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魔女の遍歴  作者: 天谷あきの
魔女の希望
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ミーシャ

 フェルドは右巻きだから、右巻きの仕事や居場所については、ケティには未知の領域だった。


 だからまずは〈アスタ〉に聞いた。〈アスタ〉は、フェルドの仕事は今朝の十時までで、今日は週に一度のお休みだと言った。自室にいるのかもしれないし、出かけているのかもしれない、と。


 休日のマヌエルの居場所まで〈アスタ〉に捜してもらうわけにもいかず、ケティは途方に暮れる。でも、ここで諦めてしまうわけにはいかない。だって今日はフェルドの休日だ。仕事中のマヌエルに時間を割いてもらうわけにはいかないから、今日を逃すとまた一週間、フェルドに話を聞いてもらうわけにはいかなくなる。そんなには待てないのだ。一週間後にはアイカが孵化を済ませているかもしれないのだから。


 とりあえず部屋に行ってみようと、ケティはエレベーターに向かった。


 十八階に着いた。

 廊下に一歩出てみて、その広大さにあっけにとられる。


 【魔女ビル】は巨大だ。研修も遊びにも来ているのだ、もちろん知っているはずなのだけれど、居住階の広大さは圧倒的と言えた。何しろ、少女寮の扉のようなものが、果てしなく延々と続いているのだ。カラフルなお店や人通りの多い医局の階とは明らかに違う。ひとつの廊下の両側にずらりと並んだ扉は、一列で五十はあるだろう。


 この中から、フェルドの部屋を捜すのか。


 途方に暮れそうになったが、ケティは自分を奮い立たせた。今日だけしかない、という思いで足を踏み出す。でも発育の遅いケティは有り体に言えば十二歳にしてはチビの方であり、ネームプレートを見上げて文字を読み取るのも一苦労だ。


 廊下をゆっくり進んでいると、比較的すぐに、後ろから声をかけられた。


「……君、どうしたの? 迷子かな?」


 振り返ると初めに目に飛び込んできたのは、七色に染め分けられた派手な髪の毛だ。


 ――かつらかな?


 あまりにも派手で、あまりにも斬新で、人間のようには見えなかった。鶏のとさかをもう少し高くして、七色に染めたらこんな感じになるだろうか。いや、クジャクの方が近いかもしれない。まじまじと見上げていると、その派手な髪の毛の下にある若者の顔がほころんで、しゃがんでくれた。はるかな高みにあった顔がケティの目線の下まで降りてきて、すごく親切な人だとわかる。


 年齢も、たぶんフェルドと同じくらい。すごく運がいい、とケティは思う。


「迷子だったら案内するけど? どこ行きたいの?」

「あ、あの、あの……迷子ではないんです。フェルド、という名前の、ラクエルを捜しているんです。ご存じありませんか」


 出来る限り丁重に訊ねたケティの言葉に、若者は顔を曇らせた。


「ああ、部屋は知ってるし……今見かけたばっかりだけど、でも」

「でも?」

「どうかなあ。近寄らない方がいいんじゃないかな」


 若者は声を低め、屈めていた腰をもっと下げて床にひざをつき、ケティを見上げた。


「前はすごくいい奴だったんだ。けどさ……いろいろあってさ、変わっちゃったんだよね」

「変わった」

「悪い方にね」

「お兄ちゃんが? そんなはずないわ」


 若者は、かわいそうにこの子は何も知らないのだ、という顔をした。

 その顔を見て、ケティはなんだか哀しくなった。この人は嘘をついていない、ということがはっきりわかった。『変わってしまった』フェルドのことをとても哀しんでいる、ということも明らかだった。


 本当に、とてもいい人のようだった。

 以前『変わってしまった』フェルドにとても傷ついたことがあって……

 これからその傷心を経験するケティのために、胸を痛めてくれたことも、はっきりわかった。


「いろいろあったんだよ。近寄らない方がいいよ。もうすぐ出かけるみたいだし、」


 ケティはその時、若者の派手な七色の頭越しに、足早に歩いてくるフェルドを見た。

 ぞっとした。

 グールドと対峙した時、思わず、『お兄ちゃんの体がはじけちゃう』とリンに口走った。今フェルドの周囲に乱れ踊る若草色の粒子は、あの時よりもっと濃かった。ほとんどフェルドの姿が見えないくらいで、目の前にいる若者が『フェルドが変わった。悪い方に』と言ったことが理解できるほど、フェルドのまとう若草色の粒子は猛々しい色をはらんでいる。


