街のはずれで
数分後。
リンは発熱毛布にくるまれて、シャッターの降りた店先に座り込んでいた。オリヴィエはリンのブーツを脱がせて傷の状態をチェックしている。ここに来たのは偶然だったのだとオリヴィエは言った。この近くの美味しいラーメン屋さんに行きたいとヴィンセントが騒ぐので、昼食を食べに来たところ、若い女性が二人組の男に襲われている、と通報があったというのだ。
「大丈夫、足の傷は軽いよ。でも……」
「うえぇ……」
声を上げようとして、情けない呻き声になってしまった。ここに座らせてもらってからも、リンは全く動くことが出来なかった。下腹も痛いし、何より胸元へのひと突きが大きかった。たぶん急所のひとつだったのだろう。頭もがんがんする。なにより、衣類を切り裂かれたのが本当に悔しい。
「本当に危なっかしい人だな。犯人、うまく捕まえるといいけど……」
「うえぇ」
「大丈夫、ヴィンセントはああ見えて結構やる奴だよ」
「うえぇ」
「魔女を呼ぼう。とにかく、治療してもらわないと」
「うえぇぇ」
リンは首を振る。それだけで頭がぐらぐらして、リンは横向きに倒れ込んだ。さっきイクスとベルトランから一回逃げられたのが嘘みたいに体が動かない。リーナが心配そうにリンの胸元にうずくまり、ごろごろ喉を鳴らしながらざりざりした舌でリンの顎を舐めた。オリヴィエがため息をつく。
「あのね、リン。君これ結構重傷だよ」
「うえぇぇ」
でもそういうわけにはいかないのだ。今、リンには自分が混乱しているという自覚があった。ここで騒ぎにして【魔女ビル】に担ぎ込まれたら、どんな波紋があるかわからない。それに、イクスが『ジークスを調べている』らしきことを言っていたのが気がかりだった。真っ先に【風の骨】かディーンに連絡を取って、状況を伝えなければと思うのに、無線機がある場所まで戻ることが出来ないし、そもそもオリヴィエになんて説明すればいいのかわからない。
オリヴィエが起こしてくれようとしたが、リンはそれをできる限り丁重に辞退した。横になっていた方が少し楽だ。
オリヴィエはため息をついた。
「本当に危なっかしい人だなあ。いいかいリン、私怨なのか通り魔なのか、どっちかわからないけどさ、こんな暴力が許される国じゃないんだよここは。確かに君はトラブルに巻き込まれる体質なのかもしれないし、悪目立ちしちゃいたくないって思うのかもしれないけど、保護局員だからって魔女の治療を受けて悪いわけがないだろ。頭も殴られて、お腹も――君女の子なんだよ!?」唐突にオリヴィエは激昂した。「女の子のお腹殴るってどんな奴だよ! 地獄に落ちろ!」
「うえぇぇ」
「……悪い、取り逃がした……」
ヴィンセントが戻ってきた。雪の上に横向きに倒れたままのリンを見て、
「リン!? なにやっ……いや何やられてんだお前ー!」
「うえぇぇぇぇ」
「つーかんな冷てえとこっ」
「いや、ヴィンセント。一度起こしたんだけど、寝てる方が楽なんだって」
オリヴィエはヴィンセントの登場で少し落ち着いたらしかった。深々とため息をつき、話を引き戻した。
「……リンは通り魔なのか私怨なのか僕たちに教える気がないし、治療のために【魔女ビル】に行くのも、魔女を呼ぶのもダメだって言うんだ」
「うぇぇ」
「……何言ってんだリン」ヴィンセントはオリヴィエと同じようにリンの前に座り込んだ。「こんな目に遭わされて何言ってんだ!? 即通報だろ、って、ああ!? まだ通報してねーのか!」
オリヴィエが頷く。「してないんだよね。リンが嫌がるから」
「うえぇぇ」
「暴行犯だぞ!? 野放しにすんのか! 即通報して警備隊総出でっ、つーか人相は!? でっかいのと中肉中背のってくらいしか見えなかったぞ逃げ足速すぎだろあいつらー!」
「モンタージュ作成にご協力いただけますか、リン=アリエノールさん」
「うえぇぇぇ」
リンは両手で顔を覆った。どうすればいいのだ。親切心はひしひしと伝わるのだが、それが困る。
しばしの押し問答のあと、ようやくリンは、アイリスのことを思い出した。
「あいりすよんで」か細い声でリンは言った。「あいりすにあいたいよう……たすけてくれてありがとう……でもこわい……こわいよぉ……」
これでは『たらし込んでる』『口先ばかりの嘘つき』とイクスになじられてもしょうがないかもしれない、とリンは思った。ヴィンセントもオリヴィエも、リンがまだ恐怖で混乱状態にあるのだと思い至ってくれたらしい。ふたりは慌てて無線機を取り出し、同じような仕草で取り落とした。一足早く拾い上げたヴィンセントが「俺がかける!」宣言し、オリヴィエは無線機を操作し始めた状態で動きを止める。
