ジークスの賭場へ
それでもまず、ジークスを目指すことにした。というのはやっぱり、後ろめたかったからだ。
仕事に勤しんでから、お昼の休憩を【魔女ビル】で過ごし、またジークスに行って仕事をして、事務所に戻る。これならリンの罪悪感もだいぶマシになる。
動道を乗り継いで、エスメラルダ一の繁華街を目指した。
動道付近は町並みもすっきりとして、リンにも馴染みのある店が多いが、路地を一本中に入るととたんに、あまり馴染まない雰囲気になった。閉まっている店が多いからだろう。シャッターの降りた町を電飾のコードがツタのように這い回っていて、よけいに寒々しい。
電柱に書かれた標識を見ながら該当の住所を捜す。947-1の次が3になってしまって少々手間取ったが、すぐに小さな路地の存在に気づいた。そこを通り抜けると、出し抜けに大きな門の前に出た。
ジークス、と書かれた表札を見るまで、本当にこれが目的地なのかどうか、自信が持てなかった。
だって、賭場だ。
賭場といえば、木刀とか黒めがねとかを装備した厳ついおじさんたちが大勢出入りする場所のはずだ。煙草とか麻薬とかの煙がむんむんする中で、お酒をがばがば飲みながら、悪い相談をしている場所のはずなのだ。
それがどうだろう。この門構えを見ると、格調高い宿かかなり豪華な別荘にしか見えない。りりしい門構えと、中に見えるのは瀟洒と言ってもいいくらいおしゃれな建物だった。ここはエスメラルダ一の繁華街であるはずなのに、敷地はかなり大きい。賭場なんかじゃなく、何百年か前にはお姫様が住んでいました、と言われた方が信じやすいだろう。
「こんな町の中に、こんな敷地確保してる……んだ……」
リンは思わず呟いた。帳簿を調べろ、とガストンが言った理由がうっすら理解できた。だって、繁華街の土地の値段ってかなり高いはずだ。税金だけでも莫大な金額になるだろう。
賭場ってこんなに儲かるのか。
そう、思わずにはいられない。
エスメラルダにある企業は、必ず〈アスタ〉の監査を受ける。リンが調べていた書類を、ガストンがすぐに取り寄せられたのはそのお陰だ。しかし〈アスタ〉は捜査目的で調べるわけではない。世論や風習がどうあれ、賭場に行くことも運営することもエスメラルダでは違法ではないから、ジークスがきちんと売り上げに見合った税金さえ納めていれば、〈アスタ〉がジークスを怪しんで踏み込んだ調査をすることは絶対にない。
けれど、リンの第六感は、ひしひしと、ジークスが怪しい、という印象を伝えてくる。エスメラルダのふつうの国民はまず手を出さない娯楽。顧客も限られているはずだ。昨日まで見ていた名簿に載っていたのはかなりの数ではあったが、あの程度の顧客でこの敷地を維持し、従業員を雇い、運営していくためには、あの顧客ひとりひとりが莫大な金額を払っているということで……その金額を出したくなるほどの何かを、ジークスが提供しているということだ。
考えるだけで、なんだか、ぞっとする。
調べる価値はある、と思った。
それがわかっただけでも、来て良かった――
同時に、底冷えのするような感覚を抱いた。
ジェイドも【風の骨】も、フェルドの変貌は演技であり、フェルドは今も自由になってマリアラに会いに行く希望を持ち続けている、と、結論づけていた。
でも、それなら。
――危ないよ、フェルド。
そう、思わないではいられなかった。
【風の骨】の言葉を思い出す。
『あの男はミランダの裁判のせいで手を出しあぐねているだけで、どんな手を使ってでもフェルドをもう一度監禁したいと思っているはずだ』
確かにと、リンも思う。人をひとり、半年も監禁するなんて相当なことだ。グールドがあんなことをしなければ、今も――いや未来永劫ずっと、『あの男』はフェルドを外に出す気がなかったのだ。それほど『本気』だったのだ。それなら、今はきっといてもたってもいられない気持ちだろう。それほど、フェルドがひとりで歩き回れる現状は歯がゆいだろう。
