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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の希望
724/779

分岐点

 フランチェスカが目覚めた時、眼下の詰所には、新しい顔ぶれが増えていた。

 車椅子に乗った、驚くほど美しい少女だった。

 歳の頃は、レイルナートより少し幼い。十代前半、というところだろう。美しい――しかしやけに獰猛そうな雰囲気を放っており、それが余計に、少女の美しさに磨きをかけている。


 もし詰所にベルトランがいたら、無事には済まなかったに違いない。


 しかしベルトランはもう、詰所に戻ってくることはない。ベルトランはフランチェスカの血肉になった。浴びてきた怒りと恨みによって熟成されたベルトランの肉は最高のご馳走だった。その後にとった丸一日以上の睡眠の効果も絶大で、フランチェスカは、以前とほぼ変わらない状態に戻っていた。身体中に活力が満ち、元気満々だ。


 時計をみると、時刻はもう夜九時を回っていた。

 フランチェスカが長々と伸びをして毛繕いをする頃、レジナルドが公務を終えて詰所にやってきた。イクスも一緒だった。フランチェスカはイクスの血色の良い顔を注意深く眺めた。ベルトラン排除の片棒を担がされたイクスは、とても元気そうだった。まるであんなことなどすっかり忘れてしまったかのよう。


 ジレッドとは違い、こちらは操りやすくてとても助かる。

 罪悪感や葛藤、苦悩といった感情に足を引っ張られることのない鈍感さは、かけがえのないものと言える。

 そう思っていると、眼下の詰め所で、早々に若々しい本当の姿に戻ったレジナルドが、親しげにラルフに声をかけた。


「遅くなって済まなかったね。お腹が空いているだろう」

「……別に」


 ラルフは答えたが、その腹の虫の方は非常に素直だった。ぐう――長く尾を引く音がラルフの腹から鳴り響き、レジナルドは朗らかに笑う。


「僕も腹が減ったよ。イクス、君も一緒に食べよう」

「あ、でも俺、まだ見つけられてなくて。だから休んでる場合じゃなくて」


 遠慮しようとしたイクスに、レジナルドは咎めるような視線を向けた。


「ダメだよ、君一人にずいぶん仕事を押し付けてしまって、申し訳なく思っているんだ。それに君まで倒れてしまったらどうするんだ? 休むのも仕事のうちだよ」

「……はい。あ、じゃあ注文は俺が、」

「いいからいいから、座っておいで」


 イクスは椅子に座ったが、レジナルドがパネルを操作する間、少し居心地悪そうにもじもじと身じろぎをした。


「あの……標的は、多分もう【魔女ビル】にはいないと思います。外もずいぶん探したんですけど、吹雪もすごいし……さすがにちょっと一人じゃ無理なんで、保護局の監視カメラ使わせてもらえないかと思って」

「それは難しいな。相手が凶悪犯なら話は別なんだが。レイルナートは見つかったかい?」

「いえ、それもまだ……」


 イクスは恐縮したように身を縮め、フランチェスカは、それではイクスが探している『標的』とは誰なのだろう、と考えていた。ここで名を言わないのは、ラルフが聞いているからだろうか。



 ややして食事が届き、ラルフの鼻がひくひくと動いた。芳香が、遅れて、フランチェスカのところにまで漂ってきた。


 レジナルドが注文したのは、一口大に切り分けられたステーキの山だった。

 それから白木でできた五合用のお櫃と山盛りのサラダ、取り分け用の皿とカトラリー類だ。レジナルドはあっという間に、ラルフの前にご馳走を積み上げた。あれはどうやらルクルスらしいと、観察するうちにフランチェスカは気づいた。なるほどそれなら、あの獰猛な雰囲気も頷ける。

 ルクルスにとってレジナルドは天敵のはずだ。おまけに車椅子ということは、走って逃げることもできない。なのにずいぶん落ち着いている。肝が据わっているのだろう。


「遠慮しないでお食べ」


 レジナルドが促し、ラルフは存外素直に食事に手を伸ばした。表面をこんがりと焼いた厚切りの――本当に分厚い肉にかぶりついた瞬間、ラルフの目が変わった。うまい、と、その目が雄弁に物語っていた。あの分厚さなのに、やすやすと噛みきれている。柔らかい、極上の肉なのだろう。ソースもさまざまな種類があった。付け合わせは人参のグラッセとみずみずしいサヤエンドウ、それからボウルいっぱいのマッシュポテトだ。レジナルドは凝り性で、人をもてなすのが好きな男だ、と、フランチェスカは考えた。塩、ホースラディッシュ、レモン汁、醤油と刻んだネギに至るまで、足りないものが一つもなかった。


