【魔女ビル】
フェルドが戻って来たのは、いつもどおり朝の七時だ。
〈彼女〉はふだん、できるだけフェルドを見ないようにしている。見るたびに感じる落胆と失望を避けるのは、精神衛生上必要なことだからだ。
けれど、今日はいつもと少し違うようだった。
なんだか眠そうだ。
その時初めて、〈彼女〉は違和感を覚えた。
今までのフェルドは、徹夜で賭場で遊んできたはずなのに、あまり眠そうに見えたことがなかった……
食堂で朝食を取り、十八階に上がったフェルドは、歩きながら欠伸をした。他に人がいないからか、眠そうだからか、それとも他に理由があるのか……いつもみたいに、目をそらしたい気持ちにならない。
と。
フェルドの部屋の前で若者が待ち構えていた。若者がもたれていた壁から背を外して廊下の真ん中に陣取ったのを見て、フェルドが足を止めた。眠そうな色が消え、警戒と威嚇の表情がフェルドの顔に浮かんでも、イクスは全くたじろぐ様子もなかった。
「よ、フェルド。久しぶりだな」
「……何の用だよ」
相変わらず、フェルドはミーシャ以外の人間には攻撃的な態度を崩さない。マヌエルならばきっと、フェルドが周囲にまとう魔力の粒子だけで尻尾を巻いて逃げ出したくなるのだろう。けれどマヌエルじゃないイクスは平気で、それどころか喧嘩を売るような態度でフェルドをじろじろと眺め回した。
「一晩中、どこ行ってたんだ。ジークスにはいなかったよな。聞いてみたらさ、賭場の中には入らないって契約、してるそうじゃないか」
嬲るような声音でイクスが言う。〈彼女〉は驚いていた。毎週賭場に行っているはずなのに、中に入らない契約って? どういうことだろう?
フェルドは無視することに決めたらしい。イクスのわきを通り過ぎる時、イクスが言葉を重ねた。
「ケティと……名前は知らねえけど、あの人形みてえな女の子。どこに隠したんだ?」
フェルドは答えなかった。イクスのわきを通り過ぎ、自分の部屋の扉の鍵を捜して差し込んだ。イクスはせせら笑うような声で言った。
「けなげな奴だなー。昨日銀行に令状出して確かめたよ。毎月、給料と口止め料全部、引き出す時、金貨でって指定してるんだって?」
――何それ。
「賭場で使ってねーなら結構な額だ。そりゃあ、千枚なんて額でも現金一括で払えるよな。いつもずっと、持ち歩いてんの? 使ってるように見せかけるために? そーだな、あの子を捜しに行くんなら、そんで責務を一緒に果たすんならさ、どこ行くことになるかわかんねえもんな。貨幣が違うとこ行っても、人間が住んでるとこならさ、金には価値があるだろうもんなー」
「……」
フェルドが黙ったまま部屋に入ろうとした、時。
イクスがスケッチブックを取り出した。
「まあ待てよ。いーこと教えてやるからさ」
「……」
「マリアラ=ラクエル・マヌエルが今どうしてるか、見せてやるよ」
フェルドが振り返った。
その表情を見て、〈彼女〉はようやく、フェルドがずっと周囲を欺き続けていたことに気づいた。でもさすがに、マリアラの近況、という単語には動揺しないではいられなかったらしい。振り返ったフェルドの目の前に、イクスはスケッチブックを突き付けた。
一瞥だけで分かる。レイルナートの手による、一枚の絵。
頭と足に包帯を巻かれたマリアラが、リクライニング式の椅子に凭れて、目を閉じている絵だった。
〈彼女〉も初めて見る絵だった。写真ではなくレイルナートの筆致で描かれているからなのか、その絵から、重苦しさと悲嘆と、失意とが、こぼれ落ちてくるようだった。〈彼女〉は胸を衝かれた。この絵はいつのものなのだろう。
その絵のマリアラは、炎に取り巻かれて宙に浮いていたあの女神じみた少女とは、別人のように見えた。活力というものが消え失せている。髪形も変わっている。黒髪に近いほどに染められた髪は、顎までの長さに短く切られ、その色の濃さのせいか、包帯がやけに白く見える。頬が削げ、顔色が悪かった。死んでいるのかもしれないと、思った。だってマリアラは左巻きのマヌエルだ。こんなケガをしたままでいるなんて、ありえない。