保護局員がジークスに目をつけ、その後ろ暗い『稼業』を調査し始めたら。浮き彫りになったその犯罪を口実に、フェルドをもう一度捕まえようとする、それは、十分あり得る気がした。ガストンが、『保護局員にしかできない仕事をしろ』とリンにあの書類を渡した意味が、うっすらとわかり始めた。『あっち』がジークスを調べ始める前に、『こっち』が掴んで、万一フェルドに事情を聞く必要があるようなら、絶対に『こっち』が主導権を握っておかないと――『あっち』が事情聴取にかこつけてフェルドに任意同行を強いてしまったら、そのまま、フェルドの行方が一切わからなくなる、ということになりかねない。
競争だ。
リンはジークスを背にして、歩き出しながら考えた。
負けるもんか。
俄然やる気が出てきた。このまままっすぐ事務所に帰って帳簿に取りかかろうかとも思ったが、せっかくなので予定どおり【魔女ビル】を目指すことにする。帰り道に【魔女ビル】に寄ってご飯を食べるくらい、たいしたロスではないはずだ。
いったい何を思ってフェルドは賭場などに来ているのだろう。
ゆっくり歩きながら、そう考えた。
魔法道具に二十四時間ぴったり貼り付かれている現状は、それは息苦しいだろう。マリアラの話では、フェルドは自由を愛する人なのだそうだから、余計にそうだろう。でも、わずかな息抜きのためにそこまでのリスクを冒すなんて。もしかして、自分の置かれた立場の危うさをわかっていないのだろうか。
あの会合の時、【風の骨】は下準備をしに来た、と言った。フェルドが今もマリアラの相棒でいる気があるのかどうかを知る、それが、『下準備』のひとつだった、ということになる。
五日もたって、初めてリンは、あの時ジェイドがどうしてあんなに一生懸命、『フェルドは諦めてない』と主張していたのかに気づいた。
ジェイドはあの時、必死だったのだ。
万一【風の骨】――すなわちマリアラが、フェルドの本心を誤解していたら、フェルドはそこで、見捨てられることになるはずだったからだ。
フェルドのいる現状が危ういと重々わかった上で、【風の骨】は、措置を執るかどうかを決めようとしていた。リスクを冒してまでフェルドの現状を変える措置を執るだけの、見返りがあるかどうかを。フェルドがマリアラをもう諦めていたら、【風の骨】は何もせずにマリアラのところに戻り、フェルドをもう諦めるようにと説得するつもりだったのだ……。
考えていたから、対処が遅れた。
リンはふたりの男に両脇に立たれるまで、その存在に気づかなかった。
「よお、アリエノール」
聞くだけで嫌悪感を抱かせるあの声が、すぐ隣で言った。リンはぞっとして顔を上げた。
予想どおりの、あの常軌を逸した憎悪の視線が、リンを捉えている。
「久しぶりだな。元気そうで何よりだよ」
イクス=ストールンは、唇を曲げて嗤った。思わず後ずさったら、反対側にいた男にぶつかってしまった。そのまま肩をつかまれて、お酒と、なにか得体の知れない甘い匂いのする息が、ふうっ、と耳元に吐きかけられた。
「久しぶりだなぁ、アリエノール」
その声に、今度こそリンは震え上がった。
振り返るまでもなかった。リンとダリアの部屋を荒らし、リンを暴行し、それ以上の暴力を振るおうとした、あのベルトランの声だった。
ベルトランは左腕でリンを抱き寄せた。イクスはなにか、警棒のようなものを取り出してスイッチを入れた。ぶううううん、と淡い明かりが付いたそれを、リンの体にかざす。ピーピーピー、と軽い電子音が鳴り、リンのコートの右ポケットに近づけるとその音がひときわ大きくなった。リンが悟って、思わず出した腕を、ベルトランが簡単に封じた。
イクスはリンのポケットに手を突っ込んだ。
程なくつかみ出されたのは、さっき小さく縮めておいたハンドバッグ――
リーナが入っている、ハンドバッグだ。
それをぽいっと道ばたの溝の中に投げ、イクスはまだ警棒のようなものをリンの体にかざす。電子音はもう聞こえなかった。たぶん魔法道具を持っているかどうかを探るものだったのだろう。イクスは満足したように警棒を仕舞い、ベルトランが歩き出した。引きずられるよりはと、渋々リンも歩いた。いったいどうして、いったいどうしてここに、と、訝しむ自分が頭のどこかでぶつぶつつぶやいている。