 レジナルドは自分はほとんど食べなかった。ラルフとイクスの茶碗がからになるたびにほかほかの白米をよそってやるその姿は、かいがいしいと言えるほどだ。

 ラルフは体格の割によく食べた。五人前はありそうだったステーキの山がみるみる消えていく。イクスも頑張っているが、ラルフの方が三倍ほど食べている。イクスがステーキをもう一切れ口に運ぶ。ステーキに刺さったフォークの隙間から血が一滴、滴り落ちた時、レジナルドがポツリと言った。


「……ベルトランがどこへ行ったのか。イクス、君は知っているんだろう?」


 がちん。

 イクスが目測を誤って、歯がフォークに当たった。


 レジナルドは静かに微笑みながらイクスを見ていた。


「僕に言わないつもりかい?」

「え――あ、いや……」


 イクスの顔がみるみる青ざめていく。

 フランチェスカは少しの間、迷った。


 ベルトランを殺し、その痕跡を消したことで、イクスとフランチェスカは『共犯』になった。

 特にイクスに何かさせるつもりはなかったが、手駒は多いに越したことはない。フランチェスカのためだけに働き、その命令だけを聞く駒。イクスのようにさまざまなことを器用にソツなくこなすタイプで、その上倫理的なブレーキを持たず、人生経験が浅くて操りやすい若者は、非常に便利な存在だ。

 そしてそれは、レジナルドにとっても同様だと言える。レジナルドはイクスがレジナルドに秘密を作ったことにすぐさま勘付き、釘を刺しておくことに決めたのだろう。


「……そ、の……」


 イクスはちらりとラルフを見、レジナルドは微笑んだ。


「いやもうわかっているから、話さなくていいよ」

「ど、ど、どうやって……わかったんですか」

「ふふふ」


 レジナルドは微笑んでいた。答えない。テーブルに肘をつき、ニコニコしながらイクスを眺めているだけだ。イクスはいたたまれないというように俯き、レジナルドが囁くように言った。


「君の気持ちはわかっているよ。確かにベルトランは、君への態度が酷すぎたものねえ」

「……」


 イクスが顔を上げた。レジナルドは笑っている。相変わらずの優しい笑顔だ。



「君の受けて然るべき当然の権利を脅かし、奪い取り、なのに平然としているのがベルトランだった。君のしたことは、褒めることじゃないけれど、まあ……君がそうせざるを得なかったのだろうということはわかるよ」

「わ……わかって……」


 あーあ。

 フランチェスカは落胆した。レジナルドの広げた手のひらの上に、イクスが自分から登っていくのを、なすすべなく見守るしかなかった。レジナルドの手のひらの上で、イクスはこれからも踊るのだろう。それも自ら進んで、大喜びで。

 イクスは俯き、レジナルドはイクスの皿に、マッシュポテトをこんもりと盛ってやった。


「いいかいイクス。今回はもう何も言わないけれど」


 にっこりと微笑んで、レジナルドは言った。


「次からは僕に相談してくれよ。……わかったね?」

「はい。もちろんです」


 仕方がない。少し惜しい気もしたが、フランチェスカは構わないことに決めた。

 今はもう、ほぼ完全に元気になった。リエルダにかけられた魔法はまだフランチェスカの喉を縛っていたが、さしたる影響はないはずだ。淑黒たるフランチェスカは、これからアシュヴィティアの楽園をこの地に築くための崇高な活動に邁進しなければならない。こんな些事に、かかずらわっている暇はない。




