ジークスの賭場2
トイレにはありがたいことに小さな窓があった。ケティは洗面台の上によじ登り、自分の体の発育の悪さに生まれて初めて感謝した。
窓の外は手掛かりも足掛かりもないただの壁だ。三メートルほど先に生け垣が見えるが、この距離でも、葉っぱがトゲトゲなのがよく見えるし、遠すぎて足掛りにするなんて不可能だ。でも、窓から地面までの高さは二メートルほどだった。下に、白い地面がぼんやりと見えている。ケティは息を止め、意を決しててそこから飛び降りた。じゃりっ、と大きな音が上がり、お尻をしたたかに打ち付け、ついでに壁に頭もぶつけたが、構ってはいられない。じんじん痛むお尻をさすり、ケティは目尻ににじんだ涙を拭って立ち上がった。地面には土も草もなく、白い小さな石が敷き詰めてあった。普通に歩くとじゃりじゃりと突拍子もない音がする。多分悪い人が入り込んでも分かるようにしてあるのだ。ケティは出来る限りそろそろと歩いた。トイレの前で待っている人が不審に思い始めるまで、あとどれくらいあるのだろう……
生け垣はトゲトゲの葉っぱが密集していて、出られそうな穴が全然ない。
永劫に続くような壁がようやく尽き、曲がり角に来た。首を差し伸べて、ケティは落胆した。どうやら入り口とは反対側に歩いてしまったらしい。そこはエスメラルダの繁華街にしてはとても大きな中庭になっていた。
「……いた!」
抑えた声で背後から叫ばれ、ケティはぎょっとして飛び上がった。さっきのトイレの窓から優しそうな顔の若者が顔を出している。ケティは仕方なく中庭に駆け込んだ。ライトアップされた中庭には優美な木立とこんもり盛り上がった小山、ごく小さな池などがあり、振り返るまでもなく建物の中から鑑賞するために作られていた。休憩のためにか設けられた、屋根壁つきの大きな縁側のような場所で驚きの声が上がった。
「いたぞ! 中庭だ!」
誰かが叫び、その近さにぞっとする。縁側で、お騒がせして済みません、とお客に説明する声もかすかに聞こえた。ちょっとした余興でございまして……説明に応じて上がる面白がるような声。ケティが追われるのを喜び、捕まるのを楽しみにする人達からケティは必死で逃げた。小山の向こうには塀がある。塀を上れば逃げられるはず。外に出てしまえばここはエスメラルダの繁華街の真っ只中だ。大勢の人が見れば、ケティを捕まえて売り飛ばすなんて、絶対にできないはずだ。
でもあの塀は、高さが三メートルはある。石垣なので、何とか上れないこともない、かも、しれない。
ケティを追う男達が庭に駆け込んで来た。そっちから回れ、逃がすな、と言い交わす声が背後に迫る。ケティは必死で走った。伸ばされた男の手をかいくぐり、擦り抜けて走る――
「ケティ!」
誰かが怒鳴った。逃げるのに必死なケティの頭は、その声をフェルドのものだと錯覚した。だから声のした方を一瞥したそこに、険しい顔をした美少女がいた時、脳が理解を拒否するほど驚いた。
でもその少女はやっぱりそこにいた。塀の上に。
「ケティ、こっちだ! 走れ!」
叫んでいるのはフェルドではなく、その美少女の凛と響く高い声だった。その美少女に見覚えはなかった。周囲の建物のネオンに照らされたその子は、多分自分と同い年くらいで、なのにあまりにケティの属する世界と掛け離れた雰囲気だった。肩までの髪はさらさらで、目がぱっちりと大きく、まつげが長く、周囲をぱっと照らし出す光を放っているかのような、まるでリンみたいな美少女だ。
ケティの全然知らない子だった。
なぜケティの名を知っているのだろう。どうしてケティの危機に颯爽と現れてケティを救おうとするのだろう。わけがわからなさすぎて一瞬迷ったが、彼女の藍色の瞳があんまり綺麗でキラキラしていて、悪い子には全然見えなかったからケティはそちらへ走った。
ぴりぴりぴり、と呼び子が鳴った。今までケティを追いかけていた人達はどこか面白半分だったが、美少女の出現で彼らは本気になった。足を速めた男の指先がケティの襟首をつかみ、引き戻した。いきなり乱暴に前進を阻まれてケティの目が一瞬回った、その時。
三メートルはあろうかという塀の上から、美少女が飛び降りた。
狼狽の声が吹き上がる。飛び降りざま少女は後ろ腰にさしていたこん棒を引き抜いていた。地面に着地した、と思った時には既に少女はケティの目の前にいた。地面を蹴った、だん、という音を遅れて聞いた。こん棒が閃き、ケティの首を羽交い締めにしていた男がぎゃっと叫んで手を放す。
少女はケティと男達の間にその細い体を割り込ませた。
「逃げろ、ケティ!」
怒鳴られ、ケティは逃げた。少女が飛び降りたばかりの塀に飛びつき、石と石との透き間に指先とつま先を何とかねじ込んで体を引き上げた。下でケティの背後を守ってくれている謎の少女がどんなふうに動いているのか、見ている余裕なんかなかった。二メートルほどは何とかのぼれたが、その先がどうしても進めない。指先がずきずき痛む。つま先ががくんとずれ、指先に激痛が走った。落ちかけた瞬間に額を塀にぶつけて目の前に火花が散った。でもケティはその手掛かりを放さなかった。
