う、お兄ちゃんがずっと閉じ込められてきたことも、いろんな人が苦しめられてきたこともひどいと思う、この先、もうそんなことができないようにしておこうという気持ちも、当然だと思う、でも」
ケティは泣き出した。必死だった。
どうしてこんなに必死なんだろうとラルフは思う。
「でも――でも! でもそれは、言い訳でしかない! お兄ちゃんの中の恨みを、晴らす、言い訳でしかないよ! 心の中の何かに、その衝動に、大義名分を与えたいだけだ!」
「……ケティ」
「お姉ちゃんはっ、自分を安全にするためにお兄ちゃんが人を殺すようなことを、絶対に喜ばない!」
フェルドはレジナルドに視線を移した。
既に意識がなかった。氷づけにされて、顔から血の気が失せている。
その顔に向かって、フェルドがうめいた。
「……そばに行けない右巻きに、他に何ができるんだ」
「行けるよ。ラルフが、一緒に行ってくれるんでしょう、それで、それで、お姉ちゃんの準備ができたら、そしたら……」
「フェルディナント=ラクエル・マヌエル――!」
気づくと。
麓から上がって来ていた保護局員たちが、こちらを半円に包囲していた。イクスが拡声器で叫んでいる。
「ジークスの賭場で――人身売買取引に係わった疑いで、令状が出ている! おとなしく出頭しろー!」
ラルフは舌打ちをした。そうきたか。
ガストンは一体、何をやってるんだろう。
「フェルド、いったんここを離れよう」
ラルフはせっつき、ケティが声を上げる。
「ダメだよ、逃げたら疑われちゃうよ、あたし話してくるよ、あたしが――」
「もーお前本当バカなの!? 平和ボケもたいがいにしろ!」
「バカじゃないもん! だってっ、今ここで逃げたら認めたことになっちゃうよ! あたしが話して、そんな事実はないですって言えば、わかってもらえるはずっ、」
「そんなわけないだろ!? あいつらはとにかくフェルドを拘束したいだけなんだよ! いったん捕まえりゃ後はどーにでもできるだろ! つかケティだって口封じられるに決まってんだろ!」
「あたしが――」
ケティが愕然とし、どこまで平和ボケなのかとラルフはわめきたくなった。でも、そう、とにかく、こうなった以上逃げるしかない。潔白を表明しようとしたって無理だ。ラルフの勘がびりびり危険を訴えてくる。
一度でも保護局員に拘束されたら、それでおしまいだ。
「……じゃーこいつ人質にしよーぜ!」
ラルフはレジナルドを指し、ケティが叫んだ。
「そんなのダメでしょ! 悪者のすることでしょ!」
「あーもーお前マジでアホなの!? マジアホなの!?」
「エスメラルダ中の右巻き相手にして、勝てると思ってるのかー!」
イクスがわめいている。見れば保護局員らしき人間を後ろに乗せたマヌエルたちも、続々と集まって来ている。十メートルほど距離があるが、イクスが勝ち誇っているのがここからでもよく見える。そのうちにも右巻きたちの数は増え続けていた。昨日の吹雪で埋もれてしまった町を掘り出す仕事を放り投げ、みんなここに、フェルドを捕まえに来たのか。
あいつらはみんなバカでアホでまぬけでおたんこなすなのだ、と、ラルフは考えた。イクスがまとうどす黒い気配に気づかずに、嘘を信じて、騙されて、フェルドを囲む圧力の一端を担っている。なんでバカな奴らなのだろう。
でもその圧力はラルフの感覚を確実に毛羽だたせている。いくらフェルドが『前代未聞』でも、あんな人数を相手にしては、さすがにどうにもならないだろう――
「少女二人を解放しろ! おとなしく投降しろ!」
と、レジナルドを閉じ込めていた氷が溶けた。
ぶわっと湯気が上がり、ラルフは一瞬顔をしかめた。意識を失ったレジナルドが雪の上に倒れ、フェルドは雪に手を伸ばした。ケティが息を飲んだ。
フェルドの手に、鋭い氷のナイフが、握られていた。
「お兄ちゃん……っ」
「ラルフ、ケティを【壁】の外に連れてって」
穏やかな口調でフェルドは言った。
「三カ月かけてアナカルシス巡りか。楽しそうだな。それならケティも安全だろ。孵化が来たらウルクディアのミランダんとこつれてくといーよ」
「お兄ちゃんっ」
「たぶんケティの言うとおりだ。俺は鬱憤を晴らしたいだけかも知れない。俺の中の“何か”が、そうしたがってるだけかも。……でもさ」
フェルドは少し笑った。
「こいつ生かしておいたらマリアラが危ない。それは事実だ。マリアラが喜ばないのは分かってる、でも――これ以上はもう、俺の身がもたないんだよ」