「……、」


 ケティは声を上げかけ、飲み込んだ。

 声をかけた瞬間に、殺されそうな気がした。

 そう。

 フェルドは今、グールドを殺した、あのララという綺麗な女の人にそっくりだった。何も悪いことをしていなかったグールドを殺した、理不尽で美しい死神のようなあの人に。ララは理由なんてなくても気が向いただけで相手を殺す人だと、あの時、ケティは思わずにはいられなかった。


 だって、躊躇いなくグールドの脇腹を貫いた氷の粒子は、あの後、リンに向いたのだ。


 リンよりもっと、ケティには、あの時のララが『見えて』いた。ララは明確にフェルドを威嚇していて、そのためにリンにその矛先を向けていたのだ。これ以上何か言う気ならこの子を殺す、と宣言するその意志が、フェルドだけでなくケティにも分かった。ジェイドという名らしかった若いマヌエルにも、わかったはずだ。


 理由なんてなくても、邪魔するだけで、今のフェルドはケティを殺すかもしれない。

 牙をむき毛を逆立てた手負いの獣みたいに。


「……わかっただろ」


 気が付くとフェルドはもう視界から消えていて、ケティの背後で、さっきの若者が囁いた。


「いろいろあったんだ。……ほんとにいろいろあったんだよ」

「お兄ちゃんは、これから、どこに行くのか分かる?」


 訊ねると若者は顔をしかめた。


「わかるけど、行かない方がいいよ」

「どこ?」

「君みたいな女の子が絶対に足を踏み入れちゃいけない場所だよ。商品になんてされたくないだろ」

「商品?」


 ケティは目を丸くし、若者は立ち上がった。


「……フェルドは怒ってるんだ」若者は悔しそうに顔をしかめた。「理不尽だけど……でも……あいつも人間だってことだ。仕方ないよ」


 仕方ないと言いながら、そう思っていないことが良くわかる。「それじゃあ」と彼は手を振って、足早に……フェルドの行った方とは反対の方角に向けて、歩み去った。


 そのあとも、ケティはしばらくそこに立っていた。

 どうして? という疑問だけが頭の中をぐるぐる回っている。


 さっきの若者は、きっと、フェルドと仲が良かったのだろう。だからフェルドが『変わってしまった』ことが哀しく、悔しかったのだろう。でも、と、ケティは首を傾げる。今、ケティも若者も、フェルドに声をかけることさえ出来なかった。話をすることも出来ないのに、『変わってしまった』なんて、断言していいものだろうか?


 ――フェルドは怒ってるんだ。


 怒っている。そう、それだけは明白だった。フェルドは怒っていた。『変わった』かどうかは断言できなくても、『怒っている』ことだけは疑いない。でも、誰にだろう? それはケティにはさっぱり分からない。


 でも、放ってはおけない。


 胸がザワザワして落ち着かなかった。ケティはゆっくりと階段を降りた。フェルドがどこへ行ったのか、どうしてあんなに怒っているのか、それだけでも知りたいと思いながら。



    *



 レイルナートは昼過ぎに戻って来て、三階の観葉植物に囲まれた休憩所に陣取ってのんびりと色鉛筆の試し書きに興じていた。見ている〈彼女〉が感心するほど、レイルナートは楽しそうで、全く飽きないようだった。


 レイルナートにレジナルドが支払った報酬はかなりのものだった。それほどに、あの絵が衝撃だったのだろう。


 レイルナートが売り付けた絵は三枚ある。一枚目は炎に取り巻かれたマリアラが宙に浮かんでいる絵で、〈彼女〉にも少なからぬ衝撃だった。あのニーナでさえあんなに神々しく見えたことはなかった。もはや、マリアラが『時の満ちた』エルカテルミナであることは、疑いようのない事実となった。


 二枚目も同様だ。五枚花弁の小さな花がちらちらと踊る水の中に沈んでいる絵なのだ。体のあちこちが焼け焦げているが、その火傷の周りに小さな花が集まっているのがよく見える。レイルナートが、これは自分の住んでいた島で起こった出来事だと保証しなかったら、エスメラルダの【魔女ビル】の地下にあるルファルファの泉に彼女が現れたのではないかと思うところだった。


