かまくら2
薬のせいだろうか。お腹が一杯になって、安心したせいだろうか。
ラルフはいつしか、クッションにもたれて眠っていた。ケティはちびちびミルクを飲みながら考えた。ラルフは自分のせいだと言い、フェルドも元を正せば自分のせいだと言ったが、それでもラルフの足を治すのは、ケティの義務だ、と。近々絶対孵化を迎えて、ラルフの足を治してやらなければならない。そうでないと、一生、自分を許せない気がする。
「ケティも眠れば? 朝になったら起こすから」
フェルドが言い、ケティはふるふると首を振った。眠れそうな気がしない。フェルドと一緒にいられるのに、眠ってしまうなんてできない。
こんな気持ちを何というのか、ケティはよくわかっていた。
ただ、こんなに苦しくてあまやかな気持ちだなんて、今まで全然知らなかった。
「眠くないの」
「そっか。……それでさ」
「うん?」
「今日何の用事だったんだ? よっぽどの理由があったんだろ」
「……うん」
ケティは微笑んだ。今朝まであんなにくよくよ思い悩んでいたことを、今の今まですっかり忘れていた。なんてちっぽけな悩みだったんだろう。
でもせっかくなので、口にすることにした。
「あのね、孵化がこないの」
フェルドは目を見開いた。「そうなのか?」
「うん。十歳になるころには孵化するだろうって言われていたのに、もう十二歳なのに、全然なの。一カ月前に大きな発作が起きて、寮母さんもお医者さんたちも、みんな孵化だ! って思って、あたしが倒れてる間に少女寮から籍を抜く手続きをしちゃったの。でもあたしはまだたまごのまま目が覚めてしまって」
「……そりゃ……」
「寮母さんは手続きを取り消すのを面倒がって、あたしをそのまま仮魔女寮に入れた。早く孵化すればいいじゃないの、って、言った」
「ひどいな」
「でしょう? なのに、ぜんぜん孵化がこないの。もう一カ月も経っちゃったのに……それでね、今朝、同じ少女寮だった子が孵化して、医局にかつぎ込まれたって知ったの。アイカが孵化したら、仮魔女寮に来る。そう思ったら、何だか、ぞっとして」
「ふうん」
「誰かに話を聞いてほしくて。でもリンちゃんには、言えないでしょ、マヌエルじゃないと、こんな話はできないもの。でもあたしの知ってるマヌエルは、お兄ちゃんしかいなくて」
「……うん」
「だから、捜してたら、ミーシャという人を見かけて……立ち話してるのを、盗み聞きしちゃって、賭場の名前が聞こえたから、じゃあ行ってみよう、って、思って」
「そっか」
フェルドは苦笑した。ケティはきちんと座り直した。
ちゃんと聞いておかなければならない気がした。
「お兄ちゃん、ミーシャさんと相棒になるの」
「あー、まあ……登録上はそうなるだろうな」
本当に相棒になる気はない、と、言ったも同然だった。
「ミーシャさんが、可哀想だと思う」
「そうだな」
フェルドも座り直した。真っすぐケティを見て、真面目にうなずいた。
「ひどいなあって、自分でも思うよ」
「それでも嘘をつくの? ミーシャさんは、お兄ちゃんが、好きなんでしょう。相棒に、なりたいんでしょう」
「もしミーシャがそういう気持ちなんだったら、さすがに、初めから断ってるよ」
フェルドはあくまで真面目だった。ケティは首をかしげる。
「好きなんじゃ、ないの?」
「さあ、それはミーシャに聞かなきゃ本当のところは分からないけどさ。でも俺は、違うと思う。ミーシャが相棒になりたいのは俺じゃないんだ。マリアラの相棒だった人間を、相棒にしたいだけなんだ。俺はそう思う。だから罪悪感もあんまりない」
「お姉ちゃんの……?」
「ミーシャはマリアラになりたいんだ。たぶん。でもそれが褒められることじゃないって、自分で分かってるんだ。だから言い訳を探してる。なりたいんじゃなくて、なっちゃうだけなんだ、だから自分は悪くないんだ、って」
「……うん」
