第二章 ジレッド
一日さかのぼる。
十二月十六日
その日フランチェスカは、しんしんと降り続く雪を見ながら、ベルトランとイクスが出かけていくのを見守っていた。
アリエディアでフランチェスカの〈毒〉を受けたベルトランは、左巻きの治療を受けて、もはや元気いっぱいだった。蓄積されていた麻薬の影響まで治療されたから、前よりもっと元気なくらいだった。
逆に具合が悪いのは、ジレッドの方だ。
アリエディアで、相当恐ろしい目に遭ったらしい。何でも、マリアラに化けた【風の骨】によって、手加減なしの電撃を浴びて一時は生死の境を彷徨ったのだとか。体の方はもうすっかり治ったのだが、問題なのは心のほうだ。エスメラルダで最も高名なカウンセラーによって何度かカウンセリングを受けているが、回復にはもうしばらくかかると思われている。
だから今日も、出かけていくのはベルトランとイクスだけで、ジレッドは一人残されて、山のような書類仕事に追われている。
ベルトランとイクスは出かける前にジレッドの顔を見にきた、と言った。見舞いという名の嘲笑のようにフランチェスカには思えた。散々ジレッドに『同情』してジレッドの神経を逆撫でたふたりがようやく出かけ、ジレッドが一人になった。あまり時間がない。フランチェスカは音もなく通気口から滑り出て、ジレッドの後ろに降り立った。
『ジレッド』
ギョッとしたようにジレッドは振り返った。「なんだ!?」
『大きな声を出すな。……大人しく書類を書いておるとは、意外じゃのう? あの二人にああまで言われて、悔しくはないのかえ』
そう言ってやるとジレッドは、嫌そうな顔をした。
もう大丈夫だから現場に出せと、カウンセラーに何度も訴えているのはわかっている。
「あんたか。何の用だよ」
『ベルトランには困ったものじゃの。そう思わぬかえ?』
アリエディアでフランチェスカは、イクスの反応に手応えを感じた。あの若者はベルトランに怒鳴られるままにフランチェスカに矢を向けたけれど、もう少しうまいこと誘導してやって、ベルトランを排除することのメリットに気づかせてやれば、籠絡することができるに違いない。
ということはジレッドの方はもっと簡単だ。
フランチェスカはそう信じて疑わなかった。
ジレッドがベルトランによって迷惑を被ってきた年月は、イクスの比ではない。ジレッドはもっとうんざりしているはずだ。
『儂はあの男を喰う』フランチェスカは囁いた。『……ベルトランをな。悪い話ではなかろう? そなた、儂に協力をおし。今、ベルトランは外へ出かけた。【魔女ビル】の中で喰うのは面倒じゃから……』
【魔女ビル】の中には清掃隊の本部がある。あの忌々しい隊長のいる事務所が。
ディヘルム=シュテイナーという名の男は、眼光に負けないくらい勘が鋭い。そして、【魔女ビル】内外の環境を整えるために必要な、ほぼ全権を任されている。配管内や壁の裏を伝って移動するフランチェスカは、体調が万全だった時にも、シュテイナーにだけは見つからないよう気を付けていた。
シュテイナーは校長の配下ではあるが、融通が効かない。
そして校長も、フランチェスカが【魔女ビル】に住むこと自体は了解しているが、シュテイナーにフランチェスカの目溢しをしろと、命令するまではしていない。だからシュテイナーは、フランチェスカを見つけたら排除する権限と力とその気を持っている。ゆえに、【魔女ビル】内でベルトランを喰う気にもなれなかった。丸呑みにすることがサイズ的にできない以上、ベルトランの血をこぼさずに食い切ることは難しい。
ベルトランが出かけた。千載一遇のチャンスだ。
「あんた何言ってんの?」
ジレッドが呆れたように言い、フランチェスカは目を細めた。
『あやつがいなくなれば、そなたはもう、あやつの尻拭いをせんで良くなる。悪い話じゃなかろう。儂が髪の毛一筋も残さず喰うてやるゆえ』
「なんで俺が、相棒を、あんたのために差し出してやらなきゃなんねえんだよ」
やれやれ強欲なやつよと、フランチェスカは思った。尻拭いをしないで良くなる、もうあの厄災のような男に関わらないでよくなるということが、最大のメリットだと思うのだが――しかしまあ、フランチェスカとジレッドは仲間というわけではないから、何らかの見返りを欲しがるのは仕方がないかもしれない。
『あやつがどこに行ったか儂に教えろ。あとは知らぬふりをしておいで。そうしたら儂が――』
「教えるわけないだろ」
言いながらジレッドは、出しぬけにフランチェスカを撃った。
目にも止まらぬ一撃だった。まともに腹に食らった。しかし幸運だったのは、ジレッドが撃ったのが〈狩人〉とやらが使う〈毒〉の詰まった弾丸だったことだ。フランチェスカの体内に食い込んだ〈毒〉はとぷんとフランチェスカの体内の〈毒〉と合流し、余分な薬莢を包み込んだ。
フランチェスカは飛んで距離を取り、口内から今体に食い込んだ薬莢を吐き出した。からん、床に薬莢が落ち、ジレッドが眉を顰める。
「化け物め」
『落ち着いて、儂の話をお聞き』
「聞くわけねーだろ。あいつは、」
