五日目 非番 午後(4)
清掃隊の男の人は、ディヘルム=シュテイナーと名乗った。
清掃隊の一班を率いる班長なのだろう。シュテイナー班長の背後にいる班員三名は名乗りこそしなかったが、シュテイナーの指揮を心から受け入れて職務を全うしていることがよくわかる佇まいだ。マリアラは凍り付いていて、身動きさえできなかった。ぴぴぴぴぴぴぴと音を立てる装置。センサーの先端にあるのは、明らかに何かを握り込んだマリアラの右手だ。
シュテイナー班長はもう一度、丁重な口調で言った。
「手に持っているものを、見せていただいてよろしいですか?」
清掃隊は保護局員ではないが、同等の――災害時には同等以上の、権限を持っている。班長を取り囲む班員たちは無言のままだがその威圧感は雄弁だ。シュテイナー班長は左手で、マリアラの握った手を掴んだ。もうダメだ。もうダメだ。もうダメだ。絶望の言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
指先が開かれた。中に入っていた小さなステンレスの入れ物を、シュテイナー班長が回収した。
「あのー、ここで元の大きさに戻さない方がいいですよ」
ミシェルが口を出した。シュテイナー班長は手に入れたばかりの戦利品を指先につまんで眺め回していたが、ミシェルに向き直った。
「“雪解け水”入れに酷似しているように見えますが」
「うん、そのままなんですよ。空っぽですけどでかいから、ある程度広い場所で魔力伝達装置使って戻さないと危ないですよ」
「何故こんなものを持っていたのですか」
「マリアラ、大丈夫だよ」ミシェルが軽くマリアラの背を叩いた。「そんな怯えなくても。褒められることじゃないけど、別にこっぴどく怒られるほどのことでもない。“独り身”の右巻きは良くやるんだ。
えっとですね、フェルディナント=ラクエル・マヌエルに頼まれたんです。こないだ浄水場の担当にちょっとだけ入ったときに、半端整理を頼まれたんだって」
「半端――整理?」
「ちょっとずつ入ってる入れ物が何個かあったら一個にまとめた方がスペースの節約になるでしょ。で、空になった入れ物を回収してポケットに入れといて、それを忘れて帰って来ちまったと。で、次に担当に入ったとき返そうと思って忘れてたと。そしたら今日の異臭騒ぎで部屋中家捜しされるハメになったじゃないですか。良くあることだとは言えやっぱ見つかると怒られっから、ちょうど通りかかった俺にそれの返却を」
ミシェルの説明は淀みなかった。説得力も半端じゃなかった。
班員たちもそう思ったのか、威圧感が減っている。班長はマリアラを見、口調だけはミシェルに向けて訊ねた。
「頼まれたのが君なら、何故彼女が持っていたのかね」
「浄水場の人たちは――つーか普通皆そーだけど、左巻きには甘いですからね。一緒に来てもらえれば、あんまうるさいこと言われずに済むかなって」
えへへ、とミシェルは笑い、シュテイナー班長は、未だぴぴぴぴぴぴと音を立て続ける装置をちらりと見た。後ろの班員が慌てて装置を止めた。ミシェルが笑みを深める。
「それ、ほんとーに異臭感知してるんですか?」
「そうだな。壊れたのかもしれん」
シュテイナー班長は真顔で言い、敬礼した。
「失礼しました。これは私の方で返却しておきます」
「よろしくお願いしまーす。行こう、マリアラ」
班長が訊ねた。「どこへ?」
「飯食うんですよ。返却についてきてもらうお礼に美味いとこ教えるって約束してるんで」
「その髪型で居住階から出るなと言われているはずでは?」
「制服着てなきゃ俺がマヌエルだなんて普通の人にはわかりませんって」
ミシェルはマリアラの手を掴み、階段を降り始めた。踊り場で折り返し、十二階へ入った。更に階段を降り、もう一度折り返し、更に降りてもう一度折り返した。後ろを振り返ったが、清掃隊の人々はついてきていないらしく、歩調を少し緩めた。
二人はその後しばらく無言で階段を降りていった。とことことことこ歩く内に、マリアラも少しずつ落ち着いてきた。次第にものを考えられるようになってくる。
「……あの、あれ……」
囁くとミシェルはふうっと息をついた。歩く速度をさらに少し弱めて、彼は笑った。
「いやあれ、ほんとーにただの、空の入れ物なんだ」
「そうなの……?」
「ずいぶん大ごとみたいだな。あんま動き回んない方がいーかもな」
階段を降りて現れた階数は九階だった。ミシェルはマリアラの手を引いたまま廊下に出た。保護局員の制服を着た人たちが行き交っている。仮魔女時代に習った知識では、確か九階には保護局員の詰所や関連設備があったはず。
七色の爆発的な髪型・あちこち破れた衣類のミシェルと、普段着・ポニーテールのマリアラはとても場違いだ。マリアラは居心地の悪さに身を縮めるが、ミシェルは気にした様子もなくずんずん歩いて行く。
「動き回らない方がいいって……」
言ってたくせにこれはどういうことなのだ。そしてまだ手を握られているのが気になる。マリアラの言葉に、ミシェルはマリアラを見てニヤリと笑った。
「飯でも食おうよ。この階にあるラーメン屋すげーオススメだから」
そしてミシェルはそのまま、マリアラを小さな店につれて行った。
格子戸を引き開けると、がらがらっといい音がした。
一時をとうに過ぎたというのに、お客さんが半分ほども入っている。スープの匂いが鼻をくすぐる。保護局員もいるが普通の服装のお客さんもいて、マリアラはちょっとだけホッとした。カウンター席に座ると目の前にメニューがあった。味噌、醤油、塩の三種類しかないが、トッピングの豊富さに圧倒される。把握するだけでひと苦労だ。