それはきっと真実だろうと、ケティは思う。
あの綺麗な女の人は、だから怒ったのだ。きっと。
ミーシャはマリアラになろうとしているくせに、マリアラのようにふるまえと言われたら後込みする。あたしはマリアラさんとは違う、という言葉で自分を守ろうとする。あの綺麗な黒髪の女の人は、その狡さが許せなかったのだろう。
「お兄ちゃんは、コインが欲しいんだね」
「うん」
素直にうなずかれて、ケティはまた絶望を感じた。
「コインを使って、エスメラルダを出て、お姉ちゃんを、捜しに行くんだね」
今度はフェルドは答えなかった。ただ穏やかに、微笑んだだけだった。
どうして笑うのだろうとケティは思う。
マリアラのことを口にするだけで、どうしてそんな顔をするのだろう。
半年もの長い間、放って置かれたのに、と、思わずにはいられなかった。どうしてマリアラは、そんなにも長い間、連絡を取りもしなかったのだろう。ケティだったらそんなこと、絶対にしないのに。半年も放っておくなんて、絶対にしないのに。
グールドがフェルドを外に出したのは、たぶんマリアラのためだった。……らしい。でもその後も相変わらず、マリアラは連絡を取ろうともしていない。
マリアラが今も、フェルドを相棒だと思っているなんて、そんなことわからないのに。
――『今の』マリアラのことは全然知らないんだ。
ラルフが『今の』マリアラのことをフェルドに隠したいのは、マリアラがもう、フェルドを諦めたということかもしれないじゃないか。
どうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。泣き出しそうになりながらケティは考える。
どうしてこんなに、安定していられるのだろう。
こっちを見てくれればいいのに。
遠くにいて、帰ってこなくて、もうフェルドのことを忘れてしまったかもしれないマリアラのことなんか、もう、忘れてしまえばいいのに――。
*
十二月十七日
そっと揺り起こされて、目が覚めた。
あたりはまだ真っ暗だ。
「悪い、ケティ」
小さな声でフェルドが言った。
「賭場が閉まる時間までに戻らないとララにばれる。仮魔女寮の門限までここにいて、ひとりで帰れるか? 断熱床とか毛布とか、悪いけど帰るときに回収して、【魔女ビル】十九階の工房詰め所の返却口に入れといてくれないかな」
「あー……うん……」
ケティは自分を罵倒しながらのそのそと起き上がった。何で眠ってしまったんだろう。フェルドと一緒にいたのに。貴重な貴重な時間だったのに。
フェルドのしている腕時計がちらりと見えた。まだ真っ暗だが、既に朝の七時が近い。
「もう明るくなるから、大丈夫だと思うけど……車椅子、どーすっかな……」
急にはっきり目が覚めた。そうか、と思った。
フェルドはまだ、ラルフが両足の腱を切られたことを知らないのだ。
ラルフの足に巻かれているはずの包帯は、裾に隠れて全然見えないから、ラルフが車椅子に乗っていたのは薬のせいで、薬が切れた今も歩けない、ということを知らないのだ。
「あたしがもらってもいい?」ケティは慎重に言葉を選んだ。「孵化したら、医局の仕事をするようになるでしょ。車椅子の押し方とか、勉強したい。昨日よく分かったもの、エスメラルダは車椅子使う人に優しくなさ過ぎるよ」
「ああ、じゃあ、ちょうどいいや。使って」フェルドはぽんぽんとケティの頭を叩いた。「熱心だな。いいマヌエルになるよ」
子供扱いしないで欲しい。
そう思ったが、それでも、大きな手のひらの感触が嬉しくて、文句を言うこともできなかった。
「ひとりで帰れるか?」
「うん、大丈夫」
「大丈夫だよ」起きていたらしいラルフが言った。「俺が送ってくからさ。俺はいつでも帰れるし。なんなら塀の登り方を伝授してやってもいーよ、ちょっとどんくさすぎだもんケティ」
「どんくさくないよ! ラルフが特別なだけだよ!」