「お呼びですか」


 ふと気づくと、眼下の詰所では食事が終わっていた。

 ラルフがあくびをしており、レジナルドがお茶を入れている。イクスがせっせと食器を運んで回収ボックスに放り込んでいるときに、訪ねてきた人間がいる。

 扉を開けて入ってきたのは、清掃隊の制服に身を包んだエーリヒ=リメラードだ。部下が二人、続いている。レジナルドは椅子に座ったまま、微笑んで言った。


「ああ、頼むよ。異臭がしてかなわないんだ」


 そう言ってレジナルドは、チラリと頭上を見上げた。

 目が合ったわけではない。が、レジナルドがフランチェスカを追い出すために清掃隊を呼んだことは明らかだった。フランチェスカはそう悟り、少し――ほんの少しだけ、逡巡した。どうする。どうする? 清掃隊に目をつけられたら厄介だ。


 ベルトランを殺し、イクスに手を出したのが、よほどに腹に据えかねたのだろう。

 こうなると分が悪いのはこちらだ。フランチェスカの喉は、いまだにリエルダの魔法によって縛られている。あの嘘は二度と使えない。この巨大な建物の『王』はレジナルドだ。

 どうしてバレたのだろう。ベルトランの死の痕跡は、完全に消したはずなのに。


「失礼します。数値測りますね」


 エーリヒが計測器を取り出している。異臭――すなわち〈毒〉の成分を検知するための、清掃隊専用の道具だ。フランチェスカは面倒になり、のっそりと体を起こした。ほとぼりが冷めるまで、少し外に出ていよう、と思った。

 以前のような絶望は、もはや感じなかった。身体中に力が満ち満ちて、何も怖くなかった。





    十二月十九日



 レイルナートが眠ったのは、もう明け方だった。


 一晩中絵を描き続けた彼女は、描き上げると同時に、気絶するように眠ってしまったのだ。ケティはソファの上で呆然としていた。窓の外はまだ暗いが、時計はもう七時を指している。


 ――朝が来てしまった。


 レイルナートは昨晩このホテルを取り、ソファを動かして来て、ひとつしかない扉の前にソファを置いてそこに陣取っていた。一晩中、ケティは逃げ出すことを試みることさえできなかった。


 でも、やっと眠った。ソファにもたれたレイルナートが動かなくなって十分後、ケティはようやく意を決してソファを降り、そっとレイルナートに歩み寄った。が、ソファの横を通り抜けるにも隙間がなく、無線機はレイルナートが握っている。


 全く、ひどい一晩だった。

 まさか全然寝ようともしないなんて。


 十五階の窓から逃げ出す技術がケティにあるはずもなく、ケティは、ただゆるゆると夜が更け、そして白々と明けていくのを、ただじっと見ているしかなかった。グールドの事件の時よりも長い夜だった。

 扉は外開きだが、レイルナートの隣を擦り抜けて音もなく扉を開け、また滑り出るなんてことが可能だろうか。何とか通れる隙間がないかと彼女の周りをうろうろしたケティは、さっきレイルナートが描き上げたばかりの絵に、ふと、視線を奪われた。


 画廊のオーナーの歓喜も当然だ、と、思った。

 一晩で、こんな絵を描きあげてしまうだなんて。


 昨日レイルナートが売り付けた絵は、泉に綺麗な少女が浮かんでいる情景だったが、今度は一面の花畑の絵だった。色とりどりの花が咲き乱れる絵の、右に近づくにつれて花が枯れていく。放射状に枯れた花々の中心に、大きな魔物がいた。


 うずくまったその魔物はとても大きく、禍々しかった。魔物の周囲の花は色あせ、灰色のかけらとなって風に舞っていた。魔物は死にかけているようだった。体中から黒い血を流し、だらりと開いた口からは腐って外れかけた牙が斜めに覗く。恐ろしさはあまりなく、禍々しさと不吉さと、逝こうとしている大きな生き物の悲しみとが、絵からこぼれ落ちてくる。


 けれど、救いがあった。

 少女が魔物に手を差し伸べていた。


 泉に浮かんでいた少女と同じ人かもしれない。亜麻色の豊かな髪はゆるく編まれ、ほっそりした体に、真っ白な、簡素なワンピースを着ている。こちらに背を向け、魔物に向かい合って立っているので、表情は見えない。けれど、彼女はうつむけた魔物の顔に向け、すべてを受け入れようとするかのように両手を広げていた。右手に花束を持っていた。魔物の周りの花はすべて枯れているのに、少女が持った花束だけは瑞々しく、柔らかく咲き誇っている。