いったいどうして。
どうしてここに。
ここでなにを。
「……どうしてエスメラルダにいるの」
掠れた声で言うと、イクスは異様な機嫌の良さでにっこり嗤ってリンを見た。
「こっちに配属になったんだよ」
「嘘、だって、新人研修には、」
「あー、あんなの行かなくていーんだ俺は」イクスは優越感の混じる声で言う。「俺は選ばれたんだ。エリートなんだよ。ぺーぺーの新人なんかとつるまなくていーんだ。ある元老院議員の組織した特命チームの一員になったんだ」
「……へ、え」
「その特命チームの目的は」
イクスたちはどうやら、この街区の外れを目指しているらしい。人目の付かない方へ、付かない方へとリンを誘導していく。このままじゃいけないと思う。人目の付かないところに連れ込まれてしまったら、いったいベルトランに何をされることか。
「エスメラルダの反乱分子を掃除するってことなんだ」
「そうじ」
「綺麗にするんだよ、アリエノール」イクスはくつくつと笑った。「なー、お前、あのジークスって賭場で何してたの。まさか、通ってるわけじゃねえよな。お前はずる賢いから、そんなわかりやすい失態犯したりしねえもんな」
「……」
「ジークスで何が行われてるか、知ってるか? 俺はさ、そういう、大きなヤマを任されるようになったんだ。ジークスとか、お前みたいな汚え奴を排除して、エスメラルダを理想の国に作り上げる。それが俺たちの目的なんだ」
「汚え、って」
「お前ほど汚え奴を見たことねえよ」
イクスの声から笑いが消えた。
リンは思わず足を止めかけ、ベルトランがそれを許さなかった。リンを小脇に抱えるようにしてベルトランは易々と歩いて行く。
「ガストンさんまでたらし込んだ。……そうだろ?」
イクスが言う。リンは何も言わなかった。たらし込む、と言う言葉は、今までにもイクスに何度も言われてきた言葉だった。
「俺の上司は、ガストンさんを何度も誘ったんだ。エスメラルダを綺麗にするのに、あんたの力を貸してくれって。でもさあ、お前がさあ、ガストンさんをたらし込んだ。あることないこと吹き込んで……俺のことも」イクスの手が、リンの耳に触れた。「俺が飛ばされたのもお前のせいだ。ガストンさんは、本当はお前のこと気に入ってたんだってなあ。どんな手を使ってでも保護局に入れるって、言われてたんだってなあ。なあ、どんな気持ちだった? 嘲笑ってたんだろ? 面白かったよな? 俺や他の人間みんなを騙して、ガストンさん操って、ほくそ笑んでたんだろ――?」
堪えきれなくなったというようにイクスはリンの耳を引っ張った。鋭い痛みが走ってリンは顔をしかめた。
間近で覗き込むイクスの顔……
「本当に、顔だけは綺麗だよな、お前」
憎悪のにじんだ、醜悪な、顔。
「その目に見られると、なんか、くらっとくるんだよな。それはもう本能みたいなもんなんだ。だから俺は、ガストンさんとかフェリクスって人とか、お前にたらし込まれた人皆を軽蔑するつもりはねえんだよ」
そこは、もう、町外れだった。ただでさえ昼間は人通りの少ない繁華街の、さらに町外れだ。道路に雪が積もっている。シャッターの下りた店の並ぶ、とても淋しい場所だった。
「お前は自分に使えそうな男を選んでその目を使うんだ」
イクスがナイフを取り出した。
「口ではいつも綺麗なこと言うんだよな。全部嘘ばっかりのくせに、耳障りのいい、人の心につけ込むような、毒みたいな言葉をさ……俺のこと、ガストンさんに言ったんだよな? アリエディアに飛ばせって、言ったんだよなあ? 保護局に入ってやるからその代わり、俺を遠ざけろって。言ったんだよなあ!?」
「言っ、」
「ガストンさんは俺のことだって気に入ってくれてたんだ!」
イクスの左手がリンの髪をつかんだ。
「それをお前がたらし込んで、籠絡して、あることないこと吹き込んだ! そうだろ!?」
「違うっ、」
「黙れよ!」