「だっから俺様が伝授してやろうっつってんじゃん」
「いらないよ! 明るくなってから塀よじ登って入ったらそっちの方が目立つでしょ!」
ケティとラルフの言い合いを見てフェルドは安心したらしい。笑って、そんじゃーな、と言った。
「あ、待って、フェルド。これ一応持っといて」
ラルフは急いでポケットを探り、ぽん、とフェルドに小さな鍵を放った。
「ジークスのそばのコインロッカー、わかるかな? そこに預けといた。無線機、俺は使えないけど、フェルドは使えるだろ。何かあったら連絡するから。ディーンさんの事務所の番号も、書いてあるから」
「……」
「持っといて。頼むよ」
ラルフに乞われ、フェルドはうなずいた。鍵を握り締めて、ニッと笑った。
「もらっとくよ。ありがとーな、ラルフ」
「どーいたしましてー」
フェルドはケティにも笑みを見せた。
「気をつけろよ、ケティ」
「うん。大丈夫だよ、もう明るくなるもん」
「孵化のことだけどさ」
唐突に言われてケティは目を見張った。「えっ?」
「俺は十六の時だったよ。俺はちょっと事情があって、さー孵化するぞ、って気持ちになるまで我慢してたんだけどさ」
「孵化を? 我慢?」
ケティは呆気に取られ、フェルドは真面目にうなずいた。
「いざ孵化するぞって思っても、なかなか来なかった。二週間か……三週間か? こっちに受け入れられる準備ができても、そう簡単には来ないもんだと思うよ。ケティは一カ月ずっと、孵化して寮母さんを安心させてたまるもんかって気持ち、どっかになかったか?」
「……」
目の前がぱっと開けたような気がした。「そ、かも……」
「同寮の子が孵化したって聞いて、急いで孵化しないとヤバイって気持ちになったのが昨日だろ。気の毒だけど、あと二週間は覚悟しとけ。友達に、かわいそーにとか、言われちまうかもな。でも大丈夫だよ。ケティの孵化はもうすぐそこだ」
「わかるの?」
「そりゃわかるよ。殻が割れかけてる。風に遊ばれねえ平穏を今のうちに楽しんどけよ」
悪戯っぽく言われて、ケティは思わず笑った。うん、と頷くと、フェルドも笑って、手を振って出て行った。
フェルドがいなくなると、急に空気が冷えた。
ケティはかまくらの外に顔を出して、フェルドが見えなくなるまで見送り、中に戻った。静まり返ったかまくらの中、ケティはしょんぼりとラルフのところに行った。浮き立つ気持ちが急に鎮まり、情けない惨めな気持ちだけが残った。
横恋慕、という言葉が胸に浮かんだ。確か、相手のいる人を、好きになるという言葉だったはず。あんまりいい言葉では、なかったはずだ。
大好きになったって、こっちを見てなんか、絶対くれないって、もう知っているのに。
「ラルフ、ごめん」
ラルフの前に座って、ケティは懺悔した。
「孵化したら、絶対に足を治すから……孵化したら、箒がもらえるから、そうしたら、お休みに会いに行くから。えっと、どこに……」
「ケティ」
ラルフが体を起こした。
見るとラルフも沈鬱な顔をしていた。泣き出しそう、と言ってもよかった。驚いたケティの腕を、ラルフがすがりつくように握った。
「俺の足なんかいつでもいいよ。さっきはありがとう。車椅子、もらってくれて。足のこと……フェルドに、言わないでくれて」
「ううん、そんなの」
「俺ダメなんだ」ラルフはもはや涙目だった。「俺、嘘つくの下手なんだよ……昨日はそれに、眠くて、たまんなくて……俺、俺、」
「ラルフ……?」
「【風の骨】に、口止めされてたんだ。あのね。マリアラは今、ケガしてて、自分を治せなくなってるんだ」
「お姉ちゃんが!?」
ケティは愕然とした。雪山でけが人を大勢、たったひとりで治した、あのマリアラが、自分を治せなくなっているなんて、エスメラルダ人のケティにとっては衝撃だった。
左巻きが治療できなくなるなんて、そんなこと、あるのだろうか?