まるで、抜け殻みたいだ。
「レイルナート、という子がいてさ」
イクスはフェルドの反応を楽しむようにその絵を振って見せた。
「その名のとおり、水の女神から神託を受けるんだ。で、こういう絵を描く。写真みたいだろ? すげえんだぜ、あっと言う間に描いちまうんだ。なんかな、不思議なんだけど、レイルナートの目の前にいる人間が強く強く思った相手の断片が『視える』んだってさ」
「……」
「レイルナートは少し前、二週間くらい前かな、マリアラと一緒にいた。この髪形になったのはその時だ。つまり、この絵は少なくとも二週間以内の状態、ってこと」
「……ただの絵だろ。どうにでも描ける」
「信じないならそれでもいーけどさ」イクスはぴりぴりとその絵をスケッチブックから切り離した。「昔のよしみで、教えてやろうと思って。……マリアラにケガをさせたのは俺だよ」
しん、と。
廊下の空気が一気に冷えたのを、〈彼女〉も感じた。
「俺が捕まえて、痛め付けてやったんだ。お前に見せてやろうと思ってさ。でも任務だからさ、当たり前だろ? 責務なんか果たされちゃ、たまったもんじゃねえもん。……殺そうと思ったんだ。殺したら、二度と責務なんか果たされる心配もなくなるもんな。……でも逃げられた。あと一歩、ってとこでさ」
「……」
「だからまだ生きてるよ」くつくつとイクスの喉が鳴った。「でもほら、見ろよ。責務が何なのか知って、気力が折れたんだよ。俺が話してやったからさ。自分のケガを治そうとしてないのがその証拠だ。……でも俺は、逃がさねえよ」
イクスは真顔になった。
掲げた絵を、ゆっくりと、破った。びりびりと、マリアラの姿が、半分に破られていく……
「絶対捕まえる。捕まえて、殺してやる。だってそうだろ。責務なんて果たされちゃ、何千人って単位の人間が死ぬんだ。こいつはもう、それを知ったから、責務を果たす気なんかなくなってるかもしんねえけど……でもそんなの、俺の知ったことじゃないからな。疑わしきは罰せよ、だ。この子がどこにいるのか、だいたい見当はついてるんだ。この絵のお陰でな。古い古い煉瓦に囲まれた、中庭みたいな風景だろ? アリエディアにはそんな場所、ひとつしかないからな。近々出かけるよ。昔のよしみで、教えてやろうと思って」
半分に破ったマリアラの絵を重ねて、もう一度破る。フェルドはやっと、言った。
「あっそ」
「あ?」イクスが手を止めた。「嘘だと思ってんのか? まだ信じねえのかよ」
「お前が今までに一度でも、俺のためを思って何かを言ったことがあるか」
「……あるだろ!?」
「ねーよ」
中に入って、扉を閉める。イクスは閉じた扉を見ていたが、ややして、唇を吊り上げて嗤った。破った絵を近くのごみ箱に突っ込むと、足早に歩き去って行く。
フェルドは相変わらず散らかった部屋の中、ぽつぽつと空いた床の上を、慣れた様子でひょいひょい歩いて、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。そのうえ引っつかんだ上かけを頭から被ってしまったので、それ以上、フェルドの表情を見ることはできなかった。
ややして、ララの箒がいつもどおり、ふわふわ浮いてフェルドの部屋の前までやって来た。
さっきフェルドが見せた動揺を、ララが見ることがなくて良かった、と、〈彼女〉は思った。
存在しないはずの胸が、ざわざわしていた。
〈彼女〉はイクスを目で追わずにはいられなかった。イクスは何だか不吉な雰囲気をまとっている。フェルドに対し、並々ならぬ悪意を持っていることは疑いない。〈彼女〉のフェルドへの誤解が解けた今、その悪意がさらに禍々しく思える。
――何を企んでるの?
イクスはそのままレイルナートの部屋に向かった。レジナルドもちょうど来たところだった。レジナルドは変装を解かないまま、イクスを見て単刀直入に聞いた。
「首尾は?」
「えー、ケティともうひとりを買った証拠までは無理でした……一晩中どこにいたのかも、わかりませんでした」
――何の話?