ミシェルは「醤油で厚切りチャーシュー倍量と煮卵とメンマ、もやし一握り」と流れるような口調で注文し、マリアラは慌てて「塩で……野菜……あ、あと煮卵、あとコーンもお願いします」ともたもた注文した。注文パネルじゃないなんて、【魔女ビル】の中にあるお店なのに意外だ。
ミシェルは慣れた様子でおしぼりで手を拭き、それから言った。
「ここ美味いんだよ。昼飯時は行列だから、時間ずらして来た方がいいんだ」
「そうなんですか」
他に言葉が見つからない。マリアラもおしぼりで手を拭き、角を揃えて丁寧に畳んだ。おしぼり置きにおいてぎゅうぎゅう押した。それから言った。
「でも……食べてる場合じゃない、のですが」
「んーん、大丈夫。食べてる場合」
「でもフェルドが、」
「その内来るよ。ここで美味いモン食って待ってた方がいい」
「来る……んですか?」
「来るよ、準備ができたらね」
「でも場所、」
「わからないわけないでしょ。あいつにはリズエルがついてるんだぜ」
楽しそうにミシェルが言った、その言葉の意味をマリアラがためつすがめつしている内に、がらがらっ、と引き戸が開いた。
マリアラは呆気にとられた。入ってきたのはミシェルの言ったとおり、普段着のフェルドだったのだ。
走ってきたらしい。少し息を弾ませていて、どことなくふてくされたような顔をしている。「らっしゃいませー!」店員の声を浴びながらずかずか歩いてきて、マリアラの隣にどすんと座った。
「遅くなってごめん」とマリアラに言い、それからマリアラの頭越しにミシェルを睨んだ。「……んにやってんだよ。つーか何だその頭」
「いーだろ、かっこいーだろ」
「鶏っぽいな。あ、味噌でもやし、練りゴマ挽肉大辛、別皿で厚切りチャーシュー倍、あと餃子」
フェルドもこの店に慣れているらしく、メニューを見もせずに注文した。それから水を飲んだ。魔物を連れている様子はない。元気そうだし、普段とあまり変わらない。別に捕まったりもしていなかった。そう思って、マリアラは――ホッとした。
何だかずいぶん久しぶりに会った気がする。
「……何でこいつがここにいんの」
声を低めてフェルドが訊ね、マリアラは驚いてミシェルを見上げた。ミシェルはにやにや笑っている。とてもとても愉しそうな笑顔。
「フェルドが頼んだんじゃないの?」
「頼んだんだよ?」とミシェルが受けた。「ちゃんと配達したでしょ」
「何でその後も一緒にいんだよ」
「何だその言いぐさ、人に頼み事しといて」
「配達を頼んだだけだろ」
「うん、その配達代としてラーメン奢ってもらおうと思ったんだけど悪い?」
どうも話が噛み合っていない。ミシェルは全てを弁えていてわざと噛み合わせていないらしい。彼はすこぶる楽しそうな顔をしており、フェルドは長々と彼を睨んで、しかしここであまり込み入った話をするわけにもいかないからか、もう一度水を飲んだ。
ミシェルのとマリアラのラーメンが届いた。
ミシェルは早速ラーメンに取りかかった。七色の爆発的な髪の先端がカウンターに触れるのも気にせず、一心不乱といった様子だ。マリアラは少し迷ったが、すぐにフェルドのラーメンも届いたので箸を割った。スープを一口飲むと、すぐに夢中になった。トッピングのゆで野菜は塩ラーメンの上にうずたかく積まれているが、スープ自体にもたぶんたくさんの野菜が使われているのだろう。複雑な旨味が濃厚で、絶妙な塩加減だ。それでいてあまり脂っこくなく、ごくごく飲んでしまえそうな味。人気がある理由がとてもよくわかる。
トッピングに“背脂”と“香味油”があるから、こってり味が好きな人は自分で足すのだろう。茹でキャベツがとても甘くて食べ応えがあり、細かく刻んだ焼き豚も入っているからお腹にたまる。
食べ終えたときはすっかり満足していた。とても美味しいスープだから、残さなければならないのが心残りだ。
「んまかった?」
気づくとミシェルがにこにこしてこちらを見ている。マリアラはおしぼりで口を拭き、うん、と頷いた。
「すっごく美味しかったです。こんな美味しいラーメン食べたの初めて」
「そっかそっか。君いー子だね。お兄さんは嬉しくなっちゃったよ」
「は?」
「さっきの約束忘れないでね。連絡するからさ」
「あ――」
ミシェルは立ち上がっていた。通り過ぎざま、よしよし、と言いたげにマリアラの頭を撫でていった。フェルドの後ろを通る時には「ごちそーさま」と声をかけた。がらがらっと引き戸を開けて、七色の爆発的な頭髪を揺らしてミシェルは出て行った。「ありがとーございましたー!」店員の元気な声が彼を見送る。
フェルドを見ると彼はカウンターに向き直ったところだった。と、マリアラの視線に気づいてこちらを見た。「餃子食べる?」と聞かれ、マリアラは首を振る。もうお腹がいっぱいだ。
「ミシェルさんって、面白い人だね。いつもああいう髪型なの?」
訊ねるとフェルドは少し考えた。
「仕事の時は普通だけどな。あれカツラなんだよ」
「そうなの?」
「変な髪型のカツラいっぱい持ってる。あれは新作だな。……でもさっき配達頼んだときはつけてなかったんだけど、なんでわざわざつけたんだろ」
話している間にも、フェルドの前に残っていた餃子もチャーシューもどんどん消えていく。相変わらず気持ちのいい食べっぷりだ。最後のチャーシューを口に入れ、わしわし噛んで、飲み込んで、それから彼は言った。
「変な奴だよな」