 そして三枚目――。


「あ、フェルド。ちょっと待って」


 少女の声が意識に割り込み、〈彼女〉はレイルナートから視線を外して階段を見た。ミーシャだ。


 そこにフェルドもいた。階段を降りて来たフェルドが三階の踊り場へ差しかかった時、上から追いかけて来たミーシャが追いついた、というところらしい。レイルナートはまるでかつてのビアンカ=クロウディアのような耳の良さで、その会話に気づいたようだった。色鉛筆を置いて階段の方に首を伸ばしたのが感覚の隅に捉えられる。

 ミーシャは訊ねた。


「あの、今から、出かけるんだよね。その前に、ちょっと、一緒に行って欲しいところが……あるんだけど」


 ミーシャの言葉は珍しく尻すぼみになった。

 フェルドの表情から、脈が無さそうなことが分かったのだろう。


「どこ? 仕事関係?」


 でも、フェルドはミーシャにだけはきちんと応対する。その様子に、〈彼女〉は今日も一抹の悲しみを覚えた。


「え、や、仕事ってわけじゃないの。ただちょっと、頼まれて……」

「誰に?」

「レイルナートという子」その言い方から、ミーシャもレイルナートにフェルドを会わせたくないのだということがわかる。「ここに来たばっかりの子なんだけど、フェルドに会いたいんだって」

「何の用かな。急ぎ?」

「そんなことはないと思うよ。でも、」

「悪いけど」フェルドは淡々と言った。「それなら後にして。俺今急いでるから」


 たんたんたん、とフェルドが階段を降りる。ミーシャがたずねた。


「どこ行くの? まだ少し、早いのに……」

「買い物」


 たんたんたんと足音が遠ざかって行く。ミーシャが食い下がった。


「あ、あたしも行きたい、なー……なんて……」

「ミーシャは今日は休みじゃないだろ。ちゃんと勉強しろよ」

「……勉強なんて」ミーシャは哀しそうな顔をした。「仮魔女の勉強なんて、何のためにするの? 成績が良くなるわけでも、何かの役に立つわけでもないよね。仕事のやり方とか生活スケジュールとか、役に立ちそうなことはみんな覚えたよ、だから……」

「仮魔女のころからサボってると〈アスタ〉に目をつけられるぞ」

「……」


 ミーシャは黙り、フェルドはそのまま歩み去った。確かに賭場の開く時間には少し早い。でも、フェルドは賭場の前にいつも銀行に行くのだ。買い物もするつもりなら、既に早すぎる時間ではない。

 ミーシャは悲しそうな顔でフェルドの去った階段を見つめ――


「約束したのに」


 レイルナートに背後から声をかけられてぎくりと硬直した。

 レイルナートはミーシャのすぐ後ろに来ていて、冷たい目でミーシャを見ている。


「連れてくるって約束したじゃない。急ぎだって、言ったじゃない」

「どっ、どうしてここにいるの!? 喫茶店でって約束、」

「まだ時間には少し早いもの、ここのソファで時間をつぶしてたのよ。あー喫茶店行かなくてよかったー。結局連れて来られなかったんじゃない、お茶代が無駄になるところだったわ」

「あ……の、その……ごめ……」

「謝っちゃうの? ふーん」レイルナートはますます冷淡になった。「あたしとの約束を破ることを、謝罪の言葉ひとつで済ますつもり? 今からでもいーから追っかけて紹介してよ。話があるんだって言ったでしょ。大事な話なのよ」

「だって……無理だよ……」


「何が無理なの? 相棒なんでしょ。だいたい、買い物につれてってもくれないし、会わせたい人がいるっつってんのに『買い物行くから』なんて理由で聞いてもくれない。あんた全っ然大事にされてないんじゃない。何が『フェルドへの連絡はあたしに任せて』よ。それで相棒? ばっかじゃないの」


「何でそこまで言われなくちゃならないの」ミーシャもさすがに怒った。「だいたい何の用事なの? どんな用があるって言うの、マヌエルでもないくせに」

「フーン」レイルナートは鼻で嗤った。「妬いてんの? 心配なんだ。あたしがあの人に一目ぼれして告白するんじゃないかって」

「ちが……っ」

「ばっかじゃないの」レイルナートはどんどん辛辣になっていく。「もう本当に、ばっかじゃないの? その顔、その髪……自分が外見だけ真似して人の相棒横取りしようなんてするから、こういう時びくびくしなきゃなんなくなるのよ。いつ自分がやったように横取りされるかわからなくて、脅え続けなきゃなんないのよ」

