第三章 嵐の前の嵐
午後三時。
〈彼女〉はレイルナートのいる部屋を『見て』いた。
今日はイクスもベルトランも、レジナルドも朝からずっと出かけているので、レイルナートは部屋にこもったまま一歩も外に出ずに絵を描き続けていた。食事はもちろんお茶さえ飲まなかった。その集中力には感心するばかりだ。時折我に返っては、時計を見て、お腹すいたとか、喉が渇いたとか、呟いて力を抜くのだが、立ち上がろうとして膝に載せたスケッチブックを取り上げるたびに、また取り憑かれたように色鉛筆に手を伸ばすのだった。色鉛筆のあまりの面白さに、やめられないのだろう。絵を完成させるか、精も根も尽き果てるか、どちらかの瞬間が訪れるまで止められないのだろう。
〈彼女〉は少しハラハラしていた。早く書き上がればいい、と思う。疲労困憊のレイルナートのところにベルトランが戻ってきたら、危険なことこの上ない。ベルトランは昨夜戻ってこなかった。おそらくどこかで一晩中遊んで酩酊していたのだろうが、そろそろ酔いも覚め、戻ってきてもおかしくない頃合いだ。レイルナートだってそれくらいのことはわかっているはず。
――わかってはいるんだろうけど、やめられないのよねえ、きっと。
昔――はるかな昔のことを、懐かしく思い出した。
デクターも芸術家肌の人だった。地図や魔法道具に夢中になると、ビアンカ=クロウディアの声も聞こえなくなった。寝食忘れて没頭し、我に返ると倒れ込んで眠ってしまう。床に倒れたデクターを、何度寝台に担ぎ上げたことだろう。そのまま枕代わりに拘束されてしまって、家事も仕事も何もかも滞ったことが、何度あっただろう。
――なんて、幸せだったんだろう。
レイルナートの方は、どうやら、倒れ込むより前に絵を完成させることができそうだ。木炭だけでも美しかったレイルナートの絵は、色鉛筆の柔らかな色合いでさらに凄みを増していた。画廊に持ち込んだなら、その場で高値で買い取るに違いないと確信する、それは既に芸術の域に達していた。
今描いているのは、綺麗な少女が水面に浮かぶ絵だった。
深い森の中にある、静謐な泉だ。白いワンピースだけを着た少女は目を閉じていて、あどけなさと大人っぽさの入り混じる危うげな雰囲気を持っていた。マリアラのようにも見え、ラセミスタのようにも見え、レイルナートのようにも見え、全く知らない少女のようにも見えた。花を咥えた小鳥が泉のほとりにとまり、少女の方へ首を伸ばしていた。まるで供物のように。
もう少しで完成だ。見ている〈彼女〉にもそれがわかった。
あとに残った色は、ごく淡い藍色だけ。
薄いその色で、光の陰影をのせていくだけだ。
完成に向けてレイルナートの指先が、慎重に、慎重に、少女の頬やまろやかな胸元に、指先に寄せるかすかな波に、つま先から生じるわずかな波紋に、淡い陰を落としていく。〈彼女〉は息を詰めてその瞬間を見守った。今、まさに、芸術作品が生まれようとしている――
と、そこへイクスがやってきたのだから、今回もレイルナートの機嫌を損ねないわけがなかった。今度は〈彼女〉も憤った。理不尽だと分かっているが、空気を読め、と言いたかった。
「よー、レイルナート……なんだ、絵、描いてんのか」
イクスは本当に気が利かない。絵を描いているとわかったのなら、レイルナートの集中を壊さないよう、少し黙っているべきだった。ところがイクスは誰かの邪魔をしないために自分が黙っているということなど、思いもよらないらしかった。
「あの人は?」どかっとソファに座り込み、「おやつ時に集合って言ってたよな? まだ来てねーの? なーレイルナート、なー、なーってば」
「……」
「報告があんだけどなー、あー疲れた。一日中駆け回って……なー、お茶かなんか出してくれよ、熱ーいやつー」
「うるさいわよ!」
レイルナートが突然怒鳴った。〈彼女〉にはその理由がよく分かったが、イクスには分からない。
「な、んだよ!」
「うるさいって言ったのよ! お茶? 勝手に飲めばいいじゃない、ポットも急須もティーバッグも全部そこよ!」