「……ずるいよヴィンセント」
ヴィンセントが無線機を耳に押し当て、オリヴィエはため息をついて、手をわきわきさせた。
オリヴィエも慌てることがあるのだ、と、リンは思った。
オリヴィエは無線機をしまい、思い至ったように、タオルを取り出した。それをたたんで、リンの顔の下に敷いてくれる。雪に押し当てていた頬がすっかりしびれているのにリンは気づいた。オリヴィエはしびれたリンの頬に、自分の手のひらを押し当てた。
手のひらはとても熱かった。
「ねー、リン」
アイリスが出たらしくわーわーわめき始めているヴィンセントの声に紛れさせるように、オリヴィエが囁いた。
「んー?」
「君ずるいよ。自分が今どんなに辛そうで、可哀想で、気の毒に見えるか、自覚して」
「……んー……?」
「でも、……よかった」オリヴィエは悲しそうに微笑んだ。「殺されちゃう前に間に合ってさ」
「んー……ありがとーね、ふたりとも……」
本当に本当にありがたい、と、リンは思った。
こんな同期がいて、本当にありがたい、と。
これが演技なのかもしれない、と警戒している自分に、また辟易しながら。
アイリスを待つ間に、オリヴィエとヴィンセントはふたりで相談し、それぞれの上司に連絡を入れていた。ふたりとも午後半休をもらうことにしてしまったのだ。それは何とか阻止したいリンだったが、当然聞き入れてもらえるわけもなかった。
ヴィンセントが自動販売機で温かな甘い飲み物を買ってきて、オリヴィエがリンの様子を見ながら慎重に体を起こさせた。その頃には少し目眩も体のふらつきもマシになっていて、リンはありがたく、甘い飲み物を飲んだ。
アイリスは連絡後、十数分で駆けつけた。
リンも、ヴィンセントとオリヴィエも驚いた。アイリスは、【風の骨】と一緒にやって来たのだ。
「誰?」とヴィンセントが言い、
「……初めまして?」とオリヴィエが言う。
アイリスはそれらの疑問には答えず、リンの目の前にしゃがみ込んだ。そしてポケットから様々な器具を取り出してリンの周りに並べた。それは、以前ベルトランとジレッドに暴行を受けた後、【魔女ビル】の医局で記録を取ってもらったときに、医師が使った様々な道具たちと同じものだった。
【風の骨】はオリヴィエとヴィンセントには頷くだけの簡単な挨拶をして、アイリスの隣にかがみ込んだ。黒々とした瞳が、まっすぐにリンを見る。
「大丈夫か」
「雪山であたしと一緒だったあいつ。たぶん、『あっち』に入ったんだと思う」
掠れた声で、リンは囁いた。オリヴィエとヴィンセントがリンの声を聞き取ろうとかなり露骨に聞き耳を立てているが、【風の骨】は気にした様子もなかった。頷く。
「そうか」
「ここから近いでしょ。あたし、……調べてて。見に来て。あいつもたぶん、調べてる」
「わかった。予定を早めようと思うんだ」
【風の骨】が簡単に言い、リンは動きを止めた。「え」
「あんまり猶予はないと思う。だから心配するな。また連絡するから」
「ちょっと待って」リンは体を起こした。「早めるってどういうこと」
「言葉のとおりだよ」
「リン、脳波を取るよ」
アイリスが言い、有無を言わせぬ動きでリンを元どおり壁に寄りかからせた。
「【魔女ビル】に行きたくない気持ちはわかる。私も、そっちの方がいいと思う、少なくとも、指示があるまでは事務所で待機が一番いい。今夜は私が一緒に泊まる」
「え」
「幸い今の捜査は事務所で出来るものだろ。私も手伝う。上司の許可は取ってきた。ほら、これを見て。ちょっと眩しいですよー、はい、上を見て」すっかり医師の口調になってアイリスは続けた。「いいですよ、じゃあ右……リンから見て右だよ? そっちは左でしょ」
「アイリス、」
「治療は私がするよ。魔女みたいに一気に全部治すのは無理だけど、化膿しないように処置するし、記録も取れるから」
「頼もしいな」【風の骨】が笑った。「さっきガストンに連絡取った。あんたが襲われたって言ったら出先から飛んで帰るって言ってたよ、今雪山にいるらしいんだけど。事務所で待ってろ、行くまで一歩も動くなって」
黙ったまま会話を聞いているヴィンセントとオリヴィエが目をむいている。リンはまじまじと【風の骨】を見ていた。どういうつもりなのだろう。アイリスだけならまだしも、ヴィンセントとオリヴィエが聞いているのに。
『あの男』がどちらかに化けていたら、どうするのだ?