「……っ!」


 それは明らかに図星だったらしい。ミーシャの頬が見る見る朱に染まり、レイルナートは冷笑した。


「安心しなさいよ。あたしはあんたの味方なんだから」

「何……っ」

「そのまま奪い続けててほしいの。あんたもあたしも、あの子の偽物。偽物同士、仲良くしましょ。応援するわ。偽物だっていつか、本物になれるかもしれないじゃない」


 そうしてレイルナートは少し歩を進め、フェルドの去った階段の方を見た。

 その時〈彼女〉は初めて、ケティが四階の踊り場で、ミーシャとレイルナートの話を聞いていたのに気づいた。


「それで、」とレイルナートが言った。「あの人はどこへ行ったの? 買い物、って言ってたけど、その後は? それくらいはさすがに知ってるのよね」

「……知ってる、けど……」

「けど? どこ?」

「ジークスという名前の……賭場だよ」

「賭場あ?」


 レイルナートは顔をしかめて見せた。レイルナートは既に、フェルドが毎週どこへ通っているのかくらいは知っているはずだ。ここでことさらに驚いて見せたのはなぜだろう、そう思う間にもレイルナートはミーシャを振り返った。


「そんなところで何してるの?」

「そりゃあ……賭け……てるんじゃ、ない?」

「あたしはここへ来て日が浅いけど、ここでは、賭場って後ろ暗い場所じゃないの? そうよね? アナカルシスじゃあ、人身売買の巣窟になってるとか聞いたわよ。あんた、自分の相棒がそんなところに足しげく通ってて平気なの?」

「……」


「変だなあ、あたしの聞いた噂じゃあ、フェルディナント=ラクエル・マヌエルと言えば、ほら、グールドとか言う殺人鬼から大勢の子供を救ったとか……仕事ぶりも真面目だし、正式なラクエルのシフトに入ってからも荷運びも雪かきも嫌がらずにこなすし、ええと、ほら、相棒が出張医療で狩人に襲われた時には、制止を振り切って助けに飛び出してったとか」

「……」


 ミーシャの様子にレイルナートは今更気づいたふりをした。


「あ、それは前の相棒か。ごめんごめん。……ねー、それが今じゃ相棒ほったらかして賭場通いなの? あんた責任感じない? 前の相棒と一緒だった時は真面目で評判よかったのに、今の相棒になってから自堕落一直線だなんて」

「……っ」

「あんたってほんっとーに大事にされてないのね。あんたが出張医療で狩人に襲われたら、あの人どうするかしら。せいせいしたー、って別の相棒に乗り換えるんじゃないかしら」


「そんなことない……っ」


「賭場で給料全部スるような男信じてんの? ばっかじゃないの」

「フェルドはそんな人じゃないもの! ただちょっと、今は、何かの理由があって……」

「その理由って?」

「そこまで知らないけど……」


「……」

「……」

「……」


 レイルナートの視線の前に、ミーシャは居心地悪そうに身じろぎをする。その隙に、レイルナートが斬り込んだ。


「で?」

「……で、って……」

「追いかけて行かないの? どうして賭場なんか行くのって、賭場に乗り込んでって無理やり話聞き出さないの? マヌエルが賭場に通うなんて外聞も悪いしそもそもおかしいでしょ? 数カ月前には相棒も仕事も大事にする人だったのに、今じゃあ仕事も出来る限り避けようとするって聞いたけど」


「……」


「なんらかの理由。それって何? 知りたくないの?」

「知りたいけど……っ」

「じゃあ今から行きましょうよ。追っかけてって、話を聞こう」

「賭場に……?」


 ミーシャが怖じけづいたのに、〈彼女〉もレイルナートも気づいた。

 しょうがないことだ。だって賭場だ。入墨やサングラスや葉巻や向こう傷を装備した黒服の男たちが入り浸る場所だ。人身売買の噂はエスメラルダでも聞く。エスメラルダ育ちのミーシャは、特に少女でもあるし、優等生でもあったし、賭場などにはこんりんざい近づくなと教育を受けているはずだから。