〈彼女〉は呆気に取られた。ケティともうひとりを、買うって、何の話だろう? そういえばさっきも、ケティをどこに隠したとか、言ってたような気がする。
ケティを買うって、ものすごく不穏な事態ではないだろうか。
〈彼女〉は急いで、〈アスタ〉に頼んだ。ケティが今どこにいるのか、調べてもらわねばならない。
その間、レジナルドは無言だった。イクスは唇をなめ、先を続けた。
「でもさっき、部屋の前で待ち伏せして、会いましたよ。マリアラのことを言ってきました」
「反応は?」
「脈ありです」
「よし」レジナルドは満足そうに笑う。「計画を進めよう。あちらも早めるらしいから、急がなくてはね。〈アスタ〉?」
『はい』
柔順に〈アスタ〉が答えた。エスメラルダの校長という地位は今は違う人間のものだが、エルヴェントラであることを示すルファルファの小石は未だレジナルドが持っているから、〈アスタ〉の『持ち主』もレジナルドのままだ。以前ほどには声がかからなくなったが、それでも、命令があれば〈アスタ〉は従わなければならない。
それが歯痒い。
「ミーシャにコインを渡してくれ。来月からはシフトに入る。それまでに心の準備をするため、とか、何でもいいから理由をつけて」
『コインを――フェルドには、』
「ミーシャにふたつとも渡せばいい。きっと大喜びで渡しに行くだろう。今はまだイーレンタールが持っているはずだが――」
「俺が」いそいそと、イクスが言った。「今から行って、受け取ってきますよ。〈アスタ〉の部屋に届ければいいですか」
「ミーシャは何時にくる?」
『九時の予定です。遅れるかも知れませんが』
「フェルディナントは十時から待機だったな。まあ、間に合うか。イクスがコインを届けたら、ミーシャに渡すんだ。いいね、〈アスタ〉?」
『了解しました』
「頼む。他に用はないよ」
『失礼します』
〈アスタ〉が通信を切る。でも、〈彼女〉は当然、そこから目をそらさなかった。イクスは「そんじゃ、早速」と言って扉に向かったが、開ける前に立ち止まって、振り返った。
「俺も見ていいですよね? 『その』日」
レジナルドはにっこり笑った。
「もちろん。僕も見るよ。もっと早く気が付けばよかった。こんなに簡単な方法があったのに」
「場所と時間が決まったら、教えてください。絶対ですよ」
「わかってるよ」
イクスは嬉しそうに出て行った。レジナルドはくつくつと喉を鳴らして笑い、レイルナートは我関せずというように絵を描き、ベルトランは昨日出かけてから帰ってきていない(おそらくどこかで酔い潰れているのだろう)。〈彼女〉は先程から感じている不吉さがいよいよ深みを増していくのを感じる。コインを渡す。その時、イクスも見る。レジナルドも。場所と時間が決まったら――いったい何を、企んでいるんだろう……。
舞なら、いったいどうするだろう。
最近よく、そのことについて考える。
もし精神を保存したのがビアンカではなく、舞だったなら、そもそもレジナルドがここまで増長することはなかったのではないか。そう、思うのだ。〈彼女〉が生まれてからのエスメラルダの歴史は、〈彼女〉がレジナルドを相手に打ち続けてきたチェスのように思える。〈彼女〉が考えなしに差してきた一手一手が、今日のこの事態を招いている、もしそうだとするなら、舞だったなら今頃はとっくにレジナルドを放逐し、今のような見せかけではなく完全な楽園をこの世に築き上げていただろう。
――あたしにまだ、何かできる?
〈彼女〉は、考える。この事態はいったい何を指しているのだろう。レジナルドとイクスの企みを潰えさせるために、いったい何ができるだろう。
――例えば、フェルドに、コインを使うなと釘を刺すのはどうだろう?
でも、〈アスタ〉に言わせるわけにはいかない。〈アスタ〉はレジナルドの支配から逃れられないし、コインを渡せと命じられた以上、渡さないわけにはいかない。一度〈アスタ〉から渡されたコインを、やっぱり使うな、と言うのは整合性がなく、〈アスタ〉にそれをする必然性はない。おまけに、フェルドは不審に思うだけだろう。
――じゃあ、〈あたし〉、が?
言えるのか、お前に。頭の中の誰かが言った。
デクターが、もう、ついそこまできているのに。
あの姿を、自分の目で、もう一度、見るチャンスが近づいているのに。
言ったらきっと、イーレンタールが気付く。〈アスタ〉の中に、〈アスタ〉ではない〈何か〉が潜んでいたことに、きっと気付く。デクターのパスワードが解かれない限り、〈彼女〉を削除することはできないが、イーレンタールなら、〈彼女〉を封じることはできるだろう。〈アスタ〉の根幹に防壁を張り巡らせ、〈彼女〉が表に出てこないように――何も見えず、何も言えず、〈アスタ〉と話すこともできず、デクターが今何をしているのか、どんな状態にいるのか、一切分からない永遠の牢獄の中に、〈彼女〉を閉じ込めてしまうだろう。
――言えるの、〈あたし〉に?
迷いながら、〈彼女〉は必死でレジナルドとイクス、それからフェルドに、目をこらした。言う言わないは今はおいといて――少なくとも、レジナルドとイクスが何を企んでいるのかだけでも、探り出すのが先決だ。
我ながら言いわけじみていると、思いながら。