淡い藍色の色鉛筆を大事にケースに戻し、スケッチブックをくるっとさせて表紙を外に出し、レイルナートは憤然と立ち上がる。イクスは呆気に取られていたが、怒鳴られっぱなしでは男の沽券にかかわる……と思ったのかどうかはわからないが、とにかくこちらも怒鳴った。
「なんだよ、俺はな、一日中走り回ってたんだぞ!?」
「あたしの知ったこっちゃないわよ!」
「自分はここでのんびりしてたくせにっ、」
「なんであたしの行動決めつけんの!?」
「雪ん中あっちこっち駆け回って疲れてんだよ! 茶くらい出してくれてもっ」
「あたしはあんたの召使じゃない!」
レイルナートは扉へ向かう。イクスはわなわなして――ちょうどそこへ、レジナルドがやって来た。
イーレンタールも一緒だった。大丈夫だとわかっていても、〈彼女〉は息を潜めたくなる。イーレンタールはレジナルドとイクスを見て、心底嫌そうな顔をしたが、何も言わずに一番隅っこの――扉から一番近い――ソファに無言で座った。
レジナルドは今取っている人格の、制服姿だった。どんな人間に化け、どんな服装をしていても、レジナルドが着ていると似合わないということがない。今日もその制服姿はしっくりとレジナルドの変装姿になじんでいた。たいしたものだ、と〈彼女〉は思う。生まれついてのおしゃれ上手なのだろうか、さては。
「お待たせ。……どうしたんだ、レイルナート」
まだ変声器を使っているのに、その声に含まれる美声の余韻が〈彼女〉の癪に障る。
レイルナートはつんと顔を横に向けた。
「大したことじゃないわ。来るなり召使い呼ばわりされただけよ」
「召使いなんて言ってないだろ! ただ茶をいれてくれって言っただけだ!」
「なんであたしがあんたにそんなことまでしてやんなきゃなんないのよ!」
「確かに」レジナルドはくすくすと喉を鳴らして笑う。「茶くらい自分で入れればいい。出されて当然、という態度では腹が立つよね。イクス、何飲む? 僕がいれてあげるよ」
言いながらレジナルドは変声器を外し、みるみるうちに元の姿に戻りながら部屋を横切っていく。仲間たちの前で自分の本来の姿を見せるようになったのは、その方がみんなの(特にイクスの)心を操るのに都合がいいからだ、と、〈彼女〉は認識している。
「お茶でいいかい」
「あ、はあ……」
イクスは恐縮し、レイルナートが軽蔑したように言った。
「あたしには横柄に茶を頼んで当然って態度のくせに」
「……あの人は上司だろ」
「あたしだってあんたの部下じゃないわ」
「まあまあ、レイルナート」じょぼぼぼぼぼ、とポットから急須にお湯を注ぎながらレジナルドが笑った。「生まれ育つ間に培った価値観というのはそう簡単には変えられないよ。イクスや僕たちは、若い女性には甘えて茶を頼んでもあまり怒られない、そういう社会で育ってきたんだ。甘えてるんだよ。疲れた時に甘やかしてほしい、と思うのはしょうがないだろ? だが、女性だからという理由で甘えていいという理屈はもちろんおかしい。改善すべきだ。けどこの場合、イクスひとりを糾弾してもしょうがないよ。社会そのものを変えていかなきゃね。お茶はいかがですか、お嬢さん?」
「……いただきます。ありがと」
レイルナートはため息混じりに椅子に腰掛け、差し出されたお茶を啜った。毒気を抜かれてしまったのか、それとも気が抜けたのか、なんだか眠そうに見える。
「法律の方だけどね」レジナルドはすぐさま本題に入った。「どうやら決まったよ。一月一日の施行前に適用できそうだ。まあ、これは最終手段だけど」
「そんなら安心ですね」
「法律ってなんですか」
イーレンタールがぼそぼそと訊ね、レジナルドは彼を振り返った。
「マヌエルによる一般人への暴力行為等に関する法律を厳罰化することになったんだ。一月一日から施行だが、今月から遡って――特に凶悪なものに関しては――適用することができるようになったんだよ。長年の懸案事項だった、マヌエルへのあまりに特権的な社会構造が少し是正されることになる。いいことだろ? 元老院からも全く異論は出なかったよ。公務員を『魔女保護局員』と呼ぶ伝統もそろそろ改正して他国に倣った方がいいのではないかという意見も出ているが、こちらはまだ先送りだ」
「……そうスか」