 背を向けているのに、どうしてだろう、少女が微笑んでいるのが見える気がする。禍々しい魔物の血も、彼女の手のひらを汚すことはないだろう。少女が魔物に触れたら、魔物の方が、きっとそこから浄化されていくだろう。


 ――救済だ。


 ケティは考えた。

 もしこの絵に題名をつけるなら、『救済』しかない。この続きを描いてほしいと思った。その絵を見たいと思った。魔物が救われるさまを。少女の腕に抱かれて幸せに眠る姿を。


 ……けれど、絵に見とれている場合ではない。ケティは絵から目を引きはがし、覚悟を決め、そうっと、そうっと、レイルナートの座るソファのひじ掛けと、壁の透き間に体をねじ込んだ。何とか通る。じりじり、じりじり、と進んで……


 そして……


 がちゃ、と。

 ケティのすぐ目の前で、扉が開いた。


 ひじ掛けと壁の間に挟まれて、ケティは逃げることはもちろん飛び上がることさえできなかった。

 そこに立っていたのは、イクスだったのだ。

 イクスはケティを見るや、眉を吊り上げた。左腕で乱暴にケティの腕をつかみ、


「レイルナート!!」


 恐ろしい声で怒鳴った。

 さすがのレイルナートも目を覚ました。ソファの上で跳び起きた彼女は、スケッチブックと色鉛筆を床にぶちまけてしまった。ケティは思わず声を上げた。


「絵が!」

「絵だあ!?」


 イクスは怒鳴り、ケティをつかみ上げると、邪魔だ、とばかりに部屋の奥に突き飛ばした。ケティはソファの上を飛び越えて床に落ち、腰と肩に鈍い痛みが走った。


 レイルナートは床に座り込み、まず第一に、スケッチブックを確認していた、らしい。くるっと回して表紙を外に出した時のレイルナートの表情が、少し安堵していたように見えたから、あの絵は無事だったようだ。スケッチブックを小さく縮め、散らばった色鉛筆を拾い始めるレイルナートに、ソファの向こうで扉を閉めたイクスが言った。


「……お前がケティを逃がしてたのかよ。どういうつもりだ。裏切る気か」

「心外だわ」レイルナートはイクスを睨み上げた。「あたしはあんたたちの仲間じゃない。あたしが何をしようとあたしの勝手でしょ」


「なんだよこのホテル。豪勢な部屋取りやがって――無線機に何度もかけただろ、なんで出ないんだよ。【魔女ビル】に戻れってあの人の命令、」


「絵が売れたの。画廊のオーナーがここに住んでいいって言ってくれた。家賃もいらないって。もうあそこへは帰らない。あたしはここに住むの」


「……ふざけんなよ」

「ふざけていないわ」


 レイルナートは一歩も引かなかった。色鉛筆をケースに大事そうに戻す手は休めず、辛辣な口調で続ける。


「始めからそういう契約だったはずよ。あたしは神託を売る。あの人はそれを買う。あたしが自活の手段を得るまで【魔女ビル】の一室を提供する、その代価として、ミーシャと話をして見極める」


「そんなことが許されると思うのかよ。おまえはもう俺達と一蓮托生なんだぞ」


「どうして? 誰がそう決めたの?」

「マリアラを捕まえてあんたに見せてやるって、言っただろう!?」


 ケティはそろそろと身を起こした。

 イクスは全くこちらを気にする様子もない。なんだか必死だ。

 だがレイルナートは、その必死さをあざ笑う。


「あんたに見せてもらわなくても。自分で見るから結構よ」

「……っ!?」


「養っていただかなくて結構。いろいろ差し出してもらわなくても結構。あんたの施しなんか受けるもんですか。あたしはもう、レジナルドと契約しなくても生きていける方策を手にいれた。そもそもあんたとあたしは何の関係も無いのよ、あんたの上司と取引をしたってだけだもの。ケティのことだって責められる筋合いはない。そもそもどうしてここがわかったの? どうやって調べたの、気色悪い」


「無線機、いくらかけても出なかったけど。番号さえ分かってりゃ、保護局員権限でな、無線機の所在を特定できるんだよ。姿をくらまそうと思うなら、無線機、捨てるか電源切っとかなきゃ駄目だ。バカじゃねえの」