「大丈夫だよ」リンの懸念をわかっている、と言うように【風の骨】は微笑む。「さっきからずーっと確かめてる。このふたりのどっちでもないよ」
「何が?」
ヴィンセントがたまりかねて口を出し、【風の骨】は彼らに向き直った。
「あなた方はアリエノールの同期ですか」
「……そうですが」オリヴィエが丁寧に言った。「あなたはどちら様ですか」
「初めまして。狩人の幹部やってました。役職名は【風の骨】。ウィナロフ=アムディ・マヌエルです」
「な」
ふたりがぽかんと口を開け、【風の骨】は丁重に続けた。
「アリエノールさんとは一年ちょっと前に出会いまして。詳しい話は彼女から聞いてください。ひとつ言っておかなければならないのは……今日彼女を襲ったのはあなた方の国の、あなた方の仲間の、保護局員です」
オリヴィエが口を閉じ、ヴィンセントは更に口を開けた。
「んな」
「信頼できる人間に、彼女の護衛を頼みたい。さっきジルグ=ガストンに連絡を取った。ガストンが来るまで、アリエノールを事務所に連れて行って、安全を確保する人間が必要です。頼めますか?」
「もちろん」
オリヴィエが即答する。ヴィンセントはまだ呆気にとられていたようだが、オリヴィエにつつかれて我に返った。
「も、もちろん、だけど」
「ジェイドもいるんだし、三人体制なら滅多なことはないだろ」
【風の骨】が簡単に言い、リンは震え上がった。
リンの右手に寄り添っているリーナをみる。
「……連絡、した……?」
「にゃー」
ふるふると首を振り、リーナはまた丸くなる。尻尾がぺしんぺしんとリンの腕を叩き、リーナが不本意であるらしいことがわかる。でもリンは、心底ホッとした。
「リーナ、ありがとう」
なんでありがとうなのよ、とリーナが怒る。リンはそのすべすべの毛皮を左手のひらで撫でた。
「だって外出禁止なのに出てきちゃったら、今度はどんなペナルティになるかわからないじゃない」
そんなこと気にして連絡しなくて取り返しのつかないことになってたらどうするのよバカね、とリーナが言う。リンは笑った。
「だって大丈夫だったし」
全然大丈夫じゃないわよバカ! 言っとくけどこの人たちが来るのがあと三秒遅かったらジェイドを呼んでたんだから! とリーナが叫び、
「危なかったあ……」
リンはつくづくとため息をつく。【風の骨】が、少し意地悪げな声で言った。
「その分じゃ連絡してないんだ。へー。早い内に連絡した方がいいと思うけど」
「だって水曜日までは謹慎中だもの、なのに連絡したら心配かけるし……水曜日までには、ケガもだいぶよくなると思うし……」
「へー言わない気なんだ。気の毒に。いつかバレたら大喧嘩だな」
「け、喧嘩になんかならないもの。付き合ってるわけでもないんだし、大したことにはならなかったんだし、今さら言う必要も、」
「ふーん」【風の骨】は唇を曲げて人の悪い笑みを見せた。「まーしょうがないか。彼の場合は自業自得だしな」
「……なにが?」
「別に。まあでも、ヴェルディスも入れれば三人だし、ガストンも来るわけだから心配ないか。それじゃアリエノール、また連絡する。ヴェルディス」とアイリスを見て、「あなたにもまた連絡する。失礼、いろいろ進めなきゃいけないから」
行ってしまうらしい。リンは焦った。
「ねえちょっと待って! ……早めるって、早めるっていつ!?」
コートの裾をつかもうとした手は空振りした。振り返って【風の骨】は微笑んだ。
「それはまだわからない。でも近々連絡するよ」
そして。
【風の骨】の姿がかき消えた。
リンも、ヴィンセントも思わず息をのんだ。アイリスはまったく動じずにリンの脳波を調べており、オリヴィエは、微笑んで、リンを見た。
「なんだか楽しそうな話をしていたよね。僕も混ぜてもらいたいな」
「お、俺も俺も」
ヴィンセントもこくこく頷く。リンは思わず目を覆い、「こら」アイリスにその手を目から放させられた。