 と。

 レイルナートが突然怒鳴った。


「偽物やるならとことんやりなさいよ!」


 見るとレイルナートは激怒していた。ミーシャもケティも、〈彼女〉さえたじろぐほどに怒り狂っていた。ゆらゆらと体から立ちのぼる炎が見えそうなほどの形相だった。


「だからあんたはダメなのよ! 本物なら――マリアラ=ラクエル・マヌエルなら! 賭場通いなんか始めた瞬間に飛び込んでってるわよ! 納得行く説明を聞き出すまで絶対引いたりしない、賭場だって女郎屋だってどこへだって! 相手を失う以上に怖いものなんてないからよ! 偽物やってるくせにそんなこともわかんないの!?」

「あ……あたしはマリアラさんとは違うもの……っ」

「そんな覚悟もないくせにっ、初めっから騙るな!!」


 レイルナートがなぜここまで激昂しているのか、〈彼女〉にもわからなかった。ミーシャも同様だろう。呆然と立ち尽くすミーシャを置き去りにして、レイルナートは足早にそこから歩み去った。あんなに理不尽な怒りを受けたミーシャよりも、怒鳴り散らしたレイルナートの方が、ずっと傷ついているように見えるのが不思議だった。


 しばらく歩いてひとけのないところまでくると、レイルナートは無線機を取り出した。

 ボタンを押す。相手が出る。一言。


「ミーシャはダメだわ」

『……』


 相手の声は聞こえない。レイルナートは吐き捨てた。


「足かせなんかあの子には無理よ。マリアラ=ラクエル・マヌエルの代役なんか、務める技量も覚悟もないわ」

『…………?』

「さあね」レイルナートはへっと嗤った。「そこまで知るもんですか。ただマリアラを知っているまっとうな人間なら、ミーシャをマリアラの代用品だと認めて満足するなんてあり得ないわ」

『…………』

「そもそもフェルディナントはミーシャを全っ然大事にしてない。まともに会話を成立させてる、ただそれだけよ。相棒になったらコインとやらが手に入る。ミーシャと相棒になりたいのは、ただそのためじゃないの」

『…………、……』

「お断りよ。あたしは今日はもう色鉛筆で遊ぶって決めたんだから」


 相手の返答を聞かずにぶちっと無線機の電源を切り、レイルナートは再び歩きだした。ベルトランがレイルナートの部屋にまだ陣取っていると予想して、また別の休憩所を捜しに行くのだろう。〈彼女〉はレイルナートを目で追いながら、レイルナートがレジナルドに売り付けた三枚目の絵について考えた。


 レジナルドは〈彼〉を恐れている。五十年前に殺したはずの彼が生きていたと知ってしばらくは、まともに眠れなかったくらいだ。当然だろう。〈彼〉はレジナルドから不死を『引っ剥がす』能力をもった、この世に残った最後の彫師なのだから。


 だからレイルナートがレジナルドの前に立つと、いつも〈彼〉の神託が降ってくる。


 レイルナートの売った三枚目は、今の〈彼〉の絵だった。姿を変えるのをやめたらしく、懐かしい懐かしい、あの姿だ。くるくると渦を巻く黒髪と、育ちの良さそうな顔立ちと。見るだけで泣き出したくなる〈彼〉が、どこかで、誰かと話しながら食事を取っている絵だ。


 〈彼〉を囲んでいる人間は数人はいるらしい。ひとりを除いて顔は見えない。でも顔の見えるただひとりの同席者が、レジナルドに、莫大な報酬を出させた。


 それは、リン=アリエノールだった。


 とっくに亡くしたはずの胸がぎゅうっと締め付けられる。〈彼女〉は泣き出しそうになりながら、考える。

 〈彼〉がリン=アリエノールと一緒に食事をしている――つまり、〈彼〉はもう、エスメラルダにいる。


 ――お願い、ルファルファ様。


 〈彼女〉はこのところ、事あるごとにルファルファに祈る。


 ――どうか、〈彼〉を助けて。


 あたしの命で良ければ、差し上げますから――どうか。

 でも、祈った後で、いつも自嘲しないではいられなかった。

 機械に宿った亡霊などに、その価値があれば、の、話だけれど……と。

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