イーレンタールはふてくされたように言う。レジナルドはくすっと笑った。
「何か言いたげだね」
「……本当にやるんですか」
イーレンタールが低い声で訊ね、レジナルドはうなずいた。「もちろん」
「何を今更。マリアラ=ラクエル・マヌエルにコインを渡さなかったくせして」
イクスが軽蔑したように言い、イーレンタールは傷ついたような顔をした。イクスが立ち上がり、イーレンタールの方へ歩いていく。
「あん時、あんたは、マリアラを見捨てたんだ。そうだろ?」
「……でも、逃げられたじゃないか」
「そうさ。でもそりゃあんたのお陰じゃない。違うか? あのジェイムズとかいう近衛があのケガで飛び降りてくるとか、トールが裏切るとか、あんたには予想ができなかった。裏口の鍵を開けてくれたのはあんただよな? マリアラが何をされようと……指先から肩まで一センチ刻みに削られてたかもしんねえのに、自分の足の肉を口ん中詰め込まれてたかもしんねえのに、目ェ潰されて、麻薬漬けにされて、痛みを快楽だと思いこんで求め続けるような、惨めな境遇になってたかもしんねえのに……あんたはマリアラを見捨てたんだよ。そうだろ?」
「でも、今度のことはっ」
「止めんの?」
イクスが嗤う。イーレンタールは凍り付き、イクスは、うつむけたイーレンタールの顔を、額を押して無理矢理上げさせた。
「今更止めんの? なあ」
「……」
「フェルドがこれからどうなるか知ってて」
「……」
「知ってて、あいつに渡すコインに、違う銘を刻んだ。あんたがだ。そうだろ?」
「……っ」
「これから『やる』のは俺たちじゃない。あんたが細工したコインだ。綺麗事ぐだぐだぬかすなよ。あんたはもう、とっくに同罪なんだよ」
「イクス、あまり追いつめるな」
レジナルドは楽しそうに言い、イーレンタールにもお茶を差し出した。
「それより、仕事を頼みたいんだ。フェルディナントのことは、もう、君が心配することじゃない。それよりもね、ケティが」
イクスが聞き返した。
「ケティが?」
「リン=アリエノール……つまりガストンに、ジークスの前で、イクスに会ったと報告したんだ」
「何っ!?」
イクスが動揺する。レジナルドはその肩を、なだめるように叩いた。
「大丈夫だよ。大したことじゃないさ。ただヘイトス室長が『あっち』だったんだよ、だから、まあ、少し厄介かも知れない……ずいぶん長い間仮面を被っていたものだ。早いところ異動の手続きを取らなきゃいけないが、事務方の課長クラスを外部に出すのはなかなか難しい。どうしようかな……ジレッドは療養中だし、ベルトランは戻ってこない。外で寝て、凍死してないといいんだけど」
「俺がやりますよ」
イクスがおもねるような声を上げる。レジナルドは満足そうに笑った。
「まあそれはまだ先でいいさ。今は目的のことだけ考えよう。殺すにせよ異動させるにせよ、裁判が終わり次第、校長の座に戻る。それだけ決めておけば今は充分だろう。
それより、イーレンタール。ヘイトスの監視を頼みたいんだ。万一イクスに逮捕状が出るなどということになったら大変だからね、そのような兆候があったらすぐに知らせてほしい」
「……」
「それからもちろん、【魔女ビル】の警備強化の対策も、今までどおり頼むよ。まだ〈アスタ〉のある階近辺には電波発信器の備えができてないんだろう? 〈アスタ〉を守るための妨害電波で〈アスタ〉に悪影響を与えては本末転倒だもの、その辺の調整は他の人間には無理だからね。そっちに集中してほしい。汚い仕事はこっちに任せて、君は、その腕を存分に使うことだけ考えていい」
イーレンタールの表情に、かすかに安堵の色が滲んだのを、〈彼女〉は見た。
その時――
『母様』
〈アスタ〉が言った。
『知らない子が訊ねてきたわ。車椅子に乗った、とても綺麗な子供。たぶん、ケティの言ってた“友人”だと思う。でも誰なのかしら? エスメラルダの国民データベースには載っていない』
(そうなの?)〈彼女〉もささやきを返した。(じゃあたぶんルクルスね)
『そうだと思う。『バーサに会いたい』と言ってるわ』
(わかった。十九階の在庫保管室で会うわ。今は無人?)
