保護局詰め所
窓の外は、今日も雪模様だ。
リンは書類から顔を上げ、窓の外を見て感心した。朝からずっとあの調子で降り続いている。よくもまあ、あんなに降る水が空中に存在しているものだ、と、冬になるたびに感心せずにはいられない。
エスメラルダで、右巻きの独り身のマヌエルたちが溶かしてタンクに詰める水は、何百トンという量に達する。ひと冬で、ではない。一日で、なのだ。エスメラルダが埋もれてしまわずに済んでいるのは、右巻きのマヌエルと、公務員で構成された清掃隊のお陰だ。だからリンは、以前ジェイドが話した、『独り身の右巻きのマヌエルは、治療も出来ないし、自分を半端者だと思うしかない』という話はおかしいと思う。確かにあの詰め所の雰囲気は強烈だったが――しかし、白い悪魔に覆い被さられているような錯覚さえ感じる景色の中に、マヌエルの黒い制服と、清掃隊の青い制服が見えてきたとき、エスメラルダの国民が抱く安堵感は大変なものだ。もし町中の雪を溶かしているマヌエルのことを半端者だなんて言ったなら、その言葉を聞いた国民全員から袋だたきにされるだろう。
「はあああああ……」
リンはため息をついた。正直なところ、リンも独り身の右巻きのマヌエルになりたかった。
書類仕事は、どうもリンの性に合わない。
保護局警備隊は、取り調べだの容疑者確保だの、張り込みだのパトロールだののイメージが強すぎて、肉体労働だと思い込んでいた。しかしガストンが言うには、実際その八割は書類仕事が占めるのだという。わかっていても良さそうなものだったが、裏切られたような気がしてしまうのも仕方がない。
多分一緒に見る相手がいてくれれば少しは違うのだろう。実際、アイリスが一緒にいてくれた時には、やる気も効率も全然違った。
「お茶でも飲もう……」
うめいてリンはお茶をいれに立ち上がった。
五日前――ジェイドが何とか〈アスタ〉のお小言を先送りにして駆けつけ、再び設けられた会合の席で。
まず口火を切ったのは、【風の骨】だった。
「俺はフェルディナント=ラクエル・マヌエルが未だにマリアラの相棒でいる気があるのかを確かめに来たんだ」
前置きもなにもなく、相変わらず単刀直入な人だった。彼はそのまま、マリアラが、ケガをする前に、『自分でフェルドを迎えに行きたい』と話していたのだ、と語った。
リンは、マリアラらしい、と思ったが、真っ先に声を上げたのは、ティティだった。
「せんだっても言ったが、儂は反対じゃ。あまりに危険すぎる」
「だからです」【風の骨】は丁寧に言った。「俺も危険だと思う。しかし、危険なのはフェルディナントの方も同じ、と言うよりむしろ、急を要するのはこちらの方じゃないかと思う。このままいつまでも放っておくほど、あの男は甘くない。近々何らかの手段でもう一度監禁しようとするでしょう。グールドがくれた貴重なチャンスですが、そう長くは保たない」
「何らかの方策を採るのはもちろん必要じゃろ」ティティは頷いた。「しかしそれを、何もマリアラ本人にさせることはない。いくら本人の望みじゃと言っても」
「俺にそれを禁じる権利はないので」
「そういう次元の話ではないわ。酷な話じゃが、箱庭にとって本当に重要なエルカテルミナは左だけじゃ」
ティティはまじめな顔で身を乗り出して言った。
「責務を果たさねばいつか崩壊する、それは真理じゃが――現段階でマリアラが死ねば、いつかではなく即座に崩壊する。ならば現状維持の方がはるかにマシじゃ」
「精神的にも、彼女には本来の護衛が必要なんです」
「そのために世界を危機にさらすと? たったひとりの男のために? それこそ本末転倒じゃ。危険が多いというなら、護衛を増やせば善いだけの話。次の左が生まれるまで、マリアラにはぜがひでも無事でいてもらわねばならぬ。イェイラはもはや亡い。今マリアラまで失うわけにはいかぬ」
「先程も言いましたが」【風の骨】は淡々と言った。「俺にそれを禁じる権利はないんです。そもそもこの箱庭が彼女ひとりのためだけに存続しているというのなら、彼女の意思を尊重するのは、箱庭に住む生き物すべての義務というものじゃないですか」
「娘ひとりの恋心のために世界のすべてを道連れにして構わぬと?」
「逆に聞きたいですね。どうして駄目なんです?」【風の骨】は薄く笑う。「そんな事態は今までに何度もあったはずだ。世界が千年前に終わってたって、ちっともおかしくなかった。マリアラが生まれる前に責務を終わらせておかなかった、銀狼にも人魚にも、彼女を批判する権利はないんです。もちろん俺にも」
「……」