『ほんに健気な子じゃこと。あやつはいつもそなたのことなど何も気にせず狼藉三昧。その尻拭いのために同じ減俸処分を受け同じ国外追放に処され。そなた、いつまで損な役回りを続けるつもりじゃ』
「うるせー!!」
ジレッドは続け様に〈銃〉を撃ったが、フランチェスカに効かないのを見て別の弾を装填した。ふう……フランチェスカはため息をつく。
『聞き分けのないこと。よく考えてご覧、儂があやつを喰うてやればそなたは、』
「お前にとやかく言われる筋合いはねぇ! あいつに迷惑かけられたのは俺だ、」
フランチェスカはぽかんとした。『……なに?』
「アイツを殴っていいのも蹴っていいのも、いつか殺していいのも俺だけなんだよ!!」
――こやつは。
フランチェスカは呆れた。まさかそうくるとは。
イクスより付き合いが長いがゆえにうんざりし、愛想も尽き果てていると思っていたが――
――これは想定外だった。
横からぽっと出の魔物にくれてやれるほどの因縁ではない、ということか。ずいぶん拗らせてしまったものである。
フランチェスカは考えを改めた。ジレッドに聞かずとも、ベルトランの居場所はわかっているのだ。片棒を担がせることでジレッドをコントロールできるかと思ったが、当てが外れたと言わざるを得ない。
イクスも完全に篭絡できたわけではないし、ベルトランは治療を受けて元気満々だ。ここにジレッドにまで妨害されたら、ちょっと面倒なことになる。
――しょうがない。ジレッドには少し眠っていてもらおう。
*
魔物が通気口に消え、ジレッドは上着を引っ掴んで部屋の外に出た。この部屋は校長の特務部隊に当てがわれた部屋であるがゆえに〈アスタ〉に覗かれない仕様になっている。〈アスタ〉に説明する手間が惜しく、カウンセラーから持たされた位置情報バッヂをかなぐり捨てて走った。同じ階にある清掃隊の詰め所に駆け込む。
「シュテイナー班長! いるか!」
「いないでーす」
冷たい口調でバカにしたようにそう言ったのは、シュテイナーの右腕と目されるエーリヒ=リメラードであった。
この若造は非常に問題児である――シュテイナー隊の全員がそうであると言えるが。何しろ校長の、いやシュテイナー以外の誰の命令も聞かない。清掃隊の業務は多岐にわたり、災害、火災、雪崩などによる建物の崩壊の時にはマヌエルたちと連携して人の救助に当たることも多いため、体格の良い者が多いし、警備隊と同じくらい訓練を重ねている。自分たちの業務に誇りを持っているため不遜なところがあり、生半可な脅しは逆効果だ。
ジレッドはチッと舌打ちをした。
「今すぐ出動を要請する。魔物が出たんだ」
「へええ」エーリヒは冷笑した。「ジレッド特務官、アンタ療養中でしょ。幻覚でも見たんすか?」
「ああ!?」
「でっけー声」エーリヒはわざとらしく顔をしかめて見せた。「アンタらいっつもそうですよね、怒鳴って、威嚇して。クレームだの始末書だのの噂、こっちにまで聞こえてきますよ。恥ずかしくないんすか?」
落ち着け。
ジレッドは呼吸を整えた。
シュテイナーは、あのクソ忌々しいヘイトス室長の飼い犬なのだ。
先日、あの女の事務所に怒鳴り込んで以来、清掃隊の面々からの視線は目に見えて冷たくなった。ガラスを割ったのはやり過ぎだったと校長からも叱られた。こちらにも言い分は山とあるのだが、今、こいつにそれを言ったって仕方がない。ジレッドは務めて声を落ち着けた。
「……シュテイナー班長を呼んでくれ。直接話す」
「だからあ。あんたのために班長呼び出す義理はないって言ってるんですよ」
俺の方が階級が上だぞ。
ジレッドは反射的に首元に手をやった。
しかしその手は空振りした。そこにあったはずの保護局警備隊であることを示すバッヂがない。
そうだ、今、カウンセラーからの指示で――。
「出動要請なら、令状持ってくるのが筋でしょうが」
エーリヒは噛んで含めるような侮蔑的な口調で言った。わざわざ思いだしたように付け加える。
「……あそっか、今、謹慎中なんでしたっけえ? なのになんでいまだに【魔女ビル】内ででかい顔してんの?」
「お前――」
「何が魔物だよ」エーリヒは明るい声で笑った。「あんたんとこの“野獣”の方がよっぽど迷惑だっつうの。ちゃんと首輪つけて見張っといてくれないとさあ、ほんと迷惑なんですよね」
「……」
「アンタの存在意義なんて、ベルトランの尻ぬぐいくらいのもんでしょ? ちゃんとしつけといてくんないとさあ。あんだけ器物破損だの損害賠償だので迷惑かけてんだから、それくらいやって――おっと」
振りぬいたこぶしが空振りして、ジレッドはたたらを踏んだ。エーリヒが、そしてやつの背後にいる班員たちがゲラゲラ笑った。
「衰えたんじゃないですか。ベルトランも麻薬漬けだし、あんたらほんともうどうしようもねーな。とっとと引退して、後進に道を譲ればあ?」
そこからどうやって帰ったか、ジレッドは覚えていない。
気づくとまた元の部屋にいて、フランチェスカはもうどこにもいなかった。ジレッドは、上着をひっつかんだ。ベルトランを殺されてたまるか、と、思った。
あいつにどれだけ迷惑をかけられたと思っているのだ。
それを横からポッと出の魔物に食われるだと?