髪を引かれ、痛みにリンは呻いた。イクスの手が離れ、リンの首をつかんだ。引きはがそうとしたリンの両手をベルトランがつかんで放させた。ベルトランが、楽しそうに言った。
「俺たちが飛ばされたのもお前のせいだ」
「違うじゃん全部逆恨みじゃん! あたしのっ」
「お前のせいだ」
イクスが言い、リンのコートに切りつけた。
「……!」
コートが切り裂かれる感触はおぞましいものだった。イクスはコートの襟元を掴み、そこにナイフの刃を立てて縦に裂いた。冷気が流れ込み、リンはもがいたが、ベルトランがリンの両腕を抱え込んでしまった。あらわになったセーターを、イクスがさらにつかんだ。そこにも刃を立てられて、リンはついに叫んだ。
「やめて! 助けて! 助けてええええ――!」
「うるせえよ」
がん、と左目のわきに衝撃が走り火花が散った。ナイフの柄でイクスがリンを殴った。ナイフを持ち直し、イクスはリンのほおにナイフをあてた。
「黙ってろ。顔から切られたいのかよ」
「切られたいわけないじゃん! でもどうせっ」
「そーだな」
ずしん。
下腹部を殴られてリンは目の前が真っ白になるのを感じた。
すうっと全身から血の気が引き、意識が一瞬飛んだ。
イクスがリンのセーターをもう一度つかむ。
「黙ってても切るけどな。目は最後にするよ。自慢の体と顔がどうなったか見られないと困るだろ」
「さい……ていっ」
「最低はお前だよ。誰彼構わず誘惑しといて、ほんとに口だけはきれい事言いやがって」
セーターが裂かれた。高かったのに、と反射的に思い、リンは自棄になった。リーナからだいぶ離れてしまった。でも、叫べばきっと届くはずだ、
「たす――」
「うるせえ」
胸元にナイフの柄が食い込んだ。体を支えられずリンはくずおれ、間髪入れずにベルトランが引き戻した。シャツにイクスの手がかかる。ベルトランが嗤った。
「いい眺めだなあ。俺が先だぜえ、ストールン」
「ああ!? そりゃないっすよ、さっき約束したじゃ」
「してねえなー。俺が先。お前は次」
「ええ……なんだよくっそ……ずっとラリッてりゃいーのに」
「うるせえよ。ほら、押さえろ」
リンは唐突に雪の中に投げ出された。ぶつぶつ言いながらイクスがリンの手首をつかんで地面に押しつけた。ベルトランはニヤニヤ笑いながらリンの体の上に乗ってきた。腰の上に馬乗りになって、手をこすり合わせたその様子は、山賊のお頭がごちそうを前にして舌なめずりしているような風情だった。
「や……だああっ」
「フーッ!」
と叫んだのは、リーナだった。
元の大きさに戻ったリーナはベルトランの背後から襲いかかった。頭に飛び乗られ、顔に爪を立てられ、ベルトランがのけぞる。驚いたイクスの腕が緩み、
「くそっ」
ベルトランが腰を浮かせた瞬間、リンはイクスの腕をふりほどいて飛びすさった。ガストンの指示で真面目にトレーニングをしていた効果は絶大だった。思っていた以上に体が機敏に動き、リンは体勢を立て直した。
「リーナ! 逃げるよ!」
「にゃー!」
ベルトランの頭からリーナが飛び降りた、と――
イクスが、いつのまにか片手弓を構えていた。
ばしゅっ、と放たれた矢は恐ろしい正確さでリンの右足のブーツに食い込んだ。鋭い痛みが走り、リンが悲鳴を上げた瞬間にイクスが走った。腕を捕まれ、体ごとアスファルトにたたきつけられた。うつ伏せに倒れたリンの背の上に、イクスがのし掛かってくる。
「逃がすかよ」
リーナがまたとんだ。でもイクスはそれを予期していて、左手で振り払った。逃げようとしたリンの頭をつかんで地面に打ち付けた。目の前に火花が散って、一瞬意識が遠のいた……
「いた――こっちだ! 本当にいた! 何やってる!」
新たな声が割り込んだのは、そのときだった。
イクスとベルトランの撤退は素早かった。誰かが通報したのか、パトロールしていた警備隊の一班が駆けつけたのだろう、とリンは思った。駆けつけたのはふたりで、そのうちひとりはイクスとベルトランを追っていった。そこに残ったもうひとりが、声をかけてくる。
「大丈夫です――、り、リン!?」
リンは驚いた。
オリヴィエだったのだ。