「傷つけないでくださいよ――」
聞き覚えのある声が言った。入り口で、野良猫ちゃんを見に行きます、と言った、あの猫目の男の声だった。
「ケティ!」
少女が叫んだ瞬間、ケティの手に、びしょびしょに濡れたタオルが投げ付けられた。タオルはまるで生き物みたいにケティの腕に巻き付いた。何とか耐えた次の瞬間、次のタオルが今度はケティの目の辺りに投げられた。視界が暗転し、
「ケティ……っ!」
背中からまともに落ちたケティの前に少女が立ちはだかる。タオルを引きはがし袖で目を拭ったケティは、ケティと少女を捕まえに出て来た男達が今や十数人に膨れ上がっているのを見た。
「魔女のたまごに加えこんな綺麗なお嬢さんとは」猫目の男が喉を鳴らした。「今日はいい日です。ふたりとも、ジークス始まって以来の高値で売れるに違いありません」
「ケティ、立てるか」
少女が抑えた声で言う。ケティは、返事の代わりになんとかよろよろと立ち上がった。体中がズキズキ痛み、びしょ濡れで、指先が割れて血が流れていた。濡れた髪が、頬が、指先が、凍りつきそうだった。でも泣き言なんて絶対言えない。ケティのせいで、この少女までもが『商品』にされるなんて耐えられない。
「網を持って来なさい」
猫目の男が誰かに命じた、瞬間。
少女が動いた。
正面の男が吹っ飛んだ。
ケティは呆気に取られた。こんな細くてきゃしゃな少女のどこに、あんな力が隠れていたのだろう。その間にも少女の動きは止まらなかった。べしべしべしっ、と小気味よい音とともに男達が次々に倒れて行く。ケティは見とれた。まるでとても活動的な天使が、毒を含んでいるといわれるその矢を直接握り、敵をべしべし張り倒しているような光景だった。あっと言う間に男達の一角が崩れた。ケティは体の痛みにも構わずその空間に走り込んだ。少女の足手まといにだけはなりたくなかった。
「もーこーなったら入り口まで走れ! 客蹴散らして大通りに出ろ!」
アグレッシブな天使がアグレッシブに指示を出す。ケティは返事をする余裕もない。さっき打ち付けた背中がみしみし言っている。中庭を駆け抜け、さっきの通路に出た。ちょうど網を持って来た男に鉢合わせした。男は慌てて網を広げ――すこおん! とケティの背後から続く少女が投げたこん棒を額に食らって卒倒した。
「走れ! 走れ!」
少女の声がケティを励ました。ケティがさっき抜け出したトイレの窓がまだ開いていた。そこに何かが見えた。とても不吉なものが。
さっきの猫目の男だ。
そう思った時、ケティは既にそこを通り過ぎていて、続く少女がちょうどその真下にいて――
ばしゃっ。
何かが少女の頭に降りかかった。
「止まんなバカ!」
怒鳴られて、ケティは慌てて逃走を再開した。少女の頭に降りかかったのは何だったんだろう、とても不吉な気がしたが、少女は元気そうだった。「くそっベタベタする」少女が毒づくのが聞こえた。「何だこれ、甘」
「……舐めちゃ駄目!」
ケティは振り返った。
でも、遅かった。
頭に降りかかった液体が肌を伝って少女の口に入ったのだろう。少女を動かしていた糸が、ぷつん、と切れたのが見えたような気がした。急に顔から生気が抜け落ち、少女は、目を見開いたままゆっくりとその場に崩折れた。
ケティは駆け戻った。オレンジジュースの甘い香りがぷんと漂う。追いかけて来ていた男たちが次々にふたりの回りを取り囲む。彼らから少女を守るように、ケティは少女の上に覆いかぶさった。
死んではいない。息もある、心臓も動いている。
でも。
「……ラルフ……!」
少女が倒れ臥して、やっと、その面影に気づいた。リーザがケティを人質にして、リンとラルフを連れて鉄道で逃げたあの時から、早くも一年が過ぎようとしている。ケティは今の今まで、ラルフが女の子だったなんて知らなかった。それほどに、この一年でラルフが遂げた成長は顕著だった。
でも倒れた今、あの時高熱を出していたラルフの面影が滲み出たのだ。エスメラルダに帰って来ていたなんて知らなかった。どうしてこんなところにいるのだろう。どうして、ケティなんかのために、あの塀から飛び降りて来てくれたりしたのだろう……!
「ショーの時間が迫っていますよ」
猫目の男がトイレの窓から見下ろしながら言う。次々に手を伸ばされ、ケティは必死でラルフの体にしがみついた。孵化していなかったことを心底後悔した。ミランダだったなら、ラルフの受けた毒を中和できたはずだ――
「万一目が覚めたら厄介です。脚の腱を切りなさい」
猫目の男が冷静に指示を出し、ケティはぞっとした。と、同時にケティは背後から羽交い締めにされ、無理やりラルフから引きはがされた。「いや!」暴れてもその腕はびくともしない。「いやあ!」ラルフは目を見開いたまま倒れている。屈み込んだ男がナイフを取り出し、ケティはわめいた。
「やめて、やめてやめてやめてえ――!」
「うるさい」
隣にいた男がケティの目を塞いだ。意識のないラルフは痛みを感じることはないだろう。そのとおり、実際にその音が聞こえても、悲鳴を上げもしなかった。
でもそんなこと、何の慰めにもならなかった。