リン=アリエノールを今度こそモノにできると言って、ベルトランは嬉々として出かけて行った。あいつはいつもそうなのだ。何も考えず、何も警戒しない。自分に危害を与える存在がこの世にあるなどと考えてみたこともない。
フランチェスカはそこを襲う気だろう。【魔女ビル】内で襲うには、シュテイナー班の目が邪魔すぎるだろうから。
カウンセラーの忠告を思い出す。今、トラウマを想起させるようなものは視界に入れない方が無難だ、だから自宅にいるのが一番いいが、どうしても仕事をしたいなら、詰め所から出ないことだと――年若い少女に会うのは避けたほうが良いと。校長もそれを真に受けて、ジレッドを、現場に出さない判断をした。レイルナートさえそばに寄せないようにと、ジレッドに別室をあてがう始末だ。
しかし構うものか。
あんな小娘がトラウマなどという大層な影響を与えるだなどと断じてあり得ない、とジレッドは思う。次に会ったら容赦しない。ぜったいにこの手で殺してやる。
……ところが。
『ジレッド』
可愛らしい声がして、ジレッドはゾッとした。
振り向くとそこに、マリアラ=ラクエル・マヌエルがいた。
黒く染めた髪を短く切って、だぼだぼの上着を羽織って。あのホテルで見たときと、ほとんど変わらない様子で。
――なんでここに。
足先から冷気が這い登る。冷気はまるで螺旋を描くようにジレッドの体に絡みつき、四肢を縛り付けた。呼吸が詰まる。喉がカラカラだ。鼓動が耳元でうるさいほど鳴り渡っている。カタカタと鳴っているのは何の音だ? 冷気に閉じ込められた足先からピシピシと音を立てて血が凍っていく。
視界が歪んだ。
窓の外の雪が消え、ジレッドはたじろいだ。白く、どこか無機質だった詰所の光景がかき消え、そこは。
……ここは、どこだ?
朝日が差し込んでいた。エスメラルダの曇天に慣れた目には眩しいほどの陽光だった。白木の壁が照り返っている。
古い、ブカブカのコートを着たマリアラ=ラクエル・マヌエルが、目の前に立っている。
その左腕から突如飛び出した竜の顎。ガチガチと組み上がって、雷を吐いた。
違う、あれは、マリアラではなかったのだ。そんなことわかっている、あの平和ボケした太平楽な左巻きに、あれほど情け容赦のない攻撃ができたはずがない。あれは【風の骨】が化けていたのだ、だから、少女に恐怖を感じたわけではない、断じて違う、断じて、だが……
視界がブレた。網膜に焼きついた網目状の雷光が蘇る。焼けつく痛み。全身を這い回る痺れ。皮膚の中で血液が沸騰し、内側からズタズタに引き裂かれた。喉が破れ、胃の腑からせり上がる圧迫感に耐えきれず吐いた血のかたまり。
冷たい手がそっと頬に触れた。気がつくと目の前に〈マリアラ〉がいた。短く切られた黒い髪が頬の辺りでさらりと揺れた。細い指先が伸びてくる。その指を掴んで捻りあげ、少女の体を床に叩きつけようとした。けれど、体が動かない。ジレッドは何もできなかった。〈マリアラ〉がジレッドの頬に伸ばした左手の袖を、これみよがしに捲って見せる。その左手首から飛び出したのは無骨な金属の――
数刻後、位置情報バッヂからの信号を頼りに探しにきたカウンセラーによって、昏倒しているジレッドが発見された。外傷は一切なかったが、吐瀉物の中に倒れ、白目を剥いていて、意味不明のうわ言を口の中で呟いていたという。
深刻な心理的外傷によるフラッシュバックが起こったと判断され、ジレッドは強制措置入院となった。
『……意外に繊細だこと』
医局に運ばれるジレッドの担架が眼下を通っていくのを見送って、フランチェスカは出かけた。だいぶ出遅れてしまった。ベルトランが帰ってきてしまう前に、ことを済ませなければ。