「まだ途中。でも……やっぱり脳震盪の痕跡が残ってるよ。魔力の波長が乱れてる。立ったらダメだ」
「でもいつまでもここにいるわけにはいかねーだろ。けっこー野次馬集まってきてるし寒いし騒ぎにしたくねーなら……担架持ってくるか?」
「無茶な!」リンは思わず叫んだ。「大騒ぎになっちゃうよ」
「僕がおぶっていこうか」
「滅相もないよ!」
「大丈夫。車椅子も持ってきたよ」
アイリスはポケットから小さく縮めた車椅子を取り出して元の大きさに戻した。オリヴィエが微笑む。
「用意周到だね。アイリス、君はリンの秘密をもうだいぶ前から知っていたの?」
「だいぶ前って程でもないよ。まだ一週間経たないくらいかな」
アイリスは涼しい顔だ。オリヴィエが丁重にリンを支えて車椅子に乗せてくれた。
さっきから、リンの近くに寄るのはオリヴィエとアイリスだけだ。
アイリスは女性だし、オリヴィエも華奢であまり男性味を感じさせない。だからなのだと悟って、リンは泣きたくなった。ヴィンセントはああ見えて結構やる奴だよ、と言ったオリヴィエに心の中だけで頷いた。男性によって暴行を受けかけたリンの傍に、体格のいい自分が今近寄るべきではないことを、ヴィンセントはちゃんと知っているのだ……。
目尻に涙が浮かびかけ、リンはそれをごまかすためにアイリスを見た。
「あの人と一緒に来たね。偶然会ったの?」
「んーん」アイリスは微笑む。「あの人はなんだか色んなことに飛び回ってるみたいだね。今回の件だけじゃなくて……さっきまで、昼食をごちそうになっていたんだ」
「お昼を? 何で誘ってくれないかな」
「ごめんね。でもリンとは関係なくね、私に、元医師として少し手を貸して欲しいって話だったんだ。南大島のルクルスにワクチンを打って欲しいんだって」
「ワクチン、を」
「うん、ワクチンそのものは、どこかから入手出来るんだって言うんだ。けれど、注射を打てる人間がいないんだそうでね。もともとはアナカルシスから誰か医師を連れてこようと思っていたらしいんだけど、エスメラルダまでこっそり打ちに来てくれる適任者がまだ見つかっていないらしくてね。来年の夏までには打たないと手遅れになるかもしれないからって」
「……へええ……」
「あちらに住んでる人の中に、手先の器用な人が見つかれば、注射の打ち方くらいすぐ教えてあげられる。必要があれば、治療もできるし、適切な薬の飲み方とか、健康指導とか――化膿を予防するとか、そういう知識の伝授とか。私がその気になれば、やれることはたくさんあるんだって。資金面ではディーンさんが太鼓判を押してくれたし、日当も出すって言われたんだけどね、保護局員が副業って倫理的にどうなのかなあ、だから、ボランティアにした方がいいんじゃないかなって思っているんだけどね。南大島なら通うのもそう大変じゃないだろうし、毎週小さな子たちが交代で船出して迎えに来てくれるって聞いて、なんだか楽しくなってきてしまった」
そう語るアイリスは本当に楽しそうだった。
リンは微笑んで、背もたれに体を預けた。ヴィンセントが車椅子を押し、アイリスとオリヴィエが両脇を固めてくれている。『どちらも違う』と【風の骨】が太鼓判を押してくれたことが、本当にありがたかった。そのありがたみが、じわじわと体に満ちてくる。
ヴィンセントもオリヴィエも、違ったのだ。
この三人だけは、信用していい、ということなのだ。
……本当にそうだろうか、と、まだ警戒が働くのは、きっとイクスとベルトランのせいで神経がささくれ立っているからだろう。リンはため息をついた。膝の上に乗せられたリーナが、ごろごろ喉を鳴らす振動が、リンの神経のささくれを癒やしていくような気がする……。
仲間って、ありがたい。リンはつくづくそう思った。
そして、昼過ぎに駆けつけたガストンによって、リンの事務所に厳戒態勢がしかれた。
アイリスに寝台に縛り付けられて身動きが取れない間に、リンが今まで遭遇してきた事件の数々を暴露されてしまい、とても居心地が悪かった。