「箱庭などという歪んだ代物をあんな細い肩の上に勝手にのせといて、そのまま生涯降ろすなと? 現状維持のまま何もしないで、大切なもの全部なくしたまま、ただ重荷だけ背負い続けていろと? そんなことがあなたに言えるんですか?」
「相変わらず歯に絹着せぬ男じゃのう」
ティティは悲しげに言い、【風の骨】は息をついた。
「すみません、言い過ぎました。……それに、まだ先の話です。俺は下準備をしにきました。もしフェルディナントが彼女を諦めていて、誘いに乗る様子がなさそうなら、彼女も諦める気になるかも知れません。しかし、そうでないなら……」
「フェルドは諦めてなんかないです」
ジェイドがぽつりと言った。
リンは驚いた。【魔女ビル】で、フェルドにあんなに、威嚇されたばかりなのに。
「でも……こないだ、ミーシャと……」
言うとジェイドは顔をしかめた。
「コインが欲しいんだ。ただそれだけだよ」
「どうして、わかるの?」
「ミーシャと相棒になって、今後もエスメラルダでマヌエル続けてく気があるなら、他の人間を威嚇して遠ざける必要なんかないでしょ」
当然のように言われて、リンは目を丸くする。「えっ?」
「だからつまり……今、フェルドは、ミーシャしかそばに寄せないんだよ。他のマヌエルはみんなフェルドに近寄れないんだ。フェルドがいつも周りに魔力を張り巡らせていて、怖くて近寄れないんだよ、触ったら殺されてしまいそうで」
「う、ん」
「でもそれって何のためなんだと思う? みんな、フェルドが、半年も監禁されたり、グールドの『訓練』の時に捨て駒みたいに使われたり、マリアラを諦めろと言わんばかりにミーシャを宛てがわれたりしてることに、怒ってて、それで賭場通いなんか始めたんだって言うんだけど……いや、もちろん怒るのも当然だと思うけど、でも、俺は違うと思うんだ。だってフェルドは、誰か偉い人間が、自分を閉じ込めたがってるって知ってる。それなら、逃げたら血眼で捜されるだろうってことも推測できるでしょ。
自分が出て行った後、仲良くしてた人間はきっと、いろいろ調べられたり、見張られたりして、ひどい目にあわされるんじゃないかって……思ってるんじゃないかな。俺はそう思う」
「それって……ジェイドとか、友達とかに、累が及ばないように、わざと遠ざけてるんだ、って、こと……?」
「そう考えないと筋が通らないよ。今の状態でフェルドがいなくなったら、行く先を知ってるに違いないって疑われるのはミーシャだけだ」
「それって」リンは一瞬震えた。「ミーシャは……取り調べられちゃうって、こと、だよね……」
「しょうがないよ。だってさ、リン、ミーシャ見てどう思った?」ジェイドはまた顔をしかめた。「俺はなんだか、気味が悪いって思った。マリアラと特に親しくなかった俺でさえそうなんだ。リンなんて、吐きそうになってたじゃないか」
「う、ん」
「それなら、普通に考えれば、ミーシャに一番嫌悪感を抱くのはフェルドなんじゃない? 考えただけでぞっとするよ、好きな子にそっくりな顔した偽物にまとわりつかれるなんて。よく攻撃しなかったなあって、感心するくらいだ」
「……うん」
「でもミーシャは利用できるからね。コインを手にいれるまではって、我慢してるんじゃないのかな。逃げた後にミーシャがちょっと不利益を被るくらい、しょうがないと俺は思うよ。そもそもフェルドがマリアラに会いに行ったんだって推測できる人間には、ミーシャが行き先を知ってるわけがないってすぐわかるだろうから、そんなに本気で締め上げられたりはしないだろうし……フェルドは三倍返しが身上の人だから、それくらいで済んでラッキーってくらいじゃないか」
「でも、じゃあ。賭場に通ってるって、どうして?」
リンはそこが不思議でたまらなかった。
だって、賭場だ。
エスメラルダの治安の良さは、国土の狭さと人口の少なさ、外国からの移住が極度に制限されていること、など、さまざまな理由があると指摘されている。中でも特に大きいのは、教育の徹底だ、と、保護局員の試験勉強中に知った。エスメラルダの子供がたたき込まれるのは【毒の世界】の恐ろしさばかりではない。賭場で身を持ち崩した人間の末路や、賭場で繰り広げられる数々の恐ろしい出来事だとか、ギャンブル依存症がいかに恐ろしいものか、犯罪者や賭場がどうやってカモを誘い込むのか、その数々の手口に至るまで、社会の時間にみっちり教え込まれた。エスメラルダでは賭け事は一般人の遊びではない。アナカルシスでは人身売買の巣窟になっているという恐ろしいニュースもある一方、ゲーム感覚で遊べる比較的安全な賭場というものも存在すると言い、十把一絡げに語るわけにはいかないようだが、ここエスメラルダで賭場に足を踏み入れるということは、そっちの世界に入ります、と、宣言するようなものなのだ。