 知らなかった、と、ケティは思った。

 フェルドがそれを知っていたなら、ケティが何度かけてもつながらなかったのも当然だ。

 レイルナートは淡々とうなずく。


「あっそ。ひとつ賢くなったわ。わかったからもう消えて。二度とあたしの前に顔を見せないで。今度はちゃんと電源を切っておく」


「そんなこと言っていーのかよ」


「いいのよ。あんたに会うことはもう二度とない。オーナーに頼んで違うホテルにしてもらう。あたしが許可してないのにあんたに鍵を渡しちゃうなんて、ホテルのセキュリティがなってないわ。アリエディアのホテルを見習うべきよ」


「連絡が来たんだ」イクスは早口で言った。「今朝、ウルクディアからあいつに電話があった。だから迎えにきてやったんだ。早くしろよ。早く来いよ。見逃したらお前のせいだからな」


「見たいならひとりで行けばいいじゃない。あたしは見たくないわ」

「何……っ」


 イクスが立ちすくむ。

 レイルナートは色鉛筆をすべて拾い終え、ケースの蓋を閉じて小さく縮めてポケットにしまい、ほっとしたように立ち上がった。


「グロいでしょ。そんなもの、見たくないわ。徹夜で絵を描いていたんだから、早くホテルを移って眠りたいの。あたしはフェルディナントには別に恨みがあるわけじゃない。レジナルドみたいに安心したいわけでも、あんたみたいに溜飲を下げたいわけでもないの。とっとと消えて」


「せ……っかく、捜しに来てやったのに……っ」

「頼んでないわ。バカじゃないの」

「くっ」


 イクスはソファを小さく縮めた。


 レイルナートとイクスの間を隔てるものが何もなくなり、ケティは一瞬、イクスがレイルナートを殺すのではないかと思った。けれど、イクスは何とか自制した。代わりに標的になったのはケティだった。逃げようとしたのが却ってまずかった。飛びかかられ、押さえ付けられ、頭を床に打ち付けられた。


 それで何も分からなくなった。




 悲鳴も上げずにケティが昏倒すると、イクスは乱暴にケティをかつぎ上げた。レイルナートは口を出そうか出すまいか迷い、やっぱり出した。


「連れて行くの」

「当たり前だろ。止めんのかよ」


 止めればどうするだろうとレイルナートは思った。

 イクスがレイルナートにどんな感情を抱いているのか、とっくの昔にわかっていた。本当に、本当に、それが腹立たしかった。イクスとアリエノールの因縁を知るにつけ、悔しくて悔しくて、腑が煮え返りそうだった。


 でも、ここでレイルナートが少し譲歩してやれば――ちょっと甘い言葉をかけて、優しくして、さっきのことを謝って、ケティを置いていくように頼んだとしたら、イクスは言うことを聞くだろう。渋々を装って、レイルナートに多大なる貸しを作れたことを喜んで、後々その貸しを最大限に利用するために、ケティを置いていくだろう……


 ――絵が。


 イクスが入ってきたあの瞬間に、ケティが一番初めに言ったのは、その言葉だった。


 ――絵が。


 ソファのわきを擦り抜けようとしていたケティは、レイルナートが描き上げたあの絵を見ていた。レイルナートが取り落とした絵が、傷ついたのではないかと心配した……


「……止めないわ。好きにすればいい。あたしの義務は果たしたもの」


 レイルナートはそっけなくそう言い、イクスは忌ま忌ましげに鼻を鳴らして、足音高く、憤然として、部屋を出て行った。


 ケティはこれからどうなるのだろう。ふとそんなことを思う。


 窓の外を見ると、吹雪は既に止んでいた。明け初めた空の様子を見ると、どうやら今日は晴天になるつもりらしい。

 だからもう、凍死に見せかけるのは無理だろう。


 イクスは急いでいる。『瞬間』を見逃すまいと、駆けつけるだろう、だから。

 だから、『それ』が済むまで、ケティを殺す暇はないだろう。

 そう思って、レイルナートは折り合いをつけた。ケティを殺すことを、見過ごしたわけじゃない。イクスと取引したり、怒らせたりするリスクを払ってまで、ケティのために尽力してやる義理はない。


 ――絵が。


 ケティの小さな声が耳の奥に響いている。レイルナートは耳に蓋をして、画廊のオーナーに連絡すべく、ホテルの電話機を捜した。


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