――それほどひどい目に、遭ったというのだろうか?
「でもそれを、フェルドに、言っちゃダメだって。言ったら焦るだろ? でも焦っても、いいことなんかないからって……俺、昨日、ダメだっただろ。自分で呆れたもん……俺……どうしよう、フェルドにさ、マリアラが今、大変なんだって、ばれたよな……?」
「……ばれたと思う」
嘘をついてはあげられなかった。そんな嘘に、何の意味もないと分かっていた。ラルフはケティににじり寄った。
「頼む、ケティ。俺を仮魔女寮にいれてくれ」
ケティはびっくりした。「え!?」
「この足じゃ帰れねえし、なんの役にもたてねえもん、俺、それよりフェルドのそばにいたいんだ。仮魔女寮って何? でもさ、孵化した子供が入る寮なんだろ? 【魔女ビル】の、近くにあるんだろ? 何かあったらすぐ行けるし……頼むよ、ケティ……!」
こんなに泣き出しそうな顔ですがられて、拒否などできるわけがない。
ケティは頷いた。
「いいよ、ラルフ。あたしも、何かしたいもん」
自分で頼んだくせに、ラルフはかえってびっくりしたような顔をした。
「で、も、大丈夫なのか? 仮魔女寮って、ほんとに、勝手に入って、」
「うん、大丈夫。仮魔女寮ってね、普通の寮と違って、点呼とかないの。何歳でも、孵化してたらもう、大人だって見なされる。門限はあるけど、それは、夜中にどたばた帰ってきて、他の仮魔女を起こさないようにって決められてるだけなの。魔女と違って、〈アスタ〉のスケジュール管理もない。あたしには〈親〉もいないし、本当の仮魔女じゃないから、おしゃべりできる相手もいなかった。だから、たぶん、昨日の外泊も誰も気づいてない」
「でも、車椅子押して入ったら、」
「義足を作ってもらう前の友達が手術を怖がっちゃって大変だから宥めるためにつれてきたって言う」
ラルフが目を丸くした。「おおっ?」
「誰かに見つかったら、医局のマヌエルには言ってきたけど〈アスタ〉にばれたらいろいろ面倒で怒られるから誰にも言わないでって可愛く頼む」
「おお……! すっげ……!」
「手術受ける気になるまで気長に説得するから心配しないで、って言えばいいんだもん。それならきっとうまくいくでしょ? ね、ラルフも頑張るんだよ。誰かに見つかったら、伏し目がちにして、めそめそ泣かなきゃダメなんだよ!」
「……俺が!?」
ラルフがのけぞり、ケティは頷いた。
「そうだ、君がだ!」
「む、無理だよ俺、」
「反論はいらない! いいか軍曹、失敗は許されない! これは戦闘だ! 敗退は死だと思え!」
「お、おおおお!?」
「戦闘準備だ! 総員持ち場につけ! この計画の成功はひとえに君の演技力にかかっている!」
「嘘つくの下手だって今知ったじゃんか!」
「泣き言は聞きたくない! ベストを尽くせ! 当たって砕けろ! フンレイドリョクだ! セッサタクマだー!」
「すっげ! かっこいい! それどういう意味?」
「……わかんない」
ふたりは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
何だかすごく、楽しかった。ラルフと一緒なら、何でもできそうな気がした。
胸はまだずきずき痛むけれど……それでも。