その疑問に答えたのは、ディーンだった。
「人を遠ざけることができ、自分を見張っている誰かの目から逃れることができ、何より、いつも張り付いてる魔法道具を排除することができる。一石三鳥というものでしょうね」
「え……そ、そうなんです、か?」
「フェルディナントには多分、マヌエルの箒がいつもくっついてる」と【風の骨】は言った。「……たぶんね。だから接触も慎重にしなきゃならない。今後彼に接触する時、くれぐれも、俺が来てるって言わないようにしてほしい。リスクはできるだけ減らしたい」
「賭場は、魔法道具の持ち込みを禁じるところが多いんです」ディーンがリンに説明した。「いかさま防止のため、それから、潜入捜査のリスクを減らすため――いろいろな理由はありますがね。フェルディナントがいつも決まった賭場に出掛けているのか、それとも毎回変えているのか、そこまで掴めていませんが、少なくとも先週行ったジークスという賭場は、徹底しています。入り口にセキュリティゲートがあって、魔法道具を破壊する波長を出してるんですよ」
「そんなの……あるんですか?」
リンは呆気に取られた。エスメラルダ国内に、魔法道具を持ち込めない場所があるなんて今の今まで知らなかった。
――と言うことは、そこに行ったらリーナも壊されてしまうと言うことだ……
気をつけなければならない。今後、保護局員として、賭場を調査する局面にもなるはずだ。
ディーンは深々とうなずく。
「義手や義足、ペースメーカーまで排除するという徹底振りです。あそこのゲートを通れば、フェルディナントは一週間ぶりに、心から寛げるというわけですな」
「ならばマリアラが自ら赴かずとも、賭場に行って見張りがなくなったその時に、こいんとやらを渡せばよいではないか」
ティティが話を蒸し返した。【風の骨】は軽く頷いた。
「それも考えました」
「でもそれだと……無理だと思うんです」
ジェイドが言いにくそうに口を出し、【風の骨】はまた頷いた。ティティが眉根を寄せる。
「なにゆえじゃ」
「ええと……その……。だって、フェルドは、以前マリアラを殺そうとした『誰か』が、自由に外見を変えられるんだって、知ってるからです」
「俺みたいにね」
【風の骨】が言い、ジェイドは彼を睨んだ。
「……そうです」
「そりゃ信用できないよな」
「できないでしょ。俺もできない」
「俺も」【風の骨】はニヤリと笑った。「まだ頼んでなかったな。風使ってみせてもらってもいい?」
「……!」
ぶわっと風がジェイドの周りに渦巻き、【風の骨】は笑った。
「どーも」
「ケンカ売ってますよね!? そうですよね!?」
「ケンカだなんてそんな、滅相もない。ひひひ」
むかつく……!
とジェイドの目が雄弁に言っている。ティティが呆れた。
「からかうのはやめぬか、【風の骨】。ジェイド、先を話せ」
「すみません」
【風の骨】が苦笑し、ジェイドは、気を取り直すように咳払いをした。
「いや、ですから、賭場に行っても排除できるのは魔法道具だけで……近づいてくる人に対しては、警戒するはずです。誰が化けてるんだかわからない相手からもらったコインなんて、俺なら使えないです。コインって、そう簡単に使えるものじゃないんです。絶対安全な場所においておかないと、移動した時に障害物にぶつかって木っ端みじんになる、そういうリスクがあるんです」
「そういうものか」
ティティは腕組みをして、うーんと唸った。
「ラルフはどうじゃ。ラルフならばフェルディナントも信用するかも知れぬ」
「ラルフのことは信用できても」と【風の骨】が言った。「ラルフに渡した人間のことは疑うんじゃないですかね」
「では、こいんではなく誘い出せば……」
「それも無理です」ジェイドは頑なに言い張った。「偽物の可能性がある限り、ついて行けないですよ。だって、半年も監禁されてたんだ。今度捕まったら、二度と出られないかもしれない。行く先に何があるか分からないのに、ついて行けますか」
「あの男もそれを狙ってるはずだ」【風の骨】が頷いた。「もう一度捕まえられるチャンスがあるなら、どんな手でも使いたいだろう。幸い今はミランダのお陰であの男は校長じゃなくなった、だから、まだ自由にさせておかざるを得ないんだろうね」
「【風の骨】が本物であると、なんらかの手段で証明するのはどうじゃ」