『ええ、大丈夫』
(イーレンタールが端末に向かったらすぐに教えてね、お願いよ)
『もちろん』
〈彼女〉は最後に、その部屋に目を向けた。
レイルナートは疲れ切ったようにソファに身を預けてお茶を啜っていた。イクスは何か考え込むようにしていた。イーレンタールは虚脱したように座り込み、レジナルドは、
嗤っていた。
「ケティをどうにかしなければね。どうも【魔女ビル】に用があるらしい。もうすぐ来るらしいよ。ああイクス、君ばかりこき使って申し訳ない。でも本当に、人手が足りないんだよ。ベルトランが戻ってきてくれるといいんだが……」
イクスはへらっと笑った。
「どうせどっかでラリッてるんでしょ。いいっすよ、俺がやります。降りかかった火の粉は払わなくちゃね」
「乱暴にするなよ。小さい子に乱暴するのは趣味じゃないから」
「そりゃ俺もっすよ」
「できるなら殺したくない。孵化寸前だ、【穴】が空いたという言い訳は使えない。マヌエルのそばに【穴】が空くことはまずないからね。だがどうしたものか……ライラニーナがあの時失敗したのが本当に悔やまれるよ……」
「でも殺さないとどうしようもなくないですか。孵化したら一年はエスメラルダから出せないわけだし」
「それもそうだ。困ったもんだね。グールドの真相も知ってるし、やっぱり、消えてもらうしかないなあ」
――どうしよう。
戦慄しながら〈彼女〉はその会話を聞いていた。ケティがもうすぐ【魔女ビル】に来ることを、レジナルドはどうやって知ったのだろう。フェルドの部屋に手紙を届けるなんて、どうしてそんな危険なことを、ケティに頼んでしまったのだろう。
でも大丈夫、まだ希望はあるはずだ。
『バーサに会いたい』と言ってきたのは、ケティじゃない。ケティは【魔女ビル】に来ないのだろう、だからきっと、大丈夫――。
『母様。彼女が着いたわ』
〈アスタ〉が囁く。〈彼女〉は頷いて、レジナルドから目を離し、在庫保管室へ視線を移した。
そこにいたのは綺麗な少女だった。藍色の瞳がキラキラしていて、遠い記憶を揺り起こされた。
舞とアルガスの間に生まれた女性、レティア=グウェリン。彼女が生まれたばかりの頃、舞はいつも言っていた。瞳の色がいつも藍色なので、この子をみるたびに、いつも、怒ってるのかなあ、と思ってしまう、と。
ああ、それにしても、あの子は本当に美しかった。
そして、今。
在庫保管室で車椅子に座ったまま周囲をにらんでいる少女は、その、レティアによく似ている。レティアと違うのは、雰囲気があまりに獰猛で、獣じみているところだ。
――すんごい懐かしいんだけど。
幼いレティアを抱っこしながら、デクターが言ったことがある。
――この子、ガスの子供の頃にすごくよく似てる。ほんとに、瓜二つってくらい。
フェリスタもそう言った。みんなを招いた草原の宴会で、子供たちが仲良く転げ回るのを見ながら、義兄と一緒にがっはっは、と笑ったものだ。
――この子は本当の女の子でよかったなあおい! 将来を楽しみにしてても何の心配もねえってことだ!
だったらもしかして、と、追憶を何とか追い払おうと努力しながら〈彼女〉は思う。
ケティの親友、車椅子に乗った少女は、レティアではなく、かつてのアルガスに、そっくりなのかもしれない――と。