「それこそ、もっと行けないです……ああ、でも、どうかな。フェルドが、マリアラがケガしてるって知らなければ、もしかしたら行くかもしれないけど……でも、箒がくっついてるって言ったでしょう……イーレンタールという技術者と、フェルドは仲がよかったから、その腕のよさもよく知ってるはずでしょ。フェルドが賭場に通い出して、もうひと月以上経つんですよ。今頃はもう、賭場も通れる魔法道具を開発してるかもしれないじゃないか」
「そんなことができるのか?」
「知りません。でも、懸念はある。そうしたら、自分のせいで、マリアラのところに敵を案内してしまうことになるんですよ。俺なら無理です」
「だから」と【風の骨】が言った。「マリアラ本人が来て、彼女が持っている、本物だと分かっているコインを使って一緒に移動する。それが一番成功率が高い――というよりむしろ、それしかない。少なくとも俺は、そう思う」
「でも、マリアラに化けて近づいて来てる、って、疑わないかな」
リンは言い、ジェイドと【風の骨】に同時に見られて、口に出したことを後悔した。そんなわけがない。どんなに巧妙に化けたって、目の前にいる相手がマリアラかどうか、フェルドが分からないはずがない。
回想から我に返ったのは、壁掛け時計が鳴ったからだ。十一時。
リンはげんなりする。書類の山は、ここ数日の奮闘でも全く減ったように見えない。昨日と一昨日で、顧客名簿をみんな見てしまったのが、今日の虚脱の原因だろう。顧客名簿はなかなか面白かった。こんなお客まで来てるのか、と、新鮮だった。保護局員だから閲覧できる資料なのだ、と言う誇らしさも一役買っていた。
ところが、今日からひたすら挑まねばならないのは、帳簿なのだ。活字ならまだしも、数字である。どの項目が何を指しているのかさえよくわからない状況で、数字の不自然さを見つけ出すなんて絶対無理だ、という気持ちが、リンのやる気をごりごりとそいでいく。
「ジェイドに会いたいなぁ……」
つぶやいて、またため息を一つ。ディーンと【風の骨】との会合以来、リンは一度もジェイドに会えていない。シフトをすっぽかし、またその夜にも行方を数時間くらませたジェイドは、ペナルティとして二週間の外出禁止を言い渡されてしまったのだ。もちろん寝る暇もないほどこき使われているわけではないようだが、休憩時間も食事もすべて【魔女ビル】でと釘を刺されてしまったらしい。来週の水曜日まで、ジェイドがリンに会いに来てくれることはない。もちろん食べ歩きに付き合ってくれることもない。
そこで。
はた、とリンは気づいた。
「あたしの方が、【魔女ビル】でお昼を食べることにすれば……?」
そして、座り直した。そう。そうだ。
リンが【魔女ビル】でお昼を食べればいいんじゃ、ないだろうか。
シフトに入っていても、お昼時にはたいてい休憩を取るものだ。ジェイドは休み時間を【魔女ビル】で過ごさなければならないのだから、【魔女ビル】のどこかで食事を取る可能性はかなり高いと言える。食堂か、軽食の集まったフードコートか、喫茶店か、和食専門店か……和食専門店は外していいと考えれば、確率は三分の一だ。
「いい……かなあ……?」
ものすごい誘惑を感じた。ジェイドに会えない中真面目に仕事に勤しむこと早四日。これがあと十日も続くのだ。そろそろ酸欠気味だ。
リンは言い訳を探した。今日の午前中、何の建設的な仕事もしていないのに、お昼休みにはるばる【魔女ビル】まで出かけるなんてことが許されるだろうか。片道二十分だ。往復で四十分、つまり、リンがジェイドの捜索と食事に使える時間は二十分しかない。それなのに、それなのに、それなのに……
「……あたしジークスって賭場、行ったことないんだった」
思い至って、リンは飛び上がった。そうだ、その手があった。
ここからジークスへ行こうと思えば、【魔女ビル】を経由するルートもあるのだ(他のルートの方が若干距離が短い、という事実にはこの際目をつぶる)。ジークスをこの目で見ておけば、様々な計画も立てやすい。大義名分が見つかって、俄然元気が出てきた。現場百回、という言葉も聞くし、帳簿をめくる際の集中力も高まるだろうし、行ってみて全然悪いことはないはずだ。
「うん、うん、うん!」
リンはハンドバッグを覗き込んだ。
「ね、リーナ! いい考えだよね! ね!」
「んにゃーん」
迷惑そうにリーナが言った。どうでも良さそうだった。
ということはつまり、反対でもないというわけだ。リンは防寒具をしっかり着込んだ。ハンドバッグは小さく縮めてポケットに入れ、書類仕事で出た紙くずをゴミ袋にまとめて外に出る。幸先がいいことに、ちょうど清掃隊のひとりが青い制服も誇らしげにごみ収集に回ってくるところだった。リンはその人がごみを回収しやすいように、ゴミ箱の横にゴミ袋を置き、手を振ってその清掃隊に断ってから、勇んで雪の中に飛び出した。




